2007年12月28日 (金)

今年を振り返る:日曜はトリュフォーだ!

今年は、Diana Holmes & Robert Ingram の "Francois Truffaut" (Manchester University Press, 1998) を読みました。24回にわたって書き込んだわけですが、せっかく1年間書いてきたのだから、短くまとめて、私のサイトの1ページとして残しておこうと思います。完成したら、ここでご報告します。

来年は、シネシャモ上映会「華氏451」の続きをやります(邦訳、原著、撮影日誌「ある映画の物語」を読んで、感想を書く)。それが終わったら、続いて「突然炎のごとく」を上映します。「日曜はトリュフォーだ!」を読み返していたら、来年は「突然炎のごとく」をじっくり鑑賞するって宣言していたから。昨年日本で出版されたインタビュー集「トリュフォーの映画術」も少しずつ読んでいきたいです。

毎週日曜はきついので、来年は気が向いたときだけ書き込みます。優先順位は、物語論、ルビッチの次ぐらいだから、そんなに書き込まないかも。このところ仕事がないので、いろんなことができそうな気がするけど、仕事が忙しくなると、何にもやる気がしなくなるからなあ。

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2007年11月28日 (水)

今週はトリュフォーだ!:Holmes & Ingram (その24)

今回で、Diana Holmes と Robert Ingram の "Francois Truffaut" を読むのは終わり。今後は、20数回にわたって書いたことを私のサイトで1ページにまとめるつもり。ブログでは、明日から映画鑑賞記録の1974年4月分を終了させ、12月は、今年を反省し、来年の計画を建てるつもり。

映画で書く:アメリカの夜

トリュフォー作品の男主人公たちは、親切な代理父の助けを借りることもあるが、通常は父親不在のまま、規範的な男らしさに抵抗しながら、自分の物語を書くことで言語にたどりつくが、トリュフォー作品はこの達成を肯定的に描いている。書くことの賛美は、トリュフォー作品の重要なテーマである。しかし、この賛美は、常に不穏を引き起こす。アントワーヌは、執筆活動によって、達成感や自分らしさを得ることができるが、「大人は判ってくれない」で抵抗してきた、他人の生活をコントロールしようとする権力を握る。「家庭」で、妻クリスティーヌは、家族に対して恨みを晴らすために小説を利用していると言って、アントワーヌを非難する。「逃げ去る恋」で、コレットは、「二十歳の恋」の「アントワーヌとコレット」篇で描かれた頃について、アントワーヌの小説には彼女の記憶と違うことが書かれていると指摘する。「恋のエチュード」のクロードは、ミュリエルが小さい頃の自慰について書いた私的な手紙を、自分の小説に利用する。

トリュフォー作品には言葉以外に映画という書く手段があって、映画の言語は書き言葉よりもはるかに矛盾が少ない。トリュフォーにとって、映画は国家などの権威に結びついておらず、常に逃避と喜びの場所であり、父親の権威という含みなしに物語の想像力を保つことができる。映画も体系化された言語によって作動するし、国家と複雑に重なり合った産業だが、トリュフォーはそうしたことを軽く見ているし、彼の作品における映画の言語には、抑圧が微塵も感じられない。書くという個人的な事業は映画作りという集団の事業となる。その集団の事業には、男も女も含まれるし、作家の創造力を数多くの協力者の創造力によって豊かなものにする。

映画が発明される以前の時代を背景にしている作品を除いて、トリュフォー作品には、映画を見たり作ったりする喜びに言及しているものが多い。この点で「アメリカの夜」は突出している。

この映画には良い父親がたくさん存在する。監督フェランはスタッフやキャストという家族をまとめる父親だし、彼自身、資金をやりくりするプロデューサーに支えられている。年配の俳優アレクサンドルは、「アメリカの夜」の中で作られている映画で父親を演じているし、セットの中でもやさしい父親的存在だし、若い男性の恋人を養子にしようとしている。ジュリーの夫は父親ぐらい年が離れているし、精神衰弱になった女優ジュリーを助けた医師である。監督フェランのもとにルビッチ、ブニュエル、ブレッソン、ホークスらに関する本が届いたり、夢の中でオーソン・ウェルズの「市民ケーン」が出てくるが、彼らはトリュフォーにとっての映画の父親たちである。

「アメリカの夜」の中で作られている「パメラを紹介します」は、父親と息子の対立を描いており、父親殺しで終わる。これは他のトリュフォー作品におけるやっかいな人間関係を思い起こさせるが、「アメリカの夜」では製作現場での調和と対比されている。良い父親たちや尊敬の念に満ちた息子たちや娘たちから成る幸福な家族というこの架空の世界は、映画の神秘的な自由によって可能となっている。そこでは、母親たちも強く、やさしい。ジュリーは、恋人に逃げられてヒステリックになっているアルフォンスと一緒に寝て、彼を立ち直らせようとする。それが夫に知れたために自ら精神的に参ってしまったジュリーは、妊婦の女優ステーシーから母親のように慰められる。女性の助監督ジョエルは、タフで有能なプロ精神を終始発揮して、映画の完成を確実なものとする。

映画の製作過程においては、抑圧の根源である父親の否定的な権力は消え去り、やさしくて、物事を可能にしてくれる父親を望む欲求が実現される。映画は、トリュフォーの世界で最も肯定的なものすべてを象徴しているように思える。

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2007年11月27日 (火)

今週はトリュフォーだ!:Holmes & Ingram (その23)

次の見出しは「特権的対象としての本:華氏451 」と訳していたのですが、「特権的対象」ってわかりづらいので、「特別な物としての本」にします。「特別な物」というのは、下に訳しているように「想像力、自由、創造力の建設的な価値を表す」物です。

「アデルの恋の物語」と「私のように美しい娘」では、本は父親や社会の権威を象徴するものだった。アデルは逃避、不服従、出版されない文章によって、カミーユは社会の規則を完全に無視することによって、父権社会に抵抗する。

一方、父権社会の一員になることができないトリュフォー作品の男主人公たちは、あからさまに父権社会に抵抗する傾向が少なく、本を利用することによって、各々にふさわしい結末を迎える。この場合、本は権威や抑圧と結びついたものではなく、想像力、自由、創造力の建設的な価値を表す特別な物となる。

トリュフォーは、「華氏451」で、このような本の理想化から極端な結論を導く。本を弾圧しなければ維持することのできない全体主義国家は父権社会そのものであり、そこでは、本は勇気ある異議申立てを象徴し、自由を擁護するものである。消防隊は、その父権社会で最も男らしい集団で、隊長は主人公にとって父親的存在だった。だから、主人公は自己を確立するために隊長を殺さなければならなかった。一方、本を読む反体制派は、主に二人の女性によって代表される。この二人の女性によって、主人公は支配的な秩序の防御者からアウトローの反体制派となる。父権社会から逃避した「書物人間」が集うキャンプ場は、都会的で、軍隊風で、男根崇拝の消防隊と対称的に、牧歌的で、ゆるやかに無政府主義的な社会である。

そこでは、個々が一冊の本を暗記して、その本そのものになる。本を焼き払う野蛮人たちに対して本を守るには暗記するしかないからだ。書物人間たちは、この映画が擁護するすべての人間的な価値を代表する。トリュフォーが畏敬の念を持って本を扱っていることは、印刷物、本屋、印刷工程が彼の作品によく現れることであきらかだが、「華氏451」において最も極端な地点に到達している。

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2007年11月26日 (月)

今週はトリュフォーだ!:Holmes & Ingram (その22)

残りは、「書くことと自己肯定」、「特権的対象としての本:華氏451 」、「映画で書く:アメリカの夜」だけになったので、毎日一つずつ片づけて、終らせちゃいます。

で、本日は「書くことと自己肯定」。

前回は、父親の抑圧的な権威の象徴として書くことを論じていましたが、今回は、書くことの肯定的な面を論じています。実際、「野性の少年」でも、言葉を覚えることは社会の枠組みにはめてしまうことだけでなく、自分の欲求を伝えたり、他人と通じ合う喜びも描いているのです。しかも、イタール博士が日誌を書いて、出版しなければ、「野性の少年」という映画自体ありえないのです。

書くということは、父親の権威や不在に対して男性としての自己を強く打ち出すために重要である。トリュフォー作品の中で文章を書く女主人公はアデルだけで、ほとんどのトリュフォー作品は男性としての自己に関するドラマである。いくつかの作品では、男主人公が本を出版することは、人間関係における幸福の追求のみならず、物語にとっても重要である。トリュフォー作品が自伝的要素を含んでいるのはあきらかだし、「突然炎のごとく」と「恋のエチュード」もアンリ・ピエール・ロシェの自伝的小説が原作だ。イタール博士のみならず、アントワーヌ・ドワネル、「突然炎のごとく」のジム、「恋のエチュード」のクロード、「恋愛日記」のベルトランも本を書いて、出版する。「柔らかい肌」のピエール・ラシュネイ、「私のように美しい娘」のスタニスラス、「緑色の部屋」のジュリアン・ダベンヌも、自伝的なものではないが、物書きである。

自分の話を書いて、他人に読んでもらいたいという欲求は、トリュフォー作品の物語を突き動かす感情のひとつである。「大人は判ってくれない」は、権威によって押し付けられる物語に対抗して自分の物語を書こうとするアントワーヌ・ドワネルを描いている。アントワーヌは、教室の壁に詩を書いたり、母の死をでっちあげたり、バルザックを盗用したエッセイを書いたり、タイプライターを盗んだりするが、少年院でやっと自分の話を聞いてくれる相手が現れる。姿は見えず、声しか聞こえない女性心理学者の質問に答えるアントワーヌの表情からは、語ることの喜びがうかがえる。

四番目のアントワーヌ・ドワネル作品「家庭」で、アントワーヌは「愛のサラダ」という自伝小説を書くし、五番目で最後のドワネル作品「逃げ去る恋」で二作目を書く。アントワーヌが自己を確立する手段は、書くことと愛だったが、両者の成就によってドワネルの物語は終る。

「恋愛日記」でも、ベルトランが自伝的な小説を書くことが物語の基盤となっている。本を書くことでベルトランの感情面に進歩が見られるということはないが、本を書くことが彼の達成目標になっている。短い回想シーンで、ベルトランは初めて商売女を訪ねたときのことを思い出すが、彼女の部屋の本棚は空っぽだった。ベルトランの達成目標は、なくなった本を作り出すことであり、数多くの女性との一時的な関係を一貫した形式で記録し、後世に残すことである。

社会から置き去りにされた父不在のトリュフォー映画の男主人公たちは、何かを書いて、出版し、読んでもらい、認めてもらう能力によって、自分の人生を制御しているという感覚を持つことができるし、自分が実存しているという喜びを感じることができる。トリュフォー映画の書き手たちは、いったん言葉を自分のものにすると、現実を作り変える喜びを発見する。たとえば、「恋愛日記」で、ベルトランは少女が来ているドレスの色を赤から青に変える。このシーンは、現実との関係における作家の自由を強調している。「恋愛日記」と「恋のエチュード」では主人公の本が店頭に並ぶ様子を描いたシーンがあるが、作者の名前が見えることと、潜在的な読者が彼らの文章を読むことができるということによって、主人公たちは意気揚々と自己を顕示している。

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2007年11月25日 (日)

日曜はトリュフォーだ!:Holmes & Ingram (その21)

書くことと抑圧:「私のように美しい娘」

書き言葉は、父親の権威の象徴であり、社会に同化するために習得する必要のあるもの。だから、「野性の少年」で、イタール博士は、ビクトールに言葉を教える際、書き言葉に重点を置いている。書き言葉は話し言葉よりも厳格に体系づけられている。書くということは、つづりや構文の規則を自分の内部に吸収し、それに伴って、自分のまわりの世界を整理する方法をも習得することである。

「大人は判ってくれない」で、アントワーヌは、丸暗記と黒板から写すことだけを学校から押しつけられ、自己を表現しようとすると罰せられる。教室の壁に不満を表現した詩を書くと、消すように命じられ、そのかわりに動詞の語形変化を書くという課題を与えられる。バルザックに捧げたエッセイは盗作として罰せられ、タイプライターを盗むという行為(言葉を私物化することの象徴)も監禁によって罰せられる。「アデルの恋の物語」で、アデルは、ビクトル・ユーゴーという偉大な父親の権威に対抗するために、日記を無秩序に書きなぐる。しかし、最もわかりやすくコミカルに書き言葉の抑圧的な力を描いているのは「私のように美しい娘」である。

「私のように美しい娘」は、人生と言葉に対する姿勢について、主人公二人の戦いを描いている。社会学者のスタニスラスは、物事を説明する社会学理論の力を信じており、罪を犯した女性の論文を書いて出世しようと思っている。一方、犯罪者カミーユは、本当のことを言葉によって表わすかどうかは、その場その場の状況次第という人物で、社会学者の興味を利用して、刑務所から出ようと考えている。

スタニスラスはカミーユの策略にはまり、刑務所に入れられ、カミーユは釈放され、人気歌手となる。このストーリーからすると観客はスタニスラスに同情しそうなものだが、実際は逆である。両者を公平に描いたと発言しているにもかかわらず、トリュフォーは、モラルのないカミーユの勝利を楽しむよう観客をそそのかしている。

スタニスラスは書き言葉を信じている。彼が習った理論が無条件に正しいと信じている点においても、その理論によってカミーユの真実をとらえることができると信じている点においても。スタニスラスは、カミーユが真実を語ることに無頓着なことに気づくことなく、せっせと彼女の言葉を記録しているのだが、彼女の言葉とは異なる実際の様子が映像で描かれている。たとえば、夫の暴力に対して物静かな淑女のように対応したとカミーユは言うが、実際には、夫をののしりながら、部屋の物をたたき割っている。

スタニスラスは、書き言葉を信じ、フロイト、彼の弁護士、法律そのものといった父親的存在の権威を信じているため、男性中心の体制側についていることは明らかで、カミーユに対する扱いが公平だとは言いがたい。出版によって出世しようという意識的な目的と、カミーユとねんごろになりたいという無意識の目的を持っているスタニスラスは、映画の中で彼女と関わる他の四人の男性と同等の存在であり、セックスを欲しているのみならず、抑制しがたい彼女の自由さを制御していることを顕示したいのである。

社会学者スタニスラスの言葉の使用は、こざっぱりしてメガネをかけた外見同様、真面目で理性的であり、因習的な学術世界でしか経験を積んでいないし、書き言葉と話し言葉にあまり違いがない。カミーユの言葉は、自然発生的で、粗野で、活気に満ちており、真実の整理や記録には関係がなく、自己主張や自己宣伝のためのものである。

カミーユは、不幸な子供時代を過ごし、教護院に入れられ、自分の話を語ることで救済されるという点で、「大人は判ってくれない」のアントワーヌに似ているが、弱い立場にいるアントワーヌと違って、カミーユは自分を脅かす社会に立ち向かって破壊することができる。カミーユは「野性の少年」のビクトールにも似ている。抑圧や道徳に抵抗して自己の欲求を満足させようとすることと、支配的で文明的な秩序の代表者が彼女の物語を解釈し、記録している点において。しかし、尊敬すべきイタール博士と違って、スタニスラスは、学者ぶった自己欺瞞的な人物なので、退屈で、用心深く、喜びのないものとして描かれている文明的な秩序に快楽の原則が勝利してしまう。「私のように美しい娘」は、真実を完全に無視して利己主義を貫くというカミーユの哲学を、観客の賛成が得られるほどには真面目に描いていないが、飽くなき欲求を持った、道徳のない、口の達者な「野蛮人」に、肉体や言葉を拘束されることに打ち勝たせることで、観客に喜びを与えている。

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2007年11月 4日 (日)

日曜はトリュフォーだ!:Holmes & Ingram (その20)

本日は第6章「父親はどこ?:男らしさと作家主義」の九つある見出しの四番目「良い父親:トリュフォーの思春期」と五番目「父性の両面:野性の少年」。

良い父親:「トリュフォーの思春期」

父親が肯定的に描かれているトリュフォー作品もある。

「恋愛日記」(1977)の主人公ベルトランは、父親不在の少年時代を送った。そのため、成長した主人公は、男性たちとは付き合わずに、女性を追い求めることに執心している。しかし、ほんの脇役ではあるが、やさしい父親のような人物も登場する。ベルトランがちょっとした性病にかかったので診断してもらいにクリニックを訪れると、老医師は、ベルトランがこの10日ほどで半ダースの女性と関係を持ったことを聞いて、「なんという精力だ!なんという若さだ!」と驚嘆する。そして、自ら釣りの本を出版した経験があるので、彼に女性遍歴をつづった本を出版することを勧める。本を出版することがベルトランの人生の糧になることから考えると、この医師は、若者の自己充足を手助けする父親のような指導者のイメージを垣間見せてくれる。

「トリュフォーの思春期」(1976)には数人の良い父親が登場する。映画に出てくるほとんどの子供には愛情深い両親がいるが、12歳のパトリックは、車椅子生活の父親との二人暮らしだ。しかし、二人の間には相互の愛情がある。もう一人の中心人物ジュリアンは祖母と母親から育児放棄と虐待を受けている。この祖母と母親はトリュフォー作品の悪い母親の部類に属する。

大人の中心人物は小学校の男性教諭で、映画の中で自ら父親になる。翌日、まだ興奮冷めやらぬ彼は、児童たちからの「髪の毛はあるの?身長は?体重は?」といった質問に嬉々として答える。理論的な男性と実際的な女性を対比するように、赤ちゃんにお乳を飲ませている妻のそばで、彼は育児本を朗読している。彼が「母親との関係は男の子の将来の女性関係に影響を与える」と読み上げると、妻は「あなたは母親とおかしな(funny) 関係だったに違いないわ!」とやさしく答える。実は、彼自身不幸な少年時代を経験しているのだが、彼はそれを克服し、児童たちに幸せな子供時代を過ごさせてやろうと教職を選んだのだった。ジュリアンへの虐待によって母親らが逮捕されたあと、この教師は、児童に対して、子供の権利と大人の義務について熱く語る。これは、刑務所のような「大人は判ってくれない」の学校とは正反対のイメージである。

父性の両面:「野性の少年」

父性というものを最も明確に描いているトリュフォー作品は「野性の少年」(1970)である。18世紀末、トリュフォー演じるイタール教授は、狼少年ビクトールに対して、人間の世界で生きていくこと、とりわけ言葉によるコミュニケーションを教えようとする。

フロイト理論では、子供は母親との想像的なつながりから人生を始めるが、その関係を放棄しない限り、正常な社会的・性的な発育は始まらない。父親の介入によって、子供の母親との同一化が消滅することはなく、無意識の中に押し込められる。男の子にとって、母親との別離と抑圧は、父親の権力との同一化によって報われる。ラカンによれば、この過程は言語の習得と一致する。

ビクトールは、若い母親のいる近所の家庭を訪れて牛乳をもらうのが好きだ(母親を連想させる)。この機会を利用してイタール博士は、牛乳という言葉を発するまでビクトールに牛乳をやらないことにする。イタールの家政婦ゲラン夫人は、ビクトールが欲しがる仕草をすると喜んで牛乳を与えるが、イタールは、物が欲しいときに言語で表現することの重要性に固執する。イタールは秩序だった科学的な人物として描かれており、映画の雰囲気も冷静である。この冷静な雰囲気によって、観客も映画に対して冷静になり、イタールの目標の正当性や、その目標に必要な抑圧に疑問を持ち始める。

物語の中心はビクトールの教育であり、その点では最後に成功しているように見えるが、映画はビクトールが失ったものも指摘している。ビクトールは何度が脱走を試みるが、「大人は判ってくれない」のアントワーヌのように、ビクトールの逃走先は常に水のある場所だ。水は、失われた母親の存在を暗示している。それに比べれば、言葉の勉強でごほうびとしてもらう一杯の水や牛乳は些細なものだ。直接的な欲望や満足の代わりに言葉や社会の規律を苦労して覚えなければならないことに対する抵抗をビクトールは悲しみや怒りの叫び声で表現する。家政婦ゲラン夫人は、子どものすべての喜びを仕事に変えてしまうことで、その喜びを台無しにしているとイタールを非難する。

最後の脱走で、ビクトールは、暗く厳しい家から太陽の光に照らされた野外に出て、小川や森を駆け抜ける。しかし、ビクトールは、もはや、この環境に対応することができない。木からは落ちるし、屋外での寝心地も悪い。ニワトリを盗もうとしたら、すぐに捕まってしまう。彼がイタールのもとに戻るのは、イタールの試みが成功したことを意味するだけでなく、自然の世界に居場所がなくなったをも意味する。

父親の権威に対する切望と反抗がバランスを保ち、そこから緊張が生まれている。イタールの忍耐強い関わり合いによって、ビクトールはコミュニケーションの喜びを得ることができるようになった。隣の子供と遊ぶことも覚えた。同時に、抑圧と忍耐に基づく社会秩序への参加に伴う損失も強調している。勉強を再開するために階段から降りてくるビクトールの顔からは、文明に戻った喜びよりも、ビクトールが失った世界に対する嘆きと将来の不安感を読み取ることができる。

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2007年10月21日 (日)

日曜はトリュフォーだ!:今日は命日

仕事が忙しくて忘れるところでしたが、10月21日はトリュフォーの命日でした。1984年に亡くなったから、今年は没後23年。52歳で亡くなったから、生きていれば75歳。2年に1本のペースだと、この23年間に11本のトリュフォー作品を見ることができたはずなのだ。

で、今週も Holmes & Ingram の "Truffaut" を読む余裕はありませんでした。来週もダメみたい。今年中には終わらせて、来年はアンヌ・ジランの「トリュフォーの映画術」(水声社、2006)というインタビュー集を読むつもり。

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2007年10月 7日 (日)

日曜はトリュフォーだ!:Holmes & Ingram (その19)

本日は第6章「父親はどこ?:男らしさと作家主義」の九つある見出しの二番目「父親の不在:恋のエチュード」と三番目「制圧的な父親:アデルの恋の物語」。

「恋のエチュード」の主人公クロードは母親と二人暮らし。クロードはイギリスの姉妹各々と恋愛するが彼女たちにも父親がおらず、母親と三人で暮らしている。クロードと妹ミュリエルが恋仲になり、結婚を望むようになるが、姉妹の母親の友人で、代理の父親的存在のフリント氏は、二人を一年間別れさせて、一年後にも互いに結婚を望んでいれば、結婚させるという提案をする。

クロードとミュリエルは、依存、空想、自己中心という子供時代のパターンから抜け出していない。それは、ミュリエルの自慰に対する罪悪感、包帯によって隠された彼女の眼、クロードが彼女の非常に個人的な手紙を自分の芸術的目的のために利用することに表れている。クロードとミュリエルがやっと結ばれたとき、ミュリエルの処女膜がなかなか破れないことは、各々がナルシスティックな自己陶酔から抜け出ることの困難さを意味している。

「恋のエチュード」は数多くのトリュフォーのテーマを組み合わせているが、その中には、父親の不在とそれに伴う大人としての自己を確立することの困難さが含まれている。姉のアンヌは父親不在でも娘が大人としての自己を確立する可能性を示唆しているが、彼女の突然の死によって、クロードとミュリエルの閉鎖的な関係にもっぱら焦点が当てられている。

「アデルの恋の物語」にアデルの父親(ヴィクトル・ユーゴー)は登場しないが、映画全体を支配している。自身の説明によれば、トリュフォーがアデルに共感したのは、父親の愛情と世話が欠けていたことによる苦痛と、父親の名声と権威から抜け出そうとする努力である。

姉レオポルディーヌは1843年に溺死した直後から名が知られていたが、アデルはほとんど知られていなかった。ユーゴーは姉を主題に感動的な詩をいくつか書いた。映画の中でアデルは溺死する女性に自分自身が重なり合う夢を何度か見る。これはアイディンティティ喪失の恐怖と父親にもっとも愛される娘になりたいという欲望を示している。

アデルがピンソン中尉を追い求めるのが映画の主軸だが、その追求は父親からの逃避でもある。ユーゴーの声はアデルへの手紙からしか聞こえてこないが、制圧的な存在として描かれている。父親の名声は、アデルの無名性と次第にもろくなっていく様子との対比によって強調されている。映画の最後、1885年のユーゴーの国葬では二百万の会葬者が集まったが、アデルは1915年にひっそりと亡くなった。

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2007年9月30日 (日)

日曜はトリュフォーだ!:Holmes & Ingram (その18)

本日は第6章「父親はどこ?:男らしさと作家主義」の九つある見出しの一番目「ドワネル映画の父性」。

父親は、息子が大人の世界に入る橋渡しをする。精神分析の理論では、父親は、息子を母親から離し、社会秩序の基本である欲望の抑圧を教える。

「大人は判ってくれない」は、トリュフォー作品の母親の原型だけでなく、父親の原型も提示している。「大人は判ってくれない」の最初のほうのシーンは、アントワーヌと義父が母親に対して男同士の関係を築く可能性があることを示している。しかし、義父は、妻に浮気され、息子に対する態度に一貫性のないダメ親父である。性的にも権威の面でも欠けたところのある彼は、能力が不十分な男性のイメージを提示しており、アントワーヌが大人の世界に入る橋渡しとしての役目を果たすことができない。

学校や少年院も橋渡しの役目を持っているが、それらは最も悪い意味で男根崇拝的である。厳格で、権威主義的で、支配的で、アントワーヌの感情的欲求と成人になるために要求されるものとの間の橋渡しをしてくれない。

「大人は判ってくれない」には、喜び、流動性、想像力、あたたかい感情もあるが、それらは学校や少年院の外にある。生き延びるためには入っていかなけらばならない抑圧的な社会秩序と、社会にそむく態度や虚構の世界と関連した楽しくて創造的な領域との間には、明確な対立がある。

「大人は判ってくれない」は、アントワーヌの欲求と社会の服従命令との対立を描いている。ドワネル・シリーズの以後の作品が感情面で「大人は判ってくれない」よりも魅力がないとしたら、その一因は、主人公を社会の周辺で居心地よく暮らさせることによって社会的なテーマを回避していることである。主人公は、生き延びるに十分な程度に社会と共存しているが、父親的な国家権力や標準的な男らしさの模範との同化や対立を避けている。アントワーヌは、就職、結婚、父親になることといった通過儀式を達成して、なんとか大人の男になるが、伝統的な家長の役目を果たすことができない。職を転々とするし、自分の身勝手と不貞のために結婚も失敗する。

ドワネル・シリーズには、コレットやクリスチーヌの父親や「夜霧の恋人たち」の老探偵など、代理の父親のような人物がときどき登場する。しかし、彼らがアントワーヌの物語の中で主要な役割を果たすことはない。老探偵は途中で死んでしまうし、恋人や妻と別れると彼女たちの父親とのつながりも切れる。

ドワネル・シリーズ最後の作品「逃げ去る恋」では、女性との関係が成功しているように見えるが、題名が示しているように、逃げたり避けたする主人公の傾向が強調されているし、欲求、充足、離脱のサイクルが新たに展開されると思わざるをえない終わり方だ。アントワーヌは、父親不在のままだし、母親から始まった感情のサイクルを際限なく繰り返すように見えるし、彼自身がほとんど父親の役割を演じることができないでいる。

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2007年9月23日 (日)

日曜はトリュフォーだ!:Holmes & Ingram (その17)

やっと第6章「父親はどこ?:男らしさと作家主義」まで来ました。第7章「絶対的対一時的」は最初に取り上げたので、これが最後の章です。Dian Holmes と Robert Ingram の "Francois Truffaut" (1998, Manchester University Press) を読み始めたのは2月なので、もう半年以上かかっています。ま、週に一度やったりやらなかったりなので、こんなペースでいいかな。

次の小見出しがあります。

  • ドワネル映画の父性
  • 父親の不在:「恋のエチュード」
  • 制圧的な父親:「アデルの恋の物語」
  • 良い父親:「トリュフォーの思春期」
  • 父性の両面:「野性の少年」
  • 書くことと抑圧:「私のように美しい娘」
  • 書くことと自己肯定
  • 特権的対象としての本:「華氏451」
  • 映画で描く:「アメリカの夜」

で、本日は、見出しの前の序文的な部分を読みます。

これまでは母親との関係を中心に論じたが、アイデンティティの確立には父親も重要な役割を果す。父親は、男性中心の社会では、社会の法規として母子関係に介在する。

トリュフォー作品では、しばしば、父親の役割が取り扱われる。父親的存在には、文字通りの父親だけでなく、社会生活における模範、先生、先導者である年上の男性も含まれる。もし子供がアイディンティティを確立しようとするなら、父親の権威と戦う必要がある。

トリュフォーの実生活からすると、どうしても父性の問題に関わらざるを得ない。トリュフォーは、12歳のころ、私生児であることを知るが、実の父親が誰かわかないし、母親とも話し合ったことはない。トリュフォーは父親との満足な関係が欠如しているようだ。

トリュフォーは、批評家の頃、1950年代に支配的だったフランス映画の伝統を激しく拒絶したが、これは子供の父親に対する反抗を思わせる。その一方、ルノワールやヒッチコックといったヒーローに同一化しようとしており、これは、代理の、良い父親的人物を強く求めていることを示唆している。

トリュフォーは、アンドレ・バザンの中に、やさしい父親の手本を見つけた。自分を守って、面倒を見てくれただけでなく、自分を映画の世界に引き入れてくれたし、人生や映画に対する態度にも大きく影響を受けた。バザンの他人に対する寛大さと尊敬は、彼と接する人に伝染する類のものだったし、彼の知的で人間的な文章はフランス映画の発展に大きく寄与した。

トリュフォーの作品でも、父親の不在へのこだわりは、積極的で創造的な力として父親の役目を割り当てる試みと共存している。

トリュフォー作品ではよくあることだが、たいして重要ではないと思える滑稽なシーンが、彼の虚構の世界を支える重要な質問の一つを告げている。「大人は判ってくれない」で、英語の発音練習をするシーンで、教師は子供たちに "Where is the father?"(父親はどこ?)という文を繰り返させている。

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