テキトー訳なので、ざっと読んでください。
「30年代のMGM」
不況時代におけるMGMの成功と支配は本当に驚くべきことで、映画の安定した質とライバルたちの経済的苦境によって助長された。ビッグファイブのうち三社(パラマウント、フォックス、RKO)は1930年代初期に財政崩壊に見舞われ、ワーナーは、破産しないために資産の四分の一を他に流用しなければならなかった。MGMは、30年代を通して毎年利益を上げていた。30年代のビッグエイト(ユニバーサル、コロンビア、ユナイテッドアーティスツを含む)の純利益の合計は1億2800万だったが、そのうちの四分の三近く、9320万ドルはMGMの利益だった。
同様に印象的なのは、映画の質が一定していたことと、MGMが日常的に得ていた評判である。30年代、アカデミー作品賞のノミネート作品のうち30%以上はMGM作品だった。ノミネートされた87本のうち27本がMGM作品で、そのうち4本が作品賞を獲得した。そして、主演男優賞と女優賞にノミネートされた俳優の30%以上がMGMの俳優だった。6人の男優と5人の女優がオスカーを獲得した。1932年から41年にかけての興行主の投票によるドル箱スターのうち47%がMGMと契約していた。この10年間のすべての年に選出されたのはMGMのクラーク・ゲーブルだけだった。
初期不況時代におけるMGM固有のスタイルの完璧な「グランドホテル」だった。オールスターのドラマで不運な恋人たちが描かれていた(ガルボ、ジョン・バリモア、ジョーン・クロフォード、ライオネル・バリモア、ウォーレス・ビアリー出演)。1932年のアカデミー作品賞に選ばれた。費用は平均の倍の70万ドルで、北アメリカだけで230万ドルの収益を上げた。洗練されたセットと登場人物の性的魅力、優雅さ、美しさを強調した。登場人物のすべてが破滅するか自暴自棄になるが、人生の不幸を背負う姿にはスタイルがあった。実際、「グランドホテル」は多くの点でスタイルの勝利だった。そのスタイルは、登場人物だけでなく、撮影ウィリアム・ダニエルズ、編集ブランチ・シーウェル、録音ダグラス・シアラー、美術セドリック・ギボンズ、衣装エイドリアンによっても表現された。各々は最初のクレジットに明示された(監督エドモンド・グールディングと脚本ウィリアム・ドレイクとともに)。
このスタイルの考案者の中心はアービング・サルバーグだった。1920年代と1930年代初期、ルイス・メイヤーがスタジオ運営と契約交渉を処理し、サルバーグと数名の部下が実際の映画製作を管理した。サルバーグは作品のクレジットに名前が載ることを拒否したが、映画製作おける彼の重要性はよく知られていた。
サルバーグはストーリーを重視し、脚本会議で積極的な役割を果たし、10数名の専属脚本家を雇った。また、映画を手直しすべきかどうかを決定するために試写を開いた。もとの脚本家と監督が試写に参加させてもらうことはめったにない。これはMGMのチームワーク気質をよく表している。重要なことに、脚本家や監督がこの慣行に不満を述べることはめったになかった。彼らは報酬を十分にもらっていたし、サルバーグによって巧みに扱われていた。
サルバーグは、恋愛映画や冒険映画という形での「ロマンス」が好きだった。ゲーブルとジーン・ハーローの「紅塵」(1932)と「支那海」(1935)のように、その両方を組み合わせることもあった。より漠然としているが、同様に重要なのはサルバーグの「嗜好 taste」で、知識人向けの一流映画をときおり作るだけでなく、(ゲーブルとハーローの映画のように)あからさまにエロチックなストーリーや状況をハリウッドの映倫や一般観客に気に入るように作り変える能力を持っていた。
こうしたMGM固有のスタイルは1940年代にも継続されたが、サルバーグの支配は1930年代半ばに終わった。健康にすぐれなかったこととMGMの権力闘争のためにスタジオ運営の大整理が行われた。MGMは、1932-33年度に、「ユニットプロデューサー」体制に移行し始めた。これは、サルバーグ、セルズニック、ハント・ストロンバーグなど数名の幹部プロデューサーが一流作品を管理し、ハリー・ラッフなど数名が二流映画をプロデュースするというものだった。
この新体制で、サルバーグとセルズニックは費用のかかる一流映画、特にコスチュームドラマ(時代劇)に専念した。サルバーグの「戦艦バウンティ号の叛乱」(1935)「ロミオとジュリエット」(1936)「椿姫」(1936)や、セルズニックの「デヴィッド・カパーフィールド」(1935)「アンナ・カレーニナ」(1935)、「二都物語」(1935)は、商業的に成功したし、批評家受けも良かった。ストロンバーグは、一連のスター=ジャンル作品を成功されるのがうまかった。ジャネット・マクドナルドとネルソン・エディのオペレッタ(「浮かれ姫君」(1935)、「ローズ・マリー」(1936))やウィリアム・パウエルとマーナ・ロイの「影の男」シリーズなどである。新体制下でのMGMの成功はしばらく続いたが、1936年に二つの出来事によって激震を受けた。一つは、セルズニックが自分の会社を設立するためにMGMを離れたことで(1939年、セルズニックの会社はMGMとともに「風と共に去りぬ」を作る)、もう一つは、サルバーグが37歳で突然亡くなったことである。彼の死はMGM時代の終わりを告げた。
「メイヤー体制:スター=ジャンル作品群と着実な衰退」
セルズニックの離脱とサルバーグの死去のあと、メイヤーが映画製作の責任を負い、委員会による経営体制を確立した。この体制は10年間続く。まだプロデューサーのスタジオという色合いが強かったが、しだいに映画製作の経験のない重役たちが経営陣を占めるようになった。しかし、ドア・シャーリーやジョー・マンキーウィッツなどの脚本家出身者が何人かいたし、ワーナーのプロデューサー兼監督のマービン・ルロイが製作主任として招かれた。MGMでのルロイの最初のプロジェクトは「オズの魔法使い」(1939)だった。「オズの魔法使い」は、野心的で、革新的で、費用のかかる作品で、その後のMGM作品やルロイ作品の特色を示すとは言い難いものだった。MGMは、メイヤーのもとで保守的な方向に転換し、より予測可能で、ありきたりの作品が作られていった。
この保守的な転換は、強い「娯楽価値」を持つ快活な映画シリーズにMGMが頼ったことに表れている。典型的な例がハーディ一家シリーズで、主演のミッキー・ルーニーは1938年から40年までドル箱スターのトップに君臨した。このシリーズの大ヒットによって、メイヤーは、マーガレット・オブライエン(「マーガレットの旅」1942)やエリザベス・テイラー(「家路」1943)など、他の子役スターを育てた。メイヤーは、愛、結婚、母性を健全に描く作品も好んだ。グリア・ガーソンとウォルター・ピジョンの「ミニバー夫人」(1942)、「キュリー夫人」(1943)、「パーキントン夫人」(1944)がその典型である。
ガーソンとピジョンのカップル以外にも、メイヤーが理想とするカップルが何組かあった。10年前の「影なき男」の大酒飲みで冗談好きなニックとノーラのチャールズ夫妻から、どれほど遠くに来たことか。アンディ・ハーディ役から脱却したミッキー・ルーニーは、ジュディ・ガーランドと組んで、痛々しいほど健全な若者のミュージカルを成功させた(「青春一座」1939、"Strike Up the Band" 1940、「ブロードウェイ」1941)。より興味のわくカップルは、「女性No.1」(1942)、「アダム氏とマダム」(1949)などのキャサリン・ヘップバーンとスペンサー・トレイシーだった。
こうした作品は例外的な成功をおさめたが、1940年代のMGMは全体的に衰退していった。全体的な質の低下と戦時中の映画ブームによって(ブームは数多くの映画館を持つ会社に有利に働いた)、かつて無敵だったMGMは、あっという間にライバルたちに追い抜かれた。戦時ブームが最高潮だった1946年、MGMの利益は1800万ドルで、パラマウントの3900万ドルの半分だったし、フォックスの2200万ドルやワーナーの1940万ドルにも及ばなかった。アカデミー賞にノミネートされなくなったし、戦後のフィルムノワールや社会ドラマの時代には、まったく時代遅れに見えた。
明るい点は戦後のMGMミュージカルで、MGMの公開作品の四分の一を占め、戦後10年間に公開されたハリウッド製ミュージカルの半分を占めた。数名のプロデューサーがミュージカル専門だったが、ミュージカルの黄金時代の最大の功労者はアーサー・フリードだった。フリードは、1944年の「若草の頃」でブレークした(ジュディ・ガーランド主演、ビンセント・ミネリ監督のテクニカラー・ミュージカル)。この成功によってフリードは自らの製作ユニットを組織することができた。このユニットは、音楽とダンスを重視し、ジーン・ケリーやスタンリー・ドーネンといった振付師の才能に頼った。ケリーとドーネンは1949年に「踊る大紐育」を共同監督し、「パリのアメリカ人」「雨に唄えば」「バンドワゴン」「いつも上天気」「恋の手ほどき」といったミュージカルの古典に道を開いた。
フリードのミュージカルは、良質の映画作りの点で頂点に達したが、MGMが豪華でお金のかかる映画作りをする兆候でもあった。社会経済状況が変化し、テレビが出現した時代だったので、利益は薄くなった。1948年にドア・シャーリーが製作主任になり、費用を削減する方針を明確にしたが、製作事業が確立していたことから考えると、これは不可能だった。1948年のパラマウント判決(劇場の分離を要求)後、MGMは他のメジャーよりも長く続いた。工場をベースにした製作と垂直統合によるスタジオ・システムを持続させるため
に上訴などの手段を無駄に展開しながら。
1950年代半ばまでに、MGMは、変化するメディア市場の現実をしぶしぶ認めた。徐々にテレビシリーズの製作に移行し、古い映画をテレビに売却した。1956年にはCBSテレビのゴールデンアワーで「オズの魔法使い」がカラー放映された。それは、MGMとハリウッドの古典時代の終末と、非常に異なる時代の始まりを告げる1950年代の出来事の一つだった。
推薦図書
Joel W. Finler, The Hollywood Story, London, Wallflower Press, 2003.
Douglas Gomery, The Hollywood Studio System: A History, London, BFI Publishing, 2005