2009年5月 2日 (土)

最初のR&Rは25曲目をもちまして終了いたします。

もっと映画中心のブログにしたいので、「最初のR&R」は終了します。ご愛読されている方がいらしたら、申し訳ない。26曲目以降は有名な曲が多いし、そういう曲について語っているブログやサイトは多いだろうから、それらをお楽しみください。50曲のリストは私のウェブサイトに残しておきます。音楽に関しては、リチャード・トンプソンやあややについて、ときどき軽く書く程度にします。とはいえ、残りの曲に関して気まぐれに書く可能性あり。

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2009年4月25日 (土)

あややがライブで歌う「チョコレート魂」がやっと見れた

と言っても、そんなに新鮮味は感じないんですけど。

http://www.youtube.com/watch?v=mhHRr-k3--0

むしろ、飯田さんと矢口さんが歌う「たんぽぽ」に感激しました。あとから出てくる4人はどういう人選か最初はわからなかったけど、後期のタンポポのメンバーなのね。石黒彩さんが出てきたら最高だったんだけど。

http://www.youtube.com/watch?v=EeRmaPBa3BU

日テレの土曜日9時から始まったドラマ「ザ・クイズショウ」は、1回目を見る限り、あややはチョイ役って感じでした。関ジャニの横山君が良かった。

定額給付金の申請書に預金通帳のコピーを入れるのを忘れたので、電話して問い合わせたら、「申請書が返送されるので、通帳のコピーを入れて送り直してください」ということだったので、申請書が返送されるのを待っていたのですが、結局通帳のコピーは不要だったのか、めんどくさかったのか、申請書は返送されず、給付金が口座に振り込まれるという通知ハガキが来ました。

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2009年4月13日 (月)

First R&R (25曲目): Sixty Minute Man (その6)

シックスティ・ミニット・マン

二回目のセッションで、「ハーバー・ライツ」と「シックスティ・ミニット・マン」を録音しました。「ハーバー・ライツ」は1940年のバラードで、この1950年当時、サミー・ケイのオーケストラが大ヒットさせていました。マクファターが、風変わりだが力強く歌っており、フェデラル・レコードはただちにドミノズの二枚目のシングルとして発売しました。「シックスティ・ミニット・マン」は二ヵ月後に発売されました。性的な含みが顕著なためにラジオでは放送禁止になりましたが、30週間R&Bチャートにとどまり、そのうちの半分近くでトップの座に君臨しました。オーケストラやクルーナー(低い声で感傷的に歌う流行歌手)が独占していたポップチャートにも入りました。

シド・ネイサンは小ずるいビジネスマンで、自らのヒット曲を別のジャンルでもヒットさせようとしました。カントリー・デュオのヨーク・ブラザーズに「シックスティ・ミニット・マン」をカバーさせましたが、ほかの「シックスティ・ミニット・マン」のカバー同様、ヒットしませんでした。なぜなら、オリジナルが強力すぎたし、独特すぎたからです。それで、ネイサンは、アンサーレコードを作ることにしました。新しいグループ、スワローズに "It Ain't the Meat (It's the Motion)" を歌わせて、小ヒットとなりました。二年後、ドミノズを脱退したビル・ブラウンがチェッカーズを結成し、同じ主人公の歌 "Don't Stop, Dan" をキングレコードから発売しました。1960年、ネイサンは、アンタッチャブルズのリメイクにあやかろうと、オリジナルに女声コーラスを加えたバージョンを発売しました。

(今回はこれで終わり。右の関連サイトの「最初のロックンロール」をクリックすれば、まとめて読むことができますし、過去のものも読むことができます。)

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2009年4月12日 (日)

First R&R (25曲目): Sixty Minute Man (その5)

レコード会社との契約

1950年10月、ローズ・マークスは、ドミノズをラジオの新人発掘番組に出演させました。観衆の反応が良かったのに気づいた黒人のアレンジャー兼ギタリストのレネー・ホールは、キングレコードのシド・ネイサンに電話します。当時、キングレコードはけっこうヒットを出していたのですが、ボーカルグループの市場にはあまり踏み込んでいませんでした。土ミニ図に関して、ネイサンはどうすればいいのかわからなかったので、A&Rマンのラルフ・バスに任せます(ラルフ・バスは、すでに、ジャック・マクビーの "Open the Door, Richard" とT・ボーン・ウォーカーの "Call It Stormy Monday" という大ヒット曲をプロデュースしていました)。

ラルフ・バスは、ドミノズをじかに聴いて、「ポップグループとしては十分にポップじゃないし、R&Bグループとしては十分にR&Bじゃない」と思いました。バスは、彼がどのようなものを望んでいるのかの例としてオリオールズのレコードを聴かせたら、ビリー・ワードは「そんな曲なら、いつだって書けるさ」と言いました。実際そのとおりでした。

シド・ネイサンはラルフ・バスを信頼していたので、バスのために子会社フェデラル・レコードを設立し、バスが発掘した新人を録音させることにしました。バスはドミノズをキングにいれたくなかったので、フェデラルに入れて、フェデラル最初のレコードを録音させました。

ドミノズのデビューシングル "Do Something for Me" は、18歳のクライド・マクファターがリードシンガーを務めるお涙頂戴のバラードで、R&Bチャートを上昇しました。B面の "Chicken Blues" のほうがロック調で、「シックスティ・ミニット・マン」の準備運動といった感じでした。こっちはビル・ブラウンがリードを務めました。A面はオリオールズのソニー・ティルのバラードを模倣し、B面はレイブンズのジミー・リックスのアップテンポなブルーズを模倣することで、ビリー・ワードは丸損を防いだ(hedging his bets) というのが、この本("What Was the First Rock 'n' Roll Record?")の著者の意見。

(続く)

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2009年4月11日 (土)

First R&R (25曲目): Sixty Minute Man (その4)

ドミノズ

ドミノズは、のちにビリー・ワードとドミノズと名乗っていたぐらいだから、ビリー・ワードが中心です。ところが、驚くべきことに、彼はグループの中で歌っていないのです。彼は、グループのコーチであり、ピアニスト兼オルガニストであり、ローズ・マークスとともにドミノズという商標の所有者でした。彼は、週給制によって、グループのメンバーを雇ったり解雇したりする権力を持っていました。すなわち、メンバーをいつでも入れ替えることができたわけで、のちにプラターズやドリフターズの所有者がこのシステムを採用しました。「シックスティ・ミニット・マン」が録音された1950年のメンバーは、テナーがクライド・マクファター、セカンドテナーがチャーリー・ホワイト、バリトンがウィリー・ラモント、ベースがビル・ブラウンでした。

ビリー・ワードとともにドミノズを所有していたローズ・マークスは若い白人女性で、オリオールズ(最初のR&R10曲目 "It's Too Soon to Know" 参照)のマネージャーで曲を提供していたデボラ・チェスラーを意識していたようです。彼女も野心を持った若い白人女性でした。マークスの提案で、ワードはハーレムで四人のボーカリストを集めたのです。

ドミノズという名前は、1923年に "Dancin' Dan (Fox Trot)" を録音したブラック・ドミノズから来ているのかもしれませんが、ドゥーワップグループの先駆的存在、インク・スポッツと対比した名前にしたかったのかもしれません。インク・スポッツ(インクのしみ)が白地に黒をイメージするのに対して、ドミノは黒地に白をイメージさせます。

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2009年4月10日 (金)

First R&R (25曲目): Sixty Minute Man (その3)

ダンという女好きを主人公とした歌に関する段落がもう一つあって、昨日は見落としていました。ブラック・ドミノズというジャズバンドが "Dancin' Dan (Fox Trot)" という歌を1923年に録音しており、ダンが主人公の歌として最初にレコード化されたものじゃないかと書いています。その7年後、ベッシー・スミスが "Kitchen Man" という歌でダンのことを歌っており、さらにその翌年には "Hustin' Dan" という歌も録音しています。1937年にはジョージア・ホワイト Georgia White が "Dan the Backdoor Man" を歌い、同年、フォー・サザーナーズ Four Southerners がカバーしています。ソングライターにとって、ダンは便利な男だったようです。というのも、ダンは、handy man、lover man、back-door man と韻を踏むからです。back-door man というのは、古いブルーズ用語で、夫が玄関から仕事に出かけると、裏口からこっそり忍び込む情夫のことです。しかし、この流れをくむ「シックスティ・ミニット・マン」は、甘いテナーボイスが中心の、耳あたりのよい、プロとして運営されていたボーカルグループであるドミノズにとって例外的なものでした(「プロとして運営されていた」の原文は professionally-run で、この訳には自信がありません)。で、そのドミノズについては、次回からのお楽しみ。

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2009年4月 9日 (木)

First R&R (25曲目): Sixty Minute Man (その2)

題名の意味

「60分の男」という題名は、どこからきているのでしょうか。低音担当のビル・ブラウンによれば、15分のキス、15分のじらし、15分喜ばすこと、15分の "blowin' my top" だそうです。最後のは、私の辞書によれば「激怒する」とか「気が狂う」とかいう意味があるけど、流れからすると「いっちゃう」という意味でしょうか。こういうのは、double entendre という二重の意味を持つ語句なんですが、あまりに使われすぎたために、今では、ズバリそのものを表現しているとしか思えない。

この二重の意味を持つ歌詞を含むブルーズは何十年も前からあって、そういう曲を挙げています。40年代以降では、Julia Lee の "Snatch and Grab It"、Helen Humes の "Million Dollar Secret"、Billy Mitchell の "The Ice Man" などがあったが、その前にも "Frankie and Johnny" や Lucille Bogen の "Shave 'em Dry" という曲があったそうです。しかし、それらは百万枚以上売れなかったし、ポップチャートには入りませんでした。

「シックスティ・ミニット・マン」の主人公はラビン・ダン Lovin' Dan というのですが、ダンという人物は古くから歌われているそうです。19世紀のミンストレルショーでは Dan Tucker または Jim Dandy という名前でした(Dandy については1956年にラバーン・ベイカーが歌っているそうだし、1958年には Jesse Belvin という歌手が "Deacon Dan Tucker" という曲を歌っています)。残存している楽譜によれば、1921年には "The Lady's Man, Dapper Dan from Dixieland" という曲がありました。列車のボーイが、女と密会するかなんかの駅を通り過ぎるときに駅の名前を叫ぶとかいう歌で、駅の名前を叫ぶという技巧は、のちにルイ・ジョーダンの "Salt Pork, West Virgina" やジェームズ・ブラウンの "Night Train" など多くの曲で使用されました。

(続く)

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2009年4月 4日 (土)

やっぱ、そのまま訳すのはまずいかなあ

"What Was the First Rock 'n' Roll Record?" という本を訳してきて、誰も私のブログなんて見ないだろうと思って、著作権についてはさほど気にせずにやってきたし、実際、どこからも文句はなかったけど(面白いという意見もあまり聞かない)、やっぱり気になるので、以後は、まとめた形で発表しようかなと思っています。そのまま訳したほうが楽で、まとめるのって、けっこう難しいので、今月一杯にはなんとかということで(なにしろ仕事が忙しい)。以後は、わりと有名な曲ばかりなので、これまでみたいに丁寧にやる必要もないかもしれないし。

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2009年4月 1日 (水)

First R&R (25曲目): Sixty Minute Man (その1)

やっと半分まで来ました。25曲目は、ドミノズ The Dominoes の「シックスティ・ミニット・マン」です。

  • R&Bチャート1位 (14週)、ポップチャート17位
  • カテゴリー: R&Bノベルティ
  • 作者: ビリー・ワード Billy Ward、ローズ・マークス Rose Marks
  • レベールと番号: Federal 12022、シンシナティ
  • B面: "I Can't Escape from You"
  • 録音日・場所: 1950年12月30日、ニューヨーク
  • 発売日: 1951年4月/5月
  • なぜ重要か:
    ポップチャートにまで入った最初のR&Bヒット。二重の意味を持つ歌として最初のヒット曲。R&Bボーカルグループによる最初のミリオンセラー。
  • 影響を受けたのは:
    The Black Dominoes "Dancin' Dan" (1963)
    Bessie Smith "Hustlin' Dan" (1930)
    The Four Southerners "Dan the Backdoor Man" (1937)
  • 影響を与えたのは:
    The Swallows "It Ain't the Meat (It's the Motion)" (1952)
    数多くのアンサーレコード。たとえば、The Du-Droppers "Can't Do Sixty No More" (1952)、The Checkers "Don't Stop, Dan" (1954)、The Robins "The Hatchet Man" (1954)、The Cadets "Dancin' Dan" (1956)
    ドミノズも "Can't Do Sixty No More" を1955年に録音したが、The Du-Droppers のとは別曲。
  • 重要なカバー:
    The Jive Bombers
    Hardrock Gunter and Roberta Lee
    The York Brothers
  • 重要なリメイク:
    The Untouchables (1960)
    Clarence Carter (1973、R&Bチャート17位、ポップチャート65位)

YouTube で聴くことができます。
http://www.youtube.com/watch?v=jh6re_I__HQ (なぜか途中で終わっています)
http://www.youtube.com/watch?v=tCeI0e7EKDc&feature=related (オリジナルとは少し違うようです。)

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2009年3月27日 (金)

あやや!あやや!

おお!「想いあふれて」をあややが生で歌っている。

アルバムの1曲目に入っていたKANのカバーをKANと歌ってる。

恋愛よりも充実したものを求めているこの曲を生で歌ってくれないかな。

稲垣潤一と歌う松田聖子の曲。あややがきれいに撮られている。

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2009年3月 7日 (土)

First R&R (24曲目): Rocket 88 (その5)

アイク・ターナーの憤慨によってブレンストンとの間に亀裂が入り、結局バンドは解散した。「ロケット88」の人気のおかげで、ブレンストンは、フィニアス・ニューボーン・ジュニア Phineas Newborn, Jr. という若いメンフィスのピアニストなどをバックに、二年間ツアーを続けることができた。ジェネラル・モーターズは、ブレンストンがただで宣伝してくれたので、新型のオールズ88をプレゼントした。

だが、次のレコード "My Real Gone Rocket" も、その後のレコードも、まったくヒットしなかった。訴訟に巻き込まれ、ひどい目に会い、アルコールに溺れた。稼いだ金はすぐに使った。「ロケット88」の人気が廃れ、下取りに出して、おんぼろ車とも交換できなくなった頃、ブレンストンは、屈辱的なことに、アイク・ターナーのバンドに参加し、ほんの少しサックスを吹かせてもらうだけだった。ターナーはピアニストからギタリストに転向し、彼のバンドのリードシンガー、アナ・メイ・ブラック Anna Mae Bullock と結婚し、名前をティナ・ターナーに変えさせた。アイクが最初のヒット曲 "A Fool in Love" を出した1960年、ブレンストンはアイクのバンドにいた。ついに、アイクは「ロケット88」で受けた仕打ちの仕返しをしたのだ。

ブレンストンの1951年の成功の副産物は、ペンシルベニアの独立系プロデューサーが、田舎臭い曲ばかり演奏していたビル・ヘイリーを説得して「ロケット88」のカバーを演奏させたことである。ヘイリーのレコードはヒットしなかったが、一部の地域で売れ行きが好調で、白人市場のためにR&Bを録音するというヘイリーの方向性を作った。

ジャッキー・ブレンストンが1979年に心臓まひに襲われたとき、彼はメンフィスの街角の飲んだくれだった。12月15日に退役軍人病院 (V.A. hospital) で亡くなった。

1958年、リトル・リチャードは、「ロケット88」のアイク・ターナーのイントロをパクり、ほとんど一音たがわずに"Good Golly, MIss Molly" に作り変えた。

(今回はこれで終わり。右の関連サイトの「最初のロックンロール」をクリックすれば、まとめて読むことができますし、過去のものも読むことができます。)

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拉致被害者の救済に向けて

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2009年3月 6日 (金)

First R&R (24曲目): Rocket 88 (その4)

ブレンストンは自分が「ロケット88」の作者だと主張したが、実際にはギタリストのジミー・リギンズが1947年に発売した「キャデラック・ブギ」の最新版だった。しかも、「キャデラック・ブギ」でさえ、ロバート・ジョンソンの1936年の「テラプレーン・ブルーズ」を革新的に作り変えたものかもしれない。ブレンストンは「キャデラック・ブギ」の歌詞を変えて、車種を最新のものにしているが、メロディやブギのビートはほとんど同じだ。それでも違いはある。リギンズのは、西海岸のジャンプブルーズでキーキー鳴るサックスを除いて、過ぎ去ったビッグバンド時代を懐かしむような演奏だった。ブレンストンは、ミシシッピーのデルタ地帯で田舎のブルーズを聞きながら育った若者たちと演奏している。

1951年当時、サム・フィリップスは、ロサンゼルスのモダーンレコーズにブルーズミュージシャンのマスターテープを貸したり売ったりしながら、かろうじて演奏者に報酬を与えることができた。しかし、モダーンレコーズは、BBキングなどのすぐれたミュージシャンを引き抜いたので、サム・フィリップスと仲が悪くなった。それで、フィリップスは、アイク・ターナーとキングズ・オブ・リズムがその日録音した四曲をシカゴのチェス兄弟に送った。チェスはブレンストンの二曲を4月に発売した。レコードが店頭に並んでいるのを見たアイク・ターナーは、誰でも殺しかねなかった。彼のバンドが演奏しているのに、レコードにはジャッキー・ブレンストンと彼のデルタキャッツと書いてあるだけで、ターナーの名前はどこにもなかった。アイクにとってさらに不運なことに、のちに同じ録音からアイクの二曲をチェスが発売したが、まったく売れなかった。

1951年6月に「ロケット88」はR&Bチャードで1位になり、5週間トップの座を守り、ドミノズの「シックスティ・ミニッツ・マン」に次ぐR&Bの年間ヒットとなり、ジャッキー・ブレンストンはスターとなった。しかし、それはブレンストンにとって最悪のことだった。「俺は青二才だった。ヒット曲はあったが、センスがなかった。誰ともツアーに出たことがなかったし、プロがどうするのかも見たことがなかった。」

(続く)

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2009年3月 5日 (木)

First R&R (24曲目): Rocket 88 (その3)

1951年3月、バンドは、61号線を上って、ユニオン通り706にある白いタイル張りの小さなメンフィス・スタジオに着いた。アイク・ターナーの回想によれば、車旅行はひどいもので、「三度捕まった。一度はスピード違反だった。ベースを車の上においていたら、吹き飛んでしまった。その日はトラブルがいっぱいあった。雨が降っていた。メンフィスに遅く着いたので、その日は録音できなかった。長い間待たなければならなかった。」

ほとんどの録音技師は彼らを録音するのにしりごみしたに違いない。ギタリストのウィリー・キザート Willie Kizart はアンプを落として、コーンをダメにしたので、アンプから出てくる音がゆがんでしまった。しかし、絶えず何か新しいものを求めているサム・フィリップスは、録音を続けることに決めた。「修理のしようがなかった。アンプに紙をちょっと詰めたら、サックスのような良い音が出た。」他の録音技師なら、ゆがんだアンプの音を低く抑えようとするだろうが、フィリップスはそうじゃなかった。フィリップスは、ファジーなギターの音を強めて、アイク・ターナーのせわしないピアノと暴走しすぎてタイヤがスリップするようなレイモンド・ヒルのサックスとともにキザートが演奏するブギのリフを強調しようとした。

録音セッションは、ターナーが歌い、ブレンストンがアルトサックスを演奏する二つの曲で始まった。ブレンストンはアルトサックスを置いて、次の二曲を歌った。"Come Back Where You Belong" と「ロケット88」である。サム・フィリップスの記憶では、バンドは「ロケット88」のリハーサルを行っていない。「ロケット88」をその日に録音すべきかどうか決めかねていたが、バンドがその曲をふざけながら演奏しているのを聴いた彼は、ちゃんと演奏するよう求めた。これがサム・フィリップスの回想で、アイク・ターナーは大筋で同意している。「この曲は前夜に作り上げた。メンフィスに一晩中いたんだ。その日、その車を見かけたので、「ロケット88」と名付けた。俺たちが道路でトラブったとき、ある男が助けてくれたんだ。その男が乗っていたんだ。」もっとありそうなのは、ブレンストンとバンドがキングズ・オブ・リズムのショーで即興で作り上げ演奏した曲だということだ。当時の録音セッションでは4曲録音するのが普通なので、十分リハーサルを積んで、いつでも演奏できる曲数を持つことなくメンフィスまで長旅をするなんて、ありそうもない。アイク・ターナーによれば、録音セッションが終わると、フィリップスは各々に20ドルくれたそうだ。

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2009年3月 4日 (水)

First R&R (24曲目): Rocket 88 (その2)

車に弱いので、車に関する個所に誤訳があるかもしれません。

「ロケット88」は、メンフィスのサン・スタジオで録音された最初のヒット曲であり、シカゴのチェス・レーベルにとって最初のR&Bチャート1位になった曲であり、アイク・ターナーにとって最初の大ヒットであり、何人かにとって最初のロックンロールだった。革新的な曲によくあることだが、「ロケット88」の魔力のほとんどは偶然の産物である。アンプのスピーカーが壊れたために、ギターの音が荒っぽく、不明瞭なものになったし、最初にこの曲を録音しようと決めたのは土壇場の決定だったと言われている。

ロケット88の正式名称は 1950 Hydra Matic Drive V-8 Oldsmobile 88 で、「ロケットエンジンの付いた最も安い車」だと宣伝された。貧しい連中でさえ味わうことのできた戦後アメリカの繁栄のクロムメッキ輝く象徴だった。第二次大戦によって庶民はジェット機の技術や未来風デザインに魅了されたので、自動車メーカーは、1950年型自動車によって未来の工学が手の届く範囲内となったと宣伝した。GMは、オールズ88エンジンを "フューチャーマチック(「未来 future」+「動く matic」)" として広告し、「なめらかなフューチャーマチック・ボンネット」のゆるやかにカーブする輪郭を大いに宣伝した。南部で差別されている黒人の若者でさえ、このロケットを運転する夢を描くことができた。

ジャッキー・ブレンストンは、1927年8月24日か1930年8月15日に、ミシシッピー州クラークスデイルで生まれた。ブレンストンは1944年に入隊するために年齢をごまかしたと告白しているので、後者が正しいと思われる。クラークスデイルは確固たるブルーズの町である。ロバート・ジョンソンは、1930年代半ば、クラークスデール郊外の49号線と61号線の十字路で悪魔に魂を売り渡したと言われている。

戦後、ブレンストンはクラークスデイルに帰り、地元のミュージシャンからアルトサックスを教わった。ブレンストンは、ピアニストのアイク・ターナーと出会った。1931年10月15日に郊外で生まれたターナーは、メンフィスのホテル・ピーボディでベルボーイとして働いていたので、クラークスデイルとメンフィスを行き来していた。「アイクはバンドを結成した。俺はあまりうまく演奏できなかったが、練習する時間をたっぷり与えてくれた。」そのバンド、キングズ・オブ・リズムはすぐに人気を呼び、彼らがミシシッピー州チェンバーズで演奏しているのを聞いたBBキングは、彼らをサム・フィリップスに紹介した。

(続く)

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2009年3月 1日 (日)

First R&R (24曲目): Rocket 88 (その1)

24曲目は、ジャッキー・ブレンストンとデルタキャッツ Jackie Brenston and His Delta Catsの「ロケット88」です。

  • R&Bチャート1位
  • カテゴリー: R&B
  • 作者: Jackie Brenston
  • レベールと番号: Chess Records 1458、シカゴ
  • B面: "Come Back Where You Belong"
  • 録音日・場所: 1951年3月5日、テネシー州メンフィス
  • 発売日: 1951年4月
  • なぜ重要か:
    間接的にサンレコードの発足を手助けした。エレキギターのゆがんだ音とせわしないブギビートによって強められた演奏が50年代の数多くのレコードに影響をあたえた。
  • 影響を受けたのは:
    Jimmy Liggins "Cadillac Boogie"(1947)
  • 影響を与えたのは:
    Todd Rhodes "Rocket 69" (1952)
    The Medallions "Buick 59" (1954)
    Little Richard "Good Golly, Miss Molly" (1958, ポップチャート10位)
  • 重要なカバー:
    Bill Haley and the Saddlemen

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2009年2月16日 (月)

あややはどうした

高血圧のほかに尿酸値が高いのが判明したうえに、精神安定のために自律神経調整剤も処方してもらって、薬漬けになってしまいそう。洋書もDVDも一生楽しめる分だけあるので、こづかいは医療費に回そう。20代の頃、夜中働いて、昼間映画を見ていた生活が今頃になって祟ったのか。

新曲「チョコレート魂」をひっさげて、バレンタインデー前後にはテレビ出まくりかと思いきや、久本雅美の隣でゲストの話を聞いている彼女しかお目にかからない。「きずな」が発売されたころ、はるな愛と一緒にテレビ出演しているのをよく見たけど、あれは、はるな愛を引き連れていたのではなく、彼女に引き連れられていたのか、というぐらい、はるな愛をよく見かける。「チョコレート魂」を生で歌うあややにはお目にかかれないのか。

そのかわり、さだまさしの「道化師のソネット」を見事に歌い上げています。2チャンネルで話題になったらしく、短期間でかなりのヒット数になっています。
http://www.youtube.com/watch?v=ICgobHhaxvg

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2009年2月 7日 (土)

First R&R (23曲目): How High the Moon (その5)

やっと仕事が切れたので、残りを一気にやりました。来月はジャッキー・ブレンストンの「ロケット88」。

「ハウ・ハイ・ザ・ムーン」は1940年にモーガン・ルイスとナンシー・ハミルトンがブロードウェイ劇 "Two for the Show" のために書いた曲だ。この二人は "I'm Sitting on Top of the World" やレイ・ボルガー Ray Bolger の有名なテーマ曲 "Old Soft Shoe" も書いた。その年、ベニー・グッドマンは、ヘレン・フォレスト Heren Forrest のボーカルで「ハウ・ハイ・ザ・ムーン」をポップチャートの6位までヒットさせた。1948年にはスタン・ケントン Stan Kenton の楽団が20位まで上昇させた。

レス・ポールとメアリー・フォードは1950年までにハリウッドを離れ、ニューヨーク州のジャクソン・ヘイツに居を構えた。新しいテレビ音楽ショー "Les Paul and Mary Ford at Home" のスポンサーに近づくためた。レス・ポールは自宅の地下室のスタジオで「ハウ・ハイ・ザ・ムーン」を録音した。レス・ポールはビーバップのファンで、ビーバップがまだ地下で潜行していた時代にこの曲を知った。1940年代初期にビーバップを築いたミュージシャンの一人、トランペット奏者のディジー・ガレスピー Dizzy Gillespie が、ビーバップ発展のかなり初期にこの曲をビーバップ賛歌に作り変えた。マイルズ・デイビスも録音した。サックス奏者イリノイ・ジャケー Illinois Jacquet がジャズ・アット・ザ・フィルハーモニックで演奏したバージョンは、このコンサートをレコードにして発売するようモーゼス・アッシュ Moses Asch を説得するのに役立った(最初のR&R1曲目「ブルーズ」参照)。アルトサックス奏者チャーリー・パーカーの最も有名な曲の一つ、「オーニソロジー Ornithology」も「ハウ・ハイ・ザ・ムーン」のコード変化に基づいているし、たぶんレス・ポールとメアリー・フォードがキャピトルからレコードを出す直前に、ソネットレーベルのために「ハウ・ハイ・ザ・ムーン」を録音している。

レス・ポール自身も、5年前の1945年に「ハウ・ハイ・ザ・ムーン」のインストバージョンをVディスク V-Disc のために録音していた。Vディスクは、海外駐在米軍放送のレーベルで、1942年から1948年にかけて軍隊向けに78回転の30センチ盤を出していた。この初期のジャズバージョンは、リズムギター、ベース、ピアノが伴奏しており、1分半程度の使い捨てだった。

彼が再びこの曲を録音したのは、メアリー・フォードの姉妹キャロルが推薦したからだ。ポール自身はこの曲にあまり信頼を置いていなかった。「ミュージシャンが好む曲だが、大ヒットしたことは一度もなかった」からだ。しかし、ある夜、近くの居酒屋にいたとき、コースターにポップ調のアレンジを略述して、翌日か翌々日にギターのトラックを録音した。

ステレオ(ツートラック)のオープンリール・テープレコーダーは1954年にならないと利用できなかったが、レス・ポールはくじけなかった。ビング・クロスビーがくれたモノのレコーダーに再生ヘッドと録音ヘッドを取り付け、多重録音ができるようにした。

レス・ポールは、多重録音されたギターの音に電子的なエコーをかけたが、これは、のちにロカビリーレコードの特徴となった。メアリーの声も同じように処理した。多重録音にもかかわらず、メアリーのハーモニーは明瞭である。ボーカリストはマイクから2フィート(約60センチ)離れなけばならないというレコード業界の原則をレス・ポールが破ったからだ。彼は、メアリーのすべての息づかいを拾うために彼女をマイクから数インチ離れた所に立たせた(現在これは音楽産業で当たり前のことになっている)。振り返ってみると、本当に「ハウ・ハイ・ザ・ムーン」を特色づけているのは、レス・ポールのギターソロと終結部である。ビル・ヘイリーと彼のコメッツのギタリスト、ダニー・セドロンのほどんどのソロは、これを参照している。"Rock the Joint"(最初のR&R28曲目)と "Rock Around the Clock"(39曲目)におけるセドロンの素晴らしい仕事は、ほとんどレス・ポールの模倣である。

レス・ポールが完成したテープをキャピトルに渡したとき、重役たちは発売するのをためらった。「彼らは、歌詞の意味がわからないと言った。」だが、レス・ポールは、「パティ・ペイジに対抗するために」レコードを出すよう彼らを説得した。

1951年に「ハウ・ハイ・ザ・ムーン」がどんなにワイルドでエキサイティングだったかを評価するには、その年に大ヒットを放ったポップ歌手を考えてみればいい。デビー・レイノルズ(「アバ・ダバ・ハネムーン」)、ジョー・スタッフォード("Shrimp Boats")、エームズ・ブラザーズ、ローズマリー・クルーニー、そしてもちろんドリス・デイとエディ・フィッシャーで、彼らはみんなビッグバンド時代の遺物だった。

このあと数年間、レス・ポールとメアリー・フィッシャーはヒット曲を出し続けたが、1951年に彼らが享受した成功には達しなかった。1953年に "Vaya Con Dios" が一位になったあと、彼らの人気は落ちて、ロックンロールによって業界から追い出されそうになった。だが、レス・ポールは、ギブソンの「レス・ポール」エレキギターとエイトトラックの録音装置によって名声と富を獲得した。メアリー・フォードはレス・ポールと1963年に離婚し、14年後にガンで亡くなった。

新たな世代のギタリストがレス・ポールを発見し、彼のギブソンギターと録音は確実に永続する。

デビー・レイノルズの「アバ・ダバ・ハネムーン」って、バックはビックバンドだけど、サウンドは完全にロックンロールのように聞こえます。ジョー・スタッフォードって男かと思ったら、きれいな女性で、声がしっかりして、参っちゃいます。1950年ごろってすごかったんだなあ。「ハウ・ハイ・ザ・ムーン」は私のサイトでまとめて読むことができます。右の「最初のロックンロール」をクリックしてください。

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2009年2月 6日 (金)

First R&R (23曲目): How High the Moon (その4)

YouTube のおかげで曲が参照できるようになったのがありがたい。特に今回は、レス・ポールとパティ・ペイジのカバー合戦が面白い。曲名をクリックすると、YouTubeでその曲を聴くことができます。

また、レス・ポールは自らの楽しみのための試みも始めた。ヒルビリー四重奏だ。しかし、リードシンガーがいなかった。たまたま歌うカウボーイのスター、ジーン・オートリーと出会って、アイリス・コリーン、サマーズ Iris Colleen Summers (1928年7月7日生まれ)というパサデナ出身の女性を紹介された。彼女は、ジーン・オートリーのラジオ番組で何度か歌ったことがあった。サマーズはレス・ポールのグループに参加し、メアリー・フォードとなった。1949年の大晦日にはレス・ポール夫人にもなった。

パティ・ペイジがB面に収めたピー・ウィー・キング Pee Wee King の「テネシー・ワルツ」で偶然にもヒットを飛ばしたとき、レス・ポールとメアリー・フォードは、そっくりバージョンをカントリー市場で発売し、多重録音の声が似ていたので混乱をもたらした。マーキュリーレコードはキャピトルが土足で踏み込んできたことに不満だったので、レス・ポールとメアリー・フォードが「モッキンバード・ヒル Mockin' Bird Hill」を出し、ヒットし始めると、パティ・ペイジを急いでスタジオに呼んで同曲を録音させた。この二つのバージョンはポップチャートで競い合った。両方とも3位まで上昇し、100万枚売り上げた。レス・ポールとメアリー・フォードにとっては1951年に発売したミリオンセラーヒット3曲の最初のレコードであり、彼ら最大のヒットで最も影響力が強い「ハウ・ハイ・ザ・ムーン」のお膳立てをした。(続く)

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2009年2月 5日 (木)

First R&R (23曲目): How High the Moon (その3)

あややの「想いあふれて」は、第一週29位で、5千枚も売れていない。応援しがいがあるぞ。来週発売される「チョコレート魂」に期待だけど、今 Dohhh Up で見ることのできるビデオクリップは一箇所で撮影された地味な出来栄えなので、実はこれがオマケの映像で、もっと派手なのを撮影中だとかって噂はない?

仕事が忙しいので、最初のロックンロールは細切れの訳になります。完成した段階で一気に読んだ方がいいかも。例によってテキトー訳で、技術的にわからない箇所は省略しています。

レス・ポールはエジソンとジャンゴ・ラインハルトを足して二で割った存在だった。彼は1915年6月15日にウィスコンシン州ワウケシャで生まれた。本名は レスター・ウィリアムズ・ポルファス Lester William Polfus。少年の頃、バンジョー、ハーモニカ、ギターを独学で覚えた。機械いじりも好きだった。9歳のとき、「なぜ列車が通り過ぎると、窓がガタガタいうのか」という単純な質問に答えるための探究を開始した。13歳になるまでに独自のディスク録音機を開発した。ビクトローラのトーンアームとキャデラックのはずみ車を使い、2ヘルツのピッチで窓をガタガタいわす列車と同じ原理を利用した。彼は1929年に地元ラジオ局のヒルビリー・ショーに出演し始めたが、その一つをディスクに録音している。1943年、彼はハリウッドに移った。彼とデッカの契約を手配してくれたのはビング・クロスビーだった。翌年、彼の友人ナット・コールに招かれて、ノーマン・グランツの最初のジャズ・アット・ザ・フィルハーモニックで演奏した(最初のR&R1曲目 "Blues" 参照)。

バンガローのガレージに録音スタジオを作った。最新機器をそろえていたので、アンドリューズシスターズなど何人かの一流アーティストがそこで録音した。スタジオ唯一の出入り口は窓だった。そのスタジオで、彼は自作エレキギターによる録音を試みることができた。実験によって、1947年にキャピトルレコードと契約したあとで「ニューサウンド」として知られるようになるものに到達した。彼は「ニューサウンド」と題された驚くべき25センチアルバムを録音した。スピードアップされたギターやワイルドな効果が特徴だった。アルバムの一曲、"Lover" は、非常に歯切れよくて時代を先取りしていたので、ヒットしただけでなく、ハイファイの試聴盤としても人気があった。(続く)

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2009年2月 3日 (火)

First R&R (23曲目): How High the Moon (その2)

ハーモニーの声は奇妙に似ていて、ボズウェルシスターズやアンドリューズシスターズのようだ。しかし、レコード会社の表示によれば、それらは一人の女性、メアリー・フォードによるものだ。オーバーダビング(多重録音)は当時「サウンド・オン・サウンド・レコーティング(音に音を重ねる録音)」と呼ばれていて、少なくともポップスの世界では割と目新しいものだった。レス・ポールは、何度もギターの音を重ねることのできるテープレコーダーを開発し始めたが、彼の工夫は珍妙なものでしかなかった。メアリー・フォードと組んで、オーバーダビングの曲を全米1位に押し上げるまでは。

多重録音した最初の有名ポップシンガーはパティ・ペイジだった。ペイジは次のように語っている。「1947年の大晦日の夜にシカゴで録音したの。ミュージシャンのストライキせいで1948年は録音が禁止されそうだったから。スタジオで「コンフェス」を録音しようとしたけど、バックコーラスがいなかった。雇うお金がなかったから、私のマネージャーが多重録音したらどうかと提案したの。」

当時の録音技術では、アセテート盤に直接録音しなければならなかったので、エンジニアは操作盤を配線し直すことで二つのレコーダーをつなげなければならなかった。ペイジが最初に録音した盤に合わせて歌うと、第二の機械がそれを第二のディスクに録音した。修正がきかないので、もし一曲を歌う間にミスを犯せば、その盤を捨てなければならなかった。マーキュリーレコードが「コンフェス」を発売したとき、レコードには「パティ・ペイジとパティ・ペイジによる歌」と表示されていた。次のシングル "With My Eyes Wide Open, I'm Dreaming" は四重唱で、レコードには「パティ・ペイジとパティ・ペイジとパティ・ペイジとパティ・ペイジ」と表示されていた。

最初に多重録音したのはペイジではなかった。オペラスターのローレンス・ティベット Lawrence Tibbett は1931年に "The Cuban Love Song" でテノールとバリトンを歌い、ジャズマンのシドニー・ベチェット Sidney Bechet は1941年の "The Sheik of Araby" でサックス二本、クラリネット、ピアノ、ベース、ドラムを多重録音した。しかし、パティ・ペイジは、多重録音の魅力を一般大衆に知らしめた最初のミュージシャンだった。すぐに彼女は二人の若い成り上がり者と競争することになる。レス・ポールとメアリー・フォードの多重録音は、さらに進んでいた。(続く)

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2009年2月 2日 (月)

First R&R (23曲目): How High the Moon (その1)

最初のロックンロール23曲目は、レス・ポールとメアリー・フォードの「ハウ・ハイ・ザ・ムーン」。

  • R&Bチャート2位、ポップチャート1位(9週)
  • カテゴリー: ポップス
  • 作者: Morgan Lewis, Nancy Hamilton
  • レベールと番号: キャピトル1451、ロサンジェルス
  • B面: "Walkin' and Whistlin'"
  • 録音日・場所: 1950年、ニューヨーク州ジャクソン・ハイツ
  • 発売日: 1951年3月と4月
  • なぜ重要か:
    オーバーダブや早回しなどの工夫を広範に使用した最初の大ヒット曲
  • 影響を受けたのは:
    ベニー・グッドマン「ハウ・ハイ・ザ・ムーン」(1940、ポップチャート6位)
    ディジー・ガレスピー「ハウ・ハイ・ザ・ムーン」(1944)
    レス・ポール自身の「ハウ・ハイ・ザ・ムーン」(1945)
    パティ・ペイジ「コンフェス」(1948、ポップチャート12位)
  • 影響を与えたのは:
    「ロック・アラウンド・ザ・クロック」(1955、ポップチャート1位)のギタリスト、ダニー・セドロン Danny Cedrone、「ビー・バップ・ア・ルーラ」(1956、ポップチャート6位)のギタリスト、クリフ・ギャラップ Cliff Gallup など多数
  • 重要なカバー:
    チャーリー・パーカー
  • 重要なリメイク:
    エラ・フィッツジェラルド(1960、ポップチャート76位)、グロリア・ゲイナー(1965)

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2009年1月23日 (金)

チョコレート魂でがんばれ!

ここ3年ほど、年に一枚地味なシングルを出していただけのあややですが、今度はにぎやかだ。送料を無料にするために、「大瀧詠一 Song Book 2」も注文したぞ。大瀧さんがプロデュースしていれば、もっとスッキリしていただろうなあと思いつつ。そういえば、今年は久々に山下達郎氏との新春放談を聴いたけど、なにもかにも相変わらずでした。

小堺さんの「ごきげんよう」の最後に流れる「ありがとう、ありがとう、ありがとうって何度くり返しても」って曲が耳に残ったので、調べてみたら、大光寺圭の「私の水平線」という曲でした。垢ぬけなさと愛想なさが妙な感じ

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2009年1月 8日 (木)

First R&R(22曲目): Hot Rod Race (その6)

サンペドロは海軍の町なので、歌手のミック・ウッドワード Mick Woodward は舞台を海に移して、「ホットロッドレース-海軍スタイル」という曲を作った。ミックワードにならって、ボー・トロイと彼のホイールズ Bo Troy and His Wheels も海を舞台にした "Haulin' Henry" を発売した。

最も永続したアンサーレコードは、チャーリー・ライアンとティンバーライン・ライダーズ Charlie Ryan and the Timberline Riders の「ホット・ロッド・リンカーン Hot Rod Lincoln」だった。ライアンによれば、彼とシブリーが同じ地域でツアーを行っていた1950年の同時期に、各々の曲を作ったそうだ。実際にホットロッドのリンカーンを持っていたライアンは、アイダホ州のルイストンでロードレースを始め、丘の頂上まで突っ走る(そこでは、のちにチャック・ベリーがクーペ・デ・ヴィルに乗ったメイベリーンを目撃する)(訳注:ルイストンの丘というのが有名らしい)。ライアンの出発点はシブリーのレコードである。「あの運命の日のホットロッドレースの物語を聞いただろ。フォードとマーキュリーの。これはそのときの内輪話だ。俺はモデルAに乗っていたガキだ。ある夜遅くサンペドロを出発した。月と星が明るく輝き、グレープバイン丘の上はすべてが素晴らしかった。車を次々と追い抜いたが、それらは止まっているように見えた。」ライアンがホードとマーキュリーを道路の外に吹き飛ばした後しばらくして、新しいホットロッドのリンカーンに乗り換えた。道路でキャデラック・セダンに出会い、二台は競争するが、ライアンはエンジン・トラブルを起こし、車を片側に寄せろと警官に命令される。彼のグループ、ティンバーライン・ライダーズは、巧みにギターとフィドルを使って、エンジンのノック音、警笛、フェンダーがガードポストにぶつかる音、警察のサイレンをうまく表現している。

「ホット・ロッド・リンカーン」は1960年まで注目を浴びなかった。その年、ベテランのカントリー・ミージシャンであるジョニー・ボンド Johnny Bond が、ジーン・オートリーのリパブリック・レーベルのために新たなバージョンを録音した。西海岸のラジオで放送され、カントリーチャートとポップチャートの両方に入った。ギルトエッジの親会社フォー・スター・レコードがライアンと彼のバンドに「ホット・ロッド・リンカーン」を再録音させ、ジョニー・ボンドと競わせた。二つのリンカーンは競い合って、ビルボードのホット100を駆け上がった。東部の州を巡業していたライアンは東海岸で好成績をあげ、西海岸ではボンドが優勢だった。後年、コマンダー・コディ Commander Cody (ポップチャート9位、1972)やアスリープ・アット・ザ・ホイール Asleep at the Wheel といったネオロカビリーバンドが、この曲をリバイバルさせた。

ライアンは、リンカーン物語をシリーズ化し続けた。"Side Car Cycle" は路上のロマンスを詳述している(これもジョニー・ボンドがカバー)。"Hot Rod Hades"、"I Married the Gal in the Side Car Cycle"、"Hot Rod Guitar" と続き、"Burlington Chase" では列車と競争した。

もちろん1960年代はカーソングの時代だった。"Shut Down"、"409"、"Little GTO"、"Dead Man's Curve"、"The Little Old Lady from Pasadena"、"Mustang Sally" など。1976年にも、ウィングチックス Wingtips というグループが "The California Kid" という曲によってサンペドロでレースを始めた。

しかし、自動車ソングを加熱させるきっかけを作った曲は、アーキー・シブリーの「ホットロッドレース」だった。

我々(この本の著者である Jim Dawson と Steve Propes)はシブリーを探しているところである。彼の本名はジョージ・ウィルソン George Wilson らしい。亡くなったビル・マッコール Bill McCall からシブリーの曲を購入した音楽出版社は、サンディエゴ近くの住所を知っていたが、その住所にはもういない。

(この曲の解説全体を読みたい方、過去の曲の解説を読みたい方は、右の「関連サイト」の「最初のロックンロール」をクリックしてください。)

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2009年1月 7日 (水)

First R&R(22曲目): Hot Rod Race (その5)

シブリーの「ホットロッドレース」のヒットに伸びがなかった理由の一つは、「白人の連中のように突っ走る」ことについての自慢である。白人のように生きることに関する自己満足的な言及は、1951年の南カリフォルニアにおいては好意的に受け入れられたかもしれないが、東部の人々にとっては、そのような人種差別的ほのめかしをラジオで流すことは急進的すぎると考えていた。たぶんそのために、他のミュージシャンは、不快感を与える歌詞を変えた。ジミー・ドーランは「平凡な連中」に、レッド・フォリーは、「貧しい連中」に、タイニー・ヒルは「金持ちの連中」に、チャーリー・ライアンは「素敵な連中」に変えた。

フィドルと卓越したスティールギターを中心に据えたバンドを持つジミー・ドーランは、曲のテンポをかなり早め、トーキングブルーズの要素をなくし、カントリーブギの要素を強めた。レッド・フォリーは最も洗練された演奏を行っている。シブリーの奇妙なテンポとぎこちない歌詞をなめらかにし、ギタリストはニューヨークのタクシーよりも警笛音をガンガン鳴らしている。

奇妙なことに、この曲をポップチャートにまで進出させたのは、350ポンドのバンドリーダー、タイニー・ヒルで、"Doodle Doo Doo" などの感傷的で古臭い曲で知られていた1940年代以降ヒット曲がなかった。彼は、物語の場所をサンペドロからココモ(たぶんインディアナの)に移し、不快感を与えそうな "twin pipes and a Columbia butt" という表現を "twin pipoes in that blunderbuss" に変えた。(同様に、ドーランも "that Columbia bus" に変えた。)

大ヒットになるのを阻まれたアーキー・シブリーは、続編 "Arkie Meets the Judge (Hot Rod Race #3)" を発売した。彼はサンペドロの自宅から連行され、裁判所で、この不法な行為における彼の役割を説明させられる。このレコードは「ホットロッドレース」よりもはるかに売れなかったが、いわゆる「アンサーレコード」が流行するきっかけを作った。カントリーとR&Bの両方の分野で人気となったアンサーレコードは、大衆の想像力をかきたてる生き生きとした人物や出来事についてのヒットに対する返答だった。(最初のR&R37曲目 "Work with Me, Annie" 参照。)

あっという間にカントリーの大スターになったファロン・ヤング Faron Young は、「ホットロッドレース」とテネシー・アーニー・フォードの1948年の大ヒット "Shot Gun Boogie" を組み合わせて "Hot Rod Shotgun Boogie" を作り、Tillman Franks and His Rainbow Boys という名義でレコードを発売した。この短い歌の中で、ヤングは、Hadacolをタンクに注ぎ込むことで車の馬力を上げた。「丘を駆け上がっても、哀れっぽい鼻声さえ出さない。」ヤングは、この二つの曲を利用しただけでなく、当時人気だった Hadacol ソングも利用した。ハダコールは人気のあった一般市販薬で、ビタミン不足といった病気に効いた。ダドリー・J・ルブランが発明したこの万能薬の主成分は12パーセントのアルコールだった。ファロン・ヤングは、ビル・ネトルズ Bill Nettles が1949年にヒットさせたカントリー "Hadacol Boogie" をコピーしたのだが、プロフェサー・ロングヘアの "Hadacol Bounce" やリトル・ウィリー・リトルフィールドの "Drinkin' Hadacol" なども念頭にあったのかもしれない。

(たぶん、あと一回で終わると思います。)

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2009年1月 6日 (火)

First R&R(22曲目): Hot Rod Race (その4)

自動車のバラッドというのは1950年には珍しくなかった。初期の歌は、賞賛の対象がバギー(一頭立て軽装馬車)("The Surrey with the Fringe on Top")から馬のない乗り物(自動車のこと)("In My Merry Oldsmobile" "Let's Make Love in My Rumbleseat")に移行した。1930年代のブルーズマン、ロバート・ジョンソンは、エロチックな自動車のイメージを通して、女性との性的関係を表現した("Terraplane Blues")。そして、ジミー・リギンズの "Cadillac Boogie" (1947) のような歌は、ふさわしい車を持つことの優雅さを表現した。しかし、「ホットロッドレース」は、アクセルをぐっと踏み込んだ(put the foot on the pedal)最初の歌だった。

"Cadillac Boogie" やジャッキー・ブレンストンの "Rocket 88" といったR&Bナンバーでは、自動車はステータスシンボルだった。黒人が品よく快適に車を乗り回し、隣人たちを印象づけ、きれいな女性をナンパする。(あるいは、ペパーミント・ハリスの "Cadillac Funeral" のように、威厳をもって最後の安息の地に向かう。)ドラッグレース(ホットロッド(高速改造車)によるスピードレース)って何なんだろう?消耗と特殊な整備には金がかかるし、白人警官は、警告や反則キップによって、彼らをほっておかないだろう。あきらかに、白人の若者と黒人の両方が車の背後にある自由とセックスを表現しているが、1時間100マイルという速度でそれを表現できるのは白人の特権だった。

初期のドラッグレーサーの一人、カスタムカーの王様ジョージ・バリスは次のように言う。「街中でレースを行った。自らの命を失うかもしれないという猪突猛進の冒険を行った。40年代と50年代初期には、ホットロッダーは闘士とみなされていた。自らを車で表現していたからだ。もちろん、警察は、我々を追跡するだけでなく、ピストルを撃ってきた。殺されたものもいる。」1955年の映画「理由なき反抗」のチキンレースは、パシフィック・パリセーズで実際に起きた事件がきっかけだ。バリスはスーパーバイザーとして呼ばれ、ジェームズ・ディーンと一緒に仕事をした。チキンレースのシーンは、50年代のドラッグレースのイメージを最も長期間にわたって提供してくれるだろう。

シブリーの「ホットロッドレース」は1951年の初めにカントリーチャートを急上昇したが、メジャーのレコード会社から出た三つのカバーバージョンが追い越して、モデルAのガキのように、最終的にシブリーをチャートから吹き飛ばしてしまった。ランブリン・ジミー・ドーランとティニー・ヒルのバージョンは2月上旬にカントリーチャートでヒットし、ヒルのはポップチャートでも上昇した。二週間後には、デッカの何でも屋でカバー専門のヒルビリー歌手、レッド・フォーリーのバージョンもカントリーチャートを上昇した。

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2009年1月 5日 (月)

First R&R(22曲目): Hot Rod Race (その3)

車についてよく知らないし、日常会話で使う俗語などもよくわからないので、歌詞に誤訳が多いかもしれませんが、だいたいこんなもんだろうなという程度に理解していただきたい。

アーキー・シブリーが最初に録音した「ホットロッドレース」は、アコースティックギターが中心で、マイクを付けていないバンジョーがバックを務め、いくつかの節の最後にホーンのようなコードを鳴らすためだけにスティールギターが使われている。シブリーは、リラックスしたギターブギのリフに続いて、ウディ・ガスリー風に語り口調で歌い始める。このトーキングブルーズという歌い方は、1947年にテックス・ウィリアムズの"Smoke! Smoke! Smoke!" というカントリーソングがポップチャートの1位になってから流行していた。アーカンサスからカリフォルニアへの移住者は普通「アーキー」というニックネームだったので、シブリーは、テックスの追い風に乗ろうと、同じように素朴なニックネームを名前にした。

「俺と妻と弟のジョーはフォードに乗ってサンペドロを出発した。ガソリンはありまないし、タイヤの空気もなかったが、いまいましいフォードはなんとか動いた。真夜中に突っ走っていたら、うしろのマーキュリーがライトを点滅させて、ホーンを鳴らし、追い抜いていった。」挑戦を受けて立った彼らは、何マイルもマーキュリーと競争した。二台の車は「互角に戦って」「約40フィートの幅の痕跡を数々の町に」残す。当然、彼の「美しい花嫁」と弟ジョーは死にかかるほどおびえている。彼は、「多くの素敵な町の郊外に油のしみ」を作り、「警官の頭がぐるぐる回り」続けた。

レースが砂漠まで続くと、二台の車は「低く広範囲に疾走する a-flyin' low and a-flyin' wide!」(「ホットロッドレース」のいくつかのカバーバージョンはかなり歌詞を変えているが、この部分だけは残しているし、ビル・ヘイリーの "Rock the Joint"(最初のR&R28曲目)でも、ダンスフロアでロッキング・アンド・ローリングするのを表す用語として使われている)。勝負の決着はつかず、突然「バックミラーをのぞくと、何かがやってくるのが見えた。炎だと思った。」エンジンの出力を上げたモデルAフォードに乗ったガキがヒューッと走り抜け、ほこりと排気ガスで彼らを窒息させた。彼らは恥ずかくなった。「あの車が通り過ぎると、私は振り返った。マーキュリーの男は何も言うべきことがなかった。」

曲のなかにタイトルの「ホットロッドレース」という言葉は出てこない。この手落ちも作品の一部となり、ジーン・ビンセントの "Race with the Devil" (1956) にもボックスポッパーズ Voxpoppers の "The Last Drag" (1958) も同様にタイトルが歌詞の中に現れない。「ホットロッド」でさえ歌詞に出てこないが、彼のフォードが改造されて「一対のパイプと Columbia butt" が付いていると述べている。「隠語が理解できないみんなのために言うと、キャブレターが二つとオーバードライブ装置が一つ付いているということだ。」

「ホットロッドレース」を発売したレコード会社には奇妙な歴史がある。ギルトエッジは、1944年に、クリフ・マクドナルドというロサンジェルス住民のガレージで始まった。彼は、レコードプレス機を持っていた。同年、彼は、セシル・グラントという名前の黒人兵士が歌うバラード "I Wonder" を録音した。グラントは米軍慰問協会主催のUSOショーで歌っていたので、質の悪いセラックに録音されたレコードはかなり売れた。黒人アーティストが独立系レーベルから出したレコードとして最初の大ヒットとなった。グラントが録音したレコードの直販店として数年間活動したのち、ギルトエッジは、パサディナ郊外でフォースターレコードを経営していたビル・マッコールの手に渡った。マッコールは、自らのレーベルからヒルビリーとブルーズのレコードを出しており、配給網を拡大しようと1950年にギルトエッジを復活させたときも、それを続けた。たとえば、シェブリーのレコードの次にはボブ・ゲディンズ・トリオ Bob Geddins Trio のブルースレコードを発売した。

(続く)

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2009年1月 4日 (日)

First R&R(22曲目): Hot Rod Race (その2)

19世紀後期に自動車が発明されて以来、自動車レースは盛んだったが、少壮のレースドライバーが、文明から離れた西部の干上がった湖を捨てて、都会の街路、人けのない川床、滑走路、ハイウェイを不法に暴走し始めるのは、戦争が終わった直後の1940年代後期だった。彼らは、旧式のおんぼろ車ではなく、裏庭で改造し、装備を最低限に減らし、出力を強化した、ホットロッドと呼ばれる車を運転した。

ホットロッドレースの中心は、車文化の発祥地、カリフォルニアだった。より詳細に述べると、ロサンジェルス南部、サンペドロとウィルミントンの孤立した港町で、大人のホットロッダーや何人かの10代の若者が、太平洋沿岸の101号線や、ロサンジェルスから90マイル離れたサンホアンキン渓谷につながる99号線の「グレープバイン」で、クロスカントリー・レースを始めた。

ホットロッドの最初のレコードは、Connie Jordan and the Jordanaires の1947年の "Hot Rod Boogie" らしいが、これはインストナンバーだった。「ホットロッドレース」の起源は、女性を追い回すメキシコ系米国人が女性を口説くためにカリフォルニア南部を行った来たりすることを歌った、よく知られていない歌だという説の方が有力である。「サンペドロからフレスドまで、拒絶する女はいない」というような歌を、当時の映画の中でけっこう純潔な若い女優が非常に無邪気に歌っているらしい(筆者がこれを書いている時点で、映画も曲も女優も特定できなかった)。この曲が「ホットロッドレース」にインスピレーションを与えたにせよ、そうでないにせよ、サンペドロがホットロッド天国の中心地となるきっかけを与えている。

(筆者がこの本を書いた時代にインターネットが発達していなかったのが残念。その純潔な若い女性はディアナ・ダービン(なるほど純潔だ)、映画は「Can't Help Singing」、曲名は "Californ-i-ay"。なんと、偶然にも、私はこの映画が入った「ディアナ・ダービン・スイートハート・パック」という6作品入り米盤2枚組DVDを注文して、現在うちに届けられている途中。"Lady On A Train" というフィルムノワール風コメディが見たかったから購入したのです。YouTube でこの曲が歌われているシーンを見ると、たしかに男性が "From San Pedro to Fresco, No Maiden There Says No" と歌っているのだけど、これが直接「ホットロッドレース」に結びつくとは思えない。)

(続く)

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2009年1月 3日 (土)

First R&R(22曲目): Hot Rod Race (その1)

22. Hot Rod Race by Arkie Shibley and His Mountain Dew Boys

  • カントリーチャート5位
  • カテゴリー:カントリー・ブギ
  • 作者:ジョージ・ウィルソン George Wilson
  • レベールと番号:Gilt Edge 5021、ロサンゼルス
  • B面: "I'm Living Alone with an Old Love"
  • 録音日・場所:1950年後期、ロサンジェルス
  • 発売日:1950年12月
  • なぜ重要か:ポピュラー音楽に自動車レースを持ち込み、アメリカの文化、特に若者の文化に対して車が持つ重要性を明確に示した。
  • 影響を受けたのは:"From San Pedro to Fresno" (1946?)
  • 影響を与えたのは:
    "Maybellene" by Chuck Berry(ポップチャート5位、1955)
    "Hot Rod Lincoln" by Charlie Ryan and the Livingston Brothers (1955)
    "Race with the Devil" by Gene Vincent and the Blue Caps (1956)
    "Chicken" by the Cheers (1956)
    "Beep Beep" by the Playmates (ポップチャート4位、1958)
    "Hot Rod Lincoln" by Charlie Ryan the Timberline Riders (ポップチャート33位、1960)
    "Hot Rod Lincoln" by Johnny Bond (ポップチャート26位、1960)
    "Shut Down" by the Beach Boys (ポップチャート23位、1963)
    のちに作られた自動車レースの歌ほぼすべて
  • 重要なカバー:
    Ramblin' Jimmy Dolan (カントリーチャート7位)
    Red Foley (カントリーチャート7位)
    Tiny Hill and His Orchestra (ポップチャート29位、カントリーチャート7位)
    Arthur Smith
  • 重要なリメイク:
    Charlie Ryan and the Timberine Riders (1964)

(続く)

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2008年12月13日 (土)

First R&R(21曲目): Teardrops from My Eyes (その4)

「リズムアンドブルーズ」という言葉は、ルース・ブラウンの最初のレコード「ソー・ロング」が1949年にヒットしたとき、ビルボードの紙面をにぎわしていた。このレコードの売り上げはリズムアンドブルーズ市場に限定されていたが、この若い才人にはすぐれたものがあるとアトランティックが納得するに十分だった。「ソー・ロング」は、標準的な女性の恋の歌で(もっとも、以前に Charioteers という男性ボーカルグループがレコードを出していたが)、ブラウンの明快な発声とざらついた声に完全にあっていた。当初、この曲とB面は、エディ・コンドン Eddie Condon によるジャズ風なインスト中心のアルバムにボーカルナンバーとして収録される予定だった。しかし、まだ松葉杖をついていたブラウンの歌唱が非常に力強かったので、そのアルバムに収めずに、彼女名義でシングルとして発売したのだった。その後の数枚のレコードは大してヒットしなかった。

ブラウンとルディ・トゥームズは "Teardrops from My Eyes" を録音する前の少なくとも一週間はこの曲を練習した。「楽譜が読めなかったから、ルディがメロディを教えてくれた。それをテープに録音して、うちに帰って何度も聴いたの。」録音では、カウント・ベイシー楽団の卒業生で、アトランティックの音楽ディレクター兼サックス奏者のアルバート・「バド」・ジョンソンが率いるバンドがバックを務めた。

この陽気な曲は、アトランティックの最初の45回転盤として発売され、のちにロックンロールと呼ばれるスタイルの数少ない女性先駆者のうちの一人としてルース・ブラウンを位置づけることとなった。バックでジョンソン楽団の五本のホーンが二つの異なるリフを演奏し、ベースが聴診器による鼓動のように四分の四拍子を刻む中で、ブラウンは、ムーディーなはずの歌詞に皮肉っぽいユーモアを加え、彼女の歌唱法が育った教会風の歌い方へと戻る。

「声にひとしずくの涙を持つ女の子」と言われることがブラウンは好きでなかった。「あのちょっとしたキーキー声は偶然なの。スタジオで偶然うわずったのだけど、ハーブ・エイブラムソンは「そのままにしとけ」と言ったの。」それで、"Teardrops from My Eyes" を宣伝するためのツアーに出たとき、別のあだ名を頂戴する時期に来ていた。「"Teardrops from My Eyes" がヒット中、フィラデルフィアのアール劇場でフランキー・レインと一緒に仕事をしたの。彼はミスター・リズムとして有名だった。私が舞台から降りようとすると、彼がやってきて、観衆に向かって「このレディはミス・リズムと呼ぶにふさわしいと思う」と言ったの。それ以来、このあだ名が定着したの。」

作者のルティ・トゥームズは、続けてブラウンのR&Bヒット曲を2曲書いた(そのうちの一曲は “5-10-15” )。さらに、クローバーズ Clovers のために "One Mint Julep" (First R&R 27曲目) を書いた。彼は1962年にハーレムで強盗によって殺された。

ルース・ブラウンは、1953年から1958年の間に、全米トップ40に入るヒットを3曲放った。"(Mama) He Treats Your Daughter Mean" と、当惑するほどポップな "Lucky Lips" と、ボビー・ダーリンが彼女のために書いた "This Little Girl’s Gone Rockin’" である。しかし、このときまでに、アトランティックはR&Bアーティストを10代のポップファン向けに仕立てようと努力したために、今日では聴くに堪えないアレンジで彼らのほとんどをダメにしてしまった。ブラウンは1961年にアトランティックを離れた。60年代と70年代は彼女にとって恵まれない時期だったが、テレビや映画(「ヘアスプレー」)で見事にカムバックし、クラブやフェスティバルで歓迎され、よくできた新しいレコードを何枚か発売した。(2006年死去)

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2008年12月12日 (金)

First R&R(21曲目): Teardrops from My Eyes (その3)

ルース・ブラウンがアップテンポのR&Bを歌えるなんて、本人を含めて、誰も考えたことがなかった。"Teardrops from My Eyes" は大ヒットとなり、半年もチャートにとどまり、ミス・リズムという異名を持つまでに至った。「バラード・タイプのスタンダードばかり歌っていたから、耳を疑ったわ。それまで私は良いバラードシンガーだと思っていたし、正直なところ、リズムナンバーはお気に入りじゃなかったの。最も私に大ヒットをもたらしそうにない曲だったわ。全力を尽くしてあの曲と戦ったわ。」

ルディ・トゥームズという黒人のソングライターが封筒に入った曲を持ってアトランティック・レコードにやってきて、"Teardrops from My Eyes" をさっと取り出すと、アトランティックの共同所有者であるハーブ・エイブラムソンは、すぐにルース・ブラウンに歌わせようと決めた。一見したところ、悲しげなブルーズだった。「雨が降るたびにあなたのことを思う。そんなとき、きまって憂鬱になるの。そして、私の目から涙が雨のように降る。」ルース・ブラウンは、声に少々キーキーした感じがあり、「声にひとしずくの涙を持つ女の子 the Girl with a Tear in Her Voice」と呼ばれていたので、「ティアドロップ」に関する歌なら、ルース・ブラウンがふさわしいと思ったのだろう。もっとありそうなのは、あきらかに女性シンガーのための歌詞で、1950年当時、アトランティックには女性歌手が二人しかいなかったからだ。もう一人はローリー・テイト Laurie Tate で、非常に人気のあったサボイ・レコードのリトル・エスターを真似た女の子だった。

ルース・ウェストン Ruth Weston は1928年1月12日にバージニア州ポーツマスで生まれた。教会の聖歌隊の娘だった。彼女がプロ歌手を始めたのは、トランペッターのジミー・アール・ブラウン Jimmy Earle Brown の楽団で、ブラウンはすぐに彼女と結婚した。1948年夏、ルースは、ラッキー・ミリンダー楽団の二番目の歌手となった(アニスティーン・アレン Annisteen Allen がメイン歌手だった)。しかし、彼女は歌えないと考えたミリンダーは、数週間後に彼女を解雇した。アトランティック・レコードの副社長アーメット・アーティガンが彼女と契約しようと考えたとき、彼女はワシントンのクラブでソロ歌手として歌っていた。アーティガンはチャーリー・ギレットに対し次のように語っている。「彼女をアポロシアターに出演させ、ニューヨークで録音するつもりだった。だが、ニューヨークに行く途中、ルースと彼女のマネージャー、ブランチ・キャロウェイ(キャブ・キャロウェイの姉)は事故にあい、ルースは9ヵ月入院しなければならなくなった。ほとんど余裕がなかったが、入院費は全額我々が支払った。しかし、私は、彼女がアトランティックと契約したことに非常に感謝していた。」

(続く)

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First R&R(21曲目): Teardrops from My Eyes (その2)

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2008年12月11日 (木)

First R&R(21曲目): Teardrops from My Eyes (その1)

21. Teardrops from My Eyes by Ruth Brown with Budd Johnson's Orchestra

  • R&Bチャート1位(11週)
  • カテゴリー:R&B
  • 作者:ルディ・トゥームズ Rudy Toombs
  • レベールと番号:Atlantic 919、ニューヨーク
  • B面: "Am I Making the Same Mistake Again"
  • 録音日・場所:1950年9月、ニューヨーク
  • 発売日:1950年10月
  • なぜ重要か:アトランティック所属の安定したヒットメーカーによる最初の大ヒット曲で、この曲によって彼女はR&Bのファーストレディとしての地位を築いた。
  • 影響を与えたのは:ラバーン・ベイカー LaVern Baker
  • 重要なカバー:
    ルイ・ジョーダン (R&Bチャート4位)
    ラッキー・ミリンダー・オーケストラ(とワイノニー・ハリス) Lucky Millinder's Orchestra (with Wynonie Harris)
    レックス・アレン Rex Allen
    ジューン・ハットン June Hutton
    ルイス・プリマ Louis Prima

    (続く)

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2008年12月10日 (水)

今日を生きよう

グラスルーツといえば、下記の「燃ゆる瞳」よりも「今日を生きよう Let's Live for Today」のほうが有名で、日本ではショーケンのテンプターズが歌っていて、1968年2月ごろのオリコンで30位ぐらいまで上昇しました。グラスルーツが歌っているのは YouTube で見ることができますが、完全に口パクで、マイクさえない。
http://www.youtube.com/watch?v=ZcZ7jJnMThM&feature=related

テンプターズのはないかと探したら、こんなの見つけました。
http://www.youtube.com/watch?v=XjGBpX82f4c

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2008年12月 4日 (木)

歌手として充実した年だったあやや

1975年12月1日に見たキートン特集については近々書くとして、今日は今年のあややを振り返ります。

CM出演もめっきり減ったし、2年ほど前の「スケバン刑事」の大コケのせいか映画やドラマ出演もまったくなくなり、世間一般には落ち目のアイドルと思われているのかどうか知りませんが、歌手としてのあややが明確になって、実に歌がうまくなっています。

はるな愛のエアあやや人気で、5月か6月あたりにシングル「きずな」が出たときは、はるな愛とコンビでよくテレビ出演していました。しかし、「きずな」自体は、前作の「笑顔」同様、抹香くさくてあまり好きになれません。

それよりも、今年出た2枚のDVD「ダブルレインボウ」と「Aya the Witch」が素晴らしい。とくに後者は全編生バンド演奏で、バンドやファンとの一体感がすごい。お気に入りは:
http://www.youtube.com/watch?v=JmX7QN4zOZ4
http://www.youtube.com/watch?v=8wo8168SdQg
http://www.youtube.com/watch?v=ELkhn1_NsKw

ニューミュージック界のおじさんたちに気に入られているようで、谷村新司、さだまさし、Chage とデュエットしていますが、どれも素晴らしい。
http://www.youtube.com/watch?v=BbIoStw4Tyc
http://www.youtube.com/watch?v=R32eWZt8cZE
http://www.youtube.com/watch?v=g2yBeJJW688

秋には竹内まりやの曲に基づいたミュージカル「本気でオンリーユー」に主演し、竹内まりやから絶賛されています。彼女のブログから、椎名林檎と友達だということがわかったし、山下達郎が隠れあややファンだということもわかりました。彼女のブログの9月や10月あたりを見てください(山下達郎が隠れあややファンだというのは彼のラジオの夫婦対談で聞いたのかもしれない)。
http://mariya30th.exblog.jp/

氷川きよしやミッキーマウスとの共演もグー。
http://www.youtube.com/watch?v=n0CQoK_Lhks
http://www.youtube.com/watch?v=Fg16o9Fi4ds&feature=related

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2008年11月28日 (金)

池田綾子/数え歌

NHKの「みんなのうた」で今流れているこの曲、気に入りました。声がきれいだし、曲がじわじわと力強くなる。

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2008年11月11日 (火)

小山ルミの「キープ・ミー・ハンギング・オン」

これ笑えます。http://www.youtube.com/watch?v=Vq_8smkyfGU&feature=related

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デイブ平尾さん死去

私はグループサウンズで音楽が好きになった人間ですが、1968年の秋、私が小学校6年生の時に出た「愛する君に」というゴールデンカップスの曲が大好きでした。彼らが当時テレビ出演している映像が YouTube にアップロードされているのを最近知って、よく見ています。http://www.youtube.com/watch?v=40U_XduCrjg

とても軽い司会者が「ゴキゲンな曲ですね」と言うのに対して苦笑しながら「そうですね」というデイブ平尾さんがおかしい。ゴールデンカップスっていうのは、イケメン人気者のマモル・マヌー(ドラム)とルイズルイス加部(ベース)がバックにいて、外見はパッとしないけど、歌や演奏がうまい人たちが前面にいるグループだったんだなあ。これ、生演奏ですよね。マモル・マヌーはドラムが下手だったということですが、けっこう軽々と叩いていますよね。しかも歌いながら。ルイズルイス加部のベースもよく動く。エディ藩のギターもうまい。彼らが "I'm So Glad" を演奏しているのも見ることができます。http://www.youtube.com/watch?v=IrXJ3vpvKww

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2008年11月 3日 (月)

First R&R(20曲目):I'm Moving On (その3)

1950年3月、RCAビクターは、連続ドラマをレコードに録音する業者であるブラウン・ラジオ・プロダクションズの二階で最初の本格的なナッシュビル録音セッションを行った。エンジニアが、最新の機材と磁気テープを抱えてニューヨークから飛んできた。磁気テープは、新しい録音形態で、RCAビクターは大きな16インチ録音ディスクに代わるものとして期待していた。RCAビクターは、ブルースカイボーイズ、キティ・ウェルズ、ジョニー&ジャックなど、多くの主要カントリーアーティストをナッシュビルに呼んで、その週のうちに彼らの曲を録音した。ハンク・スノウのセッションは、3月28日の午後7時から10時に予定された。

その一年前、スノウは初めてアメリカで録音セッションを行った。それはシカゴだった。8曲録音したのだが、スティーブ・ショールズはスノウが書いた「アイム・ムービン・オン」を録音させなかった。「その曲には大いに自信があったが、RCAにはきっぱり断られてしまった。1950年にオープリーで歌っていた時、ナッシュビルで最初に録音セッションを行う機会を得たので、ショールズが気に入ろうが気に入るまいが、その曲を録音することを決心した。そのセッションのために選んだ曲は三曲だけだった。」そのうちの一曲、 "I Cried But My Tears Were Too Late" はスノウが作った曲で、他の二曲はヒル・アンド・レンジが選んだ曲だった。「それで、その夜の最後に「アイム・ムービン・オン」を忍び込ませた。曲を少し変えたので、たぶん彼は気づかなかっただろう。」

しかし、彼らが演奏を始めると、ショールズは曲がどう聞こえるべきかについて明確な考えを持った。フィドラーのトミー・バーデンは次のように言う。「あのイントロは少々トリッキーだった。スティーブ・ショールズは列車のような音を望んだので、私とベーシストのアーニー・ニュートンはそのように工夫した。」その結果、バーデンがフィドルでコードを交互に演奏してリズムを付け、ジョセフ・タルボットがスティールギターで寂しい汽笛をまねた。

密度の高い「アイム・ムービン・オン」を聴くと、四人の男だけで演奏しているなんて想像しがたい。膝にのせるタイプのギブソンの6弦電気スティールギターを演奏するタルボットはフィドルのトミー・バーデンと一つのマイクを共有した。レッド・フォリー Red Foley のバンドから来たアーニー・ニュートンは別のマイクでベースを鳴らし、ハンク・スノウは生ギターと歌を三番目のマイクから録音した。ショールズは、音を膨らませるために、不快感を与えるほどのレベルにまでアンプの音量を上げるようタルボットに指示した。録音セッション後、ショールズはタルボットに「今回の録音じゃ、一曲も使える曲はないな I don't think we've got a single side here we'll be able to use」と打ち明けた。

ヒル・アンド・レンジは "With This Ring I Three Wed" をA面にプッシュしたが、ディスクジョッキーたちはB面がお気に入りだった。「アイム・ムービン・オン」は21週間もカントリーチャートのトップに君臨し、ハンクの鼻にかかった歌声とバンドの純粋なヒルビリーサウンドにもかかわらず、ポップスファンもレコードを買った。「アイム・ムービン・オン」が大人気だったので、二曲目のトレインソング "The Golden Rocket" も二週間一位となり、「アイム・ムービン・オン」の完全なリメイクだった三曲目の "Rhumba Boogie" も八週間トップを続けた。この二曲の違いは、ちょっとしたルンバリズムがブギウギに織り込まれていることだけだった。

「アイム・ムービン・オン」は、朝鮮戦争でのアメリカ軍の非公式な行進曲のようなものになった。この奇妙な戦争の間、buggin' out (ずらかる)とう軍隊用語が生まれた。アメリカ軍は、山脈を上ったり下りたして、北朝鮮軍を敗走させたが、1950年12月に満州から中国共産党軍が攻めてくると、いそいで撤退した。

ハンク・スノウは大スターとなり、カントリーチャートに85曲送り込んだ。また、多くのロックンローラーに影響を与えた。プレスリーは、「アイム・ムービン・オン」や "(Now and Then) There's a Fool Such as I" など、ハンク・スノウの曲を数曲録音した。初期のプレスリーは、スノウのツアーに同行し、「グランド・オール・オープリー」のスノウのショーの中で「ブルー・ムーン・オブ・ケンタッキー」を歌った。1955年後期、エルビスをRCAビクターと契約させるようスティーブ・ショールズに興味を持たせたのはハンク・スノウだったし、プレスリーが録音した曲を管理する独占権を1万5千ドルで音楽出版社ヒル・アンド・レンジに買わせたのもスノウだった。ハンク・スノウのビジネスパートナーであるトム・パーカー大佐は、プレスリーの活動の導き役となる。

カントリー音楽は、ハンク・スノウが「アイム・ムービン・オン」を録音してから数々の変化を遂げている。多くの場合、悪い方向に向かっている。42年後の夜なかに彼の列車の音を聴くと、鉄道のロマンス以上のものを我々は失ってしまったと告げているようだ。

「グランド・オール・オープリーをよく聴いたものだし、ロカビリーの考案者であるハンク・スノウのような人々を聴いた。「アイム・ムービン・オン」はよく聴いたものだ。」(ブッカーTとMGズのベーシスト、ドナルド・ダック・ダン)

おわり

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2008年11月 2日 (日)

First R&R(20曲目):I'm Moving On (その2)

クラレンス・ユージン・スノウ Clarence Eugene Snow は、1914年5月9日に、カナダのノバスコティア州南岸の母子家庭に生まれた。5年生で学校をやめ、12歳で荷降ろしの仕事を始めた。「母親が雑誌の広告を見て、レッスン付きのギターを買ってくれた。仕事のない時は、そのギターを鳴らして過ごしていた。自分の稼ぎで買った最初のギターは5.95ドルで、古いT・イートン・スペシャルだった。」スノウは、カナダの通販ティモシー・イートンから購入したので、そう呼んでいた。彼が貨物船に乗って旅している間、アメリカ西部やカナダ平原の音楽に取りつかれた。特にお気に入りはジミー・ロジャーズだった。彼も労働者で、結核のために列車のブレーキ係をやめざるをえなくなって、カントリー歌手に転身した。「すべてはジミー・ロジャーズから始まった。私のヒーローだ。彼をコピーしようとした。彼の言葉づかい、歌詞の扱い方、ギター演奏、すべてを真似しようとした。「アイム・ムービン・オン」を書いている時、ジミーのことを考えていた。」彼は、自分の長男にジミー・ロジャーズ・スノウという名前を付けさえした。

ミシシッピー州生まれのジミー・ロジャーズがカントリー音楽の父であることはほぼ間違いない。1927年から亡くなった1933年5月まで彼がビクターに所属していた間、トレイン・ソング、ブルーズ、ジャズ、カウボーイ・ソングを数多く歌った。晩年の写真では、白いテンガロンハットに毛でおおわれた革ズボン(furry chaps)をまとった姿でポーズをとっている。このイメージによって、ジーン・オートリーはロジャーズの死の直後に歌手としての人生を歩み始めた。彼の最初のレコード "Methodist Pie" は非常に綿密にロジャーズを真似ていて、気味が悪いぐらいだ。しかし、ハンク・スノウがより引かれたのは、"Singing Brakeman" という1929年の短編映画のロジャーズで、鉄道員の帽子とオーバーオール姿で駅に座り、ギターを弾きながら "Waitin' for a Train" を歌っている。「私は昔の蒸気機関車が好きで、子供の頃よく追いかけていた」とスノウは言う。(まず第一にビクターがロジャーズと契約する気になったのは、バーノン・ダルハート Vernon Dalhart が "The Wreck of the Old 97" というヒルビリー・トレインソングで1927年にミリオンセラーを記録し、これがビクターにとって当時最大のヒットとなったからである。スノウはこの曲を1951年にカバーしている。)(訳注:この曲自体はジミー・ロジャーズとは関係なさそう。すなわち、別の歌手が歌ったトレインソングが大ヒットしたので、ビクターはトレインソングを歌う歌手を求めたということでしょう。)

クラレンス・スノウが最初に有名になったのはハリファックスのラジオのカントリー歌手としてだった。1936年、彼はモントリオールのカナダ・ビクターと契約し、名前をハンク・スノウに変え、ロジャーズの曲 "Yodeling Cowboy" にちなんで "Yodeling Ranger" として売り出した。彼の声が深みを増すと、"Singing Ranger" に変えた。1944年までに、スノウはもっと大物になることを決心し、アメリカに移った。彼がアメリカで最初に大当たりをとったのは、ウェストバージニア州ウェーリング郊外のラジオ局による「ウェストバージニア・ジャンボリー」で土曜日の夜に歌った時だった。ビクター(ラジオ・コーポレーション・オブ・アメリカ(RCA)と合併してRCAビクターとなっていた)は、カナダ・ビクターのためにスノウが録音していた "Brand on My Heart" を1948年に発売し、地方でヒットした。

スノウは、テキサス州で、アーネスト・タブ Ernest Tubb という別のジミー・ロジャーズ信奉者と出会った。彼は、裏で糸を引いて、1950年1月に「グランド・オール・オープリー」にスノウを出演させた。「オープリー」は全米20州で聴くことができたが、スノウは、彼が与えるであろう影響力を推し量ることができなかった。「最初の夜、拍手が非常に少なくて、とても失望した。すぐにナッシュビルをたとうとしたが、妻に説得されて残った。」ナッシュビルはまだ小さな町だったが、「グランド・オール・オープリー」に引き寄せられた音楽出版業者や曲の売込屋であふれ始めていた。ニューヨークの音楽出版社ヒル・アンド・レンジは、戦後のヒルビリーブームに乗ろうと、RCAのカントリー音楽A&Rマンであるスティーブ・ショールズ Steve Sholes と取引して、彼が抱えるミュージシャンにヒル・アンド・レンジと契約させた。その結果、ハンク・スノウは、RCAビクターとヒル・アンド・レンジの両方の契約下に入り、彼自身の歌についての契約を結び、ヒル・アンド・レンジお抱えの作曲家の曲しか録音できなくなった (signing over his own songs and recording only the music of composers in Hill and Range's stable)。

(続く)

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2008年11月 1日 (土)

First R&R(20曲目):I'm Moving On (その1)

20曲目は、ハンク・スノウと彼のレインボー・ランチ・ボーイズ Hank Snow and His Rainbow Ranch Boys の「アイム・ムービン・オン」。

  • カントリーチャート1位(21週)、ポップチャート27位
  • カテゴリー:ヒルビリー・ブギ
  • 作者:クラレンス・E・スノウ
  • レーベルと番号:RCA 21-0328 (78回転)、RCA 48-0328 (45回転)
  • A面:"With This Ring I Thee Wed"
  • 録音日・場所: 1950年3月28日、ナッシュビル
  • 発売日:1950年6月
  • なぜ重要か:本格的なブギリズムによるトレイン・ソングの最初の大ヒット曲。
  • 影響を受けたのは:
    ジミー・ロジャーズ Jimmie Rodgers のトレイン・ソング
    ロイ・エイカフ Roy Acuff の "Wabash Cannon Ball" (1936)
    ハンク・ウィリアムズ Hank Williams の "Pan American" (1947)
  • 影響を与えたのは:
    エルビス・プレスリーの "MYstery Train" (1955)
    ジョニー・バーネットのロックンロールトリオ Johnny Burnette Rock 'n' Roll Trio の "Train Kept A-Rollin'" (1956)
    アーロ・ガスリー Arlo Guthrie の "The City of New Orleans" (ポップチャート18位、1972)
  • 重要なリメイク:
    レイ・チャールズ(ポップチャート40位、1959)
    ドン・ギブソン(カントリーチャート14位、1960)
    マット・ルーカス Matt Lucas (ポップチャート56位、1963)
    プレスリー(1969)
    ジョン・ケイ John Kay(ポップチャート52位、1972)
    エミルー・ハリス(カントリーチャート5位、1983)

「グランド・オール・オープリーが迫ってきていたので、神が下りてきて、自然と私に「アイム・ムービン・オン」を書かかせた」とハンク・スノウは言う。しかし、この霊感にもかかわらず、RCAビクターからこの曲の録音を許可をもらうには神の介在が必要だった。しかも、RCAはB面として発売した。本人を含めて誰も「アイム・ムービン・オン」が100万枚以上売れて1950年最大のカントリーヒットになるなんて思ってもみなかった。

現代のアメリカ音楽は列車のリズムとロマンスに基づいている。特にカントリーミュージックがそうで、"Chattanooga Choo Choo," "The Wabash Cannon Ball," "The Orange Blossom Special," "Pan American" それに不運なオールド97といった列車が強力な原動力となった。「アイム・ムービン・オン」は、この伝統を大いに利用している。曲が始まると同時にパワー全開で、ギターは車輪のようにカチカチと鳴り、フィドルは煙のようにシュッシュッと音を立て、スティールギターは夜の孤独な汽笛のようにうめく。「あの大きな八輪列車が線路をゆっくり走り、お前が本当に愛していたパパはもう帰ってこない。俺は動き続ける。俺はすぐに旅立つ。お前は俺の小さくて古い空を高く飛びすぎた。だから、俺は動き続ける。」"That big eight-wheeler rollin' down the track, means your true lovin' datty ain't comin' back; I'm moving on, I'll soon be gone, your were flyin' too high for my little ol' sky. so I'm movin' on."

ハンク・ウィリアムズの "Pan American" のように、ハンク・スノウは、不実な女性を残して、南に向かう。「お前が誓いを破ったから、すべて終わりだ。だから、俺は動き続ける。」スノウは、曲の中ほどで、列車の比喩を使って、家庭生活を描く。「お前がエンジンを変えた以上、俺の幹線にくだらない女を乗せる余裕なんてない。」最後に、リスナーは、テネシー州で列車を降り、シュッシュッと鳴るフィドルと嘆き悲しむスティールギターが夜のなかに消えていくのを聞く。

(続く)

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2008年10月15日 (水)

珍品 Jack the Lad

70年代初期にイギリスで大人気で、日本にも来てNHKのヤングミュージックショーでスタジオコンサートを開いたリンディスファーンから派生したジャック・ザ・ラッドというグループ知ってますか。そのグループの "The Old Straight Track" というアルバムが好きなんですが、その宣伝フィルムを YouTube で発見し、大いに笑ってしまいました。

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2008年10月14日 (火)

Stackridge の "The Man in the Bowler Hat"

今飾っているのはスタクリッジの「山高帽の男」で、70年代中期にジョージ・マーティンがプロデュースしたビートルズ風の大好きなアルバムです。この中に入っている "The Road to Venezuela" を今年演奏しているのを YouTube で発見して、大感激しました。ここに貼り付けておきます。

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2008年10月 6日 (月)

First R&R(19曲目):Birmingham Bounce(その4)

この曲が南部でかかり始め、1950年4月にビルボード誌が「ヒルビリーの掘り出し物」と称すると、20以上のレコード会社が、ほとんど考えられる限りのスタイルでカバーした。1947年の大ヒット曲 "Smoke! Smoke! Smoke! That Cigarette" のテックス・ウィリアムズ Tex Williams はキャピトルからカバー曲を出したし、R&Bブギ専門のエイモス・ミルバーン Amos Milburn はアラジンから出した。トミー・ドーシー Tommy Dorsey でさえポップス版を出した。しかし、本当にハードロック・ガンターがぶちのめしたのは、すぐれた配給網を持つデッカで、黒人市場のためにライオネル・ハンプトン Lionel Hampton のカバーを出し、カントリー市場のためにレッド・フォーリー Red Foley のカバーを出した。ガンターは次のように言う。「レッド・フォーリーがカバーを出したと聞いたラジオ局は、水道の蛇口を閉めるように、まったく俺たちのバージョンをかけなくなった。」フォーリーの「バーミングハム・バウンス」はカントリーチャートで1位となり、ポップチャートにも入り、年間8位のヒットとなった。

「バーミングハム・バウンス」のレコードをプレスするために現金を支払うが、もし売れたとしても販売者は何ヵ月もたってから支払いを行うため、ピアソンのバマ・レーベルは倒産する。フリーとなったガンターは、1951年の初め、デッカと契約する。

デッカ時代、ガンターは、"Boogie Woogie on Saturday Night" などのロカビリーの原型のような曲を録音した。彼とロバータ・リー Roberta Lee は、ドミノズの "Sixty Minute Man" さえカバーした。しかし、ガンターは、予備役将校としての任務を遂行するために陸軍に戻ると、彼がレコードで築き上げてきた勢いを失ってしまう。1952年に除隊すると、ウェストバージニア州ウィーリングのラジオ局WWVAの「ウェストバージニア・ジャンボリー」に10年間、断続的に参加した。

ガンターは、一時的にバーミングハムに帰っていたとき、"Gonna Dance All Night" という曲を録音した。この曲は、もともと、「バーミングハム・バウンス」の続編としてバマ・レーベルから発売したものだった。ガンターは次のように言う。「完全なタイトルは "We're Gonna Rock and Roll, We're Gonna Dance All Night" だった。サム・フィリップスがやってきて、俺たちの演奏を聴いた。彼は俺をメンフィスに連れて行って、録音したがっていたが、俺はできないと言った。それで、代わりにバーミングハムで録音し、彼にテープを送った。」R&Bを歌うことのできる、あの捕まえにくい白人(たぶんプレスリーのこと)をまだ探し回っていたフィリップスは、彼が知っている中でガンターが最も有名だったので、喜んで1954年5月に彼のレコードをサンから発売した。しかし、何も起こらなかった。1ヵ月後にプレスリーがサンレコードで最初の録音セッションを行うと、フィリップスはガンターに興味を失った。もっとも、1956年に二枚目の "Jukebox Help Me Find My Baby" を出したが。

ガンターは、キングなど数社でレコードを発売したが、どれもヒットしなかった。ガンターは保険の販売で収入を得るようになった。現在、彼はデンバーの山脈で暮らしており、冬になるとアリゾナで過ごす。「最初にクラブで聴衆に向かって「ロックンロールしようぜ!」と言ったのは俺だ。1949年のことだ。」

これで「バーミングハム・バウンス」は終わり。来月は、ハンク・スノウの「アイム・ムービン・オン」。「バーミングハム・バウンス」は、この本で取り上げている頃の曲が収録されているCD4枚組の "We're Gonna Rock We're Gonna Roll" に収められています。HMVだと3千円ぐらいで、現在「24時間以内に発送」になっています。

これまでの曲は、こちらでどうぞ

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2008年10月 4日 (土)

First R&R(19曲目):Birmingham Bounce(その3)

それは、「バーミングハム・バウンス」というタイトルの cut-time(2分の2拍子?)のブギで、"Mama Don't Allow" として知られるクラブ演奏曲に自由に基づいていた。"Mama Don't Allow" は、カントリーバンドの個々の演奏者に脚光を浴びせることのできる曲だった。「「ママはここではフィドル奏者を認めない」と歌うと、フィドル奏者がソロを演奏するという曲だった。俺は、「バーミングハム・バウンス」でバンドを披露したかった。」("Mama Don't Allow" の本当のタイトルは "Mama Don't Allow No Easy Riders Here" で、黒人ラグタイム・ピアニストのチャールズ「カウ・カウ」ダべンポート Charles "Cow Cow" Davenport が1929年に録音した。たぶん、彼のオリジナルではなく、より古い曲に基づいていると思われる。)

「バウンス」という言葉にはいくつかの意味があるが、ここでは明らかに次のような意味だろう。演奏者、特にピアニストと、聴衆が、古い木造の安酒場でロックし始めると、ステージ、テーブル、グラス、ボトルが弾み(バウンス)始める。

ガンター、マーフィーらのゴールデン・リバー・ボーイズは、バーミングハムの繁華街にあるバンクヘッド・ホテル内のラジオ局WBRCで録音セッションを行った。「マニーがテープレコーダーを持ち込んでいたし、マイクがいっぱいあった。ピアノ、ベース、スティールギター、ドラム各々にマイクを設置し、俺とフィドルが1本のマイクを共有した。」

「バーミングハム・バウンス」の主な特徴の一つは、ハードロックが黒人の言葉「ロッキン」を使ったことだ。「アラバマのデキシーの中心には、俺たちが大好きなバーミングハムと呼ばれる場所がある。ドラマーがしっかりしたビートを刻むと、みんな足をロッキンし、シャッフルする」という歌詞で、合間にメンバー各々がソロを演奏する。この歌詞のあとにはドラマーのボブ・サムナー Bob Sumner が演奏し、あとでフィドラーのビリー・タッカー Billy Tucker やスティールギターのテッド・クラブトゥリー Ted Crabtree が演奏し、間奏では全員が演奏する。その間、ガンターとジム・オデイ Jim O'Day がギターとベースでしっかりとブギのリフを演奏し続ける。

「みんなが踊ってジャンプし始める。ミュージックがロッキンすれば、誰も憂鬱にならない。ちょっとしたおかしなリズムにしっかりしたサウンド。ブギでジャンパー、それがバーミングハム・バウンス。」「バーミングハム・バウンス」は当初カントリー・ブギウギだったが、フィドルとスティールギターがアップテンポなホーンのメロディラインのようなものを演奏するので、4年後に登場するロカビリーの気配がある。

(続く)

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2008年10月 3日 (金)

First R&R(19曲目):Birmingham Bounce(その2)

ハードロック・ガンターの「バーミングハム・バウンス」がヒットしなかったのは宗教のせいだ。ガンターは次のように言う。「バマ Bama レーベルを所有するマニー・ピアソン Manny Pearson のためにこの曲を録音した。私がよく知られているアラバマ、ジョージア、サウスキャロライナといった南部で演奏し始めて、ヒットしそうな気配だった。デッカレコードのポール・コーエン Paul Cohen がマスターを買いたいと申し出た。俺とマニーに5千ドル前金でくれると言った。だが、マニーは教会にかかわっており、印税の一部を教会に献金したかったので、デッカに売ろうとしなかった。ポールから電話がかかってきて、レッド・フォーリーにやらせると言って、流感で寝ていたレッド・フォーリーをたたき起して、「バーミングハム・バウンス」を録音した。彼のレコードは1位になり、俺のレコードを風邪で寝込ませちまった。」

シドニー・ルイ・ガンター・ジュニア Sidney Louie Gunter, Jr. は1925年2月27日にアラバマ州バーミングハムの郊外で生まれた。少年時代にギターを覚え、バーミングハム付近で生まれたブギウギに夢中になった。ブギウギという言葉を最初に使った1929年の「パイン・トップのブギウギ Pine Top's Boogie Woogie」のパイン・トップもバーミングハム出身である。黒人トランペッターのアースキン・ホーキンズ Erskine Hawkins もバーミングハム出身で、彼の「タキシード・ジャンクション Tuxedo Junction」はガンターの初期のお気に入りレコードの一枚だった。

ガンターによれば、ハードロックという名前は、車のトランクのフタが彼の頭上に落ちてきたが、彼はひるまなかったというエピソードに由来する。「俺は14歳で、おれの最初のコンサートのためにアトランタに行く途中だった。楽器をトランクに入れていた。俺が「バンジョーを渡してくれ」と言ったとき、大きなトランクの蓋が落ちてきて、俺に当たった。俺は、何事もなかったかのようにふるまった。」衝撃をものともしないガンターに驚いたバンド仲間は、彼の頭は岩のように固いに違いないと思って、彼のことを「ハードロック」と呼ぶようになった。のちに彼がバンドを組んだとき、自分のバンドをペブルズ(小石たち)と名づけた。

ガンターは、第二次大戦が終わって除隊になったのち、ハッピー・ウィルソンのカントリーグループ、ゴールデン・リバー・ボーイズに1年かそこら参加した。1948年までには、このバンドのマネージャー兼出演交渉者をしながら、バーミンガム5番街のビバリーホテルのラウンジでピアニストのヒュール・マーフィー Huel Murphy とともに演奏し、さらにラジオとテレビでも働いていた。テレビでは、子供向け人形劇の司会をした。ガンターによれば、ユダヤ人のカントリークラブ専属のバンドにも参加した。しかし、ガンターは、自分がカントリーのミュージシャンだと考えたことはなかった。「完全なヒルビリーミュージックは好きじゃない。ビートのあるものがやりたかった。当時一番影響を受けたのは、カントリー・ブギのハンク・ペニーだった。彼を乗り越えられなかった。彼を真似しようとした。フラットトップのマーチンギターまで真似した。」

地元の友人ジョン・ダニエルズは4人組のバンドを持っていて、バマ・レーベルのために録音していた。彼はガンターを経営者のマニー・ピアソンに引き合わせた。「当時、俺は地元で人気だったから、マニーは俺のレコードを出したがっていた。」録音セッションの日程を組んだとき、ガンターは3曲持っていた。「俺が本当に好きだったのは早いテンポの「ロンサム・ブルーズ」だった。残りはスローなカントリー "There Will Be Tears" と "How Can I Believe You Love Me" だった。もう一曲必要だったので、リハーサルに行く途中、ヒュール・マーフィーの家で書いた。おれの家から彼の家まで5分ほどだったが、彼の家に到着するまでにほぼ頭の中で完成していた。」

(続く)

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2008年10月 2日 (木)

First R&R(19曲目):Birmingham Bounce

19曲目は、ハードロック・ガンターとぺブルスの「バーミングハム・バウンス」。

  • チャート入りせず。
  • カテゴリー:ヒルビリー・ブギ
  • 作者:ガンター
  • レーベルと番号:Bama 104、アラバマ州バーミングハム
  • B面:"How Can I Believe You Love Me"
  • 録音日・場所:1950年初め、バーミングハム
  • 発売日:1950年3月
  • なぜ重要か:ダンスフロアの "rockin'" に関する白人のポピュラーレコードで最も初期のものの一つ。
  • 影響を受けたのは:
    "Mama Don't Allow No Easy Riders Here" by Cow Cow Davenport (1929)
    "Steel Guitar Stomp" by Hank Penny (カントリーチャート4位、1946)
  • 影響を与えたのは:
    "The Saints Rock'n Roll" by Bill Haley and His Comets (1956)
    "Jumps, Giggles and Shouts" by Gene Vincent (1956)
  • 重要なカバー:
    レッド・フォーリー Red Foley (カントリーチャート1位、ポップチャート14位)
    ライオネル・ハンプトン Lionel Hampton
    テックス・ウィリアムズ Tex Williams
    エイモス・ミルバーン Amos Milburn
    ピー・ウィー・キング Pee Wee King
    レオン・マコーリフ Leon McAuliffe
    トミー・ドーシー Tommy Dorsey

本文は明日から。

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2008年9月 1日 (月)

First R&R(18曲目):Rollin' and Tumblin'

18曲目は、マディ・ウォーターズ Muddy Waters の「ローリン・アンド・タンブリン」。

  • チャート入りせず。
  • カテゴリー:ブルーズ
  • 作者:マディ・ウォーターズ
  • レーベルと番号:Aristocrat 412、シカゴ
  • B面:"Rollin' and Tumblin', Part 2"
  • 録音日・場所:1950年3月、シカゴ
  • 発売日:1950年3月4月
  • なぜ重要か:初期のモダンな、エレキによるシカゴ・ブルーズ
  • 影響を受けたのは:ハンボーン・ウィリー・ニューバーン Hambone Willie Newbern の "Roll and Tumble"(1927)、ベビーフェイス・ルロイ・トリオ The Baby Face Leroy Trio の "Rollin' and Tumblin'"(1952)
  • 影響を与えたのは:マディ自身の "Louisiana Blues"(R&Bチャート10位、1950)、サンフォード・クラーク Sanford Clark の "The Fool"(ポップチャート7位、1956)、ローリング・ストーンズ、エリック・クラプトン、ジョニー・ウィンター、ZZトップ、ロバート・クレイ、ボブ・ディラン
  • 重要なリメイク:エルモア・ジェームズ Elmore James (1960)、キャンド・ヒート(1967)

足でリズムをとりながらギターを弾く孤独な男は、ロックンロールの神髄とも言える人物で、あきらかにチャーリー・パットン、スキップ・ジェームズ、ロバート・ジョンソンなどのデルタ・ブルーズマンらのイメージを引き継いでいる。これら田舎のアーティストとモダンな都会の世界をつなぐこの男は、しゃがれ声の歌手兼ギタリストで、マッキンリー・モーガンフィールドという本名だが、マディ・ウォーターズという名前のほうがよく知られている。

マディ・ウォーターズは、ヤズー川とミシシッピー川にはさまれた三角地帯の低地にあるミシシッピー州ローリング・フォークで1915年4月4日に生まれた。彼のニックネームは早くからつけられていた。「よく、泥の中で遊んで、泥を食べようとしていた。祖母がマディと言いだし、そのあと子供たちがウォーターズと言い出した。」民族学者のアラン・ロマックスとジョン・ワークは1941年にウォーターズと出会った。彼らは、ブルーズ音楽を記録してほしいという国会図書館の依頼を受けて、携帯用のレコード録音機(acetate cutter)を持って、デルタ地帯をくまなく探していた。誰が最高のミュージシャンかと聞かれた地元民たちは、ストーバル農園で作男をしているウォーターズと答えた。ろマックスは、この時を含めて三回この地域に出向き、10数曲を録音した。これらは "Down on Stovall's Plantation" というアルバムで聴くことができる。

ロマックスが見つけたのは、ブルーズ音楽の未踏の起源に直接つながっている男だった。マディは、この二年前に亡くなったロバート・ジョンソンとは会ったことがないらしいが、ジョンソン、チャーリー・パットンなどの初期ブルーズマンたちと仕事をしたことがあるサン・ハウスとは、かなりの時間一緒に過ごし、ボトルネック奏法を教わった。

マディ・ウォーターズは、ロマックスの録音に勇気づけられ、イリノイ・セントラル鉄道でシカゴに移住する人々に加わった。多くの南部黒人が定住し、その中には姉(妹)夫婦もいた。最初、ウォーターズはシカゴのブルーズにまごついた。みんな南部出身のブルーズマンだったか、シカゴに定住してから流感ウイルスのようなものにかかっていた。ボードビルのスタイルとスウィングが彼らの音楽に入り込んでいた。ベースとドラムがビートを刻んでいた。姉が「あんたがやってるような古いブルーズはシカゴでは誰も聴かない」と言うので、ウォーターズはステラ製のエレキギターを買った。

コロンビアでのセッションが失敗に終わったのち、ウォーターズはフィルとレナードのチェス兄弟と出会った。彼らは1947年にアリストクラットというレコード会社を設立したばかりだった。

ウォーターズは昼間ベニス風ブラインドを売り、夜バンドを率いて演奏活動を行った。チェス兄弟は、最初の録音セッションでウォーターズのバンドのアンサンブルをとらえようとしたが、レナードは結果に不満足だった。デルタのブルーズマンにとって、アンサンブルよりも一人か二人で演奏するほうが楽だった。それに、レナードは、数個の楽器のバランスをうまくとるほどスタジオに慣れていなかった。レナードは、より単純なデルタの音楽を録音するために、ウォーターズのギターとアーネスト・「ビッグ」・クロフォードのダブルベースだけにした。彼の決定はうまくいった。マディの素朴な "I Can't Be Satisfied" は、ブルーズを南部に置いてきたシカゴの黒人たちに受けた。さらに郷愁を利用して "(I Fee Like) Going Home" を録音し、R&Bチャートの11位となる最初のヒットを飛ばした。

1948年11月、ウォーターズとベーシストのクロフォードは "Down South Blues" を録音した。ウォーターズのボトルネック・ギターが覚えやすいリフを繰り返す曲で、"Roll and Tumble" という古いミシシッピー・ブルーズに基づいている。レナードが発売しないと決めたので、60年代半ばまで日の目を見ることはなかった。

マディは、テネシーのブルーズマン、ハムボーン・ウィリー・ニューバーンが20年前に録音した本家の "Roll and Tumble" は録音しないことに決めた。たぶん、マディは、この曲を録音するにはバンドが必要だと感じたのだろう。ハードな「ローリング・アンド・タンブリング」スタイルのブルーズは、二つの異なるテンポを同時に演奏する必要があったからだ。1950年初めまでに、マディのマネージャー、モンロー・パシス Monroe Passis はパークウェイというレコード会社を設立した。パシスは、マディがレナード・チェスの録音に不満足なことを知って、マディのバンド(マディのボトルネック、リトル・ウォルターのハーモニカ、ルロイ・フォスターのドラムとセカンドギター)をスタジオに呼んだ。マディのチェスレコードとの独占契約の裏をかくために、パシスは、リトル・ウォルターとフォスターだけに歌わせて、ニセの名前でレコードを発売した。1950年2月か3月に1回のセッションで録音した8曲のうちの1曲が「ローリン・アンド・タンブリン」で、ルロイ・フォスターが歌い、あとの二人が絶妙な演奏をしている。しかし、マディは間違いを一つ犯した。シンプルなギターではなく、彼独特のボトルネック奏法を披露したのだ。

このベビーフェイス・ルロイ・トリオがパークウェイから出したレコードを聴いたチェス兄弟は激怒した。兄弟は、次の録音セッションでビッグ・クロフォードとともに「ローリン・アンド・タンブリン」を録音するよう要求した。同じセッションで、彼らは "Walkin' Blues" と "Rolling Stone" を録音した。この二曲が、新しく設立されたチェスレコードから1951年に発売されたマディの第一弾シングルの両面となった。何年もたってから、"Rolling Stone" が数名のイギリスのブルーズミュージシャンのお気に入りとなり、タイトルをバンド名にした。しかし、カントリーブルーズから決別し、ロックする50年代のシカゴ・ブルーズの基準を定めたのは「ローリン・アンド・タンブリン」であり、マディのボトルネック奏法によるエレキギターは、最初から最後まで二番目の応答的な声として機能した。1年以上前の "Down South Blues" 以来マディはスライド奏法を改良し、よりなめらかになり、テンポを上げたので、執拗なリフが曲を駆り立てる。

この新しいバージョンの「ローリン・アンド・タンブリン」はシカゴ以外ではヒットしなかったものの、パークウェイよりも配給網がすぐれていたので、ベビーフェイス・ルロイ・トリオのバージョンを打ち負かした。1年もしないうちにパークウェイは倒産し、ニューヨークのヘラルド・レコードがマスターテープを購入して「ローリン・アンド・タンブリン」を再発したが、無駄だった。

数ヵ月後、マディが歌詞を書きなおし、テンポを落として録音し、"Louisiana Blues" として発売すると、R&Bヒットとなった。

「ローリン・アンド・タンブリン」のあと、レナード・チェスは、態度を軟化し、バックミュージシャンを追加することを許した。それ以来、マディの音楽は、よりモダンで都会的なブルーズに変化していった。

1960年代のアメリカでフォークブームが起きたとき、ウォーターズは伝説的人物として評価された。イギリスでも、数えきれないぐらいのブルーズバンドがロンドンのパブでマディのフレーズをギターでかき鳴らし、ロックンロールのムーブメントを開花させた。

1983年4月30日、マディ・ウォーターズは睡眠中に亡くなった。

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2008年8月 8日 (金)

First R&R(17曲目):The Fat Man(その3)

しかし、ゆがんだ、低音が重いピアノが、ファッツの甲高いスキャットと妙にバランスをとっている、このレコードは売れた。インペリアル・レコードによれば、ニューオリンズだけで発売後10日間に1万枚売れた。「ファット・マン」は、生涯で2200万枚のレコードを売ったファッツ・ドミノの最初のレコードとなった。「ファット・マン」は、次の20年間に黒人音楽を形作ることとなる重要で独特のサウンドとしてのニューオリンズR&Bを確立した。ドラマーのアール・パーマーは、彼らが作り出したリズムのことを「ニューオリンズ特有のものだ。硬い8拍子 (hard eights) で、ルイ・ジョーダンのシャッフルとは違う。リズムミュージックに対する新たなアプローチのようなものだ」と述べた。さらに次のように言う。「バスドラムを聞けばニューオリンズのドラマーだとわかる。パレードのビートが内包されているからだ。」

ファッツ・ドミノの録音セッションで、アール・パーマーは、以前とは違う叩き方をした。彼は、ジャズ、ビバップ、デキシーランドなどの曲でさまざまなリズムを叩いた。デキシーランドでは最後のコーラス部分に到達したときだけ強いアフタービートを叩くのだが、「ファット・マン」は、最初から最後まで強いアフタービートを叩く必要があった。のちに、パーマーは、ロイド・プライスの「ローディ・ミス・クロディ」やリトル・リチャードのほとんどのヒット曲でも足早にバックビートを叩いた。

ファッツ・ドミノは1928年2月28日にニューオリンズに生まれた。ミシシッピー川沿いのフランス語を話す植民地で育ったパートタイムのバイオリン奏者の末っ子だった。ファッツ自身はクレオール英語を話す地域で育った。子供のころ、デキシーランドのミュージシャンだった姉の夫が鍵盤に音階を書いてピアノを教えてくれた。

アール・パーマーの回想によれば、ファッツは、「ファット・マン」のヒットのおかげで、安心できるニューオリンズから初めて離れなければならなかった。「ファッツは隠れてしまった。ニューオリンズから離れたくなかったからだ。彼をツアーに連れ出すのに三日かかった。バーソロミューが電話で彼に「ツワーに出ないと訴訟を起こされるぞ」と言うと、ドミノは観念してツアーに出た。

ドミノの初期のヒーローの一人は、ピアニストでソングライターでひょうきん者のファッツ・ウォーラーだった。彼は1943年に亡くなった。間違いなく、ドミノのユーモアのほとんどはウォーラーから覚えたものだ。その後、エイモス・ミルバーン Amos Milburn からも影響を受けた。ミルバーンは、テキサスのブギウギ・ミュージシャンで、1949年から1951年にかけて10数曲のR&Bヒットを飛ばした。しかし、バーソロミューは、ドミノのリラックスしたスタイルを作ったのはチャールズ・ブラウン Charles Brown だと主張する。彼は、1946年から1951年にかけてR&Bの世界で最も人気のあるアーティストの一人だった。「ファッツはチャールズ・ブラウンをコピーしたがっていたが、チャールズのような発声法じゃなかったし、洗練されたピアニストでもなかった。ファッツはブギウギしか演奏できなかった。だが、彼は、世界で最も素晴らしいブギウギを演奏した。」

「ファット・マン」の大ヒットにもかかわらず、同じ録音セッションからの曲はどれもヒットしなかった。1952年の中ごろに “Goin’ Home” がヒットするまでは鳴かず飛ばずだったが、それ以後は彼を止めるものは何もなかった。彼は自分のスタイルをトーンダウンさせ、「ファット・マン」のニューオリンズ・ブギを捨てて、ソフトな3連音符を選んだ。これはテキサスのピアニスト、リトル・ウィリー・リトルフィールド Little Willie Littlefield から覚えたもので、以後の彼のトレードマークとなる。ファッツ・ドミノは、1950年代に最もレコードを売ったR&Bエンターティナーとなり、「女はそれを我慢できない」など、よく知られたロックンロール映画に何本か出演した。彼の名前は、チャビー・チェッカー Chubby Checker、タビー・チェス Tubby Chess、Pudgy Parcheesiなどに影響を与えた。

ドミノは、ABCパラマウント・レコードに移籍後の1964年ごろ、ナッシュビルで「ファット・マン」を再録音した。彼の発声法は、オリジナルのように濁っていない。ファッツが「ワー・ワー」と歌う部分はハーモニカに置き換えられ、ダブルベースはエレキベースに変わり、ファッツの代わりに別のピアニストが演奏した(たぶんジェームズ・ブッカー James Booker)。もちろん、明るくて歯切れのよいステレオ録音だった。荒くて、くすんだオリジナルと比べると、ひどいものだった。

いまだファッツ・ドミノのバンドを率いているバーソロミューは、ロックンロール時代にファッツを人気者にしたのは彼の温かい声とフレンチ・クレオールのイントネーションだと主張する。「我々はみんな彼のことをカントリー・アンド・ウエスタン歌手だと思っていた。」

(終わり)

("What Was the First Rock 'n' Roll Record?" に関してこれまでここに書き込んだことは、こちらでまとめて読むことができます。)

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2008年8月 7日 (木)

First R&R(17曲目):The Fat Man(その2)

ニューオリンズのJ&Mレコード店の裏にあるJ&Mスタジオは、さほど利点がない。部屋の大きさは縦横3メートルから4メートルほどしかない。オーナーでエンジニアのコジモ・マタッサ Cosimo Matassaによれば、「詰め物をいっぱいした部屋だった。床にはカーペットを敷き、壁は柔らかいセルテックス(cellutex。繊維素材)の防音板だったし、天井もセルテックスだった。」エコーが生じないので、音楽は乾いた平板なサウンドとなった。マタッサは楽器のバランスをとるのが下手だったし、マスターディスクを作る旋盤が録音をダメにすることが時々あった。だが、J&Mスタジオには、にぎやかに楽しむことのできる専属バンドがいて、それはニューオリーンズ・バンドだったから、他のスタジオでは味わえないものがあった。

歌手ロイ・ブラウン Roy Brown とバンドリーダー、ポール・ゲイトン Paul Gaytonのおかげで、ニューオリンズはナウい街いう評判が高まり始めていた。ロサンジェルスのインペリアル・レコードの所有者ルー・チャッド Lew Chuddは、メキシコ音楽のレコード会社というイメージから抜け出すために、新たなR&B分野に最初から加わって有利な立場に立とうとニューオリンズに飛んだ。最初の仕事は、28歳の黒人トランペッター兼バンドリーダーのデイブ・バーソロミューをインペリアルのA&Rマンとして雇うことだった。バーソロミューは、週末にJ&Mレコード店から放送されるドクター・ダティ・オー Dr. Daddy-Oのラジオ番組で演奏し、J&Mスタジオの専属バンドを率いていた。

チャドが、ニューオリンズの有能なミュージシャンについてバーソロミューにたずねると、バーソロミューは、「ハイダウェイ・クラブで演奏しているファッツ・ドミノって奴がすごいって評判だ」と答えた。金曜の夜、バーソロミューとチャドがクラブを探し出し、ベースプレーヤーのビリー・ダイアモンドのバンドでピアノを弾いていたファッツを聴いた。バーソロミューは次のように回想する。「ファッツは囚人がよく歌う「ジャンカー・ブルーズJunker Blues」を歌っていた。ジャンキー(麻薬中毒者)の歌だ。1949年12月には、ほとんどがこの言葉の意味を知っていなかった。ファッツにレコードを作ってみないかと持ちかけ、チャドに紹介した。」

五日後、ファッツ・ドミノは、バーソロミューの八人のバンドとともに、コジモ・マタッサのスタジオにやってきた。バンドには、サックスのハーブ・ハーデスティ Herb Hardestyとアルビン・「レッド」・タイラー Alvin “Red” Tyler、ギターのアーネスト・マクレーンErnest McLain、ベースのフランク・フィールズFrank Fields、ドラムのアール・パーマー Earl Parmerがいた。このバンドは、ほとんどメンバーを変えず、このあと15年間、ドミノのバックを務めることになる。最初の曲は「ファット・マン・ブルーズ Fat Man Blues」で、ドミノがクラブで歌っていた「ジャンカー・ブルーズ」を作り直したものだった。

「ジャンカー・ブルーズ」は、1941年にチャンピオン・ジャック・デュプリーがコロンビア傘下のオーケー(Okeh)レーベルから発売していた。ファッツはデュプリーの歌詞を「いつもラリッているからジャンコと呼ばれている」から「20ポンドあるから太った奴と呼ばれている」に変えた。また、針、マリファナたばこ(reefer)、コカインといった言葉をすべて削除した。(のちにプロフェサー・ロングヘアは「ジャンカー・ブルーズ」のメロディをパクって「ティピティーナTipitina」を作り、ロイド・プライスは「ローディ・ミス・クローディLawdy Miss Claudy」を作った。)

チャドは、題名を「ファト・マン・ブルーズ」から「ファット・マン」に変えた。この曲は、ニューオリンズのR&Bとしても変な構造をしている。ファッツは、ロングヘア風ブギーを何小節かピアノで連打したあと、次のように歌う。「200ポンドあるから太った奴と呼ばれる。振舞いをわきまえているから女の子はみんな俺が好き。俺はランパート通りとカナル通りの角に立ち、すごいギャルたちを眺める。」ここまでは何も変わったところはないが、次の16小節、ファルセットボイスで「ワー、ワー、ワー」とミュート・トランペットの音をまねる。次の20小節はブギピアノの演奏で、最後にナンセンスな歌詞を1番歌う。

バーソロミューは、音がゆがんでいるので、最初は確信が持てなかった。「サックスは粗すぎるし、私はコントロールルームにいたのでトランペットを吹くことができなかった。それで、ファッツはピアノをガンガン鳴らした。ピアノは他の楽器よりもはるかに高く鳴り響いた。そういうふうにはしたくなかったけれど、しかたなかった。」

スタジオには三つのコンセントと三つのマイクしかなかった。ピアノにマイクを一つ割り当て、すぐそばでサックス奏者二人に演奏させた。二番目のマイクはギタリストとベーシストが共有した。三番目のマイクはファッツの歌に使用された。ドラマーのアール・パーマーは、三本のマイクに音が入るように大きく打ち鳴らさなければならなかった。マタッサがファッツとバンドのバランスをきちんととるのに苦労したのは無理もない。

(続く)

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2008年8月 6日 (水)

First R&R(17曲目):The Fat Man(その1)

17曲目は、ファッツ・ドミノ Fats Domino の「ファット・マン」。

  • R&Bチャート2位。
  • カテゴリー:R&B/ブギウギ
  • 作者:アントワーヌ・ドミノ Antoine Domino(ファッツ・ドミノの本名)、デイブ・バーソロミュー Dave Bartholomew
  • レーベルと番号:Imperial 5058、ロサンジェルス
  • B面:"Detroit City Blues"
  • 録音日・場所:1949年12月10日、ニューオリンズ
  • 発売日:1950年2月
  • なぜ重要か:インペリアルで70枚近くシングルを発売し、63曲をR&Bチャートに送り込んだファッツ・ドミノの最初のシングルであり、ニューオリンズのサウンドがする最初のニューオリンズのヒット曲となり、地元のミュージシャンでレコードを作ればいいんだと他の地域のレコード会社に確信させた。
  • 影響を受けたのは:チャンピオン・ジャック・デュプリー Champion Jack Dupree の "Junkers Blues" (1941)
  • 影響を与えたのは:ジミー・ビーズリー Jimmy Beasley、ウィリー・イーガン Willie Egan、ジェリー・リー・ルイス Jerry Lee Lewis

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2008年7月 5日 (土)

First R&R(16曲目):Mardi Gras in New Orleans(その3)

バードはアトランティック・レコードに入った。アトランティック・レコードは、他のレーベルの曲を再録音して最初のヒットを飛ばすという前歴があった(最初のR&R13曲目「ドリンキン・ワイン・スポ・ディー・オー・ディー」)。アトランティックのアーメット・アーティガンによれば、彼が最初にロングヘアについて聞いたのは、1949年後期にニューオリンズを訪れたときだった。「彼は町のクラブで演奏していて、そこには白人がいなかった。タクシー運転手は半マイルも手前で我々を降ろしたので、クラブまで野原を歩かなければならなかった。我々がクラブに入ると、20名ほどの客が窓から飛び出した。我々を警官だと思ったのだ。」

数日後、アーティガンはJ&Mスタジオで、「マルディグラ・イン・ニューオリンズ」を含めて、10曲録音した。バードのバンド以外のミュージシャンが追加され、その中には新しいドラマー、アル・ミラー Al Miller もいた。1950年2月、ビルボード誌は「マルディグラ・イン・ニューオリンズ」に関して次のように書いている。「変な3拍子による素晴らしく元気のよい曲で、デルタ地域で大当たりするはずだし、他の地域でも評判を呼ぶだろう。」当初、このレコードは、プロフェサー・ロングヘアと彼のニューオリンズボーイズという名義で発売されたが、のちの版では、「ロイ「はげ頭」バード Roy "Baldhead" Byrd」と表記された。

続いてアトランティックは "Tipitina" というシングルを発売したが、ニューオリンズ付近で話題を呼んだ以外は、さっぱりだったので、アトランティックは彼を解雇した。一般の聴衆が彼の演奏スタイルに多少慣れてきたし、彼のバリトンボイスは、独特だったが、特に人を引きつけるものではなかった。その上、アトランティックの興味は、レイ・チャールズなどのニューオリンズを拠点とした他のアーティストに移っていた。

1959年、ロングヘアは、マック・レベナック Mac Rebennack のバンドをバックに、ロン・レーベル Ron label からこの曲を発売した。"Go to the Mardi Gras" と改題したが、またもやヒットしなかった。(数年後、レべナックは、ドクター・ジョンとナイト・トリッパー Dr. John and the Night Tripper という名前で自らのキャリアを確立する。)

では、なんでプロフェサー・ロングヘアと彼の奇妙でルンバっぽいピアノ演奏がそんなに特別なんだろう?ニューオリンズのサックス奏者アルビン「レッド」タイラー Alvin "Red" Tyler は次のように言う。「訓練されたミュージシャンにとっては、彼の演奏が型破りで、何か違ったもののように聞こえる。訓練されたミュージシャンと演奏する場合、通常、標準的なコード進行やリズムで演奏を行う。彼は、そうしたことをすべて窓から放り出して、まったく異なる演奏をするので、自分たちのコンサートがある間は、彼の演奏を聴かなかった。」レベネックによれば、ロングヘアが変な演奏をするのは、彼の指の一本が大きくて、関節が三角形だったからだ。

レッド・タイラーが信じるところでは、地元のほかのピアノ奏者は、ロングヘアのコピーを試みることで、自分のスタイルを発展させた。「ヒューイ・スミスは、ロングヘアを聴いて好きになったので、コピーしようとしたが、とても型破りなので、コピーできなかった。それで、自分のスタイルを思いついた。アラン・トゥーサンはヒューイ・スミスに影響を受けた。こういうふうに流れができていった。」

ロングヘアの人柄は、音楽同様、変化に富んでいた。アール・パーマーは笑いながら次のように言う。「クラブのオーナーたちは、彼がピアノをけって穴をあけると不満を述べたものだ。彼は、演奏するとき、ものすごくピアノをける。」

ロングヘアは、晩年、カナダやヨーロッパのフェスティバルで若い世代のファンを喜ばせたが、一度として大金を稼いだことはなく、古い家から引っ越すことができなかった。彼は、「マルディグラ・イン・ニューオリンズ」の著作権を持っていなかったので、ソングライターとしてもアーティストとしても印税をもらっていない。(彼が告白するところでは、彼の本業はギャンブルだった。)彼は、貧しいまま、1980年1月30日に亡くなった。一日中続いた彼の葬式は、ニューオリンズで最大級だった。ニューオリンズ市長は、1980年のマルディグラを彼に捧げた。

近年、プロフェサー・ロングヘアの伝説はニューオリンズで大評判だし、彼の「マルディグラ・イン・ニューオリンズ」(現在は「ゴー・トゥ・ザ・マルディグラ」という題名のほうがよく知られてる)は、ニューオリンズの国歌的存在になっており、フェスティバル期間中は絶えずラジオから流れてくるし、毎年レコードが再プレスされる。ロン・レーベルのシングルは、毎年1万5千枚売れる。

「ニューオリンズに行くなら、マルディグラを見なきゃ。」

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2008年7月 4日 (金)

First R&R(16曲目):Mardi Gras in New Orleans(その2)

「みんながマルディグラの歌を望んでいたから、作ったんだ」とプロフェサー・ロングヘアは言った。マルディグラの季節にニューオリンズに行くと、30分ごとにラジオからこの曲が流れる。この曲は、今日では世界的に有名なフェスティバルの宣伝に聞こえるが、もともと、1950年代にニューオリンズが音楽的に評価される道筋を作った男によって作られて演奏された原始的なロックンロールだった。

ニューオリンズでは、プロフェッサー・ロングヘアは、「フェス Fess」の愛称で人々の記憶に残っており、ロックンロールのバッハで、ニューオリンズが生んだもっとも独創的なキーボード奏者とみなされている。チャンピオン・ジャック・デュプリー Champion Jack Dupree、スタック・オー・リー Stack-O-Lee、アーチボールド Archibald、ファッツ・ドミノ Fats Domino、ヒューイ・スミス Huey Smith、アラン・トゥーサン Allen Toussaint を輩出した街なのだから、これは大したことだ。

ヘンリー・ローランド・バード Henry Roeland Byrd は、1918年12月19日にルイジアナ州ボガルーサに生まれ、ニューオリンズの下的で育った。伝説によれば、街角に捨ててあった壊れかけのアップライトピアノで独学したということだが、実際には母親から音楽を学んだ。正式な音楽教育を受けていなかったが、耳が良かったので、キッド・ストーミー・ウェザー Kid Stormy Weather やサリバン・ロック Sullivan Rock など、地元の売春宿のピアニストのスタイルを身につけ、それらを混合して、ブギウギ、ジャンプブルーズ、カリプソ、サンバ、ルンバなどが混在する独特のものができあがった。

マルディグラ、別名ファット・チューズデイ(太った火曜日)は、四旬節が始まる「灰の水曜日」の前日であり、ニューオリンズの音楽にとって常に重要である。ニューオリンズのマルディグラは、クリスマス直後から始まる、舞踏会やパレード満載の季節の最終日である。18世紀初期にフランス人がアメリカに持ち込んだものだ。下層市民たちは、地元の気どった上流階級を真似したり、からかったりしながら、通りでお祭り騒ぎをするための言い訳に、マルディグラを利用し始めた。1838年までに、地元の実業家たちは、騒ぎが手に負えなくなるのを恐れて、最初のマルディグラ・パレードを開催した。クレオールのブラスバンドやインディアンのように着飾った黒人たちが参加した。年がたつにつれ、黒人たちが、キリスト教の祝日をよそおって、古来のアフロ・ブラジリアンの慣習を人前で披露する儀式が増えた(ニューオリンズの多くの奴隷たちはブラジルから来ているので、ニューオリンズのマルディグラは直接ブラジルのカーニバルによって味つけされていたかもしれない)。アフリカの儀式の多くは音楽に基づいている。特に、呼びかけと応答(コール・アンド・レスポンス)による歌い方と、パレードのミュージシャンたちに伴奏をつける人々による「セカンドライン」と呼ばれるシンコペーションが特徴である。ラテンアメリカやカリブ海の音楽もマルディグラに取り込まれ、最終的にニューオリンズのリズム・アンド・ブルーズに味づけすることとなる。ニューオリンズのR&Bはすぐわかる。

ロイ・バードは、カルドニア・インというクラブでデイブ・バーソロミューのバンドに参加し、バンドの休憩時間に演奏したときに、地元で名声を得たと主張している。バンドのドラマー、アール・パーマーは、「最良の場所というわけではなかったが、プロフェサーは長時間そこで過ごし、楽しみだけのためにピアノを演奏していた。」彼のローリングする型破りなピアノに観衆が熱狂するので、クラブの所有者はバーソロミューのバンドをクビにして、安いギャラで済むバードを雇った。

ラグタイムの時代から、安酒場(バレルハウス)のピアニストはプロフェサーと呼ばれた。バードは、禿げた頭の両側から長い髪をたらしていたので、1946年頃からプロフェサー・ロングヘアと名乗り始めた。彼は、ギターのウォルター・ネルソン、サックスのロバート・パーカー、ドラムのビッグ・スティックとともにフォー・ヘアーズ Four Hairs を結成した(ロバート・パーカーは、1960年代半ばに "Barefootin'" でヒットを飛ばす)。1949年後期、フォー・ヘアーズは、テキサス州ダラスでスター・タレント・レーベルのために最初の録音をする。ある日の午後、ニューオリンズのハイハットクラブで録音した四曲のうち、「マルディグラ・イン・ニューオリンズ」と「シー・エイント・ゴット・ノー・ヘア She Ain't Got No Hair」の二曲は、プロフェサー・ロングヘアと彼のシャッフル・ハンガリアンズ名義で、A面としてスター・タレントから発売された。二曲ともヒットしなかった。録音がひどかったこともあるが、会社がすぐに倒産してしまったことが大きかった。それでバードは、この二曲を他のレーベルのために再録音した。「シー・エイント・ゴット・ノー・ヘア」は、「ボールド・ヘッド Bald Head」と改題され、彼唯一のチャート入りしたヒット曲となった(マーキュリー・レコードから発売され、1950年にR&Bチャート5位)。

(後半は明日に続く。)

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2008年7月 1日 (火)

First R&R(16曲目):Mardi Gras in New Orleans(その1)

16曲目は、プロフェッサー・ロングヘア Professor Longhair の「マルディグラ・イン・ニューオリンズ」。スタータレント Star Talent というレコード会社から出たプロフェサー・ロングヘアと彼のシャフリング・ハンガリアンズ His Shuffling Hangarians 名義のものと、アトランティックから出たプロフェサー・ロングヘアと彼のニューオリンズボーイズ His New Orleans Boys 名義のものが同じころに発売されているようです。

  • チャートインせず
  • カテゴリー:R&B
  • 作者:ロイ・バード Roy Byrd
  • レーベルと番号(その1):Star Talent 808、テキサス州ダラス
  • レーベルと番号(その2):Atlantic 897、ニューヨーク
  • B面(その1):"Professor Longhair's Boogie" (Star Talent)
  • B面(その2):"She Walks Right In" (Atlantic)
  • 録音日・場所(その1):1949年10月にニューオリンズのハイハットクラブ Hi-Hat Club で
  • 録音日・場所(その2):1949年11月にニューオリンズのJ&Mスタジオで
  • 発売日(その1):1949年11月/12月
  • 発売日(その2):1950年1月
  • なぜ重要か:ニューオリンズ固有のリズムを利用したR&Bの先駆的存在
  • 影響を与えたのは:
    ヒューイ・スミス Huey Smith。"Rockin' Pnewmonia and the Boogie Woogie Flu" や "Don't You Just Know It" などのヒット曲を持ち、他のアーティストの曲にピアノで参加(フランキー・フォード Frankie Ford の "Sea Cruise"、スマイリー・ルイス Smiley Lewis の "I Hear Ya Knockin'" など)。
    ほかに、ドクター・ジョン Dr. John やジェームズ・ブッカー James Booker など、ほとんどすべてのニューオリンズのピアノ奏者。
  • 重要なカバー:Joe Lutcher の "Mardi Gras"(R&Bチャート13位)
  • 重要なリメイク:ファッツ・ドミノ(1953)、プロフェサー・ロングヘア("Go to the Mardi Gras," 1959)

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2008年6月 8日 (日)

First R&R(15曲目):Saturday Night Fish Fry, Part 1(その4)

ギタリスト、ハム・ジャクソン Ham Jackson によるTボーン・ウォーカー風の一節で終わる「サタデイ・ナイト・フィッシュ・フライ」の繰り返し部分のつかみは、チャック・ベリーの "Reelin' and Rockin'" に受け継がれるが、より重要なのは、この歌がベリーの50年代のレコードの多くで示されているユーモラスな観察の青写真となっていることだ。

次世代の音楽に多大な影響を与えているにもかかわらず、ルイ・ジョーダンは50年代にさほど名誉もお金も得ていない。「サタデイ・ナイト・フィッシュ・フライ」は、素朴なブルーズボイスのアルトサックス奏者にとって有終の美のようなものになってしまった。まず、1953年にデッカで、ティンパニー・ファイブのヒルビリー版であるビル・ヘイリーと彼のコメッツに取って代わられた。プロデューサーのミルト・ギャブラー Milt Gabler は、ジョーダンがデッカを離れてすぐにコメッツの録音セッションを行った。コメットはジョーダンの "Choo Choo Ch'Boogie" と "Caldonia" を録音した。

ロックンロールのビートがジョーダンのシャッフルとブギのリズムに取って代わり、レスター・ヤングやチャーリー・パーカーのようなボップ・ジャズマンやイリノイ・ジャケーやビッグ・ジェイ・マクニーリーのようなホンカーに影響を受けた若いサックス奏者が新たなサウンドを作り出し、ジョーダンの奏法は次世代のティーンエイジャー市場では時代遅れとなる。また、ジョーダンは40代になっており、年頃の娘たちに愛情たっぷりの歌をもっともらしくささやくことができなかった。彼の名誉のために言うが、彼はそんなことを試みたことはなかった。ジョーダンは、いくつかのレコード会社に移籍した。マーキュリーでは、「サタデイ・ナイト・フィッシュ・フライ」を新録音したが、オリジナルの気骨に欠けていた。彼は、新たな状況に適応できない40年代のR&Bマンであり、"Gal, You Need a Whippin'" や "Whiskey, Do Your Stuff" といった曲を機械的に作り続けるだけだった。彼は、にきびだらけの少年たちに迎合していると非難されることはほとんどなかった。また、彼は少年たちにとって黒人すぎた。コースターズやチャック・ベリーはこっけいな苦境を歌ったが、彼らはジョーダンの音楽を受け継いでいるものの、人種的に中立な聴衆に合わせていた。チャーリー・ブラウンやジョニー・B・グッドは白人でありえた。しかし、ルイ・ジョーダンの「カルドニア」や「サタデイ・ナイト・フィッシュ・フライ」で騒ぎまわる連中が白人に間違われることはない。

ルイ・ジョーダンは、関節炎によって次第に体が衰えてくると、音楽をあきらめ、フェニックスの退屈な郊外に引っ越した。1975年2月4日、ロサンジェルスで心臓発作によって死去。

チャック・ベリー:「私は、自分を誰よりもルイ・ジョーダンと同一視している。ジョーダンよりもはるか昔から音楽はあったが、私が最初にロックンロールを演奏しているのを聞いたのはルイ・ジョーダンだった。」

BBキング:「初期作品の多くはジョーダンに影響を受けている。今でもそうだ。」

レイ・チャールズ:「彼は偉大なショーマンだ。ユーモアのセンスがあるし、皮肉っぽい調子は忘れがたい。一度彼の音楽を聴くと、忘れることができない。」

ヒューイ・「ピアノ」・スミス:「ルイ・ジョーダンのレコードをすべて聴こうとした。私の考えでは、ロックンロールが本当にスタートしたのは彼からだ。」

ファッツ・ドミノ:「特に私はルイ・ジョーダンを聴いた。」

(今回は、これで終わり。来月はプロフェサー・ロングヘアの「マルディグラ・イン・ニューオリンズ」。)

("What Was the First Rock 'n' Roll Record?" に関してこれまでここに書き込んだことは、こちらでまとめて読むことができます。)

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2008年6月 6日 (金)

First R&R(15曲目):Saturday Night Fish Fry, Part 1(その3)

当初、ルイ・ジョーダンは珍奇なものとして知られていた。彼は、ピアニスト兼歌手のファッツ・ウォーラーの無礼で馬鹿げたユーモアを共有しており、1943年のウォーラーが突然亡くなると、その分野を独占した。彼のヒット曲の多くがそれを物語っている。"The Chicks I Pick Are Slender, Tender and Tall" "Somebody Done Changed the Lock on My Door" "Ain't Nobody Here But Us Chickens?" "What's the Use of Gettin' Sober (When You Gonna Get Drunk Again?" などである。しかし、ジョーダンは、伝統的な歌手というよりも話上手で、気兼ねなく黒人生活を披露した。ジャズ批評家のラルフ・グリーソンは「ルイ・ジョーダンは誇りを持って黒人のことを歌った」と述べている。ミルス・ブラザーズやナット・コール・トリオなどの人気黒人歌手たちがなめらかにやさしく歌っていた時代に、ジョーダンの言い回しや視点は完全にニグロだったし、彼は自由にゲットー生活についてコメントした。そのコメントには洞察力やユーモアがあったが、けっして苦味はなく、それによって白人に対する魅力が損なわれることはなかった。

ジョーダンは、ミュージックビデオの先駆的存在である短篇映画(Soundies)を何十本も作ったし、"Meet Miss Bobby Sox" や "Follow the Boys" などの長篇にも出演した。40年代、彼は20曲ほどをポップチャートに送り込んだ。

「サタデイ・ナイト・フィッシュ・フライ」は、最初、エディ・ウィリアムズと彼のブラウン・バディーズ Eddie Williams and His Brown Buddies によって録音された。エリス・「スロー」・ウォルシュ Ellis "Slow" Walsh が歌手としてフューチャーされていた。ウィリアムズは、ジョニー・ムーアのスリー・ブレイザーズ Johnny Moore's Three Blazers のベーシストだったが、ブルーズ・ピアニストのフロイド・ディクソン Floyd Dixon とともにグループを結成し、1949年の "Broekn Hearted" など2曲のR&Bヒットがあった。ウィリアムズは次のように語っている。「エリス・ウォルシュはバンドのドラマーで、彼ともう一人が「サタデイ・ナイト・フィッシュ・フライ」を持ってきた。ビートを付けて、私のガレージで録音した。モダーン・レコードのジュールズ・ビハリ Jules Bihari に聴かせると、彼が発売したいと言うので、スタジオで録音した。しかし、エリスは、ルイ・ジョーダンのエージェント、バール・アダムズ Berle Adams に聴かせた。彼のが先に発売された。」

実際には、ウィリアムズは、モダン・レコードではなく、黒人所有のスプリームという小さなレコード会社のために録音し、そこからレコードを発売した。ジョーダンのと比べると、ウィリアムズのはプロデューズ不足である。ウォルシュは、歌うより語るほうが多く、バンドはうしろの遠くからシャッフルビートを刻んでいて、全体のサウンドは、ジャック・マクビーの "Open the Door, Richard" のように、黒人による寄席芸のような感じだ。躍動的で、よく響くベースがジョーダンのバージョンを支配しているが、控えめなエディ・ウィリアムズは自分のベースを埋没させている。この二つのバージョンは何年も離れているように聞こえる。

ジョーダンは歌を作りかえた。ウィリアムズのは、"And it was rockin' ... and they rocked till the break of dawn" という繰り返し部分が番と盤の間にときどき出てくるが、ジョーダンはその部分がリスナーのつかみ所だと考え、2番ごとに繰り返し部分を挿入しただけでなく、その部分を16小節から32小節へと拡大した。その結果、ウォルシュのバージョンから2番省略しているにもかかわらず、ジョーダンのは1分半ほど長く、4分半になっている。

ティンパニー・ファイブは、この曲を録音せずにロサンゼルスを離れ、一夜限りのコンサートを各地で行いながら東に向かった。このコンサートツアーは大忙しで、ニューヨークで録音する時間をかろうじて工面できるほどだった。デッカのような大会社は人気のあるアーティストのレコードを6週間ごとに発売していたので、録音しなければならない時期になっていた。

ティンパニー・ファイブは1949年8月9日に2曲録音した。最初は「サタデイ・ナイト・フィッシュ・フライ」で、78回転盤の片面には収まりきらなかった。二曲目は、これといった特徴のない "Hungry Man" というミディアムテンポのボビー・トループ Bobby Troupe の曲で、熱狂的な最初の曲のあとでバンドがリラックスするために演奏したに違いない。この曲はB面として録音されたと思われるが、実際にはAB面とも「サタデイ・ナイト・フィッシュ・フライ」になった。バンドはただちにコンサートツアーに戻ったが、「サタデイ・ナイト・フィッシュ・フライ」が大ヒットしたので、翌年の夏まで録音スタジオに戻ることができなかった。

ルイ・ジョーダンにとって、この曲は、4年前に発売した、レント・パーティー (rent party) に関する曲 "They Raided the House" の続編のようなものだった(レント・パーティーは、家賃を払えない黒人が開く有料パーティー)。その曲の中で、ジョーダンは、「彼らは家に乗り込んできて、私以外のみんなを鎮圧した。私は隅に座って、できるだけ飲んでいた」と歌った。警官が胡散臭い場所を手入れする歌は、1895年に黒人のベン・ハーニー Ben Harney が作った "Mr. Johnson Turned Me Loose" までさかのぼることができるが、たぶんそれ以前にもあったのだろう。ベッシー・スミスは "Gimme a Pigfoot" というレント・パーティーの曲を歌い、ファッツ・ウォーラーにも "The Joint Is Jumpin'" という同趣向の曲があったが、このジョーダンの最大ヒットの足元にも及ばなかった。この曲は、ニューオリンズの貧しい黒人たちのパーティーに関する、騒々しく、荒っぽいパロディだ。女性たちが金切声をあげ、跳びはね、叫び、ボトルが飛び交い、魚が臭いを発するほど大揺れのパーティだったので、警官たちが乗り込んできて、「ジャガイモ袋」のようにみんなを護送車にぶち込んだ。これは、黒人に運命づけられている屈辱のようなものだが、ジョーダンはユーモアを保ち続けた。彼はこうした場面を提示するだけで、解説については誰か別の人に任せた。

(続く)

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2008年6月 4日 (水)

First R&R(15曲目):Saturday Night Fish Fry, Part 1(その2)

1944年にルイ・ジョーダンは、 "Ration Blues" と "Is You Is or Is You Ain't (Ma' Baby)" で計8週間トップに立った。なんと、カントリー・アンド・ウエスタンのチャートで。全米ポップチャートでも各々11位と2位まで上場した。この二曲は、黒人バンドリーダー、ルイ・ジョーダンが40年代にどれほど人気があったかを示している。最もヒットしたのは「サタディ・ナイト・フィッシュ・フライ」で、ニューオリンズでのワイルドで徹夜のハウスパーティを賛美した曲だった。

ルイ・ジョーダンは40年代初期にリズム・アンド・ブルーズを作り出した最大の功労者だった。彼は、大所帯のビックバンドを6人編成のコンボに縮小した。また、彼はビル・ヘイリーと彼のコメッツのモデルであり、リトル・リチャードやチャック・ベリーの音楽と精神にインスピレーションを与えた。

ルイ・ジョーダンは1908年7月8日にアーカンサス州でパートタイムのバンドリーダーの息子として生まれた。7歳までにクラリネットをおぼえ、高校時代にはアルトサックスをマスターし、これが彼の生涯の楽器となる。最初のレコードは1929年で、ブランズウィック・レーベルのジャングル・バンドとともに録音したものだった。3年後、ルイ・アームストロングのレコードに参加した。しかし、彼がブレークしたのは30年代半ばで、メジャー・レーベルであるデッカに所属していたドラマーのチック・ウェブのバンドの一員としてだった。1938年にウェブが亡くなると、ジョーダンは、9人編成のコンボ、エルクス・ランデブー・バンド Elks Rendezvous Band を結成し、1957年にリトル・リチャードがヒットさせる "Keep A-Knockin' (But You Can't Come In)" など数曲をデッカから発売した。

しかし、彼が本調子を出すのは団員を削減して、ティンパニーファイブと名前を変えてからである。このスリムになった新たなコンボは、ホーンが先導するホットなブギとシャッフルのリズムを強調していた。同じく40年代の黒人バンドリーダーであるジャック・マクビーは次のように説明する。「5人か6人のほうがよりうまくスウィングできるし、より多くのことができるし、より多くのアドリブを入れることができる。大きなグループだと、お決まりのアレンジに従わなければならない。大衆は、小バンドによる、よりルーズな演奏を望んでいた。」デッカでの彼の最初のヒット "Knock Me a Kiss" が1941年に生まれ、音楽シーンにおける変革の準備が整った。ビッグバンドの時代は終わろうとしており、間もなく戦時の制限によって永遠に葬り去られることになる。戦争が終わってアメリカに帰ってきた兵士たちは、何か新鮮で、きびきびして、興奮するものに飢えていた。彼らを待っていたのは、都会のリズムと田舎のブルーズの混合であるジョーダンの新しいサウンドだった。

(続く。あと3回ほど)

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2008年6月 2日 (月)

First R&R(15曲目):Saturday Night Fish Fry, Part 1(その1)

ルイ・ジョーダンと彼のティンパニーファイブ Louis Jordan and His Tympany Five による
「サタデー・ナイト・フィッシュ・フライ・パート1」

  • R&Bチャート1位(12週)、ポップチャート21位
  • カテゴリー:R&B/ジャンプブルーズ
  • 作者:ルイ・ジョーダン、エリス・ウォルシュ Ellis Walsh、アル・カーターズ Al Carters
  • レーベルと番号:Decca 24725、ニューヨーク
  • B面:"Saturday Night Fish Fry, Part 2"
  • 録音日・場所:1949年8月9日、ニューヨーク
  • 発売日:1949年9月
  • なぜ重要か:黒人の優雅な暮らし(highlife)に関する、あからさまで自由な初期のポップヒット
  • 影響を受けたのは:ファッツ・ウォーラーの "The Joint Is Jumpin'" (1937)、ルイ・ジョーダンの "They Raided the House" (1945)
  • 影響を与えたのは:チャック・ベリーの "Reelin' and Rockin'"
  • 重要なカバー:Eddie Williams and His Brown Buddies, Pearl Bailey, Jackie "Moms" Mabley
  • 重要なリメイク:コースターズ (1966)

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2008年5月 2日 (金)

First R&R(14曲目):Rock the Joint(その2)

ジェームズ・プレストンは、1913年8月13日にペンシルベニア州チェスターで生まれ、フィラデルフィアのそばで育った。1948年に彼がプレストニアンズと一緒に録音し始めたとき、彼はすでに30代だった。当時、全米音楽家連盟の会長ジェームズ・ペトリロがストのために1年間録音を禁じる命令を出していたのだが、プレストンはその命令に違反して録音した。アイビン・バレン Ivin Ballen が所有するフィラデルフィアの音楽企業連合はニューヨークに本拠地を置くゴッサム(Gotham)レーベルを支配しており、プレストニアンズを人里離れたスタジオにこっそり連れ込んだ。もし誰かに尋ねられたら、1947年に録音したと主張するつもりだった。しかし、その時録音した曲は、あまりに原始的だったので、誰からも尋ねられることはなかった。

プレストニアンズの構成は、二本のサックス、ピアノ、ベース、ドラムで、ジャンプブルーズのスタンダードを演奏していた。彼らは平凡な地方のバンドだった。しかし、ペトリロが禁止令を解き、サックス奏者ポール・ウィリアムズがR&Bナンバー "The Huckle-Buck" で大ヒットを飛ばすと、プレストニアンズは流行に飛びついて、1949年4月に "Hucklebuck Daddy" をR&Bチャートに送り込んだ。

その頃、バレンは、ゴッサムのA&Rマンとしてハリー・「ドック」・バグビー Harry "Doc" Bagby という名前の黒人オルガン奏者兼バンドリーダーを雇っていた。バグビーは、バンドのアシスタント、ウェンデル・「ドン」・キーン Wendell "Don" Keene とバンドの歌手ハリー・クラフトン Harry Crafton とともに、「ロック・ザ・ジョイント」という歌を書いた。これは 「グッド・ロッキン・トゥナイト」(First R&R 6曲目)の大ヒットにあやかろうと作られた曲だった。歌手兼ピアニストのネルソン・アレクサンダーと彼のトリオが1947年後期に録音した "Rock the Voot" というあまりロックしていない曲にもよく似ていたし、もちろんワイルド・ビル・ムーアの「ウィア・ゴナ・ロック、ウィア・ゴナ・ロール」(First R&R 9曲目)にも似ていた。バレンは、もっと荒っぽく、ジュークボックス向けに演奏できると考えて、プレストンに「ロック・ザ・ジョイント」を演奏させた。バレンは、この曲のために、テナーサックス奏者ダニー・ターナーをプレストンに貸した。

プレストンと彼のバンドがスタジオで録音した「ロック・ザ・ジョイント」は、騒々しく、手拍子が入り、サックスが金切り声をあげる、エキサイトなナンバーで、彼らの以前の演奏のどれとも似てなかったのみならず、誰の演奏にも似ていなかった。プレストンは、一年前から、ワイノニー・ハリスの大ヒット曲「グッド・ロッキン・トゥナイト」を利用するだけでなく、それを上回ろうと努力していた。サックス主導のシャッフルブギビートに乗せて、バンドは、曲の半分以上を「ウィ・ゴナ・ロック、ロック・ディス・ジョイント、ウィ・ゴナ・ロック、ロック・ディス・ジョイント、ウィ・ゴナ・ロック、ロック・ディス・ジョイント」と歌うと、プレストンが割って入って、"We gonna drink and rock, both young and old, we're gonna do the jellyroll...We gonna hucklebuck, we gonna jitterbug, year every gal's gonna cut some rug." と歌う。曲の中ほどは、ターナーによるヒステリックなサックスソロで、他のバンドメンバーが叫び声や金切り声ではやし立てる。プレストンが "Well the ceilin' is falling, I'm high as a kite, just keep on drinkin', I'm gonna ball tonight." と歌うと、ターナーのサックスはキーキー音を発する。最後の歌詞は、2年後のビル・ヘイリーによるリメイクに唯一似ている個所である。"We're gonna blow down the walls, and tear up the floor, until the law come knockin' at the door, we gonna rock, rock this joint..."。演奏は、形式と内容が合致している完璧な例となっている。(joint には「安酒場」という意味があるので、安酒場をゆらして、天井、壁、床が壊れるまで、どんちゃん騒ぎをしようぜ、というような歌詞だと思います。)

1950年、プレストンはゴッサムからダービー・レコーズに移籍し、ルイ・プリマ Louis Prima の "Oh Babe" のカバーで最後のヒットを飛ばす。"Rock with I Baby" "Roll Roll Roll"。1953年までに、彼は音楽をあきらめ、教会の仕事に就いた。

(今回は短いので、これで終わり。"What Was the First Rock 'n' Roll Record?" に関してこれまでここで書き込んだことは、こちらでまとめて読むことができます。)

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2008年5月 1日 (木)

First R&R(14曲目):Rock the Joint(その1)

「最初のロックンロール・レコードは何か」の14曲目は、ジミー・プレストンと彼のプレストニアンズ Jimmy Preston and His Prestonians の「ロック・ザ・ジョイント」です。

  • R&Bチャート6位
  • カテゴリー:ブギウギ/R&B
  • 作者:クラフトン、キーン、バグビー
  • レーベルと番号:Gotham 188、ニューヨーク
  • B面:"Drinkin' Woman"
  • 録音日・場所:1949年5月、フィラデルフィア
  • 発売日:1949年6月
  • なぜ重要か:初期の完全なR&Bロックナンバーであり、ビル・ヘイリーがカントリーから初期のロカビリーに転換するきっかけとなる。
  • 影響を受けたのは:ネルソン・アレクサンダー・トリオの "Rock the Voot"(1948)、ワイノニー・ハリスの "Good Rockin' Tonight"(1948、R&Bチャート1位)
  • 影響を与えたのは:ビル・ヘイリーと彼のコメッツの「ロック・アラウンド・ザ・クロック」(1955、ポップチャート1位)
  • 重要なリメイク:ビル・ヘイリーとサドルメン(1952)、ローラ・アメチ Lola Ameche (1952)

(続く)

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2008年4月 6日 (日)

First R&R(13曲目):Drinkin' Wine Spo-Dee-O-Dee(その5)

ブラウニー・マギーの「モップ・モップ」というあいの手は、1947年に録音されたオリジナルから引き継がれたもので、二つの拍子を埋め合わせるためのものだった。オリジナルを注意深く聴くと、「モップ・モップ」はマイクから離れたところから歌われているので、J・メイヨー・ウィリアムズ自身によるものだと思われる。ウィリアムズが作り、1945年にルイ・ジョーダンがヒットさせ、R&Bチャート1位になった曲「モップ・モップ」から借りてきたのだろう。以前から、ウィリアムズはミュージシャンの録音に自分自身を割り込ませてきた。たとえば、1929年に「パイン・トップ」スミスの二つの曲では、しゃべり口調のセカンド・ボイスで参加している。

(ジョーダンの「モップ・モップ」のB面は、「モップ・モップ」と同じ日に録音された "You Can't Get That No More" というポップチャートに入った曲だが、作者はなんと「スポ・ディー・オー・ディー」のサム・シアードだった。)

「ドリンキン・ワイン・スポ・ディー・オー・ディー」には、素晴らしい、さりげない歌詞が詰め込まれている。たとえば、「窓をたたきわって、ドアをたたきつぶせ」(この歌詞は、2ヵ月後にジミー・プレストンの「ロック・ザ・ジョイント」に現れる)や、「俺は5セント持ってて、お前は10セント持ってるから、一緒にちょっとワインを飲もうじゃないか」といった歌詞である。マギーは、ニューオリンズのランパート街にある飲み屋 Willie's Den について言及し、当時のワインの名前を列挙する。「エルダーベリー、ポート・チェリー、ブラックベリー、アベンハム...スニーキー・ピート。」

「ドリンキン・ワイン・スポ・ディー・オー・ディー」は、ヒットしなかった22枚のレコードに次ぐ、アトランティクの23枚目のレコードだった。R&Bチャートではトップ近くまで上昇し、白人の好きなノベルティ・ソングとしてポップチャートにも入った。年末までに20万枚を売り上げたので、アトランティックは一息つくことができた。アーメット・アーティガンは次のように言う。「大ヒットに慣れていないから、何の準備もしていなかった。それで、大量のブートレッグが現れたが、幸いなことに、業界に残ってやっていけるだけの十分なお金を手にした。」

メイヨー・ウィリアムズは、1947年のハーレム版のマスターをデッカに売却した。デッカは1949年5月に48000R&Bシリーズの一枚として発売したが、そのときまでにアトランティック版が大ヒットしていた。デッカは、ライオネル・ハンプトンにカバーを録音させて、より高級な23000シリーズの一枚として発売した。RCAは、新たなR&B45回転シリーズの一枚として、ビッグ・ジョン・グリアによる荒っぽいバージョンを発売した。キングは、ワイノニー・ハリスが取り乱したようにロックするカバーを発売し、これによって「ホイ・ホイ・ホイ」の輪がつながる。1930年代の遺物、アンティ・カークと彼のクラウズ・オブ・ジョイもボカリオン・レコードからカバーレコードを発売し、アトランティックでさえ、ロイ・ゴードンと彼のプレザント・バレー・ボーイズによるカントリー版を発売した。

カバー騒ぎが2年で収まったが、50年代にロカビリーソングとしてよみがえった。1954年にサン・レコードがマルコム・イェルビントンによるカバーを発売すると、ジョニー・バーネットのロックンロールトリオ、シド・キングとファイブ・ストリングス、ジェリー・リー・ルイスが続いた(ジェリー・リー・ルイスは、彼が最初に人前で歌ったのは「ドリンキン・ワイン・スポ・ディー・オー・ディー」だと主張して、3回レコードを発売し、1973年にやっとヒットさせた)。アトランティックも1961年にラリー・デイルによるロカビリー版を発売した。

スティック・マギーは、続けて大ヒットを飛ばそうとして、ルディ・トゥームズの "Drank Up All That Wine" を発売したが、まったくの無駄だった。マギーは、1951年にアトランティックを離れる前に、パティ・ペイジのインストゥルメンタル・カバー「テネシー・ワルツ・ブルーズ」でヒットを飛ばした。キングで録音した "Women, Whiskey and Loaded Dice" は、1953年にまあまあのヒットとなった。2年後、彼はどこのレコード会社からも見放され、1961年にエンバー・レコードが録音セッションを一度開くまで、スタジオに戻ることはなかった。その年の8月15日、スティック・マギーは肺ガンで亡くなった。

"What Was the First Rock 'n' Roll Record?" に関してこれまでここで書き込んだことは、こちらでまとめて読むことができます

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2008年4月 5日 (土)

First R&R(13曲目):Drinkin' Wine Spo-Dee-O-Dee(その4)

しかし、ハーレム・レコードと、10ドルで購入した「ドリンキン・ワイン」の半分は、プロデューサーのJ・メイヨー・ウィリアムズが所有していた。ウイリアムズは、アイビーリーグの大学で教育を受けた黒人で、彼の高慢な態度はブルーズマンたちの間で不人気たったが、かられに対し多大なる権力を行使していた。ウィリアムズは、個人的にブルーズマンたちと契約を交わし、彼らのマネージャーとなり、さまざまなレコード会社のために曲を録音させ、その権利の一部または全部を所有した。ウィリアムズは、「ドリンキン・ワイン」の共作者としてだけでなく、キャブ・キャロウェイの "Corrine Corrina" (1932)、ネリー・ラッチャーの1944年のヒット曲 "Fine Brown Frame"、そしてルイ・ジョーダンの "Mop Mop" と "I Like 'Em Fat Like That" の共作者としてもクレジットされた。

ウィリアムズは、サム・シアードというコメディアンの曲を録音したことがあった。シアードは、自らを "Sam from Down in Bam" とか "Spo Dee O Dee" と呼ぶことがあった。シアードは、ウィリアムズのもとで、1937年と1940年に "Spo-De-O-Dee" という曲を録音した。それらは、「ドリンキン・ワイン」とはまったく異なるものだった。シアードは、「スポ・ディー・オー・ディー」を性交の遠回しな言い方として使用し、「アダムがイブとエデンの園で出会ったときにそれは始まった。アダムがイブに「スポ・ディー・オー・ディーをやろうぜ。さあ、楽しもうぜ!」」というよな歌詞だった。しかし、「スポ・ディー・オー・ディ」と繰り返すコーラスの部分はスティック・マギーのと似ていた。かけ合いの声はウィリアムズのものと思われるが、彼の回想によれば、「マザーファッカー」の代わりのノンセンスな4音節の言葉として「スポ・ディー・オー・ディー」が使われた。

アトランティクは、スティック・マギーと契約を交わし、700ドルを前払いした。1949年初期に、アトランティックのスタジオで「ドリンキン・ワイン・スポ・ディー・オー・ディー」など数曲が再録音された。ブラウニー・マギーが一緒だった。ハーレム・レコードのオリジナル版ではスティックがギターを弾いていたが、戦時中に左手がダメになったので、ブラウニーがメインのギターを弾いた。ピアニスト Wilbert "Big Chief" Ellis、ベーシスト Gene Ramey がセッションに参加した。ドラマーは誰かわからない。この五人が、1947年の荒っぽいハーレム版(伴奏者は、たらいベースのボブ・ハリスだけだった)を忠実に再現するのに、一日以上かかった。

再録音は忠実ではなかった。オリジナル版よりすぐれている。よりドライブ感があるし、よりロックして、ロールしている。スティックは少し歌詞を変えた。オリジナルでは、コーラスの部分に来るたびに一度「ホイ」と叫ぶだけだったが、ワイノニー・ハリスが「グッド・ロッキン・トゥナイト」(First R&R の8曲目)で「ホイ・ホイ・ホイ」と叫んでR&B用語となったために、スティックは「ホイ・ホイ・ホイ」と叫ぶのが義務だと感じたようだ。オリジナルでは、良いワインをガブ飲みする場所はピーターズバーグだったが、ハーレム盤がすでに人気だったニューオリンズに替えられた。ルイ・ジョーダンが数ヵ月後に "Saturday Night Fish Fry"(First R&R の15曲目)を録音したとき、これを手本に、「ニューオリンズで酔っぱらった」と歌っている。

素早くキャッチーなギターのイントロに続いて、スティックは次のように歌う。「ニューオリンズではすべてが素晴らしい。奴らはあのワインを飲んでいて、本当に楽しくって、酔っぱらうと、一晩中歌い始める。ドリンキン・ワイン・スポ・ディー・オー・ディー... そのボトルを俺に渡してくれ。」(ブラウニーが「モップ・モップ」と、あいの手を入れる。)

(続く)

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2008年4月 4日 (金)

First R&R(13曲目):Drinkin' Wine Spo-Dee-O-Dee(その3)

1949年になる頃には、アトランティックは息たえだえだった。たまたま、アーメット・アーティガンがニューオリンズの販売業者としゃべっていると、ハーレム・レコードという無名のレコード会社を探してくれないかと頼まれた。その販売業者は「ドリンキン・ワイン・スポ・ディー・オー・ディー」というレコードを入手したかったのだ。というのも、地元で人気のDJ、ポッパ・ストッパによってニューオリンズでヒットしていたからだ。販売業者は、もしアーティガンがハーレム・レコードから5千枚入手できれば、次のアトランティックのシングルを強く売り込むと約束した。ハーレム・レコードは2年前にシカゴに移転していたので、アーティガンはレコード会社を探し出すことができなかったが、どうにか78回転のレコードを探し出すことができた。荒いが、器用な演奏で、「奴らはみんな上等なワインを飲んでいる」というようなフランス人が赤面しそうな歌詞だった。アーティガンは、再録音することに決めた。

アーティガンは、盲目のハーモニカ奏者ソニー・テリーと活動していたブルーズギタリスト兼歌手のブラウニー・マギーに、スティック・マギーという男を知っているかと尋ねた。「もちろんだ。俺の弟のグランビルだ。」

グランビル・ヘンリー・マギーは、1917年か18年の3月23日にテネシー州で生まれた。小児マヒで体が不自由だったブラウニーは、少年時代、弟グランビルに四輪車で運んでもらっていた。グランビルはいつも棒切れで四輪車を押していたので、みんな彼のことを「スティック」と呼ぶようになった。

スティックによれば、第二次大戦中、バージニア州ピーターズバーグの新兵訓練所で、安ワインをガブ飲みしているときに曲を思いついた。そのとき、「スポ・ディー・オー・ディー」という歌詞は使っていなくて、「ドリンキン・ワイン、マザーファッカー、ドリンキン・ワイン」と歌っていた。しかし、40年代には、「ベッド」という言葉さえレコードで使うことができなかったので、「マザーファッカー」はなおさらだった。ハーレム・レコードのために録音するまでに、スティックは一般消費向けの歌詞に直していた。

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2008年4月 3日 (木)

First R&R(13曲目):Drinkin' Wine Spo-Dee-O-Dee(その2)

アトランティック・レコードは、50年代と60年代のリズム・アンド・ブルーズと同義語であり、レイ・チャールズ、クローバーズ、クライド・マクファター、ドリフターズ、ルス・ブラウン、ビッグ・ジョー・ターナー、チャック・ウィリス、ラバーン・ベイカー、アレサ・フランクリン、コースターズ、オーティス・レディングらを輩出した。アトランティックがなければ、50年代初期に黒人音楽は人気が出なかっただろうし、したがってロックンロール革命も起きなかっただろう。しかし、設立当初、アトランティックにはヒット曲がなかった。破産寸前のアトランティックを救ったのは、スティック・マギーという風変わりな名前の男による馬鹿げたブルーズの小品だった。

アトランティックは、駐米トルコ大使の息子アーメット・アーティガンと歯科医ハーブ・アブラムソンによって1947年10月にニューヨークで設立された。アーティガンは、10代の頃、兄のネスヒとともにジャズのレコードを収集し、世界でも有数のコレクターだった。兄弟は、ワシントンのトルコ大使館でジャムセッションをひんぱんに主宰し、プロモーターとして活動していたアブラムソンを仲間に加えて、自分たちの活動をコンサートホールにまで拡大しようとした。彼らは、ニューヨーク以外での最初のジャズコンサートのいくつかを開催した。

アブラムソンは、すでにいくつかのR&Bレーベルのために働いていた。戦後、ナショナル・レコードのためにA&Rマンとして働き、ビリー・エクスタインやレイブンズらと仕事をした。ダスティ・フレチャーを見つけて、「オープン・ザ・ドア・リチャード」(「最初のロックンロールレコードは何か」の6曲目)の黒人ボードビル版を録音したのは彼のアイディアだった。フレッチャーのレコードがヒットしているとき、アーメット・アーティガンは、新レーベルの設立をアブラムソンに持ちかけた。その結果がアトランティックだった。

二人は、1947年11月と12月に、大量にジャズを録音した。というのも、ジュークボックスやラジオによって補償もなく職を奪われることに抗議するミュージシャンのストライキが1948年1月1日から始まるからだ。1948年、アトランティックは、エディ・コンドン、エロール・ガーナー、アーネット・コッブ、ジョー・モリス(ライオネル・ハンプトン楽団のトランペッター)のレコードを発売するが、どれもまったく売れなかった。

(続く)

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2008年4月 2日 (水)

First R&R(13曲目):Drinkin' Wine Spo-Dee-O-Dee(その1)

さてさて、「最初のロックンロール・レコードは何か」の13曲目はスティック・マギー Stick McGhee and His Buddies の「ドリンキン・ワイン・スポ・ディー・オー・ディー」です。

  • R&Bチャート2位、ポップチャート26位
  • カテゴリー:ブルーズ
  • 作者:スティック・マギー、J・メイヨー・ウィリアムズ
  • レーベルと番号:Atlantic 873、ニューヨーク
  • B面:"Blues Mixture (I'd Rather Drink Muddy Water)"
  • 録音日・場所:1949年2月14日、ニューヨーク
  • 発売日:1949年3月
  • なぜ重要か:パーティでの飲酒の歌として最初にヒットした曲の一つ。
  • 影響を受けたのは:サム・シアード Sam Theard の "Spo-De-O-Dee" (1937)
  • 影響を与えたのは:
    Big Jay McNeely with Jesse Belvin "All That Wine Is Gone" (1951)
    Willis Jackson "Wine-O-Wine" (1951)
    The Nightcaps "Wine Wine Wine" (1960)
  • 重要なカバー:
    Wynonie Harris (R&Bチャート4位)
    Lionel Hampton (R&Bチャート13位)
    Big John Greer
  • 重要なリメイク:
    The Johnny Burnette Rock 'n Roll Trio (1956)
    Jerry Lee Lewis (ポップチャート41位、1973年)

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2008年3月12日 (水)

First R&R(12曲目): Guitar Boogie (その3)

スーパーディスクレーベルのアーウィン・フェルドは、1945年後期に、アーサー・スミスをフィーチャーしたランブラー・トリオという名前で「ギターブギ」のレコードを数千枚プレスする。B面はテネシー・ランブラーズの "Beaty Steel Blues" だった。スーパーディスクは配給網が貧弱だったので(主にスーパーディスクドラッグストアで販売された)、レコードの売上げは局地的なものでしかなかった。

1947年初め、MGM映画がサントラアルバム制作のためにMGMレコードを設立した。社長のフランク・ウォーカーはビクターで何年も働いたベテランのカントリーミュージックA&Rマンだった。30年代にスミス一家の曲を録音したのはウォーカーだった。MGMレコードのために彼が最初に契約したミュージシャンの中にはスミスとボブ・ウィルスがいた。スミスもウィルスも当初ヒットを飛ばさなかったが、ウォーカーのカントリー畑への進出は、数週間後に、ほとんど無名だったハンク・ウィリアムズと契約することで報われた。ウィリアムズの最初のレコード、"Move It on Over" は、カントリーヒットとなり、ポップチャートでも上昇した。

1948年1月1日、アメリカ音楽家連盟の22万5千人の会員が、ジュークボックスやラジオがミュージシャンに取って代わるごとに連盟にお金を支払うべきだと主張して、メジャーのレコード会社をボイコットした。新たな録音ができなくなったので、ウォーカーは、スミスがスーパーディスクのために2年前に録音した曲を買い取った。MGMは、アーサー・スミスとクラッカージャックスという名義でレコードを発売した。この中から最初にヒットしたのは「バンジョーブギ」だったが、これはウォーミングアップでしかなかった。1948年の最後の週に「ギターブギ」がヒットし始め、カントリーチャートとポップチャートの両方で大ヒットとなった。

海兵隊時代の仲間の一人にフランク・バーチュオーソというギタリストがいて、バーチュオーソ・トリオを結成した。1959年、彼はスミスの曲を「ギターブギシャッフル」というタイトルに変えて、ポップヒットを放った。

スミスの最後のヒットは1963年の "Tie My Hunting Dog Down, Jed" で、これはロルフ・ハリスの "Tie Me Kangaroo Down, Sport"(悲しきカンガルー) をまねたものだった。しかし、その後、彼の初期の曲の一つが最大のヒットとなった。1955年にMGMで録音した "Feuding Banjos" という曲である。10年以上たって、エリック・ワイズバーグとスティーブ・マンデルが "Dueling Banjos" というタイトルで録音した。しばらくは何も起きなかったが、1973年に映画「脱出」で彼らの演奏が使われた。突然アーサー・スミスの古いバンジョー曲がいたる所で演奏され、ワイズバーグとマンデルのレコードが1位になるのをはばんだのはロバータ・フラックの「やさしく歌って」だけだった。彼らはこの曲が作者不詳の民謡だと思っていた。スミスは訴訟を起こし、勝訴したために、印税を得ることができた。

"Dueling Banjos" の大ヒットにもかかわらず、アーサー・スミスは、「ギターブギ」によって最も知られている。

追記:ロックンロールが一儲けできるものになったとき、スーパーディスクの所有者アーウィン・フェルドは、全米を回る一夜興行ツアーに熱心だった。バディ・ホリー、ビッグ・ボッパー、リッチー・バレンスが1959年に飛行機事故で亡くなったのは、アーウィン・フェルドのウィンター・ダンス・パーティ・ツアーの最中だった。

12曲目終了です。4月は13曲目Stick McGhee and His Buddies の "Drinkin' Wine Spo-Dee-O-Dee" です。お楽しみに!

"What Was the First Rock 'n' Roll Record?" に関してこれまでここで書き込んだことは、こちらでまとめて読むことができます

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2008年3月10日 (月)

First R&R(12曲目): Guitar Boogie (その2)

1948年にミュージシャンたちがストをしている間、レコード会社は、レコードとして発売できる新たな素材をかき集めていた。MGMレコードの社長は、倒産したレコード会社と契約を交わし、2年前にアーサー・スミスが録音した音源を買い取った。それらをMGMがレコードとして発売すると、「ギターブギ」というタイトルの単純な即興演奏が、すぐにカントリーチャートとポップチャートの両方で評判を呼んだ。

アーサー・スミスは1921年4月1日にサウスカロライナで生まれ、音楽一家の中で育った。彼は兄弟とカントリーのトリオを結成し、30年代半ばにRCAからレコードを出した。アーサーはまだ中学生だった。彼は、ギターのほかに、フィドル、マンドリン、バンジョーを演奏し、特にフィドルの演奏は彼のギター奏法に引き継がれている。また、ジャンゴ・ラインハルトの影響を受けた。

第二次大戦中は海軍に入隊し、メリーランド州ベインブリッジの基地からワシントンDCにかよって、アーウィン・フェルドのスーパーディスク・レーベル所属のセッションギタリストとして、シスター・ロゼッタ・サープ、マリー・ナイト、エロール・ガーナー、スラム・スチュワートらのバックを務めた。白人のカントリーミュージシャンだったにもかかわらず、1940年代半ば、エボニー・マガジンの「ギタリスト・オブ・ザ・イヤー」に二度選出された。

スミスは、ワシントンのKストリートにあるNBCラジオ局で録音したことを次のように回想する。「私はテネシーランブラーズと録音していた。セッションが終わると、アーウィンが「まだ5分残っているが、誰かなんかないかな?」と言うので、兵舎で弾いたとき仲間が気に入ってくれたブギを提案した。テネシーランブラーズには5人いたが、全員は必要なかったので、リズムギターとベースギターだけを参加させて、「3つのコードだけだ」と言って、コードを教えた。」

「曲を演奏するのに没頭していたので、まわりのことがわからなかった。当時レコードには最大3分20秒しか録音できなくて、終りが近づくと、コントロールブースの連中が腕を大きく振って、私の注意をひこうと必死だった。幸いなことに、3分18秒で終わらせることができた。もう3秒長ければ、そのテイクを使うことができなかっただろう。」

50年近くたって「ギターブギ」を聞くと、とても現代的に聞こえる。リズムギターが単純なコードをかき鳴らす間(ベースはほとんど聞こえない)、スミスは、アンプなしのマーティンD27をフィンガーピッキング奏法で起用に演奏する。標準的なブギウギのリフから始まり、2番、3番と進むにつれ、異なる演奏を繰り広げる。「トミー・ドーシーの「ブギウギ」が元ネタだと思う。当時、カントリーもブルーズも聴かず、ビッグバンドを聴いていたから」とスミスは言う。ドーシーの「ブギウギ」は、ブルーズマンのクラレンス「パイン・トップ」スミスの非常に影響力が強い「パイン・トップのブギウギ」(ポップチャート20位、1929)に由来する。

(続く)

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2008年3月 9日 (日)

First R&R(12曲目): Guitar Boogie (その1)

First R&R(12曲目):Guitar Boogie(その1)
「最初のロックンロールは何か」の12曲目は、アーサー・スミスとクラッカージャックス Arthur Smith and the Crackerjacks の「ギターブギ」。

  • カントリーチャート8位、ポップチャート25位
  • カテゴリー:ヒルビリー・ブギ
  • 作者:アーサー・スミス
  • レーベルと番号:MGM 10293、ニューヨーク
  • B面:"Boomerang" (カントリーチャート8位)
  • 録音日・場所:1945年、ワシントンDC
  • 発売日:1945年、1948年11月
  • なぜ重要か:ギターによるブギウギを広めた。
  • 影響を受けたのは:Tommy Dorsey "Boogie Woogie"(ポップチャート3位、1938)、ジャンゴ・ラインハルト
  • 影響を与えたのは:カール・パーキンズ、スコッティ・ムーア、ジェームズ・バートン、グレン・キャンベルといったギタリスト
  • 重要なカバー:レス・ポール
  • 重要なリメイク:
    The Virtues "Guitar Boogie Shuffle"(ポップチャート5位、1959)
    The Rock-A-Teens "Woo-Hoo"(ポップチャート16位、1959)
    The Jet Tones "Jet Tone Boogie"(1959)

続く

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2008年2月 5日 (火)

First R&R(11曲目):Boogie Chillen(その3)

「ブギー・チレン」で、フッカーは、ブギと南部のブルーズを結びつけている。他のギタリストがピアノのスタイルでブギウギを演奏するのに対し、フッカーは、ブンブンうなる催眠的な強打 (droning, hypnotic drive)によって未開地のストンプ(backwoods stomp。「ストンプ」は足を踏みならすダンス)のような効果を加えている。1991年にフッカーはこう言った。「ブギウギと呼ぶ者もいるが、俺はブギウギを最新のものにしたんだ。「ブギー・チレン」は、いわばロック・スタイルで演奏しているからね。」

ベスマンは時々地元でセンセーション・レーベルからレコードを発売していたが、いつもは、よその大きなレーベルに録音した曲を賃貸ししていた。当時彼はロサンジェルスのモダン・レコーズのレコードをデトロイトで卸売りしていたので、「ブギー・チレン」をモダン・レコーズに送った。「ブギー・チレン」によるベスマンの成功は、少なくとも一人の田舎レコードプロデューサーを刺激した。一年後、メンフィスのサム・フィリップスは自分のスタジオを設立し、モダン・レコーズのためにブルーズマンのレコードを録音し始める。

15の州とカナダやグリーンランドにまで電波が届くナッシュビルのラジオ局WLACの有力なR&Bディージェイ、ジーン・ノーブルズ Gene Nobles は、「ブギー・チレン」に飛びついた。ノーブルズが一晩で10回「ブルー・チレン」をかけたことが爆発的ヒットのきっかけとなった。

「ブギー・チレン」がヒットすると、ベスマンは、別テイクをセンセーション・レーベルから発売した。「ブギー・チレン・ナンバー2 Boogie Chillen #2」というタイトルだった。

フッカーは、1917年8月22日(1920年という説もある)にミシシッピー州クラークスデール近くの大きな小作人一家に生まれた。13歳からギターを演奏し始め、義父のウィリー・ムーアからギターを学んだ。多くのブルーズマンがムーアの家を訪れた。そのなかにはブラインド・ブレイクもいて、彼の「ヘイスティング・ストリート・ブギ」(30年代後半に録音)は若いフッカーに受け継がれたようだ。というのも、ある意味、この曲は「ブギー・チレン」の青写真だからだ。30年代初期、フッカーはメンフィスでロバート・ブラックホーク Robert Blackhawk とともに活動し、いくつかのゴスペルグループのためにギターを弾いた。「メンフィスにはブルーズ歌手が多すぎたから、デトロイトに行った。」

1951年、フッカーの「アイム・イン・ザ・ムード I'm in the Mood」がヒットし、ポップチャートでも30位まで上昇した。1952年にモダン・レコーズから発売した「ニュー・ブギー・チレン」は、まあまあのヒットにしかならなかったし、ビージェイで1959年にリメイクした "Boogie Chillun"("Chillen" ではない) もそうだった。3年後、「ブーン・ブーン Boom Boom」(「ブギー・チレン」の変種)がポップチャートで小ヒットとなった。「マンボ・チルン Mambo Chillun」はヒットしなかった。

50年代後半はさっぱりだったが、60年代に「フォーク歌手」となり、70年代までにはサンフランシスコで安楽に暮らせるほどのお金を稼いだ。たぶん彼は歴史上もっとも多くの曲を録音したブルーズマンで、1,000曲以上も録音している。彼の曲のタイトルの多くには「ブギー」という言葉が入っている。彼が何度「ブギー・チレン」を再録音したか誰にもわからない(多くは、"chillun" とつづられている)。しかし、最初の録音が彼の一番のお気に入りだ。

(この回、終り)

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2008年2月 4日 (月)

First R&R(11曲目):Boogie Chillen(その2)

このR&B史上画期的なナンバーワンヒットは、電気で増幅させたアコースティックギターを弾き、足でリズムを刻みながら、深く重い声で歌う一人の男によって録音された。

歌手でギタリストのジョン・リー・フッカーは、小編成のバンドとともに、デトロイトのクラブでアップテンポのR&Bを演奏していた。地元のレコード店の経営者エルマー・バービー Elmer Barbee は、「サリー・メイ Sally Mae」という曲がお気に入りだった。彼はレコード店の裏に作ったレコーディングスタジオにフッカーたちを呼んだ。

バービーは、ダンスランドという名前の小さなインディーレーベルが、結局、フッカーをフィーチャーしたバンドのレコードを二曲発売しただけに終わった。しかし、このときはフッカーが自費で録音を行ったらしい。というのも、フッカーは、「サリー・メイ」のデモ録音を持ち帰ったからだ。バービーは、しろうとピアニストでレコード流通業者のバーニー・ベスマン Bernie Besman を紹介した。ベスマンはバンドにもデモにも興味を示さなかったが、フッカーの声を気に入った。ベスマンは、本物のスタジオ、サンセット通りのユナイテッド・サウンドで「サリー・メイ」を再録音させた。

当時、5人から7人のメンバーから成るR&Bが流行していたが、ベスマンはフッカー一人だけで録音することにした。「ギターにマイクをとりつけ、トイレの便器の上にスピーカーを置いた。そして、その下にマイクをとりつけて、水に反射する音を拾うようにした。エコー効果が欲しかったんだ。」エンジニアの Joe Siracuse は、フッカーに足でリズムを刻ませるための厚板を持ち込み、その横にマイクをセットした。

その日、フッカーは三曲録音した。もちろん、そのうちの一曲は「サリー・メイ」だ。ベスマンの回想によれば、彼らは「サリー・メイ」に3時間費やしたが、満足なテイクがとれなかった。気分を変えるために、ベスマンは、ブギウギを演奏するよう提案した。ベスマンは、地元のトッド・ローズ Todd Rhodes というピアニストによるブギ演奏でヒットを飛ばしたことがあったので、柳の下のドジョウをねらおうとしたのかもしれない。ブギが演奏できないことをフッカーが告白したので、ベスマンがピアノで演奏してみせると、フッカーはなんとかブギのようなものを演奏できるようになった。

フッカーが歌いながら即興で歌詞を作っていることは、今日でも驚くべきことだ。他の曲の断片に、自らの直接体験に基づく歌詞をつなぎ合わせたものだ。彼は一つのコードで演奏する。「俺はEかAだけで演奏する。「ブギー・チレン」はAだった。」「ブギー・チレン」は成人しようとしている若者の話だ。「ママは、一晩中外出することを許してくれなかった。最初に町に行ったとき、ヘイスティングス通りを歩いていると、みんなヘンリーズ・スイング・クラブのことを話していた。今晩そこに寄ってみなきゃいかんなと俺は言った。」彼は、クラブに入ると、すごく楽しかったので、「ブギー、チレン!」と叫んだ。

「ヘイスティングは当時デトロイトの本通りで、ヘンリーズは一流のクラブだった。通りもクラブも有名だった。俺が何について歌っているか誰でもわかる曲を作ろうと思ったんだ。」

最も有名な一節で、他の曲で何度も繰り返されてきたのは、「ある夜、俺が横になっていると、ママとパパが話すのが聞こえてきた。パパがママに言った。せがれにブギウギをやらせておけ。奴の中にあるブギウギを外に出さなきゃいかんからな!」もし「ブギー・チレン」が自伝的に聞こえるとしたら、それはこの一節があるからだ。

(続く)

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2008年2月 1日 (金)

First R&R(11曲目):Boogie Chillen(その1)

「最初のロックンロールは何か」の11曲目は、ジョン・リー・フッカー John Lee Hooker の「ブギー・チレン」。

  • R&Bチャート1位
  • カテゴリー:ブルーズ
  • 作者:ジョン・リー・フッカー
  • レーベルと番号:Modern 627、ロサンジェルス
  • B面:"Sally Mae"
  • 録音日・場所:1948年11月、デトロイト
  • 発売日:1948年11月/12月
  • なぜ重要か:エレキ化されたデルタブルーズの最初の大ヒット
  • 影響を受けたのは:Blind Blake, "Hastings Street Boogie" (1939)
  • 影響を与えたのは:
    Little Junior Parker, "Feelin' Good" (R&Bチャート5位、1953)
    Bo Diddley, "Bo Diddley" (R&Bチャート1位、1955)
    John Lee Hooker, "Boom Boom" (ポップチャート60位、1962)
    Canned Heat, "On the Road Again" (ポップチャート16位、1968)
  • 重要なリメイク:
    Lightenin' Slim, "Just Made 21" (1956)
    John Fred and the Playboy Band (1965)

(続く)

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2008年1月16日 (水)

First R&R(10曲目):It's Too Soon to Know(その3)

この曲を書いたとき、デボラは女性ボーカルを想定していたのかもしれない。歌詞が消極的で、非常に内気だからだ。「彼女は僕を愛しているのだろうか。早すぎて、まだわからない。彼女は僕を愛していると言うけど、彼女を信じていいのだろうか。僕をバカにしているんじゃないのか。ほんの遊びじゃないのか。遊び相手の一人でしかないんじゃないのか。片思いだと心が痛む。彼女は単に遊んでいるだけかもしれない。僕を愛していないなら、彼女にそう言ってもらおう...彼女が行ってしまったら僕は泣くだろうが、死にたくはないし、生き続けるつもりだ...」この単純なバラードは、ある程度、思春期の遠慮とプラトニックなあこがれを表現した50年代の数多くのラブソングの方向を決定づけた。カバーバージョンの半分以上がエタ・ジェームズやアーマ・トーマスといった女性シンガーによって歌われていることは意味深だ。

ほとんどのポップソングには繰り返し句が挿入されるが、この歌は一つの連から次の連へと移行するだけである。あたかも歌唱に変化をつけるように、ティルがしゃがれ声のバリトン、ジョージ・ネルソンにリードを任せるが、最後はティルが柔らかいテナーで飾る。この五人組の歌唱は、個々が自分のメロディを歌う、のちのドゥワップスタイルからはほど遠い。むしろ、インクスポッツ風に、リードをとるティルのバックで他のメンバーがハーモニーをつけるだけである。しかし、どこか異様で性的なところがある。ティルは、他人の言葉を適度に伝えるだけでなく、歌詞の背後にある情熱的なあこがれを表現する。グループ全体のサウンドにとってより重要なのは、アレキサンダー・シャープのほとんどファルセットボイスと言っていいテナーだろう。のちにティルが語ったところでは、他のメンバーと合わせるためにシャープの音程を下げようとしたが、異常な耳のシャープは音程を調節することができなかった。それで、雰囲気に任せて歌わせることにした。

1948年8月21日のキャッシュボックス誌には、このレコードに関して、A面とB面のどちらがいいか戦いが起こると予想しているし、ニューヨークのWHOMラジオ局では、ウィリー・ブライアント Willie Bryant とレイ・キャロル Ray Carroll の人気DJチームが深夜のR&B番組でB面ばかりかけた。「イッツ・トゥー・スーン・トゥ・ノウ」は最初の週に3万枚売りあげたらしい。ビルボード誌は、著名な音楽出版者のバディ・モリスが7千ドルで曲を買ったと伝えているが、これはカバーを録音しようとしているミュージシャンが急増したことを示している。デボラ・チェスラーによれば、次の4週間のうちに14ほどのミュージシャンがカバーしたらしい。

アポロシアターの所有者を父に持つジャック・シフマン Jack Schiffman は、「ティルの震えるテナーとグループの溜息と叫びは、街の音であり、ゲッドーでの経験が反映している。」彼は、ティルが媚薬のように女性を魅惑するのに驚嘆した。デボラ・チェスラーも同意する。「女の子たちはステージに突進して、彼らのネクタイを引きちぎった。彼らが大劇場で演奏するときは、ファンがステージに上がらないよう警察がガードした。」デボラは魅力的な白人女性だったので、いくつかの憶測が飛んだ。しかし、彼女は、「彼らとは単にビジネスの関係だった。母は、死ぬまで、いつもツアーに同行した」と言う。

オリオールズのライバル、レイブンズも「イッツ・トゥー・スーン・トゥ・ノウ」をカバーしたが、彼らのアレンジは純粋に40年代のポップスで、彼らがいかに時代遅れかを際立たせた。鳥のつつき順位は逆転した。

オリオールズの人気が高まり、ナショナルレコードの所有者アル・グリーンは、It's A Natural レーベルがナショナルのレコード販売者や購入者の間で混乱を生じさせていると不満を訴えた。It's A Natural の所有者ブレインは、訴訟を避けるため、彼が所有する別のレーベルで、ゴスペルやイディッシュ語のコメディが専門のジュビリー Jubilee に「イッツ・トゥー・スーン・トゥ・ノウ」を移した。ブレインは、その後のオリオールズのレコードをすべてジュビリーから発売した。

1949年にオリオールズは6曲のヒットを飛ばした。その中にはデボラの "Tell Me So" のリメイクも含まれており、これも1位になった。しかし、自動車事故で、ゲイザーがなくなり、他の二人のメンバーも負傷した。彼らは次第にコンサートをやらなくなり、無名の新しいメンバーがコーラスを務めた。グループのボーイ、サニー・ウッズ Sonny Woods は、デトロイトに戻り、オリオールズ風の4人組ロイヤルズを結成し、のちに "Work with Me, Annie" を録音し、一夜にしてサニー・ティルのようなテナーで感傷的に歌う歌手を一掃してしまう。

1952年までにオリオールズはポップスのカバーを歌うようになり、Darrell Glenn の "Crying in the Chapel" というカントリーソングをカバーして大ヒットを飛ばす。彼らの非常に洗練された演奏によってポップチャートで11位まで上昇し、R&Bチャートでは5週1位になった。しかし、これはまぐれあたりだった。というのも、その後オリオールズはたいしたヒットを飛ばさなかったから。

デボラ・チェスラーは1954年に彼らと別れた。「彼らは良い連中だったし、乱暴でもなく、扱いにくくもなかった。ただ、私が疲れただけ。」

オリオールズは、50年代半ばにビージェイレコード Vee-Jay Records でいくつか良い曲を録音したが、その頃までにオリオールズの実質的なメンバーはティルだけになっており、バックは誰でもよかった。60年代はあまり活動をしなかったが、1978年、ティルは、糖尿病で体調が悪くなっていたにもかかわらず、オリオールズを再編成して、「イッツ・トゥー・スーン・トゥ・ノウ」を含む昔の曲を再録音した。ティルはうまく歌ったが、昔の魅力は失われていた。サニー・ティルは、1981年12月9日に心臓発作で亡くなった。

デボラ・チェスラーは、もう1曲ヒットを飛ばした。サニー・ゲイル Sunny Gale の "Teardrops on My Pillow" で、オリオールズも録音した。彼女は、30を超える「イッツ・トゥー・スーン・トゥ・ノウ」のカバーによって現在でも印税をもらっている(この本が書かれた当時のこと)。

1960年代、ジュビリーレコードは、10代の白人向けに、昔録音したR&Bに音を加えて再発売した。オリオールズのほとんどの曲には女声コーラスが加えられたが、「イッツ・トゥー・スーン・トゥ・ノウ」は昔の録音のままだった。レコード会社は、最初のが申し分ないことをわかっていたようだ。

(おわり)

10曲目まではこちらでどうぞ。

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2008年1月15日 (火)

First R&R(10曲目):It's Too Soon to Know(その2)

ボーカルハーモニーグループは、黒人エンターテイナーたちのなかで、早くから白人リスナーのために録音され、最初に大衆的な成功をおさめた。スタンダード・カルテット・オブ・シカゴ Standard Quartette of Chicago は、1890年代にコロンビアから一ダースの歌を録音した(それらのシリンダーは残存していない)。バージニア州の ディンウィディ・カラード・カルテット Dinwiddie Colored Quartet は1902年にスピリチュアルなどを録音した78回転レコードを数枚発売した。1921年には、サザーン・ネグロ・カルテット Southern Negro Quartet が "I Like Moonshine" で「ドゥーバップバップ」というベースボーカルを入れている。これはラグタイムやジャズのバンドのウッドベースやチューパをまねたものだ。

1930年代、黒人ハーモニーグループのいくつかが、ノベルティなポップサウンドを発展させた。小さな楽団をボーカルでまねたミルズブラザーズは、ラジオやレコードのスターとなり、ポール・ホワイトマンやビング・クロスビーといったショービジネス界の大物と共演した。1939年、インクスポッツの "If I Didn't Care" というセンチメンタルなポップバラードが1位となり、40年代のボーカルグループに道筋を作った。

インクスポッツは、のちにドゥーワップミュージックと呼ばれるものの原型だった。このカルテットの魅力は、テナーのビル・ケニー Bill Kenny とユーモラスなベースのホッピー・ジョーンズ Hoppy Jones のかけあいだった(ジョーンズは1944年に亡くなり、ディーク・ワトソン Deak Watson が引き継いだ)。インクスポッツの音楽は俗世間向けだったが、教会の聖歌隊にかなりを負っていた。ケニーのファルセット・リード、ジョーンズのとりとめのないベース (rambling base)、それにバックコーラスがコードを進行させたり、リーダーの呼びかけに応えるのは、ゴスペルグループの特徴だった。

アーリントン・カール・「サニー・ティル」・ティルマン Earlington Carl "Sonny Til" Tilghman とオリオールズの前身はVibra-Naires(バイブラ・ナイアズ?)で、1947年にバルティモアで結成された。メンバーは、サニー・ティルがリード、ジョージ・ネルソン George Nelson がバリトン、アレクサンダー・シャープ Alexander Sharp が高音テナー、ジョニー・リード Johnny Reed が(ベースボーカルとダブルベース)、トミー・ゲイザー Tommy Gaither がギターだった。ギタリストは、各曲のキーを保ち、サウンドを豊かにするので、以前からボーカルグループにとって重要な存在だった。リードが演奏するダブルベースは、心臓の鼓動のようにテンポを保った。リードの存在はキャッツ・アンド・ザ・フィドルが影響していたのだろう。キャッツ・アンド・ザ・フィドルは、フィドルを呼びものにした五人組のハーモニーグループで、このグループの最大のヒットとなった1940年の "I Miss You So" をオリオールズはカバーしている。

たぶんレイブンズに影響を受けて、Vibra-Naires は、メリーランド州の州鳥であるオリオール(ムクドリモドキ)という名前に変えた。この変更は重要で、すぐに、ほとんどの黒人ボーカルグループが鳥の名前に変えた。クロウズ、ペンギンズ、スワローズ、カーディナルズ、レンズ、ロビンズ、ホークス、ジェイホークス、ペリカンズなどである。

伝説によれば、白人の若いデパート店員デボラ・チェスラーがバーで彼らが歌っているのを見て、マネージャーとなって、アポロシアターのタレントショーに出演させた。青のブレザー、白いズボン、輝くコンク(conk, 縮れ毛を伸ばしてウェーブをかけた髪型)がカッコよい彼らは、すぐに観衆のお気に入りとなった。しかし、デボラによれば、これは事実ではない。

「家にいたら、電話が鳴ったの。友人の義理の兄弟からで、あるボーカルグループのことで頼みがあるって。私は、"Tell Me So" ってヒット曲を書いていたので、すでにバルティモア周辺では有名だったの。彼らが家庭用レコーダーで録音したデモを電話で聞いたら、すぐに気に入ったので、彼らを連れてくるように言ったの。」

デボラは、断固たる精神力によって地元で地位を固めていた。「私は楽譜が書けないので、自分の曲を歌って、ピアニストに書かせたの。サバナ・チャーチル Savannah Churchill が好きだったから、ニューヨークのマナー・レコード Manor Records に最初の曲 "Tell Me So" を持っていったら、買ってくれたわ。でも、マナーレコードは、チャーチルのグループ、フォー・チューンズ Four Tunes を使わなかったので、バルティモアの有名な黒人シアターのロイヤルに行って、楽屋でダイナ・ワシントンに曲を聴かせたの。それで、彼女がヒットさせたわけ。」

しばらくして、デボラは「イッツ・トゥー・スーン・トゥ・ノウ」を書いたが、まだ最後の部分が完成していなかった。ダイナ・ワシントンに聴かせたら、すぐに気に入ってくれた。だが、楽譜がなかったために、すぐに録音することができなかった。

デボラは、最後の部分を修正して、オリオールズにデモを録音するよう依頼した。そして、有名なニューヨークのラジオ番組「アーサー・ゴッドフリーのタレントスカウト Arthur Godfrey's Talent Scounts」のオーディションを受けさせるために、そのデモを送った。デボラの別の曲 "Barbara Lee" を歌ったオリオールズは、盲目のピアニスト、ジョージ・シアリング George Shearing に負けたが、数百人のリスナーが結果に抗議したので、ゴッドフリーは急いでオリオールズを呼び戻した。すぐに、デボラはニューヨークに戻って、デモをジェリー・ブレイン Jerry Blaine に聴かせた。ジェリーは、新しいレーベル It's A Natural を立ち上げるためにオリオールズと契約した。オリオールズの最初のレコードは「イッツ・トゥー・スーン・トゥ・ノウ」だった。そのときまで、デボラは正式にオリオールズのマネージャーになっていた。

(続く)

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2008年1月14日 (月)

First R&R(10曲目):It's Too Soon to Know(その1)

10曲目は、オリオールズ the Orioles の「イッツ・トゥー・スーン・トゥ・ノウ」。

  • R&Bチャート1位、ポップチャート14位
  • カテゴリー:ボーカルハーモニー、R&B
  • 作者:デボラ・チェスラー Deborah Chessler
  • レーベルと番号:It's A Natural 5000 / Jubilee 5000、ニューヨーク
  • B面:"Barbara Lee" (本当はこちらがA面)
  • 録音日・場所:1948年初夏、ニューヨーク
  • 発売時期:1948年8月21日
  • なぜ重要か:R&Bボーカルグループによる最初のヒット曲の一つ。鳥の名前が付いた無数のドゥーワップグループのさきがけ。
  • 影響を受けたのは:インクスポッツ Ink Spots、ミルズブラザーズ Mills Brothers、キャッツ・アンド・ザ・フィドル Cats and the Fiddle
  • 影響を与えたのは:クローバーズ Clovers、ドミノズ Dominoes、ロイヤルズ(ミッドナイターズ) Royals (Midnighters)、クロウズ Crows などのボーカルグループ
  • 重要なカバー:ダイナ・ワシントン(R&Bチャート2位)、エラ・フィッツジェラルド(R&Bチャート6位)、レイブンズ Ravens(R&Bチャート11位)、チャリオティアーズ Charioteers、ディープ・リバー・ボーイズ Deep River Boys
  • 重要なリメイク:ジョニー・オーティス(1957)、パット・ブーン(1958、ポップチャート4位)、エタ・ジェームズ(1961、ポップチャート54位)、アーマ・トーマス(1961)、リトル・エスター・フィリップス(1965)、ロイ・オービソン(1966、ポップチャート68位)

(続く)

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2007年12月24日 (月)

今年を振り返る:音楽

ウカウカしていると残りの人生あっという間に終わってしまいそうなので、映画に専心することにして、音楽については、2011年6月終了予定の「最初のR&R」シリーズ以外は、気が向いたときに気楽に書くだけにしています。

バラカンさんのFM番組ウィークエンド・サンシャインは3月まで聴いていましたが、4月から聴かなくなりました。リチャード・トンプソンは、今年初めにはDVD「ポピュラー音楽の千年」を一曲ずつ聴いて、感想を書いていましたが、その後はじっくり聴いてここに感想を書く余裕がなくなりました。今年は、リチャードとリンダ各々の新作、リチャード&リンダの1975年のライブなどが出て、一応購入したのですが、さほど聴いていません。

私のサイトには「CD天国」という自分の持っているCDを整理するセクションがあるのですが、「最初のR&R」関連CD以外、今年購入したCDはほとんど加えていません。少しずつ整理していこうと思っています。

さて、今年購入した音楽CDとDVDは次のとおり(「ダウンロード」は、HMVからダウンロード購入したもの)

トリュフォー

  • ドビッシーの聖セバスティアンの殉教
    "Desire-Emile Inghelbrecht conducts Debussy" というタイトルのCDなんですが、「夜霧の恋人たち」で探偵事務所の所長を演じているアンドレ・ファルコンがナレーションを務めているので購入しました。(私のサイトの映画天国トリュフォーに加える予定。)

最初のR&R

  • Jazz at Philharmonic
  • Joe Liggins
  • Helen Humes
  • Arthur Crudup
  • Wynonie Harris
  • We're Gonna Rock, We're Gonna Roll
  • R&B Years 1947
  • Lonnie Johnson
  • Big Horn
    これらは、CD天国の「最初のR&R」ページに加えていますが、"Big Horn" はこれから加える予定。

なつかしい1969年ごろ

  • 青春歌年鑑1969 Best 30
    歌謡曲はそんなに好きじゃなかったはずなのに、今は無性に懐かしゅうござる。カルメン・マキ「時には母のない子のように」、由紀さおり「夜明けのスキャット」、ズーニーブー「白いサンゴ礁」、弘田三枝子「人形の家」、新谷のり子「フランシーヌの場合は」、はしだのりひことシューベルツ「風」、トワエモア「ある日突然」など。
  • Jethro Tull/Stand Up
  • Jack Bruce/Songs for the Tailor(ダウンロード)
  • Moody Blues/A Question of Balance(ダウンロード)
    ジェスロ・タルのアルバムを初めて購入しました。フルートのインスト「ブーレ」以外はハードなロックじゃないのかと思っていましたが、それほどでもなくて、けっこう気に入っています。ジャック・ブルースのは、この当時知らなくて、70年代後半に大学の友人から借りて、気に入ったアルバム。ホーンセクションが印象的な1曲目や傑作「想像されたウエスタンのテーマ」など。以上が1969年に発表されたアルバムで、ムーディ・ブルーズのは1970年の作品。ムーディ・ブルーズのアルバムでちゃんと聴いたことがあるのは翌年の「童夢」だけで、「クエスチョン・オブ・バランス」は、「メランコリー・マン」のシングル盤を持っていただけでした。「メランコリー・マン」よりもB面の「イッツ・アップ・トゥー・ユー」が好きでした。アップテンポの曲だけど、サビが胸キュンのメロディです。「童夢」に入っている「愛のストーリー」と同じく、ギタリストのジャスティン・ヘイワードの曲。
  • CCR/Bayou Country
  • CCR/ファースト(ダウンロード)
  • CCR4曲(ダウンロード)
    CCRはシングル曲と4枚目のアルバム「ウィリー・アンド・プアボーイズ」が私には懐かしい。5枚目「コスモズ・ファクトリー」までのベスト盤を作ろうと思いました。3枚目「グリーン・リバー」と4枚目は持っているので、2枚目「バイユー・カントリー」のCDを購入し、ファーストはダウンロード購入しました。5枚目は、シングルの「トラベリンバンド」「アップ・アラウンド・ザ・ベンド」、「ルッキン・アウト・マイ・バック・ドア」だけが懐かしので、その3曲と、なぜかファーストをダウンロードしたとき入っていなかった「アイ・プット・ア・スペル・オン・ユー」の計4曲をダウンロード購入しました。「スージーQ」は、シングル・バージョンよりアルバムの長いのが快感。
  • Bread/Dismal Day, Aubrey(ダウンロード)
  • Ventures/Hawaii Five O(ダウンロード)
  • Gilbert O'Sullivan/Nothing Rhymed (ダウンロード)
    すべて、アルバムではなく曲のダウンロード。ブレッドは軽快な「灰色の朝」が懐かしい。1969年の日曜の朝、RCAのレコード専門のラジオ番組で聴いたことがあるからです(当時は、東芝、CBS、ポリドールなどの専門番組がありました)。きれいなメロディの「オーブリー」はもっとあとの曲。ベンチャーズの「ハワイ・ファイブ・オー」はテレビのテーマ曲で、1969年にアメリカで大ヒットしました。ギルバート・オサリバンは、「アローン・アゲイン」の前に聴いた「ナッシング・ライムド」が一番懐かしい。1970年の曲。1980年ごろ、マーティン・カーシーがカバー。
  • Wings/Wild Life(ダウンロード)
    ポール・マッカートニーは、この1971年の3枚目までアルバムを購入していましたが、それ以降は購入しなくなりました。メロディアスなB面の"Some People Never Know" から "Tomorrow" までをよく聴いていたような記憶がありますが、A面の "Mumbo" や "Love Is Strange" もカッコいい。シングル盤「アイルランドに平和を」「メアリーの子羊」などのオマケつき。
  • The Allman Brothers Band/Les Brers in A Minor(ダウンロード)
    高校時代に友人から借りた1972年のアルバム "Eat a Peach" に入っていた、このインスト曲が好きでした。昔、萩原健太さんのオールディーズ番組にリクエストしたら、後半だけかけてくれましたが、前半も聴きたいのでダウンロード。

リチャード・トンプソン

  • Sweet Warrior
    リチャード・トンプソンの新作。昔はトンプソンのエレキギターばかり聴いていましたが、そのうち生ギターの弾き語りのほうがなじんできちゃって、今回のエレキギター中心のが軽く聞こえます。エレキのと生のがうまくバランスをとっている "Romor and Sigh" や "Mock Tudor" のようなアルバムが聴きたい。
  • Richard and Lind Thompson/In Concert November 1975
    なんで今頃。当時、"Guitar, Vocal" というリチャード・トンプソンの未発表音源を収めた2枚組が出て、その中に各々10数分の "Night Comes In" と "Calvary Cross" のライブ演奏が収められていました。それと同じコンサートから15曲。バックは、デイブ・ペッグ、デイブ・マタックス、ジョン・カークパトリック。
  • Linda Thompson/Versatile Heart
    今年の新作。まだ、よく聴いていないのですが、良さそうです。リチャードとの間の子供テディ・トンプソンが全面的に協力しているようです。
  • Nat King Cole/Orange Colored Sky(ダウンロード)
    トンプソンが「ポピュラー音楽の千年」の中で歌っていたので、原曲を聴きたくなりました。これ一曲のみのダウンロード。
  • Action Packed (RT) 3曲(ダウンロード)
    90年代のキャピトル時代のベスト盤で、元のアルバムを持っているので、未発表曲3曲のみのために買うのはキツイなあと思っていたら、自分の聴きたい曲だけをダウンロードで購入できるようになって、ありがたや、ありがたや。曲名は "Persuasion" "Mr. Rebound" "Fully Qualified To Be Your Man"。

その他

  • かとうかなこ/独奏
    若手アコーディオン奏者のミニアルバム。ちょっと重い。前作のミニアルバム「ボナペチ」の軽く楽しいのが私の好み。
  • Graham Parker/Another Grey Area (1982)
    バック・バンドのルーモアと別れてから初のアルバム。スタジオ録音アルバムとしては6枚目(ほかに1978年のライブ盤がある)。当時はルーモアと別れたことがショックで、あまり好きになれなかったのですが、レコードを手放してからも曲が耳に残っていて、CDを探していました。で、今年アメリカでCDが出たのを発見したのです。やっぱりルーモアが恋しいのですが、これはこれなりに聴きやすい。
  • 天地総子大全~フーコのコマソン・パラダイス
    最近定期購読している「WiLL」という月刊誌に連載されている高野ひろしという人の「参上・イカの筋肉」というコラムで知りました。コマーシャルソングは楽しい。楠トシエのがもうすぐ出る予定。大瀧詠一のも欲しくなってきました。
  • 元祖コマソンの女王・楠トシエ大全
    キングから発売されたCD2枚組。1枚目がCMソング40曲、2枚目がTVソング・童謡・歌謡曲30曲。全2時間半。バラエティ豊かで飽きない。黄桜、仁丹、ミツワ石鹸などを除いて、知らないCMソングばかりなのは古いからか。何年の曲か書いてないのが不親切。天地総子と同じく、ユーモラスに歌うときの声が個性的だけど、没個性のきれいな声で歌っている曲のほうが多い。なんかガラガラ声の印象があったんだけど。とにかく歌がうまくて、何でも歌えるし、声の表情が豊かで、可愛かったり、色っぽかったり、やさしかったり、パンチが効いていたり、アナーキーだったり(1曲目に入っている黄桜の「かっぱの唄」はブッ飛んでいる)。
  • Conny Froboess: Die Singles 1961-1964
    ルノワールの「捕えられた伍長」で歯医者の助手をしている若い女性に興味を持って調べたら、コニー・フロベスというドイツのアイドル歌手だということがわかったので、このシングル集を購入してみました。全30曲入り。ざっと聴いただけですが、楽しい。YouTube で検索すれば、ヒット曲を歌っていたり、ミュージカル映画に主演していたりする彼女を見ることができます。

ハロプロ(すべてDVD)

  • 松浦亜弥/シングルMクリップス(1)
    デビュー作「ドッキドキLOVEメール」から6枚目「Yeah!めっちゃホリディ」までのミュージックビデオ集。カラフルで楽しい。
  • モーニング娘/女子かしまし物語
    シングルDVD。当時、歌番組で歌っているときは全然面白くなかった曲だけど、YouTubeでビデオクリップを見たら面白かったので購入しました。市街電車に乗った彼女たちが電車の先頭で順番に歌うのだけど、オマケ映像のワンショットで撮影したのも面白い(実際には途中で1回カットがあるけど)。YouTubeにアップロードされているのには英語字幕が付いており、世界中でかなりの人たちが見ているらしい。
  • 松浦亜弥コンサートツアー2006春 Otona no Namida
    女性のピアニスト、女性の弦楽四重奏、カントリー娘のコーラスを従えての「トロピカール恋してーる」を YouTube で見て、面白かったので、購入しました。あやや20歳のバースデーコンサートの完全収録らしい。長い話が五回ぐらい挿入されているんだけど、それをスキップさえすれば、歌の部分は素晴らしい。最初の部分は悪趣味な衣装で歌って踊り、次はシックな青いドレスでピアノと弦楽四重奏をバックにしっとり歌い、さらにアイドル風の黄色い衣装でアップテンポなヒット曲やコンサートで盛り上がる曲を歌い、アンコールでは普段着で歌う。
  • 歌ドキッ! POP CLASSICS Vol.3
    最近のあややはしっとりした歌を歌いすぎ。この中で歌っているプリンセス・プリンセスのヒット曲「Diamonds」が今の彼女にピッタリ。あややが歌うアン・ルイスの「あゝ無情」も良い。他のハロプロメンバーの歌は興味なし。

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2007年12月13日 (木)

First R&R(9曲目):We're Gonna Rock, We're Gonna Roll(その5)

「ウィア・ゴナ・ロック、ウィア・ゴナ・ロール」によって、サックスのレコードが次々と登場した。ほとんどはサボイレコードから発売された。ムーアのバンドのバリトンサックス奏者ポール・ウィリアムズは自分のバンドを結成して、"The Huckle-Buck" で1949年最大の黒人ヒットを飛ばした。1949年の初めには、サボイの若手ビッグ・ジェイ・マクニーリー Cecil "Big Jay" Mcneely が "The Deacon's Hop" で1位となった。これは、1940年のカウント・ベイシーのヒット曲 "Broadway" に基づいていた。そこでサックスを吹いていたのは、マクニーリーがあこがれていたレスター・ヤングだった。

マクニーリーは、ホンカーの王様という称号を得た。50年代初期、彼は光のショーを考案し、ストロボを使って、古い映画の効果をステージで作り出した。さらに蛍光ランプを使って、暗闇でもサックスとスーツが光るようにした。彼は、客席を通り抜け、外へ出て行った。仰向けに横たわって、赤ちゃんのような金切り音を出した。騒ぎを起こして、コンサートの途中で逮捕された。マクニーリーは最初の真のロックンローラーだと言う評論家もいる。

それでも、こうした大騒ぎを引き起こしたホンキングのレコードは、ワイルド・ビル・ムーアの「ウィア・ゴナ・ロック、ウィア・ゴナ・ロール」なのである。

あとがき

あるR&Bコレクターが、クリスチャンの妻に、「初期のロックンロールレコードなんだぜ」と言いながら、番号がサボイ666の初版78回転レコードを見せるという間違いを犯した。妻は、壁に投げて割りたいという衝動を抑えながら、次のように言った。「やっぱりそうだったんだわ。ロックンロールは悪魔の音楽よ。666ってあるじゃない。悪魔の印よ。」

(おわり)

現在飾っている写真は "Big Horn: The History of the Honkin' & Screamin' Saxophone" というCD4枚組で、この文章で言及されている曲やサックス奏者のほとんどが収められています。HMVで3千円弱。

"What Was the First Rock 'n' Roll Record?" に関してこれまでここで書き込んだことは、こちらでまとめて読むことができます

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2007年12月11日 (火)

First R&R(9曲目):We're Gonna Rock, We're Gonna Roll(その4)

ムーアは1948年にサボイレコードを辞めたが、サボイは録音していた曲を発売し続けた。ムーアはほとんど過去の人になっていた。1949年、ロサンジェルスのモダンレコードのために、「ウィア・ゴナ・ロック、ウィア・ゴナ・ロール」を録音し直し、単に「ロック・アンド・ロール Rock and Roll 」と名付けたが、売れなかった。

テナーサックス奏者ハル・シンガー Hal Singer がマーキュリーレコードのために1950年に録音した "Rock Around the Clock" は「ウィア・ゴナ・ロック、ウィア・ゴナ・ロール」の興味深い真似だった。シンガーも1948年にサボイに所属しており、「コーンブレッド Cornbread」というインスト曲でかなりのヒットを飛ばしていた。ボーカルのサム・シアード Sam Theard が "Let's rock" と叫ぶと、バンドが "rock rock rock" と応じ、シンガーが気の抜けたサックスを吹くという程度のものだったが、"One for the money, two for the show, three to get ready and four to go" というシアードのシャウトはカール・パーキンズの「ブルー・スエード・シューズ」よりも5年早かった。

ビル・ムーアは新たなヒットを狙い続けた。デトロイトのレコード会社センセーションは、ビル・ムーアが録音した曲に観衆の声をダビングして、ライブ演奏の興奮感を出そうとしたが、にせ物にしか聞こえなかったので、誰も聞こうとしなかった。ムーアは、デトロイトに定住し、他のアーティストのセッションマンを務めた。"Mercy Mercy Me (The Ecology)" などの60年代後期のマービン・ゲイの録音に参加した。その後、ロサンジェルスに戻り、1983年8月8日に亡くなるまで、そこで余生を送った。

(続く)

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2007年12月10日 (月)

First R&R(9曲目):We're Gonna Rock, We're Gonna Roll(その3)

ウィリアム・M・ムーアは1918年6月13日にテキサスで生まれた。テキサスのブルーズマンは、叫ぶようなサックスをユニゾンで吹く伝統があったが、ヒューストンで育ったイリノイ・ジャケーが事実上ホンキングを生み出すと、ドン・ウィルカーソン Don Wilkerson、ジョー・ヒューストン Joe Houston、デビッド「ファットヘッド」ニューマン David "Fathead" Newman といったテキサスのサックス奏者が追随した。

ムーアは30年代にミシガンに引っ越したが、40年代のほとんどは西海岸で過ごした。彼が自分名義で最初に録音したのは1945年で、アポロ・レーベル Apollo Label のためだった。同年、彼は、スリム・ゲイラード Slim Gaillard のバンドで何曲か演奏し、ヘレン・ヒュームズの「ビー・ババ・リーバ」(この「First R&R」シリーズの3曲目)で激しいソロを吹いた。1年後、ビル・ムーアのバンド、ラッキーセブンは、ビッグ・ジョー・ターナーの最初のヒット曲 "My Gal's a Jockey" のバックを務めた。

ムーアに全国的な演奏の機会を与えたレコード会社はニュージャージー州ニューアークのサボイ Savoy だった。サボイはハーマン・ルビンスキー Herman Lubinsky というケチくさい実業家が経営しており、ミュージシャンを搾取するので有名だった。ルビンスキーは、設立当初から、サボイをサックス奏者のフォーラムにしていた。チャーリー・パーカーが最初にソロ録音したのはサボイのためだったし、デクスター・ゴードンもそうだった。1947年、サボイは、全国でバンドリーダーをタレントスカウトとして雇い、ミュージシャンに地元で録音させた。ミュージシャンをニューアークに連れてくるより、マスターレコードを輸送したほうが簡単だったからだ。

同年7月、ロサンジェルスのセントラル・アベニューにあるエクルス・ホール Elk's Hall での伝説的なジャムセッションでビル・ムーアの演奏を録音した。他のミュージシャンは、バップのサックス奏者、ソニー・クリス Sonny Criss、ワーデル・グレイ、デクスター・ゴードンだった。しかし、ムーアがデトロイトに帰ったため、次の数ヵ月、サボイはムーアのレコードを本気で作らなかった。サボイは、11月20日から12月21日の間に、デトロイトで、チャーリー・パーカーのオールスターズなど、いくつかのバンドを録音した。ビル・ムーアのバンドは二度録音を行った。一度目の録音ではジャズ風の曲を4曲録音した。その中の "Bubbles" は当時よく売れたが、今聴くと平凡である。このときの録音がリラックスした感じだったのは、フロイド・テイラー Floyd Taylor のピアノによるところが大きい。

一ヵ月後に二度目の録音を行ったとき、ムーアは、テイラーの代わりに、ブギウギピアニストのTJファウラー T.J. Fowle を起用していた。ファウラーは、この一年後に "Red Hot Blues" を録音することになる。これは、50年代のロカビリーの名作 "Red Hot" の原型だった。ファウラーはムーアが求める発火装置だったようだ。このとき録音した「ウィア・ゴナ・ロック、ウィア・ゴナ・ロール」は、荒々しく、扇情的で、ムーアは、バリトンサックス奏者ポール・ウィリアムズ Paul Williams とともに半狂乱で演奏している。

曲はムーアの短いサックス演奏で始まり、続いてファウラーがブギウギピアノを演奏する。ムーアがピアノ奏者に一晩中演奏し続けろと叫ぶと、メンバーたちも加わって、"we gonna rock, we gonna roll, we gonna rock, we gonna roll!" と騒々しく合唱する。そして、バンドがバックでスイングする中を、ムーアが大きな音で猛烈なソロを演奏する。

アーノルド・ショウ Arnold Shaw は、影響力の大きい彼の本 "Honkers and Shouters" の中で、ホンカー(ホンキングのサックス奏者)は白人の音楽形式を破壊することで白人に仕返しする怒れる黒人だと書いている。詩人ルロイ・ジョーンズ Leroi Jones(現在の名前はアミリ・バラカ Amiri Baraka)は、ホンカーの目的は楽器の音をできる限り非音楽的で非西欧的にすることであり、スイングとともに黒人のインスト音楽に忍び込んできたソフトさと正統さに対するブルースマンの反抗のようなものだと述べている。

サボイはこの曲をR&Bチャートに押し込めるだけのコネを持っていたが、多くの黒人のヒット曲のように、一週間しかヒットは続かなかった。ディスクジョッキーたちは当初この曲に飛びついたが、リスナーから反応がなかったり、サボイが翌週にワイロを支払わなかったりしたため、かけなくなったらしい。たぶん、この曲が市場を沸かすことができなかったのは、録音が原始的だったことと、古いバレルハウスの音によく似ていたからだろう(「バレルハウス barrelhouse」というのは安酒場のことで、安酒場を起源とする自由で力強い初期のジャズもバレルハウスと呼ばれていたらしい)。

(続く)

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2007年12月 9日 (日)

First R&R(9曲目):We're Gonna Rock, We're Gonna Roll(その2)

リズム・アンド・ブルーズの楽器といえば、なんといってもテナーサックス。次いでアルトサックス。このJの形をした金管楽器が発明されたのは1840年で、その6年後にベルギーのアドルフ・サックス Adolphe Sax が特許を取得した。表現力が豊か過ぎるし、手なずけるのが難しいので、オーケストラには馴染まなかったが、壮大な音を求めるマーチングバンドには馴染んだ。1898年のスペインとアメリカの戦争が終わったとき、アメリカの軍隊楽団がキューバからニューオリンズの港に帰ってきた。多くの楽団員が楽器を質に入れたので、ミュージシャンは中古楽器を安く手に入れることができた。ニューオリンズのジャズバンドはクレオール人のブラスバンドだったので、地元のミュージシャンはすぐにサックスを好きになった。新時代を画したキング・オリバー King Oliver とバディ・ボールデン Buddy Bolden のジャズバンドはサックスが重要な役割を果たしていた。1915年までに米国中の黒人マーチングバンドにとって欠かせないものとなり、6年後には初めてサックスがレコードに録音された。偉大なサックス奏者、コールマン・ホーキンズがマミー・スミスのジャズ・ハウンズ Mamie Smith's Jazz Hounds の一員としてバリトンサックスを演奏したのだ。

ホンキング(警笛を鳴らすような吹き方?)のサックス奏者は、1930年代半ばにカウント・ベイシー楽団が確立した「テナー合戦 battling tenors」の伝統から輩出した。カウント・ベイシー楽団のコンサートのハイライトのひとつはレスター・ヤング Lester Young とハーシェル・エバンズ Herschel Evans との合戦で、各々が相手よりも荒々しく演奏して、聴衆を狂乱状態にした。カウント・ベイシーの上を行こうとしたライオネル・ハンプトンは、サックス奏者イリノイ・ジャケー Illinois Jacquet(のちにアーネット・コブ Arnett Cobb)の金切り音が最高潮に達する間、楽団に聴衆の間を練り歩かせた。合戦形式は40年代後期の西海岸のビバップにまで及び、デクスター・ゴードンはワーデル・グレイ Wardell Gray と有名なバトルを繰り広げた。

だが、R&Bのホンキング・サックス奏者たちはもっと自己顕示欲が強かった。音楽の技術よりも仕掛けが大事だった。聴衆を楽しませる演技者だった。やがて、主要な黒人バンドには必ずホンキングのサックス奏者が所属するようになった。

一段と強力になった「ホンキング・アンド・スクイーリング honking 'n' squealing(警笛音と金切り音?)」現象がいつどこで始まったか特定するとしたら、1944年7月のジャズ・アット・ザ・フィルハーモニックの第一回コンサートでのイリノイ・ジャケーによる華々しい演奏だろう((この「First R&R」シリーズの1曲目 参照)。その次に素晴らしい演奏をしたのがワイルド・ビル・ムーアだった。

(続く)

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2007年12月 7日 (金)

First R&R(9曲目):We're Gonna Rock, We're Gonna Roll

9曲目は、ワイルド・ビル・ムーア Wild Bill Moore の「ウィア・ゴナ・ロック、ウィア・ゴナ・ロール」

  • R&Bチャート14位
  • カテゴリー:R&B
  • 作者:Teddy Reig, William Moore
  • レーベル:ニュージャージー州ニューアーク
  • B面:"Harlem on Parade"
  • 録音日・場所:1947年12月18日、デトロイト
  • 発売時期:1948年6月
  • なぜ重要か:「ホンキング honking」サックスによる最初のヒット曲。
  • 影響を受けたのは:"Blues" by Illinois Jacquet/JATP (1944) (この「First R&R」シリーズの1曲目
  • 影響を与えたのは:ホンキング・スタイルのテナーサックス奏者全員。特に Frank "Floorshow" Culley, Willis "Gator Tail" Jackson, Wilbert "Red" Prysock, Cecil "Big Jay" McNeely, Hal Singer。
  • 重要なリメイク:ワイルド・ビル・ムーア自身の "Rock and Roll" (1949)

(明日に続く)

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2007年11月22日 (木)

First R&R(8曲目):Good Rockin' Tonight

8曲目は、Wynonie Harris and His All Stars の "Good Rockin' Tonight"。

  • R&Bチャート1位
  • カテゴリー:R&B、ジャンプ・ブルーズ
  • 作者:ロイ・ブラウン Roy Brown
  • レーベル:オハイオ州シンシナティのキング
  • B面:"Good Morning Mr. Blues"
  • 録音日:1947年12月28日、シンシナティ
  • 発売時期:1948年2月
  • なぜ重要か:「ロッキン rockin'」に関係したレコードの流行のきっかけとなる。
  • 影響を受けたのは:
    トミー・ドーシー Tommy Dorsey の "(Ah Yes) There's Good Blues Tonight" (1946年、ポップチャート23位)とロイ・ブラウンの "Good Rockin' Tonight" のオリジナル(1948年、R&Bチャート13位)
  • 影響を与えたのは:
    ワイノニー・ハリス自身の "All She Wants to Do Is Rock" やエタ・ジェームズ Etta James の "Good Rockin' Daddy" など、「ロッキン」に関係した数々のヒットソング。 興奮させるために「ホイ、ホイ、ホイ Hoy hoy hoy」という叫び声を使用しているいくつかのレコード。
  • 重要なリメイク:
    ワイノニー・ハリスの "Good Mambo Tonight" (1954)
    エルビス・プレスリー (1954年にサンレコードから発売した2番目のシングル)
    トレニアーズ The Treniers (1956)
    パット・ブーン (1959、ポップチャート49位)
    ジェームズ・ブラウン (1967)
    ロバート・プラント&ザ・ハニードリッパーズ "Good Rockin' at Midnight" (1984)

夜の娯楽を賛美したこの曲を書いたのはロイ・ブラウンだ。「ニュースを聞いたよ。今夜、素敵なロッキンがあるってさ!」。戦争が終わり、戦後の繁栄が始まったんだ。だから俺はロッキンして、楽しい時を過ごしているんだ。ポピュラーソングのご婦人たち、スイート・ロレイン Sweet Lorraine、スー・シティ・スー Sioux City Sue、スイート・ジョージア・ブラウン Sweet Georgia Brown、カルドニア Caldonia ら、みんな集まってるよ。(これらは歌手ではなく、曲のタイトルに出てくる女性名のようです。)

ラジオ解説者のガブリエル・ヒーター Gabriel Heatter は、第二次大戦中、ロングアイランドの自宅から、「こんばんわ、アメリカ、今夜は良いニュースがあるよ!Good evening, America, THere's good news tonight! 」で始まる、吉報を告げる番組を毎晩放送した。国民は、ヨーロッパや南太平洋からの暗いニュースばかりの中で、いくばくかの楽観主義をニュースキャスターたちから得ようとしていた。それは、ウォルター・ウィンチェル Walter Winchell の「こんにちわ、アメリカ、そして海上のすべての船 Hello, America, and all the ships at sea」同様、よく知られたあいさつだった。

1946年、黒人トランペッターで歌手のサイ・オリバー Sy Oliver は、白人のトミー・ドーシー楽団とともに録音していた。その年、彼が書いて録音した "(Ah Yes) There's Good Blues Tonight" は、ポップス市場でかなり売れた。ヒーターのあいさつにヒントを得て作られたこの曲は、次のように始まる。「聞いてくれよ。今夜は良いニュースがあるんだ。そんなんだ、今夜はすてきなブルーズがあるんだ。今夜はカッコいいブルーズがあるんだ。」この曲のメロディと全体的なメッセージは、翌年にロイ・ブラウンが書くことになる曲と驚くほど似ていた。ラッキー・ミリンダー Lucky Millinder がデッカレコードでカバーした "There's Good Blues Tonight" は、ドライブ感を出すために、楽団に絶え間なく手拍子を叩かせているが、以前ミリンダー楽団の歌手だったワイノニー・ハリスも、彼のバージョンで、オールスターズに手拍子を叩かせている。

だが、"There's Good BLues Tonight" のメロディも借物だった。サイ・オリバーは、トミー・ドーシーと1941年に録音したゴスペル風のヒットソング "Yes Indeed" を盗用したものだったし、その曲自体、オリバーがどこで見つけたものかわからない。("Yes Indeed" は1958年に零・チャールズが録音。)

ロイ・ブラウンの「グッド・ロッキン・トゥナイト」と比較すると、ワイノニー・ハリスのバージョンには三つの特徴がある。第一に、ワイノニーは、好色で、遊び好きだった。「私が歌っているストレートなブルーズは、男と女、愛と憎しみについての歌だ。」第二に、ワイノニーにはすぐれたバンドがいた。オラン「ホットリップス」ペイジ Oran "Hot Lips" Page のカッコいいトランペット、ハル・シンガー Hal Singer の猛り狂うテナーサックス、ジョー・ナイト Joe Knight のうねるピアノ、カール「フラットトップ(角刈り?)」ウィルソン Carl "Flat Top" Wilson が激しく鳴らすベース、それに絶え間ない手拍子。第三に、ワイノニーは、R&B界で最も有能な独立系レコード会社、キングのために録音した。

キングレコードの所有者シド・ネイサン Syd Nathan は、シンシナティ市のブルースター街にある大きな倉庫に本部を構え、録音からマーケティングに至るすべてのプロセスをそこで行っていた。アーティスト、彼らの歌、録音スタジオを所有していた。ジャケットから発送用のパッケージに至るまですべてを製造していた。レコードプレス工場も所有し、スクラップのセラックやビニールをリサイクルして新しいレコードを作った。配給会社も持っていた。

ワイノニー・ハリスは、1915年8月24日にネブラスカ州オマハで生まれた。スポットライトを浴びたいという夢を実現するためにクライトン大学を中退し、ナイトクラブで司会やタップダンスをしたが、すぐにブルーズを歌い始めた。バンドリーダーのルーシャス「ラッキー」ミリンダー Lucius "Lucky" Millinder がデッカから発売したレコードで彼を歌わせ、そのうちの "Who Threw the Whiskey in the Well?" がヒットしたため、ネイサンは1947年後期にハリスと契約した。

ハリスは、ビッグ・ジョー・ターナー Big Joe Turner を崇拝しており、自分よりうまい歌手は彼だけだと考えていた。ミリンダー楽団でアルトサックスを演奏していたプレストン・ラブ Preston Love は、「ワイノニーは、ブルーズが世界で唯一の音楽だと考えていた」と語っている。ビッグ・ジョーは、「ブルーズのボス」として知られていたので、ハリスは良いあだ名はないかと探した。"Mr. Blues Is Back Is Town" というヒット曲によって彼のあだ名が決まった。

ミスター・ブルーズは、1947年12月に、ツアーの合間を縫って、20曲近くを録音した。1948年元旦から始まるミュージシャンのストライキに備えてだった。そのうちの一曲が「グッド・ロッキン・トゥナイト」だったが、ハリスはまったくこの曲に魅力を感じず、音楽の歴史を変えるなんて考える由もなかった。

作者のロイ・ブラウンは次のように語る。「私が最初に書いた曲のうちの一つだった。当時は、著作権、レコード、ロイヤルティなんて全然知らなかった。無一文だったので、金を稼ぎたかった。「グッド・ロッキン・トゥナイト」を茶の紙袋の切れ端に書いて、ニューオリンズの Dew Drop Inn で演奏していたワイノニー・ハリスのところに持って行った。」

ハリスは歌いたくなかった。休憩中に、ハリスのバンドがこの曲をロイと演奏した。メンバーの一人が、別のクラブで演奏しているピアノ奏者セシル・グラント Cecil Grant のところに持っていったらどうだい、と提案した。

グラントは、自分で演奏する代わりに、ニュージャージー州のデラックスレコードの所有者ジュールズ・ブラウン Jules Braun を紹介した。グラントがブラウンに電話をかけて、ロイが電話で曲を歌うと、ブラウンが飛行機でニューオリンズに飛んできて、急いで地元のスタジオで録音させた。デラックスレコードが「グッド・ロッキン・トゥナイト」を発売し、ニューオリンズのディスクジョッキー、ポッパー・ストッパー Poppa Stoppa が地元でヒットさせて、やっとワイノニー・ハリスはこの曲を録音する気になった。

ロイのバージョンでは、「ウェ~~~~~ル」とわめいたあと、しばらくして、「今夜すてきなロッキンがあるってニュースを聞いた。俺のカワイ子ちゃんをきつく抱きしめるつもりだ。彼女は俺が強い男だってことを今夜思い知るだろう。今夜すてきなロッキンがあるってニュースを聞いた」と歌う。ハリスは歌詞をそんなに変えなかった。歌が進むにつれ、ハリスは終わり方を忘れてしまったらしい。ロイ・ブラウンが "Hoy sister, hoy sister, ain't you glad" と歌っているところを、単に「ホイ、ホイ、ホイ」と何度も叫んでいるだけだ。プロデューサは、演奏者の生の興奮が何よりも重要と考えたか、その日のハリスからはこれ以上のものを引き出せないと考えたらしい。いずれにせよ、ブラウンのオリジナルよりもはるかにハードにロックしていたから。歌詞を間違えたなんてことはどうでもよかった。

"Hoy, hoy, hoy" という叫び声に関して言えば、30年代に黒人のドン・レッドマン Don Redman がつくった "Down, Down, Down" という曲には "Just send yourself, holler hey! If not, you better say hoy" という歌詞が含まれていた。1947年初期、「グッド・ロッキン・トゥナイト」の数ヵ月前、スティック・マギー Stick McGhee が「ドリンキン・ワイン・スポ・ディー・オー・ディー」の最初のバージョンで「ホイ」を二度使用していた。しかし、「ホイ、ホイ、ホイ」が束縛されない自由の叫びになるのは、ハリスが荒々しく叫んでからだ。

1948年夏、ロサンジェルスのバンドリーダー、ロイ・ミルトン Roy Milton は「ホイ、ホイ、ホップ」というコーラスが印象的な "Hop, Skip and Jump" を録音した。リトル・ジョニー・ジョーンズ Little Johnny Jones は、1954年、その曲を "Hoy Hoy" というタイトルで再録音した。50年代後期には、コリンズ・キッズ Collins Kids という若いロカビリーデュオが、同曲で小ヒットを飛ばした。スティック・マギーが1949年に大ヒットを飛ばした「ドリンキン・ワイン・スポ・ディー・オー・ディー」の二番目のバージョンでは、最初のバージョンの「ホイ」が騒々しい「ホイ、ホイ、ホイ!」になっていた。同時期、テキサスのブルーズマン、ゴリー・カーター Goree Carter が "Hoy-Hoy" を録音した。(「ホイ」という言葉は中英語にさかのぼる。注意を向けさせたり、動物を追うときに使われた。最近では、「ヘイ hey」に取って代わられている。)

「グッド・ロッキン・トゥナイト」の人気によって、ハードにロックするレコードだけでなく、ハードにロックすることついてのレコードも次々と生まれた。ワイルド・ビル・ムーア Wild Bill Moore の "Rock and Roll"、コニー・ジョーダン Connie Jordan の "I'm Gonna Rock"、ビル・マシューズとバラーディアーズ Bill Mathews and the Balladeers の "Rock and Roll"、アーリン・ハリス Erline Harris の "Rock and Roll Blues"、そしてワイノニー・ハリス自身の "All She Wants to Do Is Rock" などが「グッド・ロッキン・トゥナイト」に続いた。リル・サン・ジャクソン Lil Son Jackson、ジョン・リー・フッカー John Lee Hookerらも "Rock and Roll" というタイトルの曲を作ったが、"and" が変形していた。究極のタイトルは、サックス奏者ハル・シンガー Hal Singer の "Rock Around the Clock" (1950) で、これは1953年にソニー・ディー&ザ・ナイツ Sonny Dae and the Knights の同名曲とは違う曲だった。ビル・ヘイリーがカバーしたのは後者である。

ワイノニー・ハリスは、マンボ・ブームに便乗して、歌詞を少し変えただけの「グッド・マンボ・トゥナイト」を1954年に録音したりしたが、50年代後期に引退して、ブルックリンでカフェを開いた。1969年6月14日、ガンのためロサンジェルスで死去。ロイ・ブラウンは、1981年5月、管バックの最中に心臓発作で死去。

エルビスは、1954年に、サンレコードからの2枚目のシングルとして「グッド・ロッキン・トゥナイト」を発売。彼が基にしているのはワイノニー・ハリスのではなくロイ・ブラウンのバージョンで、かなり現代風に改良している。スイート・ロレイン、スー・シティ・スー、スイート・ジョージア・ブラウン、カルドニアといった黒人向けの古臭い言及は削除され、ワイルド・ビル・ムーアの単純な即興 "We're gonna rock, rock, rock, yerh, rock!" に取って代わられた。

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2007年11月17日 (土)

コマソン・パラダイス

本日二本目の記事。

天地総子大全「フーコのコマソン・パラダイス」というCDを購入しました。天地総子は普通に歌うと癖のないきれいな声をしているので、「アート引越しセンター」や「ライオネスコーヒーキャンディ」が彼女だとは知らなんだ。子供っぽく歌ってるとわかるんだけど。CMではなく、彼女のラジオ番組用に作ったのが何曲が収められていて、そのなかで「あなたの次のプレゼント」というのが良かった。途中のパンチの利いた部分ではなく、最初と合間合間の鼻歌みたいに歌っている部分が、たまらなくキュートで色っぽい。

楠トシエのCM集ってあるのかなあと調べてみたら、「元祖コマソンの女王: 楠トシエ大全」というのが12月26日に出るようです。さっそく予約しました。

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2007年10月29日 (月)

First R&R(7曲目):Tomorrow Night

  • R&Bチャート7週1位、ポップチャート19位
  • カテゴリー:R&B、ブルーズ
  • 作者:サム・コスロー Sam Coslow、ウィル・グロス Will Grosz
  • レーベル:オハイオ州シンシナティのキング King
  • B面:"What a Woman"
  • 録音日:1947年12月10日、シンシナティ
  • 発売時期:1948年1月か2月
  • なぜ重要か:初めてポップチャートでヒットしたカントリーブルーズ
  • 影響を受けたのは:
    ホレス・ハイト楽団 Horace Heidt and His Orchestra の「トゥモロー・ナイト」(1939年にポップチャート16位)
  • 影響を与えたのは:
    エルビス・プレスリー、BBキング、バディ・ホリー
  • 重要なリメイク:
    エルビス・プレスリー(1954)
    ラバーン・ベイカー LaVern Baker(1954)
    カール・スミス Carl Smith (1959、カントリーチャート2位)
    ビッグ・ジョー・ターナー(1959)
    BBキング(1962)
    ダミタ・ジョー Damita Jo (1965)
    チャーリー・リッチ Charlie Rich(1973、カントリーチャート29位)

ブルーズ歌手兼ギタリストのロニー・ジョンソンは、最初のヒット曲「トゥモロー・ナイト」を録音したとき60近かった。彼は1925年から録音していた。ブラインド・レモン・ジェファーソン Blind Lemon Jefferson とともに、20年代後期に最も人気のあったブルーズマンだった。1930年までにかれは100枚を優に超えるレコードを作っていた。ギター奏者として彼はブルーズもジャズも弾くことができたので、素朴なブルーズ歌手テキサス・アレクサンダー Texas Alexanderやブルーズの歌姫ビクトリア・スパイビー Victoria Spiveyからデューク・エリントンやルイ・アームストロングの洗練されたバンドまで、誰とでも共演できた。1929年、彼は、ベッシー・スミスのミッドナイト・ステッパーズ Bessie Smith's Midnight Steppers とともに演奏旅行をした。彼は、ジャンゴ・ラインハルト、チャーリー・クリスチャン、ロバート・ジョンソン、エルビス・プレスリーに深い影響を与えた。

かすかに聞こえるピアノとベースをバックに、年とったブルーズマンが高音で物悲しく歌う。なよなよしたセンチメンタルな歌詞で、まるでシレルズの1961年のヒット曲「ウィル・ユー・ラブ・ミー・トゥナイト」の下書きのようだ。しかし、ジョンソンの物悲しい声とリラックスしたスタイルは、どの曲も誠実で真情あふれたものにする。このレコードは、1948年に最も売れた黒人レコードの一つとなった。

ロニー・ジョンソンはニューオリンズ出身で、たぶん1889年生まれだが、1894年生まれや1900年生まれという説もある。1922年、スペイン風邪によって彼の家族のほとんどが亡くなってしまった。ジョンソンは多才なミュージシャンで、バイオリン、ギター、他の弦楽器、ピアノを弾くことができた。のちに「シェイク・ラトル・アンド・ロール」を書いたジェシ・ストーン Jesse Stone が1925年にジョンソンと契約を交わし、ジョンソンはオーケーレコード Okeh Record に所属した。3年後、ジョンソンは、ジャズギターの父、エディ・ラング Eddie Lang と組んで "Two-Tone Stomp" を録音し、これがジョンソンの最初のヒットとなった。

ジョンソンは、歌うような単音のギターによるカウンターメロディをジャズに持ち込んだ。バイオリンの練習によって得たものを12弦ギターに移し替えたジョンソンの単音によるビブラート奏法は、音楽の歴史を変えた二人のギタリスト、ジャンゴ・ラインハルトとチャーリー・クリスチャンに愛された。

ロバート・ジョンソンも彼のファンだった。1938年、ロバート・ジョンソンは "Malted Milk" でロニーの歌とギターをまねた。また、 "Stop Breakin' Down" は、ロニーの初期の曲 "No More Troubles Now" に基づいている。

シンシナティのキングレコードがなければジョンソンは早くに引退していたかもしれない。シド・ネイサン Syd Nathan が1943年に設立したキングレコードは、アパラチアン出身のデルモア・ブラザーズ Delmore Brothers やグランドパ・ジョーンズ Grandpa Jones のヒルビリー専門レーベルとして出発した。40年代後期にR&Bがブームになったとき、ネイサンはR&B専門のクイーンレコードという姉妹レーベルを設立したが、すぐに断念して、カントリーとブルーズのミュージシャンをキングレコードに統合し、しばしば同じ曲を両方のジャンルで録音した。ブルーズもヒルビリーも同等の熱情と自信で歌うことができたロニー・ジョンソンはキングレコードにとって完璧なミュージシャンだった。

今は亡きヘンリー・グローバー Henry Glover は次のように語った。「私が40年代後期に録音監督としてキングレコードに入社したとき、ロニー・ジョンソンはブルーズ歌手兼ギタリストだった。私は何年も前から彼を知っていた。ロニーはテーブルの吟遊詩人だった。彼はテーブルからテーブルへと移動しながら、歌って演奏した。」ナイトクラブでテーブルからテーブルへと歌って歩く親密さは、スタジオでの録音に持ち込まれた。彼は、出しゃばらないコンボをバックに「トゥモロー・ナイト」を録音した。ジョンソンが単純なブルーズを歌うとき、ジョン・ヒューズ John Hughes のピアノとレイ・クールター Ray Coulter のベースはかろうじて聞こえる程度だ。インク・スポッツ Ink Spots の "If I Don't Care" 以降のすべてのヒット曲でおなじみのイントロに基づいたギターのイントロに続いて、「トゥモ~~~ロウ・ナイト」と甲高い声で嘆きながら歌う様子はキャロライナの山脈出身のブルーグラス歌手を思わせる。

キングレコードは「トゥモロー・ナイト」がヒットするとは思っていなかった。同じセッションで録音された曲の中では、自作曲の "Happy New Year, Darling" が一押しで、休日のチャンスを逃さないために急いで発売しなければならなかった。録音日から大みそかまで3週間しかなかった。その数週間後に「トゥモロー・ナイト」が発売されたとき、ビルボード誌は「ジョンソンの歌は感情豊かだが、演奏は単調だ」と複雑な気持ちだったが、大衆は違った。白人でさえ飛びついたためにポップチャートを上昇したとき、一番驚いたのはロニー・ジョンソンとシド・ネイサンだった。

「トゥモロー・ナイト」のあと、ジョンソンはキングレコードでさらに三曲のR&Bヒットを飛ばした。20年代と30年代初期に録音した古いブルーズに磨きをかけたもので、よりポップで、よりメロディアスで、よりビートに乗って、よりエレクトリックだった。彼は、シド・ネイサンと契約する数ヵ月前にエレキギターに乗り換えていた。しかし、彼のレコードは次第に売れなくなった。"Work with Me, Annie" のように、より激しいR&Bが出現すると、ロニー・ジョンソンのブルーズは古臭く聞こえるようになった。1953年、"Will You Remember" という「トゥモロー・ナイト」のアンサーソングをどうにか録音したとき、誰も反応しなかった。たぶん、メンフィスに住む白人の若者を除いて。

エルビス・プレスリーがサンレコードで「トゥモロー・ナイト」を録音しようとしていたとき、自分なりの解釈を加えるのをやめて、ジョンソンを真似して、寂しげな高い声で歌った。しかし、ジョンソンの音域が苦手らしく、気が抜けたように聞こえる。RCAビクターはテープを倉庫にしまい、プレスリーの死後まで発売しなかった。「トゥモロー・ナイト」や「ブルー・ムーン」などのサンレコードでの録音を聞くと、ブレスリーのバラードの歌い方にロニー・ジョンソンが影響を与えていることはあきらかだ。

1954年にラバーン・ベイカー LaVern Baker がリメイクした「トゥモロー・ナイト」がヒットしそうだったので(実際にヒットしたのは、B面の "Tweedle Dee" だった)、それにあやかろうとキングレコードは1947年に録音したジョンソンのレコードを再発した。1960年に再再発したとき、キングレコードは、ジョンソンの野暮ったいブルーズを現代風にするために、女声コーラスを加えた。残念ながら、ほとんど売れなかったし、現在見つけるのが難しい。

50年代後期から60年代初期にかけてイギリスで人気のあったロニー・ドネガンは、もともとトニーという名前だったが、ロニー・ジョンソンに敬意を表して、トニーからロニーに名前を変えたのだ。

ロニー・ジョンソンは、60年代のブルーズ・リバイバルの蚊帳の外だった。ロニーは、ポップスのスタンダードを歌うのが好きだった。「私が歌うのは都会のブルーズだ。私の歌い方は自分の故郷とはまったく関係ない。それは内面の魂から来る。私が人生で経験した苦悩などからだ。」ブルーズの復興主義者たちは原始的で田舎くさいのを好んだので、彼が多才だったことが災いした。ジョンソンは、洗練されすぎていたし、都会的すぎた。彼は、ナインス・コードなどジャズの要素を取り入れ、モダンさにおいて時代を先行していた。その後、アルバート・キング、フレディ・キング、BBキングなど、ほとんどのブルーズマンがジョンソンのあとを追って、デルタ・カントリー・ブルーズにジャズの要素を加え、はるかに成功した。

ロニー・ジョンソンは、賞賛されるには年を取りすぎていた。1970年6月16日にトロントで、交通事故から回復している最中に脳卒中のため死去。

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2007年9月29日 (土)

First R&R(6曲目):Open the Door, Richard

6曲目はジャック・マクヴィー Jack McVea の "Open the Door, Richard"。

  • R&Bチャート2位、ポップチャート3位
  • カテゴリー:ノベルティR&B(「ノベルティ」は冗談ソング)
  • 作者:当初はジャック・マクヴィー Jack McVea とクラーク Clarke、のちにダスティ・フレッチャー Dusty Fletcher、ジョン・メイソン John Mason、マクヴィー、ドン・ハウエル Don Howell
  • レーベル:ロサンジェルスのブラック&ホワイト
  • B面:"Lonesome Blues"
  • 録音日:1946年9月、ハリウッド
  • 発売時期:1946年12月
  • なぜ重要か:初期のノベルティR&B。ノベルティR&Bは50年代のロックンロールの定番となるジャンル。フェードアウトを利用した最初の商業レコード。大ヒットカバーやアンサーソングを大量に生み出した最初のポピュラーレコード。
  • 影響を受けたのは:
    ダスティ・フレッチャーの寄席コント。
  • 影響を与えたのは:
    キャデラックス、コースターズなどによる数多くのノベルティレコード
  • 重要なカバー:
    カウント・ベイシー(R&Bチャート2位、ポップチャート1位)
    スリー・フレームス the Three Flames(R&B3位、ポップ1位)
    ダスティ・フレッチャー(R&B2位、ポップ3位)
    ルイ・ジョーダン Louis Jordan(R&B2位、ポップ6位)
    チャリオティアーズ the Charioteers(ポップ6位)
    パイド・パイパーズ the Pied Pipers(ポップ8位)
  • 重要なリメーク:
    ピッグミート・マーカム Pigmeat Markham (1964)
    ビル・ドゲット Bill Doggett (1965)

黒人によるドタバタの冗談ソング「オープン・ザ・ドア・リチャード」は1947年にアメリカとヨーロッパの一部を席捲したが、大衆は、いったん飽きてしまうと、「あれは一体何の騒ぎだったんだろう」と忘れ去ってしまった。

この曲が全米で大騒ぎとなったとき、ジャック・マクヴィーはすでにロサンジェルスのジャズ界とR&B界では著名な人物だった。1914年生まれのマクヴィーは、バンドリーダーの息子で、高校でサキソフォンを習い、卒業と同時にクラブのバンドで演奏するようになった。ライオネル・ハンプトン楽団に3年間在籍し、1942年のヒット曲「フライング・ホーム」ではテナーサックスのイリノイ・ジャケーのバックでバリトンサックスを吹いた。2年後、ジャズ・アット・ザ・フィルハーモニックのコンサートに参加し、「ブルーズ」ではイリノイ・ジャケーの前にソロを演奏した(1曲目「ブルーズ」参照)。

マクヴィーは、ハンプトン楽団と一緒にツアーをしている間、黒人コメディアンのダスティ・フレッチャーとよく仕事をした。マクヴィーは次のように回想する。「彼は酔っぱらいを演じ、家に帰ってドアをノックし、「リチャード、ドアを開けろ」と怒鳴る。何の反応もないので、梯子を持ち出して、「リチャード、ドアを開けろ」と怒鳴りながら、登る。しかし、何の反応もない。あきらめて梯子を降りようとすると、よろめいて落ちてしまう。」

1946年、小さなバンドのリーダーになっていたマクヴィーは、フレッチャーのコントを歌に作り変えた。「単純なメロディーはすぐに浮かんだ。通りの向こうの窓から女性がこっちを見ているというような歌詞を加えた。」

9月終り、マクヴィーは、ハリウッドの独立系レコード会社ブラック&ホワイトのために「オープン・ザ・ドア・リチャード」を録音した。プロデューサーのラルフ・バス Ralph Bass は次のように回想する、「マクヴィーに何曲かブルーズを演奏させたが、どれも似たり寄ったりで、死ぬほど退屈だった。それで、彼のライブで聴いたことがある「オープン・ザ・ドア・リチャード」を提案したんだ。」

曲の中で、マクヴィー、ドラマーのレイボン・タラント Rabon Tarrant、トランペッターのジョン「レッド」ケリー John "Red" Kelly は、リチャードが一つしかない家の鍵を持って早く家に帰ったあと、夜遅く家に帰る。バンドメンバーがノックや呼び声を繰り返しても、リチャードは出てこない。そしてコーラス部分になり、メンバーがユニゾンで「ドアを開けろ、リチャード。ドアを開けて入れてくれ。ドアを開けろ、リチャード。リチャード、なんでドアを開けてくれないんだ!」と歌う。隣人たちが騒ぎ始める。通りの向かいの女性がカーテン越しに様子をうかがっている。マクヴィーは再びノックする。彼はリチャードが中にいるのを知っている。というのも、「彼の息づかいが聞こえる」からだ。しかし、曲がフェードアウトしているときも、酔っぱらったおしゃべり連中がドアをガンガンたたく音はやまない。

ラルフ・バスは、曲がレコードには長すぎたことを憶えている。「メンバーたちはさらに5分ほど演奏を続けた。が、この頃の10インチレコードには収まらないので、フェードアウトさせた。初期のフェードアウトするレコードのひとつだったなんて当時は知らなかった。」

実際にはフェードアウトする最初のレコードではなかった。クラシック音楽やノベルティソングは78回転レコードの片面には収まりきらずに両面に入れる場合があった。ジョー・リギンズの「ハニードリッパー」のように。しかし、それらは、盤をひっくり返すとフェードインして(A面の最後と少しオーバーラップする)、あたかも中断がなかったかのように再開する。

しかし、「オープン・ザ・ドア・リチャード」の場合、リチャードの不運な仲間たちが叫んだりノックしたりする様子を眺めるのにうんざりした我々が、その場を離れて、角を曲がって、やがて彼らの声が聞こえなくなるという効果を生んでいる。

レコードは翌年早々にヒットした。RCAビクターは急いでカウント・ベイシー楽団にもっとおとなしいバージョンを録音させた。そのレコードはポップチャートで1位になった。スリー・フレイムズというニューヨークの黒人ボーカルグループもコロンビアレコードのために録音し、これもポップチャートで1位になった。引退して安宿に寝泊りしていたダスティ・フレッチャーは、独立系のナショナル・レコードに探し出されて、彼の古い寸劇を録音することとなった。このレコードもポップチャート3位まで上昇した。ルイ・ジョーダンもデッカのために録音して、たぶん最もおかしくてエネルギッシュな「オープン・ザ・ドア・リチャード」ができあがった。これはポップチャートの6位まで上昇した。

ルイ・ジョーダンは、録音する前からこのコントを知っていたはずだ。というのも、1944年3月に "How High Am I" を録音したときに、「ヘイ!リチャード。降りてきて、このドアを開けろ!」と言っているからだ。実際、マクヴィーはずっとお決まりの出しものにしていたようで、1945年12月にスリム・ゲイラードがチャーリー・パーカーとともに録音した "Slim's Jam" の中で、スタジオのドアを叩いて、「ドアを開けろ、リチャード!」と叫んでいる。

いったい、リチャードはなんで出てこないんだろう?リチャードは中で何をしているのだろう?この性的なほのめかしによって、曲の人気は高まっていった。白人優越主義も一役買った。ミンストレル・ショー(黒人に扮した白人の歌や踊り)や焼きコルク(白人が黒人に扮するときに塗る)の伝統に目を開かせた。

ミンストレル・ショーは19世紀前半に誕生した。初期のミンストレル・ショーは顔を黒く塗った白人が演じていたが、南北戦争後は、黒人の芸人が、黒人のまねをする白人をまねた。黒人自身が顔を黒く塗ることもあった。1900年までにミンストレルショーは時代遅れとなり、ボードビル劇場とラグタイム音楽に取って代わられた。しかし、20世紀に入っても、黒顔の白人によるレコードがミリオンセラーとなることがあった。Arthur Collins の "The Preacher and the Bear" (1905) や Moran and Mack の "Two Black Cow" (1926) などである。

全国有色人種地位向上協会は、黒人の酔っ払いを軽々しく扱っているとして、この曲を公に非難した。特に、ダスティ・フレッチャーが二面にわたって演じている、酔っ払ってゆっくり話す、やる気のない無知な黒人男性に不快感を示した。

便乗商品として、リチャードのピン、リチャードのブレスレット、リチャードのジーパンとシャツが発売された。リチャードという名の者はみんなからかわれた。

マクヴィーのレコードは100万枚以上売れているはずなのに、マクヴィーの手元にはほとんど金が入ってこなかった。作者の印税に関して、ダスティ・フレッチャーのコントは自分のコントがもとであると主張するジョン「スパイダー・ブルース」メイソン John "Spider Bruce" Mason というコメディアンが出てきた。訴訟が決着するまで2年かかり、結局4人の名義となった。マクヴィー、フレッチャー、メイソン、そしてドン・ハウエルである(最後のはフレッチャーのレコードを録音したナショナルレコードの架空名義)。

夏真っ盛りになる前にリチャードブームは終わりを告げた。マクヴィーの "The Key's in the Mailbox" など1ダースのアンサーソングはヒットしなかったし、マクヴィーのレコードを発売したブラック&ホワイト・レコードは倒産した。マクヴィーは1962年までサックスを演奏し続け、T・ボーン・ウォーカー、ビッグ・ジョー・ターナー、ワイノニー・ハリスなどのバックを務めた。サックスをやめたあとは、ディズニーランドを歩きながら演奏するデキシーランド・トリオでクラリネットを演奏した。(80年代半ばに引退、2000年死去)

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2007年8月15日 (水)

First R&R(5曲目):That's All Right(その3)

「ザッツ・オール・ライト」は、1946年にはそこそこ売れただけだったが、その3年後、RCAビクターはこの曲をレコーディングの歴史の一部にしようと決心した。話は1900年ごろにさかのぼる。フィラデルフィアの Improved Gram-O-Phone Record Company は、1分間78回転で演奏される、セラックを原料とする10インチのレコードを開発した。それまでは72回転から85回転の間で回っていたものだから、結果はたいてい笑えるものだった。1948年までは、1930年代半ばにビクターが33 1/3回転のレコードを導入しようとして破産しかかったことを除いて、録音技術にたいした変化はなかった。

そして、すべてが変わった。コロンビアは、12インチの微細溝の長時間演奏(long-play, LP)レコードを導入し、録音業界を支配しそうな勢いだった。他の会社は、コロンビアのプレス工場でアルバムをプレスするか、売れたLP1枚ごとに料金を支払わなければならなかった。RCAビクターの技術者たちは昼夜を問わず熱に浮かされたように「マダムX」プロジェクトに従事し、「マダムX」は1949年初めにお披露目された。

「マダムX」は、控えめな7インチの45回転シングルで、中央に大きな穴が開いていたから、すぐに「ドーナッツ盤」と呼ばれるようになった。業界のほとんどの者は45回転盤をあざ笑った。片面4分ぐらいしか録音できなかったからだ。RCAビクターは45回転盤の耐久性と軽さを強調したが、この小さなプラスチック製の実験盤がコロンビアの大きなLP盤とどのように競い合うのか確信がなかった。ドーナッツ盤が失敗に終わらないように、RCAビクターはマーケティングの天才たちを雇い、一般大衆に売り込もうとした。

誰かがジャンルごとにビニール盤を色分けしたらどうかと提案した。1949年3月の初めにRCAビクターが新商品を発売したとき、カントリーは緑、クラシックは赤、ポップスは青、子供用は黄に色分けされた。リズム・アンド・ブルーズ(R&B)は明るいオレンジだった。

その日発売された最初のオレンジ盤は、ビッグボーイ・クルーダップの「ザッツ・オール・ライト」だった。彼は、初めて45回転盤を出した黒人アーティストとなったのだ。「ザッツ・オール・ライト」は南部のラジオ局で何度か放送され、何枚か売れ、再び、さほど騒がれもせずに消えていった。

45回転盤はすぐに流行した。もしポップミュージックが戦後アメリカの使い捨て文化の一部だとしたら、この安くて小さな盤は完璧な使い捨て商品だった。他のレコード会社は、RCAビクターと契約して、自社専属アーティストの曲を45回転盤で発売した。そして、10代の若者は、45回転盤をR&Bやのちのロックンロールの成長と重ね合わせたので、45回転盤を自分たちのものと呼ぶようになった。1958年までに、大きなレコード会社は、78回転盤の製造を中止した。

1954年、RCAビクターは、アーサー・クルーダップとの契約を失効させた。彼のレコードは売れていなかった。皮肉なことに、同じころ、メンフィスのサンレコードが、クルーダップの名前を歴史書にとどめることになるセッションの録音を行っていた。1954年夏、プレスリーは、ギタリストのスコッティ・ムーアとベーシストのビリー・ブラックとともに最初のセッションで「ザッツ・オール・ライト」を録音した。1946年のクルーダップのアレンジとほとんど同じで、ドラムがないことと最後の2番を省略していることが主な違いだった。のちにプレスリーはクルーダップの "My Baby Left Me" をサンレコードのために録音し、クルーダップのいたRCAビクターに移籍してからは "So Glad You're Mine" を録音した。これら三曲によって、この古いブルーズマンが若いプレスリーに大いに影響を与えたのは明らかだ。

しかし、クルーダップは、1940年代にレスター・メルローズと交わした契約によって、プレスリーの録音からは、まったくと言っていいほど恩恵を受けなかった。「俺はみんなを金持ちにしたが、俺は貧しい」と彼は不平を言う。彼は、亡くなるまで、メルローズから曲を受け継いだ楽譜出版社と争ったが、出版社の弁護士たちは彼を寄せつけなかった。

ニューヨーク市ハーレムのファイアレコードがのちに発売するクルーダップの1959年のナッシュビル録音にプレスリーがお金を支払ったという噂もある。しかしファイアレコードの所有者ボビー・ロビンソンは、1962年にバージニア州でクルーダップを見つけて、ニューヨークで録音したけど、プレスリーからの援助はなかったと言う。いずれにせよ、このセッションからは、オリジナルによく似たパワフルな「ザッツ・オール・ライト」が生まれ、60年代初期のアルバム "Mean Ol' Frisco" に収録された。

晩年、アーサー「ビッグボーイ」クルーダップは、フェスティバルで演奏し、アメリカとヨーロッパで数枚のアルバムを録音した。ブッダレコードは、1973年のニューポート・ブルーズ・フェスティバルでライブ録音された「ザッツ・オール・ライト」を "The Blues - A Real Summit Meeting" というアルバムに収録した。ボニー・レイットと巡業公演したのち、1974年3月28日にバージニア州フランクタウンの自宅で脳卒中によって亡くなる。

"What Was the First Rock 'n' Roll Record?" に関してこれまでここで書き込んだことは、こちらでまとめて読むことができます

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2007年8月14日 (火)

First R&R(5曲目):That's All Right(その2)

クルーダップは最初のセッションで稼いだお金でミシシッピに帰り、畑を耕し、そのかたわら密造酒を作った。年に一度か二度シカゴに出向き、サウス・ステート・ストリートの「イーライの質屋」の上にある仮のスタジオでメルローズお抱えのミュージシャンとともにレコーディング・セッションを行った。クルーダップのレコードはよく売れるので、ビクターは40枚以上発売したが、メルローズは1曲につき75ドルから200ドルしかクルーダップに払わなかった。契約上、クルーダップは自分の曲に対する著作権を持つことができなかったし、印税を受け取ることができなかった。

1940年代の半ばに RCA(Radio Corporation of America) がビクターレコードと合併し、クルーダップは子会社のブルーバードから新たなRCAビクターに移籍した。クルーダップは1945年から46年に2曲のヒットを飛ばし、そのうちの "So Glad You're Mine" はR&Bチャートで3位まで上昇したが、「ザッツ・オール・ライト」はヒットしなかったし、彼の代表的なレコーディングでさえなかった。1944年の "Keep Your Arms Around Me" など、それ以前の曲を数曲つなぎあわせた程度のものだった。220ポンド(100キロ)という体格は「ビッグボーイ」というあだ名にふさわしかったが、甲高い声は体格にそぐわなかった。彼の演奏でもっとも特徴的なのは彼の声で、力強いフィールド・ハラー(field holler。働きながら上げる叫び声)とゴスペルのシャウティングを混合させたものだった。一方、ギターの腕前は初歩的なものにとどまった。通常Eのキーでしか演奏しなかったし、主にシンコペーションのためにギターを使用し、スタッカートで弦を打ち鳴らし、絶えず拍子を飛ばした(曲のリズムや小節構造を変えた)。

「ザッツ・オール・ライト」で伴奏しているベースのランサム・ノーリングとドラムのローレンス・ライリーは、メルローズのセッションミュージシャンで、クルーダップのブルーバード盤でもよくバックを務めていた。メルローズが特に頼りにしていたのはノーリングで、クルーダップのような田舎のブルーズマンがよく見舞われるホームシックにかかることのないベテランのニューオリンズ出身ベーシストだった。ノーリングはメルローズの右腕的な役割も務めており、クルーダップが駅からスタジオに来る途中で酒場に寄らないように見張っていた。

「ザッツ・オール・ライト」は、自分を苦しめている女性を我慢するかどうか決めかねている男の歌だ。「今はそれでいいのだ、ママ、あんたにとってそれでいいのだ、今はそれでいいのだ、ママ、あんたがどう振舞おうがそれでいいのだ、それでいいのだ、今はそれでいいのだ、ママ、あんたがどう振舞おうが。そんなふうに生きてちゃ女がお前の命取りになるよ、とママもパパも言う。でも、それでいいのだ。ベイビー、俺がいらないんなら、なぜそう言ってくれない。お前の家のまわりをうろつく俺に悩まされずに済むんだぜ。でも、それでいいのだ!」ママという言葉はあいまいで、クルーダップは、母親と、彼を苦しめる女性の両方に意味で使っているように思える。

(さらに、明日へと続く)

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2007年8月13日 (月)

First R&R(5曲目):That's All Right(その1)

5曲目は、Big Boy Crudup の "That's All Right"。

  • チャートインせず。
  • カテゴリー:ブルーズ
  • 作者:アーサー・クルーダップ
  • レーベル:RCAビクター、ニューヨーク
  • B面:"Crudup's After Hours"
  • 録音日:1946年9月6日、シカゴ
  • 発売時期:1946年後期、1949年3月
  • なぜ重要か:45回転で最初に発売されたブルーズ/R&Bレコード。初期ロカビリーの原型。
  • 影響を受けたのは:
    "My Black Mama" by Son House (1930)
    "Keep on Trying" by Tampa Kid (1936)
    "If I Get Lucky" by Big Boy Crudup (1941)
    "Keep Your Arms Around Me" by Big Boy Crudup (1944)
  • 影響を与えたのは:
    エルヴィス・プレスリー、JBルノア J.B. Lenoir
  • 重要なリメーク:
    プレスリーの1954年の最初のレコード
    マーティ・ロビンズ Marty Robbins (1955、カントリーチャート7位)

アーサー「ビッグボーイ」クルーダップが、ベーシストのランサム・ノーリング Ransom Knowling とドラマーのローレンス「ジャッジ」ライリー Lawrence "Judge" Riley と一緒に、シカゴの質屋の上で、粗雑で単純なブルーズを録音した時、この曲がどんな運命をたどるか誰も知る由もなかった。レコードの売れ行きはまあまあだった。だが、6週間のプロモーションと販売の後に忘れ去られてしまう何百枚のブルーズレコードの一枚でしかなかった。

しかし、この1946年、なにか違うことが起こりつつあった。コロンビアレコードのエンジニアたちは秘かにマイクログルーブという新たなレコードフォーマットを開発中だった。それは33 1/3回転のLPレコードで、1948年6月21日に公開されることになる(それまでは78回転のSPレコード)。これは、さらに別の形のレコードフォーマットを作り出すことになり(45回転のシングルレコードのこと)、ビッグボーイ・クルーダップを音楽史の一部に加えることになる。

クルーダップ("crew-dup" と発音する)は1905年8月24日にミシシッピ州に生まれる。32歳までギターを習ったことがなかったし、初レコーディングまでさらに4年間かかった。1941年、彼はゴスペルグループとともにツアーをしていたが、シカゴで文無しになって立ち往生していた。クルーダップは、駅で寝泊まりしながら、ミシシッピに帰る列車代を稼ぐために通りで歌っていた。すぐに、ブルーバードレコードの楽譜出版者でA&Rマンのレスター・メルローズ Lester Melrose の目にとまり、レコード契約を交わした。

メロルーズは、J・メイヨ・ウィリアムズ J. Mayo Williams (13曲目の "Drinkin' Wine Spo-Dee-O-Dee" に登場するようです)とともに、不況時代の初期からコロンビアとビクターという大会社のためにシカゴの黒人音楽制作を独占していた。メルローズは、ブルーズミュージシャンと直接契約し、レコード会社に貸し出していた。彼が規則を作り、価格を設定していたので、ミュージシャンたちはいやもおうもなかった。クルーダップは、後年、この契約を後悔することになる。

(明日に続く)

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2007年7月19日 (木)

First R&R(4曲目):House of Blue Lights (その2)

1940年代初期に白人によるちゃんとしたR&Bが存在していたなんて信じられない諸君は、1942年と1946年にエラ・メイ・モースとフレディ・スラックが作ったブギウギレコードを聴きたまえ。

エラ・メイ・モースは、1924年9月12日にテキサス州ダラスに近い小さな町で生まれた。彼女の父親はジャズバンドのドラマーで、12歳からプロ歌手として父親のバンドで歌い、地方のラジオ番組に出演した。1939年、彼女が14歳の時、ジミー・ドーシー Jimmy Dorsey が彼のバンドに彼女を雇い入れたが、たった2ヵ月ツアーに参加しただけだった。しかし、ここで当時29歳だったピアニスト兼アレンジャーのフレディ・スラックと出会った。

スラックは、1935年ごろ、ベン・ポラック Ben Pollack のバンドで演奏していたが、そのときパイン・トップ・スミスのブギウギレコードを初めて耳にした。その一年後、ジミー・ドーシー楽団に参加して、ビッグバンドのためにブギウギナンバーをアレンジすることを思いついたが、国民がブギウギに熱狂する1939年まで、その考えは実現しなかった。

ブルーズと血縁関係にあるブギウギは、1900年代初期に南部の安酒場や売春宿で発達した。旅回りのピアノ奏者は、安酒場や売春宿で、ぼろぼろで音程がおかしくなったアップライトピアノを弾いて、みんなを楽しませた。左手でベースのリフを弾き、右手で即興のメロディを弾く。初期のピアノ奏者は、走る列車のカタコトいう音を左手でまねた。実際、最初のブギウギレコードは、ミード・ラックス・ルイス Meade Lux Lewis の1927年の「ホンキー・トンク・トレイン・ブルーズ Honky Tonk Train Blues」だった。ブギウギという名称は1920年代にシカゴで付けられたと言われている。

最初にブギウギを印象づけたレコードは、1929年のパイン・トップ・スミスの「パイン・トップのブギウギ」だった。このダンスレコードがポップマーケットでよく売れていたとき、スミスはナイトクラブで誤って射殺された。

9年後、ついにブギウギが流行し始めた。ピアニストのミード・ラックス・ルイス、ピート・ジョンソン Pete Johnson、アルバート・アモンズ Albert Ammons によるブギウギトリオがカーネギーホールの「スピリチュアルからスウィングへ」コンサートでブギウギを紹介し、その後全国ツアーで大人気を博したからだ。同年、トミー・ドーシー Tommy Dorsey が「パイン・トップのブギウギ」を「ブギウギ」に作り替え、大ヒットとなった(カウント・ベイシーの1937年の「ブギウギ」とは違う)。

スラックが小編成バンドを結成した時、ボーカルにエラ・メイ・モースを迎えることを考えた。彼女は17歳になっていた。スラックはハリウッドに乗り込み、1942年に設立されたばかりだったレコード会社キャピトルに参加した。スラックがエラ・メイ・モースと録音した「カウ・カウ・ブギ Cow Cow Boogie」はヒットした。その原曲であるラグタイムピアニストのチャールズ「カウカウ」ダペンポート Charles "Cow Cow" Davenport の「カウ・カウ・ブルーズ」は、映画 "Ride 'Em Cowboy" のために書かれ、エラ・フィッツジェラルドが歌ったが、誰も強く売り込まなかった。モースとスラックは、この曲を取り上げ、活気のある曲に仕上げ、映画からレコードへというプロセスを逆にした。キャピトルが二人の「カウ・カウ・ブギ」で稼いでいる間に、二人はコロンビア社の新作映画 "Reveille with Beverly" (1943) でこの曲を演奏したのだ。

次の二人の曲 "Mr. Five By Five" も10位まで上昇したヒットとなり、アンドリューズ・シスターズのカバーを少し上回った。この曲はR&Bチャートでも1位となった。

その後すぐにエラ・メイとスラックは別れたが、エラ・メイはブルーズのスタイルで歌い続けた。多くの黒人リスナーたちは彼女を黒人だと考えていたかもしれない。というのも、彼女の "Shoo Shoo Baby" (1943) と "Buzz Me" (1946)は黒人チャートで1位と2位になったからだ。しかし、白人も彼女のレコードを買った。"Shoo Shoo Baby" はポップチャートでトップテンヒットとなり、デッカレコードがアンドリューズ・シスターズの俗受けするカバーを出さなければ、もっと上昇しただろう。そのカバーは1位に9週間君臨した。エラ・メイの "Buzz Me" もヒットした。この間、彼女は映画に出演し続けた。

1946年、エラ・メイ・モースとフレディ・スラックは再び一緒にレコードを作ることにした。スラックは、ソングライターのダン・レイ Don Raye を連れてきた。彼は、"Down the Road Apiece"、"Beat Me Daddy, Eight to the Bar"、"Boogie Woogie Bugle Boy" (あとの二曲hアンドリューズ・シスターズの大ヒット曲)の歌詞を書いて名声を築いていた。レイが何曲か持ってきた中で、エラ・メイとスラックは "Hey Mr. Postman" と「ハウス・オブ・ブルー・ライツ」を選んだ。(ここで、冒頭の二人のセリフについて説明しているけど、残念ながら、割愛させてください。本当は重要なんですけど)

「ハウス・オブ・ブルー・ライツ」という場所はホットだったに違いない。リトル・リチャードは、「グッド・ゴリー・ミス・モリー Good Golly, Miss Molly」の中でハウス・オブ・ブルー・ライツを訪れているし("From the early early morning to the early early night, when it comes Molly's rockin' at the house of blue lights")、チャック・ベリーも1958年に訪ねているが、チェスレコードは1974年まで発売しなかった。

「ハウス・オブ・ブルー・ライツ」が全米でヒットし始めた時、例によってアンドリューズ・シスターズがカバーしたが、エラ・メイとスラックのほうがよく売れた。

1952年、エラ・メイはネルソン・リドルのオーケストラとともに "Blacksmith Blues" を録音し、100万枚のヒットを飛ばし、彼女の一番のヒット曲となった。彼女はR&Bを歌い続けたが、1950年代半ばにR&Bが白人の間で流行し始め、退屈な白人カバー歌手が数多く出てくるにつれ、彼女の歌手生活に陰りが見え始めた。彼女の晩年のシングルの一つは、ケイ・スターの「ロックンロール・ワルツ」と同系列の「ロックンロール・ウェディング」だった。B面は、コースターズの最初のレコード「ダウン・イン・メキシコ」のカバーで、彼女には似つかわしくなかった。

その頃までにキャピトルは、水で薄めたようなビッグバンドのポップス御用達となっており、ロックンロールの夜明けとはまったく関係ないように思えたが、A&Rプロデューサーのケン・ネルソンは、モースとスラックの成功によって、メリル・E・ムーア、ジーン・ヴィンセント、エスケリータ Esquerita、ファイヴ・キイズなどの新しいロッカーたちの発掘を任されていた。その後、キャピトルは、ビーチボーイズとビートルズを専属アーティストのリストに載せることになる。

エラ・メイ・モースは、海軍の軍医と結婚し、子供たちを育て、徐々にジョービジネス界から消え去り、たまにナイトクラブでジャズっぽいポップスを歌うだけになった。

フレディ・スラックは1965年8月10日に死去。(International Movie Database によれば、エラ・メイ・モースは1999年に75歳で死去。この本 "What Was the First Rock 'n' Roll Record?" が発行されたのは1992年だから、まだ健在だったようです。)

二人が作ったレコードは、まだ最先端に聞こえる。「カウ・カウ・ブギ」は少し前にデルタ航空がテレビコマーシャルで使用し、The Judds がカバーした。「ハウス・オブ・ブルー・ライツ」はR&Bチャートには登場したことがないが、カントリーソングとして数回リメイクされた。

私のサイトに転記しています。

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2007年7月18日 (水)

First R&R(4曲目):House of Blue Lights (その1)

本日は冒頭部分のみ。本文は明日の予定。

4曲目は、女性シンガー、エラ・メイ・モース Ella Mae Morse をフィーチャーしたフレディ・スラック Freddie Slack 楽団の「ハウス・オブ・ブルー・ライツ House of Blue Lights」。

ポップチャートの8位まで上昇したブギウギナンバー。作者はドン・レイ Don Raye とフレディ・スラック。レコード会社はロサンジェルスのキャピトル。録音日は1946年2月12日で、発売日は2ヵ月後の4月1日。

なぜ重要か:
モースとスラックは最初の白人R&Bスターで、二人のレコードは、キャピトルが西海岸で最初のメジャーなレコード会社となるのに貢献した。

影響を受けたのは:
パイン・トップ・スミス Pine Top Smith の「パイン・トップのブギウギ Pine Top's Boogie Woogie"(1929、ポップチャート20位)

影響を与えたのは:
ルイ・ジョーダン Louis Jordan の「ブルーライトブギ Blue Light Boogie」

重要なカバー:
アンドリューズ・シスターズ Andrews Sisters(ポップチャート15位)
エイモス・ミルバーン Amos Milburn

重要なリメイク:
メリル・E・ムーア Merrill E. Moore (1952)
チャック・ミラー Chuck Miller (1955、ポップチャート9位)
アール・リチャーズ Earl Richards (1969、カントリー&ウエスタンチャート39位)
アスリープ・アット・ザ・ウィール Asleep at the Wheel (1987、カントリー&ウエスタンチャート17位)

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2007年7月 6日 (金)

「涙のフィーリング」

仕事が忙しいので、何か軽い話題を一つ。私のサイトに「1970年後半にラジオでよく聴いた曲100 」というページがあって、52位の「涙のフィーリング」がなつかしいという人からメールを2通もらいました。一人は日本の方なんですが、もう一人は何とチェコの方で、どうも何のページかわからずに、この曲の英語タイトルとグループ名だけを見て、もし持っていたらメールで曲を送ってくれないかという内容でした。残念ながら、私は持っていないし、どんな曲かも憶えていません。

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2007年6月23日 (土)

First R&R: 3. Be-Baba-Leba(その2)

今日はヘレン・ヒュームズの誕生日らしい。5月26日に書き込んだ(その1)とともに、私のサイトに転記しています

テキサス生まれのビッグ・ジム・ウィン Big Jim Wynn は自分のバンドを持つサックス奏者で、ロサンジェルスで活躍していた。戦時中、彼のバンド The Bobalibans は "Ee-Bobaliba" というバカバカしい歌詞の曲を演奏していたが、1942年から44年にかけてジュークボックス印税をめぐりミュージシャンがストライキを行ったことと、レコードの原料であるシェラックが不足していたために、その曲をレコード化することができなかった。

ウィンの曲にはどれくらいのオリジナリティがあったのだろう。ジェリー・ロール・モートン Jerry Roll Morton は、「ビー・ババ・リーバ Be-Baba-Leba」のブギ・ラインを「かなり古くからあるリフ」だと述べている。昔からのエイトビートのリフをより現代的にした曲は、1937年にカウント・ベイシーがデッカで録音した「ブギウギ Boogie Woogie」で、ボーカル・リフレインはジミー・ラシング Jimmy Rushing だった。ただ、ラシングは「ウー・ババ・リーバ ooh baba leba」 とは歌っていない。

1944年、メズナー兄弟 Ed and Leo Mesnerが Philo Records をロサンジェルスに設立した。レコード産業はまだストライキや戦争から復興しておらず、ほとんどのミュージシャンは自由契約だったので、ミュージシャンを獲得するのは容易だった。Philo Records は、イリノイ・ジャケー Illinois Jacquet、ワイノニー・ハリス Wynonie Harris、ジェイ・マクシャン Jay McShann、そしてカウント・ベイシー楽団のヘレン・ヒュームズ Helen Humes を獲得した。

ヒュームズは、1913年6月23日、ケンタッキー州ルイスビルの中流の上の黒人家庭に生まれた。「ルイスビルにはリンカーンという名前の劇場があって、そこで小さい頃マ・レイニー Ma Rainey、ベッシー・スミス Bessie Smith、ジョセフィン・ベイカー Josephine Baker、エセル・ウォーターズEthel Watersを見たけど、歌手になりたいなんて思ったことなかったわ」と1970年代のインタビューで彼女は述べている。

1927年、彼女が13歳の時、Okeh Records のためにエセル・ウォーターズ風のブルーズを何曲が録音した。伴奏はロニー・ジョンソン Lonnie Johnsonだった。1930年代中期には、白人トランペッター、ハリー・ジェームズ Harry James とともにレコードを録音した。1937年、カウント・ベイシー楽団の専属歌手としてビリー・ホリデイ Billie Holiday のあとを継ぎ、3年以上在籍し、1938年12月には、さまざまな黒人音楽が初めて白人に紹介された伝説的なカーネギーホールでの "Spirituals to Swing" コンサートに立つという栄誉にあずかった。ただ、彼女が在籍中、カウント・ベイシー楽団はヒット曲に恵まれなかった。1941年、ベイシーは、ヒュームズと関係を持っていたことを妻に知られ、妻にせがまれてヒュームズを解雇する。

ヒュームズは、カウント・ベイシー楽団で仕事をしている間、男性専属歌手のジミー・ラシングが「ブギウギ」を歌うのを何度も聞いた。これはパイン・トップ・スミスPine Top Smith の1929年のヒット曲 "Pine Top's Boogie Woogie" に基づいていたが、歌詞は全然違っていた。

ヒュームズがどうやって歌詞を考え出したのか誰もはっきりとは知らない。ジム・ウィンは、「ビー・ババ・リーバ」というリフレインは彼から盗んだものだと主張するが、裁判沙汰にすることはなかった。誰が最初に考え出したにせよ、スペルや発音がさまざまな be-baba-leba がビーバップ bebop を語源とするのはほぼ間違いない。

ビーバップ(またはリーバップ)は、1940年から41年ごろに現れたジャズの一形態で、トランペッターのディジー・ガレスピー Dizzy Gillespie とエレキギタリストのチャーリー・クリスチャン Charlie Christian が作り出したと一般に言われている。何でも盗んでいく白人ミュージシャンをまごつかせるために、仲間内の暗号言葉のようなものとして調子はずれの音程を使ったのだ。ジャズライターでミュージシャンのバリー・ウラノフ Barry Ulanov の推測によれば、チャーリー・クリスチャンが「ビーバップ」という言葉を生み出した。というのも、クリスチャンが演奏中にハミングする音に似ているからだ。「ビーバップ」は、ラテンバンドが気合を入れるときのかけ声、「アリバ arriba」や「リバ riba」の変形だという者もいる。いずれにせよ、「ビーバップ」という言葉は1942年までに "go, man, go" という意味で広く使われるようになっていた(「もっとやれ!」という意味?)。しかし、当時、録音が禁止されていたため、ビーパップの初期の発展はレコードに記録されていない。

ピアニストでアレンジャーのウィリアム・バラード・ドゲット William Ballard Doggett は、ヘレン・ヒュームズから一緒にセッションをしてほしいと頼まれた。ドゲットは、自分の小さな楽団を連れていった。リハサールなしにただ現場に行っただけだ。ヒュームズは各々の曲のキーとテンポを告げるのみで、素早く練習し、そして録音した。

ドゲットのバンドのテナーサックス奏者はその日開いていなかったので、ワイルド・ビル・ムーア Wild Bill Moore を使った。

少なくとも5曲録音した。3曲は、ヒュームズがカウント・ベイシー楽団で歌っていたようなバラードで、4番目は "He May Be Your Man" というジャンプブルーズで、最後が「ビー・ババ・リーバ」だった。彼女の高い声にマッチした曲で、次の10年間、R&B界での彼女の地位を築いた。

ドゲットの活発なピアノのイントロは、カウント・ベイシーの「ブギウギ」をまねているが、テンポが速い。ヒュームズは、最初は標準的なブルーズの歌詞を歌うが、最初の感想のあとで、ワイルド・ビル・ムーアによる50年代R&Bの定番となる派手なサックスソロに合わせて、きわどい歌詞を歌い始める。「私が好きな男は向こう見ずなの。彼は、恋人が欲しがるものを何でも持ってるわ。ウー、ウー、ウー、ババ・リーバ...。」

またムーアの派手なソロが入ったあとで、ヒュームズは続ける。「彼は朝も夜も私をゾクゾクさせるの。彼の愛し方ったら、歓喜で悲鳴を上げさせるほどなの。ウー、ウー、ウー、ババ・ルーバ…。」クライマックスはこんな具合だ。「入ってくるときは虎みたいで、出て行くときは子羊みたいなの。彼が愛し始めると、私は叫ぶの。ウー、ウー、ウー、ババ・リーバ!」歌の中でヒュームズは「ビー・ババ・リーバ」というタイトルを完全に発音することはない。

1945年9月に発売された「ビー・ババ・リーバ」が12月にチャートインするやいなや、デッカレコードは、ライオネル・ハンプトンに "Hey! Ba-Ba-Re-Bop" を録音させた。ハンプトンのバージョンのスィング感はビッグ・ジム・ウィンのバージョンに近かったが、ハンプトンのは、彼とバンドメンバーたちとのかけ合いの面白さがあった。より大きな市場を求めて、わいせつな歌詞がキャブ・キャロウェイのようなナンセンスなものに替えられた。デッカはレコードプレス工場を持っており、たくさんの枚数を市場に送り出すことができたので、バカ売れした。ハンプトンのはヒュームズのジャンプ感がなかったが、ヒュームズをチャートから蹴落とし、3ヵ月間トップの座に君臨し、ポップチャートでもトップテンヒットとなった。Tex Beneke やグレン・ミラーのバージョンに追い越されなければ、もっと上位になっていただろう。

ヘレン・ヒュームズにとって「ビー・ババ・リーバ」は最大のヒットとなったが、彼女がより知られているのは、1950年のライブ録音の「ミリオン・ダラー・シークレット Million Dollar Secret」によってだろう。彼女が「ビー・ババ・リーバ」に我慢できるとしたら、それはB面の "Every Now and Then" のおかげで、この曲は彼女がカウント・ベイシー楽団に入る前から好きだった曲だ。

「ビー・ババ・リーバ」は、ヒュームズをR&Bファンに知らしめただけではなく、32歳のベテランシンガーを未成年の少女だと錯覚させた。彼女の甲高い声は、1927年に初レコーディングしたときのように若々しかった。彼女がきわどい歌詞を少女のような声で歌ったことで、思春期や思春期前の女性歌手が次々と輩出することとなった。たとえば、8歳の Toni Harper("Candy Store Blues")