本日は第6章「父親はどこ?:男らしさと作家主義」の九つある見出しの四番目「良い父親:トリュフォーの思春期」と五番目「父性の両面:野性の少年」。
良い父親:「トリュフォーの思春期」
父親が肯定的に描かれているトリュフォー作品もある。
「恋愛日記」(1977)の主人公ベルトランは、父親不在の少年時代を送った。そのため、成長した主人公は、男性たちとは付き合わずに、女性を追い求めることに執心している。しかし、ほんの脇役ではあるが、やさしい父親のような人物も登場する。ベルトランがちょっとした性病にかかったので診断してもらいにクリニックを訪れると、老医師は、ベルトランがこの10日ほどで半ダースの女性と関係を持ったことを聞いて、「なんという精力だ!なんという若さだ!」と驚嘆する。そして、自ら釣りの本を出版した経験があるので、彼に女性遍歴をつづった本を出版することを勧める。本を出版することがベルトランの人生の糧になることから考えると、この医師は、若者の自己充足を手助けする父親のような指導者のイメージを垣間見せてくれる。
「トリュフォーの思春期」(1976)には数人の良い父親が登場する。映画に出てくるほとんどの子供には愛情深い両親がいるが、12歳のパトリックは、車椅子生活の父親との二人暮らしだ。しかし、二人の間には相互の愛情がある。もう一人の中心人物ジュリアンは祖母と母親から育児放棄と虐待を受けている。この祖母と母親はトリュフォー作品の悪い母親の部類に属する。
大人の中心人物は小学校の男性教諭で、映画の中で自ら父親になる。翌日、まだ興奮冷めやらぬ彼は、児童たちからの「髪の毛はあるの?身長は?体重は?」といった質問に嬉々として答える。理論的な男性と実際的な女性を対比するように、赤ちゃんにお乳を飲ませている妻のそばで、彼は育児本を朗読している。彼が「母親との関係は男の子の将来の女性関係に影響を与える」と読み上げると、妻は「あなたは母親とおかしな(funny) 関係だったに違いないわ!」とやさしく答える。実は、彼自身不幸な少年時代を経験しているのだが、彼はそれを克服し、児童たちに幸せな子供時代を過ごさせてやろうと教職を選んだのだった。ジュリアンへの虐待によって母親らが逮捕されたあと、この教師は、児童に対して、子供の権利と大人の義務について熱く語る。これは、刑務所のような「大人は判ってくれない」の学校とは正反対のイメージである。
父性の両面:「野性の少年」
父性というものを最も明確に描いているトリュフォー作品は「野性の少年」(1970)である。18世紀末、トリュフォー演じるイタール教授は、狼少年ビクトールに対して、人間の世界で生きていくこと、とりわけ言葉によるコミュニケーションを教えようとする。
フロイト理論では、子供は母親との想像的なつながりから人生を始めるが、その関係を放棄しない限り、正常な社会的・性的な発育は始まらない。父親の介入によって、子供の母親との同一化が消滅することはなく、無意識の中に押し込められる。男の子にとって、母親との別離と抑圧は、父親の権力との同一化によって報われる。ラカンによれば、この過程は言語の習得と一致する。
ビクトールは、若い母親のいる近所の家庭を訪れて牛乳をもらうのが好きだ(母親を連想させる)。この機会を利用してイタール博士は、牛乳という言葉を発するまでビクトールに牛乳をやらないことにする。イタールの家政婦ゲラン夫人は、ビクトールが欲しがる仕草をすると喜んで牛乳を与えるが、イタールは、物が欲しいときに言語で表現することの重要性に固執する。イタールは秩序だった科学的な人物として描かれており、映画の雰囲気も冷静である。この冷静な雰囲気によって、観客も映画に対して冷静になり、イタールの目標の正当性や、その目標に必要な抑圧に疑問を持ち始める。
物語の中心はビクトールの教育であり、その点では最後に成功しているように見えるが、映画はビクトールが失ったものも指摘している。ビクトールは何度が脱走を試みるが、「大人は判ってくれない」のアントワーヌのように、ビクトールの逃走先は常に水のある場所だ。水は、失われた母親の存在を暗示している。それに比べれば、言葉の勉強でごほうびとしてもらう一杯の水や牛乳は些細なものだ。直接的な欲望や満足の代わりに言葉や社会の規律を苦労して覚えなければならないことに対する抵抗をビクトールは悲しみや怒りの叫び声で表現する。家政婦ゲラン夫人は、子どものすべての喜びを仕事に変えてしまうことで、その喜びを台無しにしているとイタールを非難する。
最後の脱走で、ビクトールは、暗く厳しい家から太陽の光に照らされた野外に出て、小川や森を駆け抜ける。しかし、ビクトールは、もはや、この環境に対応することができない。木からは落ちるし、屋外での寝心地も悪い。ニワトリを盗もうとしたら、すぐに捕まってしまう。彼がイタールのもとに戻るのは、イタールの試みが成功したことを意味するだけでなく、自然の世界に居場所がなくなったをも意味する。
父親の権威に対する切望と反抗がバランスを保ち、そこから緊張が生まれている。イタールの忍耐強い関わり合いによって、ビクトールはコミュニケーションの喜びを得ることができるようになった。隣の子供と遊ぶことも覚えた。同時に、抑圧と忍耐に基づく社会秩序への参加に伴う損失も強調している。勉強を再開するために階段から降りてくるビクトールの顔からは、文明に戻った喜びよりも、ビクトールが失った世界に対する嘆きと将来の不安感を読み取ることができる。
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