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2012年2月29日 (水)

映画と感情: Emotion and the Structure of Narrative Film (21)

少し前に購入した戦争映画10本入りの米盤DVDセットから「空軍大戦略 Battle of Britain」(1969) を見ました。1940年のドイツ軍の空爆に対抗するイギリス軍の話で、ローレンス・オリビエ、トレーバー・ハワードなどのオールスターキャスト。双葉さん曰く、「イギリス国民だけが感激する映画」。空中戦がかなりあって、迫力があるし、視覚的にも面白いんだけど、戦闘機に詳しくないので、イギリスとドイツの区別がつかない。そんな命をかけた戦いの下のほうでは、なぜかクリストファー・プラマーとスザンナ・ヨークがベッドで一戦交えており、不謹慎極まりない。でも、そんなプラマーだからこそ40年たってもビンビンの現役で、アカデミー助演男優賞おめでとうございます。

2. 感情とは何か?:フライダの感情理論
(1) 感情の機能性

映画が感情を喚起すると主張するには、そもそも感情とは何かをあきらかにしなければならない。だが、一般的な感情理論は数少ない。

  • N.H. Frijda (1986) The Emotions, Cambridge University Press
  • C.E. Izard (2004) The Psychology of Emotions, Springer (エド・タンは入手しにくそうな論文を挙げているので、代わりに入手しやすそうなものを挙げておきます。)
  • Ortony, Clore, Collins (1988) The Cognitive Structure of Emotion, Cambridge University Press
  • Strongman (1978) The Psychology of Emotion, 2nd ed., Wiley

第1章で指摘したように、感情が機能的だという仮定が、感情を他の状態と区別するのに適した基準かもしれない。感情が何らかの目的にかなって、このことが感情の構造と効果を決定づけるという考えはダーウィンによって提示された。ダーウィンは、感情のコミュニケーション機能を強調した。感情の機能性は Plutchik によって磨きをかけられた。Lazarus は、個人の環境への適応における感情の役割を研究した。

機能性の観点から重要なのは、感情の主な仕事は認知過程のコントロールだという意見である。感情の中には深刻な状況から生じるものがある。たとえば、制御不能の車が自分のほうに向かってきたときに恐怖を感じたとする。この場合、感情が支配権を握り、長々と推論するのを妨げる点で、感情は機能的である。何らかの行動をとるという決定は、タイミングよく行動することを怠るよりも良い。

差し迫った状況でなくても、感情による認知過程のコントールが機能的に見えるかもしれない。De Sousa は、悲しみや嫉妬といった感情を「判断」とみなした。そうした感情によって我々が世間を見るという意味において。

  • R. Plutchik (1980) Emotion: A Psychoevolutionary Synthesis, Harper & Row
  • R.S. Lazarus (1991) Emotion and Adaptation, Oxford University Press
  • De Sousa (1987) The Rationality of Emotion, MIT Press

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2012年2月28日 (火)

1979年2月第4週に見た映画 (続き)

昨日の続きです。

記録ノートの欄外には3月2日にカラーテレビ購入と記録しています。そのわりには最初にカラーで見た「日本一のゴマスリ男」に感動した記憶がない。10年後ぐらいにそのテレビが故障して、白黒でしか映らなくなり、1ヵ月後ぐらいにバラエティ番組を見ていたら急にカラーに戻ったときの感動は憶えているのに。

植木等の映画は大好きで、なかでも「日本一のゴマスリ男」は一番好きなぐらいなのに、この頃は、歌っている場面だけが生き生きしていて、ドラマ自体は面白くないという認識しかなかったような気がします。このあと5月にオールナイトで見たときに面白かったので、この年の私の邦画トップテンの3位にしています。面白かったころの植木等の主演作をリストにすると、

  • ニッポン無責任時代 (1962)
  • ニッポン無責任野郎 (1962)
  • 日本一の色男 (1963)
  • 日本一のホラ吹き男 (1964)
  • 日本一のゴマスリ男 (1965)
  • 日本一のゴリガン男 (1966)

このあとも日本一シリーズは70年代初めまで続くし、平行してクレージーキャッツの映画も作られていましたが、面白いと思ったのは上記6本ぐらいです。「色男」から「ゴリガン男」までセットになったのを2年前の誕生日に購入しました。いわゆる「自分へのごほうび」ってやつです。2010年2月6日2月7日に感想を書いています。

「俺たちの交響楽」は当時の感想があるのですが、文章が下手でも、ほめていればマシなんだけど、けなしているものは読めたものじゃない。ベートーベンの第九を歌う川崎の若い労働者の話で、延々と「合唱」を歌う場面が続くのがお気に召さなかったらしい。第九を歌う人たちの口と音楽が一体となっていないので、口の群れがシュールに見えるとも書いています。武田鉄矢主演で、彼一人でもっている映画。

その原案を書いた山田洋次が監督した「幸福の黄色いハンカチ」との二本立てでした。「俺たちの交響楽」は山田作品で脚本を書いていた朝間義隆のデビュー作で、「幸福の黄色いハンカチ」も山田との共同脚本です。「俺たちの」はこの1979年の作品で、「幸福の」は2年前にキネ旬1位となった作品で、健さん主演男優賞、桃井かおりと武田鉄矢が助演賞。健さんの相手役は倍賞千恵子で、主演というには出番が少なかったのか、「はなれ瞽女おりん」の岩下志麻が主演女優賞。ウィキペディアによると「俺たちの」が封切られたのが1979年3月3日で、その翌日に見ているから、「幸福の」の人気にあやかった二本立ての一般封切りだったのかな。

「荒野に生きる」は、リチャード・C・サラフィアン監督、リチャード・ハリス主演、ジョン・ヒューストン共演の1971年の作品。中学三年だった1971年から2年間ほど洋画雑誌スクリーンを愛読していて、その間に紹介されたので、なんか懐かしさを感じます。原題は "Man in the Wilderness" で、ワーナー配給。サラフィアン監督としては、「バニシング・ポイント」と「ロリ・マドンナ戦争」の間の作品。19世紀初頭のアメリカ、動物から毛皮をとって売る一団(ヒューストンがリーダー)のガイド(リチャード・ハリス)がクマに襲われ瀕死の状態になる。一団が彼を置き去りにして旅立ったので、回復したガイドは復讐のために一団を追跡する。

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2012年2月27日 (月)

1979年2月第4週に見た映画

もともと心臓が悪いので少々脈が乱れても驚かないのですが、昨日の朝食中に脈が止まった感じがして、すぐ元に戻ると思っていたら、なかなか回復した感じがしなくて、あれれ?と思っているうちに、気を失いそうになりました。幸い、気を失うまでには至らなかったのですが、最近がんばりすぎることを反省しました。というわけで、このブログも適当にやります。

2月26日(月) 未来戦争の恐怖 (東京12) 3点
??        わたしの戦争 (?) 3点
2月26日(月) 短編映画特集 (東芸劇場)
                  ふくろうの河 (4点)、あこがれ (4点)、ゲルニカ (4点)、
                  
チャールストン(2点)、ニースについて (4点)、
                  
ハートオブエイジ (1点)、愛の唄 (3点)
2月28日(水) ラスト・ショー (フジ) 4点
3月03日(土) 日本一のゴマスリ男 (フジ) 3点
3月04日(日) 俺たちの交響楽 (笹塚京王) 3点
3月04日(日) 幸福の黄色いハンカチ (笹塚京王) 5点
3月04日(日) 荒野に生きる (テレビ朝日) 4点

「未来戦争の恐怖」は、ビートルズ映画でおなじみのリチャード・レスター監督の日本未公開作品。1969年のイギリス映画で、"The Bed Sitting Room" という原題。主演は、顔の各部分が中央によった変な顔だけど、可愛いリタ・トゥシンハム。「蜜の味」や「ナック」が印象深い。これは期待したほど面白くなかった。というか、よくわからなかった。音楽ケン・ソーン、撮影デビッド・ワトキン。リチャード・レスターが70年代以降「三銃士」「ジャガーノート」「スーパーマン2」といった娯楽作品に徹したことが喜ばしい。東京12チャンネルの朝見たような気がするので、この頃あそこは朝と昼2時から洋画を放映していたのだろうか。

「わたしの戦争」は、いつ見たのか定かでないのですが、土曜の昼間テレビで見たような気がします。これもリチャード・レスターの日本未公開作品なので、ここに一緒にしておきます。これはジョン・レノンが助演していることで有名な作品で、別の邦題を見たことがあるので、日本で劇場公開されたかDVDでも発売されたんですかね。原題 "How I Won the War" という1967年の反戦コメディで、主演はマイケル・クロフォードです。リタ・トゥシンハム同様、なつかしい人です(二人は「ナック」で共演しています)。70年代にすっかり消えちゃって、どうしたんだろうと思っていたら、「オペラ座の怪人」で鮮やかに再登場しました。音楽と撮影は「未来戦争の恐怖」と同じ。中原弓彦(小林信彦)さんの「世界の喜劇人」にこの映画のことが書いてあったような気がするのですが、すでに手元にないので確認できません。

で、「未来戦争の恐怖」を見た日の夕方から、東芸劇場というところで、有名な短編映画を見に行っています。ざっと紹介します。すべて白黒です。

「ふくろうの河」は「冒険者たち」のロベール・アンリコ監督による1961年のアンブローズ・ビアス原作の短編で、1962年にカンヌ映画祭で短編グランプリ受賞。南北戦争だったか、川の上の橋で男が絞首刑に処されるが、ひもが切れて川に落ち、必死に逃げる。どうにか愛する妻のもとにたどりつくが、実は...という話。

トリュフォーの「あこがれ」についてはこちらでどうぞ

「ゲルニカ」はピカソの有名な作品の断片を積み重ねたアラン・レネ作品、「チャールストン」はルノワール、「ニースについて」はジャン・ビゴ、「ハート・オブ・エイジ」はオーソン・ウェルズ、「愛の唄」はジャン・ジュネの作品。

「ラスト・ショー」は記録ノートの欄外に28日とだけ書いているので、2月28日か3月28日かわかりません。キネ旬で1972年に1位になったピーター・ボクダノビッチの作品で、高校時代に「フェリーニのローマ」「時計じかけのオレンジ」との三本立てで田舎の名画座で見たことがあります。これらキネ旬上位作品が400円ぐらいで場末の映画館で見られたという、貧しいのか豊かなのかわからない記憶です。でも、あの頃は、つまらない映画も面白かった。学校帰りの土曜日に三本立てを見に行くこと自体が楽しかった。

残りは明日にします。

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2012年2月26日 (日)

本日はお休み

本日は体調が悪いので休みます。

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2012年2月25日 (土)

映画と感情: Emotion and the Structure of Narrative Film (20)

自分の文章を書くのが忙しくて、「ボチッ」とか「いいね」とかしてもらっているのに気づかなくて申し訳ないです。ほかの人のブログも読まないといけませんね。すみませんです。

Ed S. Tan の "Emotion and the Structure of Narrative Film" を読んでいます。この前まで高いハードカバーしかなかったのに、昨年暮れにペイパーバックが出たようです

第三章「映画と感情:理論的背景」に進みます。見出しは次のとおり。これらの見出しは内容を読んでない時点での仮のものなので、読み進めていくうちに変更する可能性があります。見出しに順番は付いていないのですが、ここでは便宜上番号を振っておきます。

  1. 映画が喚起する感情の実用的枠組み
  2. 感情とは何か?:フライダの感情理論
     感情の機能性
     関連性、関心、感情
     状況的意味構造と感情
     感情の定義
  3. 関心、感情、映画鑑賞の法則
  4. 感情刺激としての劇映画
     主題 
     虚構世界の効果
  5. 映画における変化、感情、時間構造の法則
     状況的意味の特徴的変化:映画の標準的な筋書き
     変化と状況的皮肉
     反応の不特定な変化に対する状況的意味の特定の変化
     感情と映画物語の場面構造
  6. 虚構世界か人工物か
  7. 見かけの現実と映画鑑賞の法則
     符号化と現実
      魔法の窓の現実
      有用な現実
      同一化による現実
  8. 終結と感情行動傾向の法則
  9. 続きへの関心の法則:映画鑑賞における感情の統制
     映画的感情の最大化
     観客の自由
  10. 観客が経験する感情の種類の概観

今日は、1番目の見出し「映画が喚起する感情の実用的枠組み」を読みます。

第二章で見てきたように、映画鑑賞の主要な動機の一つは感情経験である。だが、映画のある時点において、すべての観客がすべての感情を受け入れるわけではない。ほとんど暗黙のものではあるが、映画が作り出す感情を制限する規則がある。それらの規則は一緒になって劇映画の語用論のようなものを形成する。

語用論の基本は、日常会話などの普通の双方向的な状況では有効だが、より複雑な文学や劇映画には容易に適用することはできない。一番の問題は、目的のある双方向の状況では、効果的なコミュニケーションが説明しやすいのに対して、直接的な用途を持たない相互作用においては説明しにくいことである。文学や映画のコミュニケーションを調整する符号を把握することは非常に難しい。AがBに機械がどのように動くかを説明する状況では、協力的な原則が働いて、数量、誠実さ、関連性、やり方、明快さといった単純な行動原理を生み出す。AとBの共通目的は、機械の働きをあきらかにすることである。だが、それらの行動原理自体は、日常会話の最も単純な修飾でさえ説明することができない。皮肉や冗談といった、ありふれたことでさえ、実用的な枠組みに当てはめるには相当な困難が伴う。それに、行動原理を劇映画に適用するとしたら、結果は無味乾燥なものになるだろう。逆に、すぐれた映画の語りの実用面には、そうした行動原理と正反対のものがある。よく知られた例は、信頼できない語りである。特定の場面が、筋書きにとって重要な行動に対して間違った印象を作り出していることが、あとであきらかになる。

行動原理を十分に移し替えるには、異なる協力の原則を考案しなければならない。第一に、伝統的な劇映画の場合、その原則は、観客は常に正しくて、楽しむことを期待しているというようなものになるだろう。「楽しませる」ということが「情報を提供する」という行動原理に取って代わる。ある映画の部分(説明的な部分など)が少々退屈だとしても、観客は、のちに豊かな報酬として返ってくるであろう必要な投資だと解釈する。

第二に、協力が意味するのは、映画を面白くするのは映画製作者の義務だということである。観客は積極的な役割を果たすが、その役割は映画によって導かれる。この観客側の信頼は、誠実さの行動原理に対応するものである。

第三に、ジャンルによって少々異なるかもしれないが、観客は、人工物によって個人的に話しかけられることなく、映画が興味を起こさせることを期待する。映画は、控えめに楽しませることによって、虚構世界で生じる感情的な出来事を提示することによって、観客が安全に没頭できるようにする。観客は、他人に生じた事柄の証人でしかない。これは丁重さという行動原理とみなすことができる。映画は、堅実だが控えめな手によって導かれた空想である。次の見出しでは、虚構世界が、本当に楽しませるには極端すぎる効果に対する防御を保証しながら、現実の感情を喚起させるために示さなければならない性質を調べる。

第四に、やり方の行動原理によると、映画は、興味を高めるために必要でない限り、あいまいなことや混乱させることを提示してはならない。

こうした行動原理は、何かを生み出すというより制限するものとしてみなされるべきである。それらは、良い映画を生み出すことができないが、逸脱すると、ひどく変わった作品になるかもしれない。だが、伝統的な映画の実用的範囲内にとどまる方法は数限りなくある。笑いも涙も楽しみを与えてくれることができる。楽しませる力は、いとしいと思わせたり、心を動かしたり、驚かせたりする能力から引き出すことができる。こうして、虚構世界の出来事の性質と喚起される観客の感情によって映画のタイプやジャンルを識別することができる。すべてのジャンルは、まだ、これらの行動原理の範囲内にとどまっている。

(見出し「映画が喚起する感情の実用的枠組み」終わり)

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2012年2月24日 (金)

フィルムノワール入門 (42)

Andrew Spicer の "Film Noir" (2002, Longman) の続き。第五章「フィルムノワールの性」。

【男性の犠牲者】

フィルムノワールというと、男性の主人公が魔性の女にだまされて困難に陥るというのが典型的なパターンですよね。クルトニックが受身な男や男性的活力を奪われた男をうまく論じているようです。(F. Krutnik (1991) In a Lonely Street: Film Noir, Genre, Masculinity (Routledge))

魔性の女(femme fatale、ファム・ファタール)はジェームズ・M・ケインの「深夜の告白 Double Indemnity」と「郵便配達は二度ベルを鳴らす The Postman Always Rings Twice」から生まれたものだそうです。

各々の主人公は、中流階級の職業人(保険員)と労働者階級の放浪者で、立派な人物でも無実の人物でもなく、欲望との葛藤に苦しみ、現在の人生の欲求不満から逃れようとしている。ケインの小説の犠牲者たちは、自分の行動を説明するために、自分のことを話したいという衝動がある。彼らにはマゾッ気があるし、自分の性格に自己嫌悪を感じている。

この傾向を推し進めたのがビリー・ワイルダーの「サンセット大通り Sunset Boulevard」(1950)で、ジョー・ギリス(ウィリアム・ホールデン)はサイレント時代の映画スター、ノーマ・デスモンド(グロリア・スワンソン)のつばめになることで卑屈さを思い知る。当時の何人かの解説者は、主人公の偏執症と迫害者的な空想を、受身の同性愛に対する恐怖に関連づけた。彼らによると、受身の同性愛は、戦後のアメリカ男性の心理構造において重要な要素である。(J. Buchsbaum (1992) "Tame Wolves and Phoney Claims: Paranoia and Film Noir" in Cameron (ed.) The Movie Book of Film Noir (Studio Vista))

より無実の男性犠牲者は、自分が犯していない犯罪にはめられた男である。「幻の女 Phantom Lady」(1941)でアラン・カーティスが演じる若い実業者、「死を呼ぶ名画 Crack-Up」(1946)でパット・オブライエンが演じる美術専門家、「大時計 The Big Clock」(1948)でレイ・ミランドが演じるジャーナリストは、立派な中流階級の職業人である。

「タイムリミット25時 Dealine at Dawn」(1946)の田舎者水夫(ビル・ウィリアムズ)や「ギャングを狙う男 99 River Street」(1953)の元ボクサーの配達人(ジョン・ペイン)のように、労働者も、まずい時間にまずい場所にいたために犠牲者となることがある。これらの犠牲者たちは逆境から抜け出すために戦い、英雄的な活力、回復力、勇気を見せたり、救いを求めたりすることが多い。だが、記憶喪失の退役軍人の話やコーネル・ウールリッチを原作とした作品のように、自らの正気に疑いを持つことも多い。

弱さを持ち、混乱しており、他人からの助けを求める主人公は、同情を呼ぶ普通の男性の場合もある。ジャック・ターナーの「夕暮れのとき Nightfall」(1957)はデビッド・グーディスの小説が原作である。彼の作品の主人公は自己認識が不安定な脱落者が多い(トリュフォーの「ピアニストを撃て」の原作者も彼です)。

この映画については2010年7月21日にこのブログで書いているので、あらすじはそちらで確認していただくとして、付け加えると、アルド・レイの繊細で、美しく判断されている演技によって、もろくて魅力的な人物が作り出されているとほめています。彼は、再び自分の人生をコントロールしようともがいているが、そうすることができずに、アン・バンクロフト演じるモデルに裏切られたと感じている。最終的に、彼女を信頼するようになり、彼女からの助けを受ける。私の感想にも、「アルド・レイとアン・バンクロフトのコンビが共感を呼ぶので、二人がどうなるのかという興味が持続する」って書いています。

参考文献の追加

デビッド・グーディスについて
W. Haut (1995) Pulp Culture: Hardboiled Fiction and the Cold War (Serpent's Tail)

ジャック・ターナーについて
C. Fujiwara (1998) The Cinema of Nightfall: Jacques Tourneur (John Hopkins University Press)

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2012年2月23日 (木)

映画と感情: Emotion and the Structure of Narrative Film (19)

テーマを展開していくうちに、映画は二つのことを成し遂げる。観客を楽しませるだけでなく、短い経験以上のものを与える。各作品は、なんらかの絶対的基準に基づいて主題の複雑さや関連性を正当化するようなやり方によって主題すべてを扱っているわけではない。だが、これは、劇映画が重要な問題を扱うことができないということではない。特に、テーマの重要性が、絶対的な基準ではなく、特定の観客のニーズによって判断される場合がそうである。さらに、観客が特定のテーマに高い重要性を置くにつれ、緊張を作り出して最終的に解消させるために映画のストーリーの中で特定のテーマをより効果的に使用することができる。より根本的な真実を調べたり、秘密の恐怖をあばきだしたり、思いがけない可能性を明らかしたりすることは、没頭や緊張を喚起するのに適した複雑なテーマの力である。緊張を和らげるという第一の動機を満足させることによって、感情の持続や認知学習など、他の動機の満足が排除されることはない。個々の作品によって他のどんな心理的機能がどの程度実現できるのかは、ある程度ジャンルによって異なる。

二番目のアプローチは、より社会に関連したものである(一番目はテーマによるアプローチ)。ここでは、映画に行くことと映画自体から得る喜びを区別していて、前者にはあまり重点を置いてこなかった。だが、これまで扱ってきた動機のいくつかには社会的な関連性がある。たとえば、自分の基準が正当だということを確かめたい欲求と、集団への参加が強化されるのを確かめたいという欲求は、社会化と団結促進という社会的機能の心理的な対応物である。だが、ここで提示した見方からすると、こうした社会的機能は、映画を見に行くという行動とは結びついておらず、むしろ、劇映画の中の識別できる要素と結びついている。すべての映画が社会的な動機を満足させることができるわけではない。人気のあるアクション映画やコメディは、積極的に観客の偏った好みを導く。これは、登場人物の態度、動機、性格に関して観客に画一の見方をもたらす傾向がある。登場人物の態度、動機、性格は、そのような見方への積極的であからさまな参加に必要な条件である。一緒に笑ったり、ブーイングをしたりすることによって楽しみが増す。マンキーウィッツの「裸足の伯爵夫人」といった心理ドラマなどは、そのような反応を引き起こしにくい。だが、最も重要な動機である没頭と緊張緩和は、重要な社会的含みがあるものの、まずは心理に関することである。これらの心理的動機が伝統的な劇映画に対する観客の見方に影響を与えるというのが、この章で提示した、経験に基づく主張であり、心理研究によって吟味する必要がある。

伝統的な劇映画の観客が共通して持っているのは、導かれた空想と閉じられたエピソードの範囲内で、できるだけ強烈で豊かな感情を経験したいという欲求であると言うことができる。

(第二章「映画鑑賞の心理的機能」終わり)

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2012年2月22日 (水)

MGM以降のキートン作品集 (16): エデューケショナル社最後の三本

エデュケーショナル社のキートン主演短編16本のうち14本目から16本目。

  • Jail Bait (1937年1月公開) 「囮(おとり)」
  • Ditto (1937年2月) 「うり二つ」
  • Love Nest on the Wheels (1937年3月) 「車つきの愛の巣」

監督はいつものチャールズ・ラモント。このうち、「うり二つ」は日本公開されたようですが、ほかの二本は未公開で、題名はキネ旬の「世界の映画作家26:バスター・キートンと喜劇の黄金時代」によるもの。キートンの短編がここで終わったのは、キートンのせいではなく、会社のせいらしい。エデュケーショナル社の短編を配給していた20世紀フォックスが1937年に短編の配給をやめたうえに、同年にエデュケーショナル社のスタジオで火事が起こり、サイレント映画がほとんど失われたそうです。で、経営が行き詰まり、キートンはMGMに戻ることになります。

「囮」は傑作です。脚本が良くできているし、キートン特有のナンセンスギャグがあるし、テンポも良い。おなじみハロルド・グッドウィンが、いつものライバルではなく、同じ部屋に住んでいる親友で、キートンは新聞社の使い走り、グッドウィンは新聞記者。殺人事件が起こり、グッドウィンが真犯人を割り出し、彼を探す時間が欲しいので、キートンを仮の犯人に仕立てて、自首させる。グッドウィンが真犯人をつかまえて、キートンを釈放させるという段取りだったのですが、なんと、グッドウィンが乗った飛行機が事故を起こし、グッドウィンは死んでしまう。刑務所の中でキートンがその事実を知るシーンが素晴らしい。看守が持っている新聞をもらい、新聞を広げます。キートンの顔が新聞紙で完全にさえぎられ、画面にはキートンが読んでいない面がデカデカと写ります。そこには、彼が乗った飛行機の写真とともに、全員死亡という見出しが掲載されています。で、キートンが新聞をひっくり返すと、また、キートンの顔が完全に隠れますが、手がわなわなと震えて、新聞紙全体が震えます。

少し前、自首した重要犯罪者を警察が門前払いしたという実話がありましたが、キートンも自首するときに、なかなか警察が逮捕してくれない。警官が電話をかけているそばで不審な行動をするキートンがテンポよく笑わせてくれますが、警官は電話に夢中でキートンの不審な行動に気づかない。キートンがあきらめて立ち去ろうとすると、風でキートン帽が飛んでしまう。芝生の上に落ちた帽子を取ろうとすると、別の警官がやってきて「そこは立入禁止だ」と言って警察署にしょっぴく。自分が意図したことでは逮捕されずに、意図しないことで逮捕されるナンセンスさ。

警察署の署長は温厚な人で、キートンが逮捕されるために自分の悪事を言い立てても、深い思いやりによって、なかなか逮捕してくれない。「自分が、あの事件の殺人犯だ」と言うと、やっと逮捕される。

刑務所の独房も逃げてくださいといわんばかりの整備ぶりで、まず、窓の鉄格子がくさっていて、すぐに外れてしまう。寝ようとすると、枕の下には糸ノコが置いてある。

キートンがグッドウィンの死を知り、脱獄を試みようと、鉄格子を直しに来た看守を殴り倒し、看守になりすまして廊下に出ると、ちょうど囚人たちが暴動を起こしているところで、囚人の一人に警棒で殴り倒される。急いで元の囚人服に戻って、廊下に出ると、囚人たちを追いかけている看守の一団が通り過ぎるところで、そのうちの一人から警棒で殴られる。キートンは表が看守の制服、裏が囚人服という格好になって、臨機応変に対処する。この辺、テンポが良いし、キートンがやることが裏目に出るのが何度か繰り返されたあと、うまく工夫して難を逃れるのがキートンらしい。

脱獄したキートンは他の囚人たちと隠れ家に逃げ延びるが、そこに殺人事件の真犯人がいて、それを知らずに事情を打ち明けたものだから、キートンは銃殺されそうになる。そこに警官隊がやってきたので、真犯人は秘密の穴から逃げ出すが、キートンが追いかけていって、やっつけて、警察に連行して、めでたし、めでたし。

「うり二つ」は、美人の双子姉妹を一人の女性だと勘違いしたキートンが混乱してしまう話。面白くなりそうなシチュエーションなのに、ほとんど面白くない。美人を見るとすぐに好きになって、ストーカーみたいになるキートンは好きじゃない。

「車つきの愛の巣」は、とんでもなくいい加減な田舎のホテルに新婚夫婦が泊って、散々な目に会うという話。キートン一家と、ロスコー・アーバックル作品に一緒に助演していたアル・セント・ジョン(アーバックルの甥っ子)が出ています。エデュケーショナルの三作目「キートンのレスリング」もそうでしたが、なぜかキートン一家が出ると「じゃじゃ馬億万長者」みたいな田舎っぺの話になってしまう。ドタバタしているわりに面白くない。

キートンは1940年ごろ、コロンビアで10本ほど短編映画を作っていて、それらが収められたDVDも持っているのですが、さらに情ない作品群なので、はじめに戻って、キートンが助演していたアーバックル作品を見ていこうと思います。それらのサイレント短編はアメリカの Kino からも出ていますが、キートン主演の短編も収録されたイギリス盤がお得。"The Fall of Buster Keaton: His Films for MGM, Educational Pictures, and Columbia" を書いた James L. Neibaur は "Arbuckle and Keaton" という本も書いています。

エデューケショナル時代の短編主演作品(★★★★★満点)

  1. The Gold Ghost (1934) 「キートンの黄金崇拝」 ★★
  2. Allez Oop (1934) 「キートンの頓馬同盟」 ★★
  3. Palooka from Paducah (1935) 「キートンのレスリング」 ★★
  4. One Run Elmer (1935) 「キートンの野球大当り」 ★★★★
  5. Hayseed Romance (1935) 「田舎者のロマンス」 ★★★
  6. Tars and Stripes (1935) 「キートンの脱線水兵」 ★★
  7. The E-Flat Man (1935) 「キートンの自由結婚」 ★★★
  8. The Timid Young Man (1935) 「内気な青年」 ★★★
  9. Three on a Limb (1936) 「三つ巴」 ★★
  10. Grand Slam Opera (1936) 「キートンの大放送」 ★★★★
  11. Blue Blazes (1936) 「青い炎」 ★★★
  12. The Chemist (1936) 「くすリ屋」 ★★★
  13. Mixed Magic (1936) 「キートンの大魔術」 ★★★
  14. Jail Bait (1937) 「囮(おとり)」 ★★★★★
  15. Ditto (1937) 「うり二つ」 ★★
  16. Love Nest on the Wheels (1937) 「車つきの愛の巣」 ★★

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1979年2月第3週に見た映画の当時の感想

当時の感想が押し入れにあったので、転載します。これらは、私のウェブサイトの「映画鑑賞記録」に転載するときに、昨日書いたものに組み入れます。

「サード」

東陽一の「サード」は、少年院に入っている少年の話で、少年院というと「不良少年」を思い出す。「不良少年」は即興的なところが大いにあって異色だったが、そうする必然性があったとは思えない。「サード」では、数人の少年と教官によるミーティングで即興らしいところがあった。しかし、全体としては、そうではない。即興からなにかを生み出そうとする羽仁進とちがって、このワンシーンにおける即興には、それ自体の面白さ以外なにもない。そのシーンだけが素晴らしくても、全体としては浮いてしまうシーンなのである。アッという間だったが、このシーンにはワクワクするものがあった。(現在の私の注:結局、そのシーンが良かったのか悪かったのかよくわからないけど、その即興シーンは全体からみると違和感があるけれど、そのなかにワクワクする瞬間があったということか。)

作者は、すでに考えを持っている。青年は、ホームベースを持っていない。つまり、目的なく走るだけであるというのである。「長距離ランナーの孤独」の主人公は、自らゴールを放棄してしまった。そのゴールが真実のゴールではなかったから。そのとき以来、ゴールは見つからなくなってしまった。大人の作ったゴールを否定した若者は、20年近く、ゴールを探し続けたが、見つからないのである。「サード」では、もう、ゴールを見つけるようなことはしない。初めからホームベースはないのである。いや、サードをまわって初めてホームベースがないことに気づく。しかも、ないと知りながら、なお走らなければならないのである。

ところで、日本の最近の青春ものは、なぜ、かくも暗いんだろう。日本だけではない。アメリカにおいても、「アメリカン・グラフィティ」というノスタルジーの世界でしか、青春は美しくないのである。ポール・ニザンの有名な言葉があるが、その対となる「青春は美しい」というのは、青春を過ぎたものが青春をなつかしむ言葉で、ポール・ニザンの言葉と矛盾はしない。青春は苦くてしかるべきであり、その心は暗いだろう。いまや、青春期に心を輝かせている青年は異常である。

本当のことを言うと、このありふれたテーマは我々にはどうでもいいことなのである。東陽一がどういう人か知らないが、あの藤田敏八は、あきもせず青年の話を語り、自分がまだ青春から離れたくないようでもあったが、「帰らざる日々」は、少しさめている。東陽一は、なにゆえ、我々若者にこんな暗い青春を見せるのだろう。

「ホットロック」

主人公ら四人組はダイヤをめぐって、四つか五つぐらいの仕事をし、だから、見せ場がそれだけある。なにしろスポンサーが強力だから、ヘリコプターを使ったり、爆弾を使ったり、トラックを使ったり、そりゃあスゴイんですよ。仕掛けはスゴイんだけれども、どうもこじんまりとしているのはドウイウわけでしょう。全体もこじんまりしてて、最後の仕事なんか、実にアッサリしています。でも、最後のが一番頭を使ったようです。

全体があっさりしているのは、仕事と仕事の間に、さほど関連がなく、つまり、仕事の積み重ねによってだんだんスゴクなっていくのではなく、面白さは、個々の仕事の大きさ分だけしかないのだ。たとえば、「スティング」を見よ。トランプのところは、最後の仕事の予告にしか過ぎないのである!!四つの仕事をつなげるなら、しだいに倍加させるようにしたらどうだ。でも、ダイヤのことだけで、ほかの話(たとえば恋愛の話)がまるで出てこないのが、このゲーム映画の楽しさであります。

「ストレート・タイム」

映画は歴史の流れと結びついている。アメリカ映画は、映画が出てきて以来、夢を作り続けた。それはフロンティア精神と結びつき、人間の善良な面をたたえていた。一方で、人間の現実を見つめる映画も少しずつ作られ、両者はほどよいバランスをとっていた。しかし、60年代に入り、アメリカは自己を否定し始めた。60年代後半になると、それは全面的になり、アメリカン・ニューシネマという流行にもなって、人々は現実離れした作品を否定した。ところが、ニューシネマの波が消えてしまうと、またアメリカ映画はさらに夢を求めるようになった。

ここに「ストレート・タイム」という作品がある。主演のダスティン・ホフマンは明らかにアメリカン・ニューシネマの残影を背中にしょっている。この前科者は、社会に復帰できず、また犯罪を行う。犯罪をスポーツみたいに行うことにアメリカらしさを感じるが、ここでは、それ以上に主人公を浮き彫りにしようとする。その結果、犯罪はみごとにチャチなものになっている。アメリカが個人を追求するなんて無理な話だ。いや、社会が悪いのか。「暗黒街のふたり」のほうがいい。

「ザ・ドライバー」

「ザ・ドライバー」では、演出の下手さは、ミスキャストのおかげで、あまり目立たない。もしジャン・ピエール・メルビルがこれをやったら、もっと良かっただろう。もちろん主演はアラン・ドロンがいい。ライアン・オニールみたいな坊ちゃんが無表情な犯罪人をやるなんて誰が考えるのだろう。イザベル・アジャーニ、ブルース・ダーンとの三人は学芸会も真青な犯罪ごっこをやっている。これは芸能人のかくし芸大会に似ている。真面目にやろうとしているので、さらにシラケる。それにしてもディテールの大味なこと、あるいは、まちがった雰囲気はどうだ。いやいや、やはり、この映画の責任はライアン・オニールにある。犯罪人の魅力、これが犯罪物のすべてではないか。

「結婚しない女」「ミスター・グッドバーを探して」

「結婚しない女」の有閑マダムたちの話の中に「昔はベティ・デイビスやキャサリン・ヘップバーンやスーザン・ヘイワード、ジョーン・クロフォードなどのいい女がいたのに、今はバーバラ・ストライサンドとジェーン・フォンダだけだわ」といった風な会話があったが、今流行の女性映画は結局これから発しているのである。女性映画を流行らせようとするのは、女性の立場を考え直そうとする姿勢からではなく、女にも稼がそうとするアメリカ映画会社のえげつない考えなのである。女性が主演していれば、内容にかかわらず、女性映画になりうる。

昨年封切られた女性映画の中で立派な作品は「ジュリア」だけだ。「結婚しない女」も「ミスター・グッドバーを探して」も、内容からみると、実に浅いのである。特に女性の問題は、女性→人間全体へといったさらに普遍的なものにすると、女性問題じゃなくなるので、限界が生じる。ところが、「結婚しない女」は、女性の自立といった問題に対しても、まったく題材として扱っておらず、主人公の女性は、夫の浮気問題で離婚するが、それから先どうしてよいかわからず、結局また別の男とくっついて幸福だと思う。離婚して、あれこれ悩み、自分の道を切り開くという話ならまだわかるが、主人公は悩み抜くことを放棄して、男と一緒になり、安住の地を求める。話が話として終わってしまい、私はとりたてて変わった映画を見ずじまいである。いや、この映画に対しては嫌悪してしまう。真実の瞬間を見せてくれるのかと思いきや、話が途中で落ち着いて、そこでゴールまで来たと思っている女の幸福そうな笑顔を見るのが、どんなに嫌悪感を伴うことか。これでは、女性映画ではなくて、いいや、女性が出ているから女性映画なんだけど、内容的には女性軽蔑映画ではないか。しかしながら、マザースキーも女性映画を意識しながら撮ったようなところがあって、けっこうしたたかだったりして。

一方の「ミスター・グッドバーを探して」は、内容的には、女性に限った問題ではなくて、人間の深い所を探ろうとした映画だ。しかしながら、我々は、ただ色情狂の女性を見せつけられるだけで、いいや、色情狂というほどでもないけど、愛から遠く離れた女性を見る。彼女のポリオがどう今とつながるのかがよくわからないが、愛なき世界を見るのは耐えがたい。

「結婚しない女」も「ミスター・グッドバーを探して」も、女性映画としては失敗作である。たとえ、この二作の興行成績が良かったとしても、この二人の女性がこれらの映画によってプラスとなるようなことはないんじゃないか。たとえ、問題作として話題になっても、彼女らを神話に近づけるイメージはなく、逆に神話から遠ざけるようなものではないか。しかも「結婚しない女」は、ジル・クレイバーグという女優のワースト・アクトレスに向かわせる記念的作品になるであろう。

P.S. 「結婚しない女」の中で、ジル・クレイバーグが吐いて、その汚物がリアルに出てきたり、犬のクソうんぬんとか、アイスクリームをなめる舌のいやらしさとか、クソリアリズムが出てくるが、これらにはポール・マザースキーの軽率さ加減が出ている。実際、それらがなにか役に立ちましたか。ろくな監督じゃない。

P.S. ジル・クレイバーグがやたらパンティ姿で出てくるが、みっともないなァ。

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2012年2月21日 (火)

1979年2月第3週に見た映画

2月20日(火) サード (テアトル新宿) 4点
2月20日(火) ホットロック (新宿ローヤル) 4点
2月21日(水) 県警対組織暴力 (新宿昭和館) 4点
2月21日(水) 網走番外地・荒野の対決 (新宿昭和館) 3点
2月21日(水) ザ・ゴキブリ (新宿昭和館) 1点
2月23日(金) ストレート・タイム (池袋テアトルダイヤ) 3点
2月23日(金) ザ・ドライバー (池袋テアトルダイヤ) 3点
2月23日(金) ミスター・グッドバーを探して (池袋文芸坐) 3点
2月23日(金) 結婚しない女 (池袋文芸坐) 3点

今、特に語りたい映画はないので、ざっと見ていくことにします。

「サード」は、東陽一監督、永島敏行主演で、脚本寺山修司、共演森下愛子、吉田次昭、島倉千代子ら。1978年の1位で、4位「事件」、5位「帰らざる日々」にも主演した永島が鮮烈なデビューを飾ったのでした。読者選出では、「帰らざる日々」「事件」「サード」と金銀銅を独占。今は、すっかり農業好きのおじさんになってしまいました。1979年の2月20日に見てるってことは、キネ旬で1位になったから見に行ったのでしょう。

「ホットロック」がこの頃名画座でかかるのは珍しいんじゃないか。さすが、アクション専門一本立て新宿ローヤル。1972年のロバート・レッドフォード、ジョージ・シーガル主演の泥棒コメディ。監督ピーター・イェーツ、原作ドナルド・E・ウェストレイク、脚本ウィリアム・ゴールドマン、音楽クインシー・ジョーンズという面白そうな人たちが関わっているわりには生ぬるいできばえで、今ひとつだったような気がします。

昭和館の三本立ては深作欣二監督の「県警対組織暴力」がお目当て。1975年の東映映画で、脚本も「仁義なき戦い」の笠原和夫。菅原文太を筆頭に「仁義なき戦い」の流れで作られた作品だけど、文太は警察側。警察の文太と山城新伍が取り調べでヤクザの川谷拓三に暴行を加えるシーンが有名。「仁義なき戦い」ほどはワクワクしませんでした。1975年のキネ旬21位で、読者は9位。

1965年から始まった「網走番外地」は1967年の10作目までが石井輝男監督で、1968年から「新網走番外地」がスタートし、最初はマキノ雅弘監督でしたが、その後は降旗康男が主に監督し、1972年まで8本作られました。だから全体では18本。1966年には4作目から7作目までの4本が作られていて、「荒野の対決」は5作目。田中邦衛が9作目まで健さんの弟分として出演しています。田中邦衛は、同時期に「若大将」シリーズで加山雄三のライバルとしても活躍していたし、テレビでは1966年の「若者たち」で好評を得ていました。

「ザ・ゴキブリ」は1973年の石原プロの映画で、小谷承靖監督、渡哲也主演。同じ年に「ゴキブリ刑事(デカ)」というのが作られており、その第二弾。ダーティハリーの日本版か?渡哲也は1974年にNHKの大河ドラマ「勝海舟」に主演するのですが、胸の病に倒れ、松方弘樹と交代します。翌年の復帰作、深作欣二監督の東映作品「仁義の墓場」で鬼気迫る演技をしましたが、また療養生活に入り、再再起作の深作作品「やくざの墓場・くちなしの花」も好評でした。

ダスティン・ホフマンは今年で72歳になるのか。彼の前作「マラソンマン」は面白いスリラーでしたが、「ストレート・タイム」はまったく印象にない。それにしても、この頃年1本ペースで出演していた作品は充実してるなあ。「わらの犬」「アルフレード・アルフレード」「パピヨン」「レニー・ブルース」「大統領の陰謀」「マラソンマン」と出演してきて、このあとは「アガサ・愛の失踪事件」「クレイマー・クレイマー」「トッツィー」だもんなあ。

「ザ・ドライバー」は、ウォルター・ヒル監督の「ウォーリアーズ」の前の作品。もともと「ゲッタウェイ」などの脚本家だった人。イザベル・アジャーニが不思議な役で出ていたのは憶えているのですが、ライアン・オニールが主演だったなんて、すっかり忘れていました。ブルース・ダーンが刑事役で出ていたのか。

「ミスター・グッドバーを探して」は、学校の先生が夜な夜なバーで男をあさる話。「アニー・ホール」でアカデミー主演女優賞を獲得したダイアン・キートンが次に選んだ意欲作。監督はリチャード・ブルックス。共演チューズディ・ウェルド、ウィリアム・アサートン、リチャード・ギア、トム・ベレンジャーなど。78年のキネ旬16位、読者6位。

同じ年にキネ旬7位だったのがポール・マザースキー監督の「結婚しない女」(読者8位)。ジル・クレイバーグが1978年のアカデミー主演女優賞にノミネートされましたが、「帰郷」のジェーン・フォンダが獲得しました。goo のあらすじによると、夫マイケル・マーフィーから浮気していることを聞かされ離婚した女性が、画家アラン・ベイツと付き合い始めるが、結局は独立した人生を歩み始めるという話らしい。マイケル・マーフィーはアルトマン作品の常連だった人で、「バード・シット」の刑事がカッコよかった。アラン・ベイツは、私がテレビで映画を見始めた70年代初めごろ、60年代の出演作を見て、誠実そうで好感を持ってました。「その男ゾルバ」「まぼろしの市街戦」「フィクサー」といった作品です。でも、この映画の芸術家の役には、さほど興味が持てなかった気がします。ニューヨークのこの手の人たちは苦手。

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2012年2月20日 (月)

映画と感情: Emotion and the Structure of Narrative Film (18)

昨日、福祉相撲にスマイレージが出演するというので、録画して見ていたら、長山洋子が三味線で弾くリフに聴きおぼえが。しばらく考えて、レッド・ツェッペリンの「ハートブレーカー」だと気づきました。これくらいならパクリではなくオマージュなんでしょうかね。なんと、作曲は「天使の誘惑」の黛ジュン。兄は2年前に亡くなった作曲家三木たかし。

萩原舞の「行け!元気君」のシングルDVDがアップフロントの自主製作盤みたいな形で出るんですね。送料まで含めるとけっこうするけど、ヘタッピーなスキップが可愛いから買っちゃえ。

では、16日(木)の続き。

緊張の創出と解消を与えてくれる経験を与えてくれるかどうかを観客が基準にしているという仮定は、観客の動機に何らかの形で関係している理論的・経験的データの体系的な評価に基づいているわけではない。この章では、可能な心理機能すべてを扱うよりも、観客の感情を理解するには何に基づけばいいかを見つけ出そうとした。その答えが示しているのは、観客は特定の感情を経験することを期待して映画を見ているということである。ただ、異なる仮定に導くアプローチがほかに二つある。

最も知られているアプローチは、テーマによるアプローチである。映画が観客を魅了するのは、映画が何かについてだからである。テーマによるアプローチが強調しているのは、緊張の創出と解消よりも特定の内容が重要だということである。だが、テーマの存在は、普通の観客の眼からしても伝統的な劇映画が成功することを保証してるわけではない。ニューヨークの排他的集団の神経症的傾向に関するウディ・アレンの映画は、プロットの展開がなければ、批評家も、伝統的な映画の愛好家も、良い映画とは思わないだろう。成功するには、テーマを良いストーリーに埋め込まなければならない。すべての劇映画が一つ以上のテーマを持っているのは、テーマが良いストーリーを生み出すからである。テーマは、いくつかの複雑な問題を、いくつかのありうる結果と組み合わることで、緊張を創出し解消するのにふさわしい手段となる。テーマは、行動の媒介として作用するだけでなく、緊張の創出を促進するために操作することもできる。「サイコ」の有名なシャワー殺人では、独創的な編集のおかげで、暴力だけでなく、罰も提示している。

映画が描こうとしていることや伝えようとしている信条は、不確かで、予備的でしかないという考え方もある。エドワード・ブラニガン(1992)によると、劇映画が提示している意味は、真実か虚偽かではなく、部分的決定によって特徴づけられる。主題が積極的な役割を果たす展開の中で、指示 (reference) が確立されるものの、これによって必ずしも意味が完全に明確になることはない。ブラニガンは、テーマの意味の予備的な性質が持つ感情面での能力について述べている。「指示が不明確なことは、フィクションに対して観客が特定の強い感情反応を持つことができないということではない。まったく逆で、この不明確さによって、そのような反応が促進されることもある。」

(reference は「指示」のことで、言葉や記号と、それが指し示す外的世界の対象との関係のことだと思います。詳しくないので保留。)

Edward Branigan (1992) Narrative Comprehension and Film (Routledge)

(続く)

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2012年2月19日 (日)

フィルムノワール (295): The Window (1949)

「窓」の監督はヒッチコックの「汚名」で撮影を担当したテッド・テツラフ。1920年代半ばから撮影監督として活躍し、1946年の「汚名」が撮影監督としては最後の仕事だったらしい。監督業には1941年から乗りだしており、「窓」は5作目ぐらい。コーネル・ウールリッチ(ウィリアム・アイリッシュ)が原作で、映画ではイソップの「狼少年」の一節が最初に出てくるけど、原作でも引用しているのだろうか?「狼少年」と言っても、「狼少年ケン」のように狼に育てられた少年の話じゃなくて、いつも「狼が来た」とウソをつくので、本当に来たときに誰も信じてくれない少年の話。イソップ物語の英語題名は "The Boy Who Cried Wolf" で、ウールリッチの原作名は "The Boy Cried Murder" 。

主人公は9歳の少年トミーで、ニューヨークの貧しい一角にあるアパートに住んでいる。隣のビルは廃墟で、子供たちにとって格好の遊び場になっている。ある暑い夜、トミーは非常階段で寝ることにする。涼しそうな上の階に移動するが、夜なか目を覚ますと、その階の夫婦が男を殺害するのを窓ごとに目撃する。そのことを両親に告げるが、いつもウソをついているので信じてくれない。トミーが警察に通報したので、捜査官が夫婦の部屋を調べるが、何の証拠も出ない(死体は隣の廃墟ビルに棄てている)。そのことを母親に告げると、母親はトミーを連れて上階の夫婦にあやまりに行く。その結果、夫婦はトミーが殺人を目撃したことを知る。両親がいない間、夫婦は事故死に見せかけてトミーを殺そうとするが、トミーは廃墟ビルに逃げて、そこで追っかけが始まる。

監督: テッド・テツラフ
プロデューサー: フレドリック・ウルマン・ジュニア、ドア・シャーリー(RKO)
原作: コーネル・ウールリッチ "The Boy Cried Murder"
脚色: メル・ディネリ
撮影: ウィリアム・スタイナー
音楽: ロイ・ウェブ
出演: ボビー・ドリスコール、バーバラ・ヘイル、アーサー・ケネディ、ポール・スチュアート、ルス・ローマン
撮影場所: ニューヨーク
公開: 1949年8月
上映時間: 73分

"Film Noir: An Encyclopedic Reference to the American Style" の解説は次のとおり。1949年に最もヒットしたスリラーのひとつ。ヒッチコック作品の撮影を務めた経験が生きている。「らせん階段」のメル・ディネリがうまく構成した脚本も貢献している。野外撮影によるアメリカの都市風景は、暑い太陽に焼かれる廃墟ビルとともに、まるで地獄のようだ。みすぼらしい通りは高架鉄道に取り囲まれており、住人の生活の質と調和している。このような世界は、アメリカの自由の夢とは正反対のものである。母親がアパートの外に出てはいけないと言うと、トミーが「どこにも出ていくところはないよ」とそっけなく返事するのも、むべなるかな。

私は単純にスリラーとして面白くて、この頃のアメリカの生活はこんなものかな程度にしか思いませんでしたが、フィルムノワールの観点から見ると、そういう重苦しい環境が浮き上がってくるのでしょう。

"Film Noir Guide" では五つ星満点の四つ星。ボビー・ドリスコールはRKOがウォルト・ディズニーから借りた少年で、この作品の演技によってアカデミー特別賞をもらいました。10代になると人気が急落し、薬に走ります。1968年に心臓まひで31歳で亡くなるのですが、死体が発見されたのは「窓」のような放棄されたビルの中でした。身元不明の人物として葬られた一年後、指紋によって、かつての名子役だと判明しました。

コーネル・ウールリッチの原作と映画の関係については "Cornell Woolrich from Pulp Noir to Film Noir" という本が面白そう。

"Film Noir Guide" から。

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2012年2月18日 (土)

フィルムノワール (114): High Wall (1947)

本日は仕事のノルマを早めに達成したので、二本目の記事。カーティス・バーンハート監督、ロバート・テイラー、オードリー・トッター主演のMGM映画 "High Wall"。

オードリー・トッターは、ロバート・ワイズ監督の「罠 The Set-Up」(1949)でロバート・ライアン扮するボクサーの妻を演じているのを見て、西川史子女医に似てるなあと思ったので、この映画の精神科医はピッタリ。いつも上品で簡素なスーツを着こなし、ツンとした感じがいい。しかも、デレっとするのは最後の最後で、それまでは職業に徹しているのが素敵です。

監督: カーティス・バーンハート
プロデューサー: ロバート・ロード(MGM)
原作: アラン・R・クラーク、ブラッドベリー・フート(小説と演劇)
脚本: シドニー・ベーム、レスター・コール
撮影: ポール・ボーゲル(白黒)
音楽: ブラニスロー・ケイパー
公開: 1947年12月
配給: MGM
上映時間: 100分

2月3日のフィルムノワール入門(40)で Andrew Spicer の Film Noir に書いてあることを次のように訳しています。(ネタばればれなので、これから見ようという人は気をつけてください。)

主人公は空軍のパイロットだったスティーブ・ケネット(ロバート・テイラー)。彼の頭には血の固まりがあって、ひどい頭痛と記憶喪失に襲われる。彼は妻を殺してしまったようだが、そのときの状況を思い出せない。医師アン・ロリソン(オードリー・トッター)による麻酔療法によって当時の状況を思い出そうとする。彼の回想は主観的に表現される。彼が不実な妻のおびえる顔に近づいていくのを彼の視点から描き、嫌悪の表情が妻に迫ってくるのを彼女の視点から描いている。二人のバストショットになり、ケネットが妻の首を絞めようとしているが、彼の手の力が弱まり、頭を抱えて倒れる。彼が気を失うのは渦巻状の溶暗で表現され、そこでは回転木馬が回っている。その場所は妻の愛人ウィラード・ウィトコム(ハーバート・マーシャル)の家で、彼がその家を再び訪ねると、取っ組みあっている間に床に落ちたオルゴールの音によって回転木馬の映像が浮かび上がったことを思い出し、本当の殺人者がウィラードであると理解する。

あらすじは、軍隊から戻ったスティーブは、妻がウィラードと浮気をしているのを知り、妻の首を絞めようとしているときに気を失う。気がつくと死んだ妻とともに車に乗って自殺を試みようとしている。精神病院に入れられ自暴自棄になるが、一人息子が孤児院に入れられるのが忍びないので、立ち直ろうとする。女医アンの麻酔療法によって殺人のことを思い出すが、気を失っていたために肝心の部分がわからない。精神病院を脱走し、調べていくうちに、ウィラードが犯人だとわかる。アンが麻酔療法でウィラードに白状させる。

"Film Noir: An Encyclopedic Reference to the American Style" の解説には、バーンハートはドイツの亡命者で、心理的な含みのあるスリラーが好きで、この普通のメロドラマをフィルムノワール風演出で飾り立てていると書いていあります。ボーゲルのカメラワークとMGMのしっかりした製作基盤もほめています。それから、上述の主観カメラについて。ハーバート・マーシャルの悪役ぶりも素晴らしい(彼は片足が悪いので、彼が歩く姿を見ると気になってしょうがない)。印象的なのは事件の目撃者を殺害するシーンです。目撃者はウィラードが住む高級アパートの雑役係なんですが、雑役係が椅子に乗ってエレベーターを修理しているときに、椅子の足を傘で小突いて、開いているエレベーターのドアから突き落とします。簡潔に描いているのがかえって怖し、雑役係が落ちる間にあげる叫び声がゾッとします。

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21世紀のRTを楽しむ: Front Parlour Ballads (序文)

サンディ・デニーの楽譜 THE SANDY DENNY COMPLETE SONGBOOK なるものが千部限定で発売されるというので、早速注文。注文ページに日本円表記があって本体3300円、送料1100円(さっき見たら800円に下がっていました)。PayPalを通じての注文。昔、渋谷道玄坂のヤマハに輸入楽譜が置いてあって、フェアポートの2枚目と3枚目が一緒になったのと4枚目から6枚目が一緒になったのと二種類あったのですが、当時はイギリス民謡に凝っていたので、後者を購入したのが悔やまれます。まだアメリカのフォークロックの影響が残った2枚目 What We Did on Our Holidays と3枚目 Unhalfbricking が傑作だと今は思っているので。4枚目 Liege and Lief は民謡中心の画期的なアルバムでしたが、フェアポートの音楽の幅を狭めた気がします。民謡以外のものも歌いたかったデニーと、もっと民謡色を強めたかったアシュリー・ハッチングスが脱退することになるという皮肉な結果をもたらしたアルバムです。

リチャード・トンプソン (RT) は5月から新作の録音。今年中には出る予定。前作 Dream Attick のドラムのマイケル・ジェロームとベースのタラス・プロダニュクとの三人組らしい。

35年前に好きになったミュージシャンが、商業主義に堕することもなく、独断的な世界に陥ることもなく、たゆまぬ努力を続けている姿を見せてくれていることがありがたい。

RTは昨年4月にソロコンサートを日本で開く予定でしたが、東日本の災害によって延期しました。今年は同じ時期に同じ場所でコンサートを行うようです。ただ、ギター一本のコンサートは私にはきつい。バンドでなら大阪でも行こうかどうしようか迷うところですが、母のことや自分の健康状態が気になるので、やっぱりダメかな。こないだ発売されたDVDで我慢しよう。

「21世紀のRTを楽しむ」シリーズ、昨年の Old Kit Bag (2003) に引き続いて、今年もやります。今年は Cooking Vinyl から2005年に出た Front Parlour Ballads。13曲入っていて、もう2ヵ月もたってしまって、今年中に終わるかな。RTのサイトで曲目や歌詞を見ることができます。一応、ここでも曲目だけは列挙しておきます。

  1. Let It Blow
  2. For Whose Sake?
  3. Miss Patsy
  4. Old Thames Side
  5. How Does Your Garden Grow?
  6. My Soul, My Soul
  7. Cressida
  8. Row, Boys, Row
  9. The Boys of Mutton Street
  10. Precious One
  11. A Solitary Life
  12. Should I Betray?
  13. When We Were Boys At School

メロディは親しみやすいけど、ほとんど生ギター一本で歌っているという私の苦手なパターン。ギターの技法はわからないので、歌詞を調べるつもりです。2006年のDVD1枚プラスCD2枚の 1000 Years of Popular Music で活躍していた女性パーカッショニスト Debra Dobkin が二曲ほど参加している以外は、RTがたまにエレキギターやハーモニウムを弾いている程度。来週あたりからボチボチやります。

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2012年2月17日 (金)

フィルムノワール (254): Stranger on the Third Floor (1940)

本日はフィルムノワール入門をお休みにして、今日見て面白かった "Stranger on the Third Floor" について。字幕なしの米盤を購入しました。最初のフィルムノワールと言われている作品ですが、フィルムノワール作品リストには、もっと古い作品も含まれています。60分少々のB級映画で、これがけっこう拾い物。

監督: ボリス・イングスター
プロデューサー: リー・マーカス(RKO)
脚本: フランス・パートス
撮影: ニコラス・ムスラカ
音楽: ロイ・ウェブ
モンタージュ: バーノン・L・ウォーカー
出演: ピーター・ローレ、ジョン・マクガイア、マーガレット・タリチェット、イライシャ・クック・ジュニアほか
公開: 1940年9月
配給: RKO
上映時間: 64分

ネームバリューのためかピーター・ローレが主演となっていますが、重要な役どころで要所要所に出るだけ。主演は新聞記者ジョン・マクガイアと恋人のマーガレット・タリチェット。タリチェットはけっこう美人で、1938年にウィリアム・ワイラー監督と結婚しており、1981年に監督が亡くなるまで連れ添いました。1939年の「風と共に去りぬ」のスカーレット・オハラ候補の一人だったそうです。

【あらすじ】

新聞記者マイク・ワード(ジョン・マクガイア)は、殺人容疑で逮捕されたタクシー運転手(イライシャ・クック・ジュニア)の裁判の証人として注目を浴びていた。マイクの証言は状況的なものだったが、有罪の評決が下され、死刑が確定した。マイクの婚約者ジェーン(マーガレット・タリチェット)は、タクシー運転手が無実だと信じ、マイクに無実を証明するよう勧める。ある夜、アパートに帰宅途中のマイクは白いスカーフの男(ピーター・ローレ)をアパートの外で見かけ、さらにアパートの階段に潜んでいるのを見かける。その後、マイクは、隣の年配の男性のいびきが聞こえてこないのに気づき、死んだんじゃないかと心配し始めるが、椅子に座ったまま眠り込んでしまう。夢の中で、マイクは隣人殺しの罪で逮捕され、裁判にかけられ、有罪宣告を受ける。電気椅子に縛りつけられると、処刑を見るために、死んだはずの隣人が笑いながらやってくる。悪夢から覚めたマイクが隣人の部屋に駆け込むと、隣人は殺されている。マイクは、白いスカーフの男が怪しいとにらみ、警察に通報するが、警察はマイクを怪しいとにらむ。ジェーンは、白いスカーフの男を捜し回り、奇妙な小男を見つける。彼女は彼から情報を求めるが、彼はおびえる。彼がジェーンをおどすので、ジェーンが通りを横切ると、追ってきた男はトラックにひかれて死ぬ。

この作品は、フィルムノワール入門で取り上げている Andrew Spicer の "Film Noir" が何か書いていました。調べてみると、昨年9月30日に次のように書いています。

フィルムノワールは、オーソン・ウェルズ監督とグレッグ・トーランド撮影監督の「市民ケーン」(1941)にかなり影響を受けているというのは第1章で述べたとおりとありますが、すでに忘れちゃいました。ようするに、「良質な映画」の華やかなスタイルに対抗するきっかけを作ったのが「市民ケーン」ということでしょう。しかし、ボリス・イングスター監督、ピーター・ローレ主演のRKOのB級映画 "Stranger on the Third Floor" が最初のフィルムノワールとされており、これは「市民ケーン」よりも7ヵ月前の1940年9月に公開されています。(最近、1939年に公開された "Let Us Live" と "Rio" というユニバーサルの二本のB級映画と "Blind Alley" というコロンビア映画が最初のフィルムノワールだと主張する研究家がいるそうです。Arthur Lyons (2000) Death on the Cheap: The Lost B Movies of Film Noir (Da Capo) 参照。)

ウーファで働いていたイングスターはドイツ表現主義を自由に駆使していて、特に中間あたりでジョン・マクガイア扮するリポーターが夢を見ます。イライラする隣人を殺した罪で自分が裁かれているという悪夢で、以前このリポーターの証言のせいもあって無実の男が殺人で有罪となったことがあり、その罪の意識を反映したものです。「カリガリ博士」から直接影響を受けた影、抽象的なデザイン、照明が特徴のようです。目が覚めたら隣人の喉がナイフで切られており、自分自身がやったのか、ピーター・ローレ扮する謎の男がやったのかで苦しみます。撮影監督はニコラス・ムスラカです。ドイツ表現主義に基づいた独創的な視覚スタイルによって、夢と現実があいまいになる妄想的な罪の意識をフロイト風に描いた力強い作品だそうです。アメリカのワーナーからDVDが発売されていますが、字幕はないようです。

で、そのDVDを今日見たわけ。上記のあらすじは "Film Noir: An Encyclopedic Reference to the American Style" に書いてあるものですが、同じ本から解説を読んでみます。

この映画は最初の本当のフィルムノワールであり、1930年代のミステリー、犯罪、探偵、ホラーといったジャンルの映画とは、スタイルと内容の点で一線を画す。まず、夢と現実の境目がぼやけている。だが、より重要なのは、「市民ケーン」の一年前に作られた、この無名のB級フィルムノワールが、アメリカの犯罪映画へのドイツ表現主義の影響を明確に示していることである。妄想と息がつまりそうな感じを強調しているパートスのストーリーと脚本は、スタジオのセットの非常に人工的な演出を通じて具体化されている。イングスターのドイツ風な演出は、ピーター・ローレとジョン・マクガイアの重苦しい身ぶりと、バン・ネスト・ポルグレイスの美術によって、より力強さを与えられている。ポルグレイスのRKOでのキャリアは「市民ケーン」で頂点に達するが、"Stranger on the Third Floor" で、彼は、フィルムノワール時代を通じてRKOの美術部門の主任となるアルバート・S・ダゴスティーノとともに多くの影響力の強いフィルムノワール技法を作り出している。最後に、この映画は、ニコラス・ムスラカのバロック風撮影を利用しているが、彼の個性の強いスタイルは、のちにオーソン・ウェルズやバル・リュートンの作品でより洗練されることになる。

Film Noir Guide の採点は五つ星満点の四つ星。IMDb では約1,300人のユーザーが投票して、10点満点の6.9点。

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2012年2月16日 (木)

映画と感情: Emotion and the Structure of Narrative Film (17)

ありがたいことに、二か月以上休みなしに働いているし、二か月先まで仕事があります。おかげで、小銭ができて、買いたいものをけっこう買うことができます。本日届いたのはボーノの2010年2月のライブ。以前から持っていたのは2009年2月のライブを収めたもので、前半がカラオケで、後半が女性のロックバンドが演奏するもので、たぶん本日届いたものもそうじゃないかなと思います。

そのDVDは日アマゾンのマーケットプレイスに参加している業者から届いたのですが、米アマゾンからは "Stranger on the Third Floor" "Window" "High Wall" が届きました。最初のは1940年のRKO作品で、最初のフィルムノワールと言われているそうです。

二番目のはコーネル・ウールリッチの「窓」を原作としたものです。ヒッチコックの「裏窓」もウールリッチが原作なのかな。同じ原作なのかな。殺人が起きたのに他の誰も信じてくれないという点は同じだけど、今日届いた「窓」は子供が主人公で、「狼が来た」みたいに、両親も心配するぐらいのウソつき少年。ヒッチコックのは次第に主人公の話を信じる人が増えていくけど、これは最後まで少年は信じてもらえない。昔読んだ原作だと、死体が出てこないので、やっぱり少年がウソをついているんだという結論になりそうなとき、床の段差が違っているのに気づいて、その中に埋めているというのが判明するという結末だと思うのですが、もしかしたら別の小説と混同しているのかもしれません。このあたり、暇があったら調べてみます。

昨日はジャック・ターナーの「ベルリン特急」というのを見ました。

本日は第二章「映画鑑賞の心理的機能」の結論。眠くて、もう頭があまり動かなくなっているので、少しずつ進めます。

異なる心理的機能から一般的な結論を引き出す際、ある程度の用心をしたほうがいい。

第一に、機能の調査結果の一つは、動機とメディア使用の関係は複雑で、単純で明確な解釈はできないということである。動機と使用との間には重要な相互関係、特に悪循環がある。性的なテーマなど特定のテーマに自分をさらすことは、そのテーマに関連した空想や態度の可能性を増す。性的な空想や性への積極的な興味が、今度は、性的なテーマに焦点を当てていると期待される番組に自分をさらす可能性を高くする。

第二に、メディアの利用者が満足を感じる知覚は、実際にその利用から得られる満足を必ずしも反映していない 。

第三に、テレビドラマの機能に関する研究結果が完全に映画鑑賞に当てはまるとは限らない。これまでの経験データのほとんどはテレビ視聴者に関するものだったが、劇映画の普通の観客はテレビ視聴者と部分的に重なり合うだけである。さらに、映画を見に行く動機はテレビ番組を見る動機よりも強い。より努力が必要だし、作品に失望すると、コストも高くなる。(テレビ観賞は、積極的な情報の取り込みよりも「夢を見る睡眠」に近い活動を必要とする。また、映画鑑賞に伴う強い集中と比べると、テレビ観賞に伴う集中度はかなり弱い。)

特定の題名やジャンルの選択は必ずしみ意識的な選択の結果ではないが、観客は、自分の見たい映画や見たくない映画の種類について、けっこう意見を持っている。

メディアの利用、特にテレビ観賞と映画鑑賞は、実際に動機づけられていると結論できるだろう。動機には、楽しみたいという欲求、非合理で夢のような状態への一時的な退行、集団的な表明への参加、気分調整、空想、学習などがある。観客は、望んでいる経験(すなわち、緊張の創出と解消を特徴とする包括的な感情エピソード)を喚起させる自らの能力に従って映像を評価する。スクリーンに現れるものすべては、この基準に従って評価される。

(続く)

あとは、税金の申告書を少し書いて、「ダウンタウンデラックス」にももちが出るらしいので、それを見てから寝ます。パリで歌い、ベリーズ工房の一員であり、ドラマで道重さゆみと可愛らしさを競い合い、大学で保母さんの勉強をし、バラエティでウザがられる。面白いなあ。

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2012年2月15日 (水)

MGM以降のキートン作品集 (15)

久しぶりに仕事が楽になったので本日はキートンの短編を三本見ました。エデュケーショナル社の11作目から13作目までです。

Blue Blazes (1936年8月公開)「青い炎」
The Chemist (1936年10月) 「くすリ屋」
Mixed Magic (1936年11月)「キートンの大魔術」

当時日本公開されたのは「キートンの大魔術」だけで、最初の二本はキネ旬の世界の映画作家26で付けられていた仮の題名です。二番目の "The Chemist" は、映画を見れば化学者の話だとすぐわかるので、この題名を付けた人は映画を見たことがないと思われます。最初のはドジな消防士の話で、原題には何か別の意味があるのでしょうか。

消防士は、かなり初期のエドウィン・ポーターによる作品以来、格好の映画の題材だし、チャップリンも演じたことがあるけれど、キートンの全盛時代には演じていないはずで、その頃作れば、きっと面白かったに違いない。でも、これも悪くない。ドジばかりなので、左遷された先が火事がまったく起こらない地域で、そこの署員たちは、ガーデニングに精を出したり、子供のために人形をつくろったりしています。この場面は、もっと徹底的にやれば、モンティ・パイソンのようになったかなと思います。みんながスーパーマンの世界では、作業服に着替えた自転車修理マンがヒーローになるというエピソードがありましたが、それを思い出しました。小さな女の子は、消防士を人形を直してくれる人だと思っています。ところがキートンが就任した途端に火事が発生し、ここでも消防車に振り落とされてしまいます。そのあたりがスタントがキートンならではと感心させるし、ホースを持って町をトボトボ歩いて、このあたりで火事はないかとか、消防署はどこかとかたずねる消防士ぶりもナンセンスでおかしい。ただ、女の子たちに魅力がないのと、最後一人で奮闘して消火するのが面白くないのが残念。"The Fall of Buster Keaton" の James Neibaur によると、いろんな機材を自転車に積んで、現場に急行するイメージは良いが、独りで奮闘する場面が全体の流れの中で孤立しているっていうのが面白くない理由。そうなんですよね。普通、好きな女の子がいて、彼女を助けるのならわかるけど、遊び好きの娘二人の不注意で起った火事で、あまり魅力のない母親をドタバタしながら助けるのって魅力ない。これまで、マック・セネットが一作監督した以外、チャールズ・ラモントという監督だったのが、ここではレイモンド・ケインという監督。「キートンの大魔術」もこの人です。

続いて、「くすり屋」というより「化学者」。監督はアル・クリスティ。名前を聞いたことがあるんだけど、セネットのように10年代から活動してきた人らしい。化学者キートンが音のしない爆弾を作って、それを悪漢どもがねらおうとする話。開巻、キートンは変な薬ばかり作っています。惚れ薬を作り、10個ほどあるチョコレートの一つに混ぜて、好きな女性に食べさせようとします。そばに掃除をしている女性がいて、彼女がチョコレートをつまみ食いするので、キートンが彼女と目を合わせないようにしているのがおかしい。結局、惚れ薬が入ったチョコレートを食べたのはキートンで、彼女に猛烈なキスをして、嫌われてしまいます。音のしない爆弾を発明したことが新聞に載り、それをねらったトンマな三人組のギャングが大学でキートンを追っかけるテンヤワンヤがあり、水をかけたら爆発する粉をぶりかけられた三人が噴霧器を持ったキートンにおどされながら警察署まで行かざるをえません。途中雨が降り始めたので、あわてて警察署に入る三人。

そして、「キートンの大魔術」。監督は「青い炎」のレイモンド・ケイン。キートンがマジシャンの助手になって、舞台をメチャクチャにしてしまうという定番のような話。マジシャンの助手を演じているマリリン・スチュアートは、これら三作すべてに出ており、前作「化学者」とこれは魅力的。ただし、IMDbによると全部で四本しか出演しておらず、もう一本はキートン主演ではないアル・クリスティ監督作品。バイキング式の大衆食堂でスパゲティしか買えないキートンですが、実はスパゲティの下にステーキなどを隠しており、それを魔術だと思ったマジシャンがキートンを助手に雇います。これが一番気のきいたギャグで、マジックショーの出し物のネタがキートンのドジのおかげでことごとくバレるのはよくあるお笑い。マジシャンとケンカ別れした元の助手がショーを邪魔しようとするのですが、それ以前にキートンがメチャクチャにしているので、ストーリー上あまり効果はない。

これら三本のみニューヨークのエデュケーショナル・スタジオで撮影。これら以外はカリフォルニアで撮影。この三本も、長編映画の添え物として見れば、そこそこ面白い。

エデューケショナル時代の短編主演作品(★★★★★満点)

  1. The Gold Ghost (1934) 「キートンの黄金崇拝」 ★★
  2. Allez Oop (1934) 「キートンの頓馬同盟」 ★★
  3. Palooka from Paducah (1935) 「キートンのレスリング」 ★★
  4. One Run Elmer (1935) 「キートンの野球大当り」 ★★★★
  5. Hayseed Romance (1935) 「田舎者のロマンス」 ★★★
  6. Tars and Stripes (1935) 「キートンの脱線水兵」 ★★
  7. The E-Flat Man (1935) 「キートンの自由結婚」 ★★★
  8. The Timid Young Man (1935) 「内気な青年」 ★★★
  9. Three on a Limb (1936) 「三つ巴」 ★★
  10. Grand Slam Opera (1936) 「キートンの大放送」 ★★★★
  11. Blue Blazes (1936) 「青い炎」 ★★★
  12. The Chemist (1936) 「くすリ屋」 ★★★
  13. Mixed Magic (1936) 「キートンの大魔術」 ★★★

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映画と感情: Emotion and the Structure of Narrative Film (16)

まだ続くボーノのパリ公演の話題。鈴木愛理ファンの可愛いフランス娘によるリポート。カッパの着ぐるみは鈴木愛理が何かのときに着用していたらしい。このアンジェリークちゃんは高橋愛が突撃訪問した娘ですね。

では、昨日の続き。キートンは今日中にやります。

秩序を発見するには努力が必要だ。美的享受の前提条件かもしれない。フェヒナーは美を多様性の調和と定義した。不調和の解決は美的経験の認知的基盤だとしばしば述べられる。マンドラーの価値理論によると、ある刺激に適合する図式を見つけるのに、ある程度の努力が必要な場合、その刺激の価値がより高くなる。バーラインは、いくつかの実験によって、努力と喜びの正確な関係を調べた。刺激を処理するのがより難しいほど、さらなる努力を鑑賞者は呼び起こすことができる。ただし、限界はある。当初、努力には喜びが伴うが、刺激が複雑すぎて注意を失う前でさえ不快感へと変わることもある。

プロットやスタイルといった劇映画の形式的特質、およびそれらの力学や相互作用は、明快な用語によって簡単には把握できない。ここでは、形式に関する映画特性における楽しみを見つけることに含まれる動機を「人工物の評価 appreciation of the artefact」と呼ぶ。人工物としての劇映画の評価は計測できる。映画鑑賞者は「映画愛好 cinephilia」の度合いによって分類することができる。映画のスタイルが目立つ程度が異なる、映画愛好は、さまざまな種類の映画に対する好みを予測するのに役出つ。

没頭と作品評価という二つの動機各々を満足させる度合いは映画ごとに異なる。抽象映画の形式は、ほとんど人工物として提示され、観客が没頭できる虚構世界には入らせてくれない。伝統的な劇映画は、没頭を実現するのにすぐれており、通常の観客の動機に適合する。ほとんどの伝統的な劇映画に対する好みは、かなり低いレベルの映画愛好を示している。にもかかわらず、人工物としての伝統的な劇映画の魅力や普通の観客の美的動機、すなわち映画を映画として楽しむという欲求を、過小評価すべきではない。

動機に関する劇映画のさまざまな特性を包括的な単一の動機に還元するとしたら、「緊張の緩和」のようなものになるだろう。これは、観客側の感情の統制であり、感情をスッキリさせることである。伝統的な劇映画は、感情の緊張を作り出したのち、その緊張を解放する。

虚構世界への没頭と人工物の鑑賞という二つの動機各々は、この緊張の作用に貢献している。虚構世界の出来事は不確かさを作り出し、最後に解決される。同時に、人工物、特にプロットとスタイルの当初の混乱した構造は、観客側の心の努力を求め、秩序に対する欲求を作り出す。それらの構造は次第に秩序を持つようになり、最終的には秩序だった全体となる。以後、この最も包括的な動機を「緊張の創出と解消」と呼ぶ。

これまで述べてきた議論が健全であれば、劇映画鑑賞の最も重要な動機は、感情的な性質を持っていると思われる。最も重要な動機は、非常に明確な感情体験の期待にある。

G. Mandler (1982) "The Structure of Value: Accounting for Taste" in M.S. Clark & S.T. Fiske (eds.) Affect and Cognition (Lawrence Earlbaum Associates)

D.E. Berlyne (1974) Studies in the New Experimental Aesthetics: Steps toward on Objective Psychology of Aesthetic Appreciation (Wiley)

「主要動機としての緊張緩和」の項終わり。明日は「結論」。続いて、第3章「映画と感情:理論的背景」。

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2012年2月14日 (火)

映画と感情: Emotion and the Structure of Narrative Film (15)

またかとお思いでしょうが、興味のない人は飛ばしてください。パリの「初恋サイダー」。ボーノのファンじゃないけど、娘たちと一緒に見に来たというお父さんが撮影したもの。

すでに映画鑑賞記録は今朝投稿したので、これは本日二本目で昨日の続き。

観客がプロットを理解するには、表面上の構造を把握しなければならない。この表面構造自体が喜びとなる場合がある。プロット上の重要性とは関係なく、場面が撮影される方法が特別な魅力を持つ場合がある。専門家だけでなく普通の観客も特定の映画様式を予想することで動機づけられることがある。専門家と違って、平均的な観客は、技術やスタイルの詳細それ自体に関心を持つ必要はない。だが、自分では気づかない技術的な操作の結果として常連の観客に強い印象を与える。

しかし、伝統的な劇映画を見る平均的な観客が、ある種の技法に気づいて、楽しむ場合もある。特殊効果やお気に入りのスターの演技はそれ自体が喜びである。映画の技法に内在するスタイル上の性質を感じることができるのは、時間の中で構築されるパターンを作り出すからである。そうしたパターンの効果は通常気づかれないが、気づかれる場合もある。たとえば、繰り返しや対照的なカメラ位置、映像の二次元的な構成、演出の流動性などである。こうしたスタイルのパターンは、観客が気づかないときでも映画を強化し、ときには観客のほとんどが気づいて楽しむこともある。

形式上の性質の楽しみは、ゲームの根底にある動機や、美的経験に関係している。認知上の好奇心に駆られた観客が秩序を見つけること自体に喜びを感じる点で、映画はゲームに似ている。

心理美学理論では、ある種の秩序を見つけること、プロットとスタイルに抽象的なパターン(繰り返し、対比、均衡、類似など)を見つけることが動機としてありうるとされている。アルンハイムによる芸術作品の構造的秩序の理論がこれに当てはまるし、表現の理解と評価に対するゴンブリッチのアプローチもそうである。ゴンブリッチによると、芸術作品の要素が配置された何らかの図式が利用できない限り、いかなる表現も理解できない。

R. Arnheim (1971) Entropy and Art: An Essay on Disorder and Order (University of California Press)

E.H. Gombrich (1960) Art and Illusion (Phaidon Press)

(続く)

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1979年2月第2週に見た映画

フランスの男性三人組によるボーノの愉快なカバー

2月12日(月) 異邦人 (テレビ神奈川) 4点
2月15日(木) パリのめぐり逢い (八重洲スター座) 4点
2月15日(木) アメリカの夜 (八重洲スター座) 5点
2月16日(金) 救命艇 (テレビ神奈川) 4点
2月17日(土) ちびっ子ギャンク特集 (アートビレッジ新宿) 4点

5本は楽だあ。

「異邦人」は高校時代にテレビで見たことがあって、これが二度目。カラー作品ですが、白黒テレビだったし、テレビ神奈川は映りが悪かったしで、あまりいい条件じゃなかったけど、4点なら面白く見れたようです。「今日ママンが死んだ、あるいは昨日だったかもしれない」で始まる有名なカミュの小説をビスコンティ監督、マストロヤンニ主演で映画化したもの。アンナ・カリーナ共演。プロデューサーはディノ・デ・ラウレンティス、音楽ピエロ・ピチオーニ、撮影ジュゼッペ・ロトゥンノ。このときのことは全然おぼえていなくて、高校時代の土曜日の深夜に見たときのほうがおぼえています。その1973年10月を振り返ったときには次のように書いています。

ヴィスコンティ監督、マストロヤンニ主演の「異邦人」に高得点がついているのが意外。もともと難解な話だし、深夜なのでさらに頭がぼっとしていたはずなのに。やはり、それなりに風格があったのでしょう。「スクリーン」から「キネマ旬報」に移行するなど、背伸びしたがる年頃だったので、巨匠の作品に弱かったのかも。ノーベル賞作家でセイン・カミュの大叔父、アルベール・カミュの原作もこの頃読んだ気がします。原作では「昨日ママンが死んだ」という書き出しが有名ですが、映画でも、母親の棺のある部屋に黄色い光が差し込んでいて、マストロヤンニがたたずんでいるというイメージが残っています。

木曜は東京駅の近くの八重洲スター座でルルーシュとトリュフォーの二本立て。この名画座はけっこう面白いのをやっていましたが、私がまだ東京にいたときに閉館となりました。ルルーシュとトリュフォーはキネ旬の世界の映画作家シリーズで二人が一緒になった本があって、高校時代にルルーシュ目当てで購入したのに、トリュフォーのほうを好きになったという私にとっては感慨深い二人。

これで6回目になるトリュフォーの「アメリカの夜」については割愛させてもらって、ルルーシュの「パリのめぐり逢い」。これは1974年6月高校三年のときに淀川さんの日曜の番組で一度見ています。1979年に名画座で見てるってことは、リバイバルされたんでしょうかね。それとも、古いフィルムが残っていたのかな。1967年の作品ですからね。なんか、名画座で見るのが珍しい気がします。一躍有名になった「男と女」の次の作品で、イブ・モンタンがキャンディス・バーゲンと不倫するけれど、結局アニー・ジラルドの奥さんと寄りが戻るというだけの話だったような気がします。それを才気煥発な映像とフランシス・レイの音楽で見せる。撮影パトリス・プージェ、衣装イブ・サン・ローラン。キネ旬では1968年の17位で、トリュフォーの「黒衣の花嫁」と同じ。

「救命艇」は、救助ボートの中だけで繰り広げられるヒッチコックのドラマ。20世紀フォックスの1943年の白黒映画で、出演者は私の知らない人ばかり。これ、友人と私のアパートで白黒のポータブルテレビで見た記憶があります。カラーテレビを春休みに購入した記憶があるのですが、それが前年だったか、この年だったか、このところずっと悩んでいたのですが、このときの記憶で、この年の春休みだったってことがはっきりしました。これは当時の感想があります。

ヒッチコックのこの作品は、戦時中の作品であるがゆえに戦争のことについて物語られている。戦後、あるいは戦前、サスペンスものを多く作ったこの監督には、ほとんど社会性が感じられず、それゆえ純粋に視覚芸術としての映画の本質に近づいている。ここでも、終始、スクリーンプロセスを利用し、一つのボートの中という限られた場所で彼は実験をしている。かめらは、ほとんど数人の登場人物を写すだけである。しかも、際立った事件は、ほとんど起こらない。

最後のセリフはこうである。「みんな戦争が悪いのよ。」つまりこういうことだ。「この映画を作ったのも戦争のせいだ。」この映画は、舞台に移しかえることができる。もちろん、表面的に移しかえることができるにしても、演劇的だということで映画をけなすことはできない。映画には、クローズアップなどの技法があって、それによって映画独自のものが生み出されるからだ。しかし、この映画は、それでも舞台に移しかえられるのだ。つまり、この映画では、いくつかヒッチコックの技法が使われているにもかかわらず、それらは使われなくてもいいものなのである。重要なことはセリフで語られており、ヒッチコック不在と言ってもいい。

結局、あまりに戦争というものが大きいため、映画を語ることが重要でなくなってくるのだ。いくらボートの人物の心理を描写しても、戦争という大きな物の前では、どうでもいいように思えてくる。

この戦争は、このボートの中の人々によって演じられている。ドイツUボートの艦長は、ドイツ人全部を表しているし、数人のアメリカ人もそれぞれのタイプの人たちを代表している。我々は彼らを見ていない。彼らの背後にあるものを意識している。実際、彼らも、その気になっているのである。

これ以降見たことがないので、今は何とも言えない。本当にヒッチコック不在だったのかね。新聞の中で御本人登場でしたが。

翌日は、ちびっこギャング特集。1922年から40年代半ばまで200本以上の短編が作られています。20年以上にわたっているので、子供たちは何度か変わっています。ハロルド・ロイド、ローレルとハーディ、チャーリー・チェイスらがいたハル・ローチのスタジオで作られています。これも、このときの感想があるので、書き写します。

とにかくフィルムがひどい。この頃の映画は撮影したときからこうなのか、状態の悪さにノスタルジーを感じる以上にひどい。

ギャグが幼稚である。ほとんどのギャグは、チャップリンやキートンなどからとってものであろう。しかし、ギャグが幼稚なのは、演じるのが子供であるが故に正当化される。それに、ギャグ以上に魅力的なのは子供たちなんだから、べつにどうでもいいことではある。子供たちの無邪気さを表現したこの大人たちの努力は買うが、彼らの考えつくギャグのつまらなさはどうであろう。親からつまらないオモチャを買ってもらった子供たちは、それでも楽しく遊ぶのである。

ところで、このアワーギャングたち、本来の自分たちの遊びの世界ではイキイキするのだが、大人の世界をまねるという短編では、うまくいかない。子供たちが映画を作る真似をする話があったが、子供から自発的にこういう遊びが出てくるとは思えない。ありえないことを非難するのではない。それは、たとえば、親から押しつけられた遊びがほとんどつまらないのと同じことだ。この映画群の面白さは、子供がイキイキと演じていることによる。つまり、これらは、子供たちの現実の姿を丹念に撮ることによって面白くなっていくのである。「トリュフォーの思春期」もかなわないのである。この、のびのびとした自然な感じは、どうやってできるのであろうか。とにかくオリジナルのアワーギャング以外には、この自然さはないんじゃなかろうか。トーキー以降、これをしのぐ傑作ができたとは思えない。セリフをしゃべることは、さらに子供たちを不利にする。

今、本当に面白い子供映画を作ろうとしたら、隠しカメラで何日も子供らを撮りっぱなしにして、いいところをつなげればいいじゃなかろうか。もちろん、ここではワンショット=ワンシークエンスが絶対である。モンタージュなって子供には必要ないのである。

自分の子供を持つまでは、これらの映画でガマンしましょうヨ。

映画やテレビのドキュメンタリーを見ていると、隠しカメラじゃなくて普通に撮影していても、子供たちは慣れてきて自然に振舞うようになるらし。最後の文の意味はなんでしょう。映画より現実が大事だというでしょう。いまだもって映画で我慢しているし、これからもずっと。自然な感じとか長回とかっていうのは、この頃大好きだったアンドレ・バザンの影響でしょうね。

ハル・ローチ・スタジオとちびっこギャングの本。さらに、初期のちびっこギャング。

Ourgang

Ourgang2

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2012年2月13日 (月)

映画と感情: Emotion and the Structure of Narrative Film (14)

アイドルグループがパリでコンサートを開いて熱狂させるなんて、インターネット時代ならではなんだろうけど、50数年間生きてきたおじさんには信じられない出来事なのだ。世間ではそんなことまったく話題にならず、ボーノのパリ公演なんてどこも取り上げないんだろうなあと思っていたら、NHK朝7時のニュースの見出しのトップがバーチャルアイドル大人気とかいうもので、こっちの神経を逆なですることおびただしい。NHKは口パクやバーチャルがお好き。

1回限りの公演だから、いつもの女性バンド、ドルチェは同行せずにカラオケだったようです。さっきの映像のときに歌っていたのは「泣き虫少年」という曲ですね。何か記念にと思って、品切れで1.5倍の値段だった「We are Buono!: Buono! LIVE TOUR 2010」を日アマゾンのマーケットプレイスで購入しました。

さて、昨日の続き。

J.M. Peters という形式主義の映画理論を引き継いでいる人がいるようなんですが、オランダやベルギーでしか本を出していないようなので、ここには参考文献を書きません。

ピーターズは、彼が「カメラ・アイ」と呼ぶものが撮影した現実を変形させる能力を分析した。カメラ・アイは包括的な用語で、枠取り、カメラの位置取り、カメラの動きだけでなく、そのような映画手段によって作り出された想像をも含んでいる。映画の想像では、描かれた現実は、なんらかの性質を帯びる。たとえば、美学的、感情的、説得的、表現的性質である。

観客の動機に関する調査に関する議論で見てきたように、特定の性質の魅力に関して観客から得た資料はほとんどない。映画学者は、映画鑑賞の動機における芸術的または美術的要素を識別しているが、実際の観客が最も理解している具体的な性質に関するデータはない。これは無理からぬことで、伝統的な劇映画を普通に見る観客は、そのような性質を記述するのに必要な用語を自由に使うことができない。そのような性質を明確にするには、より洗練された実験技術による調査が必要である。

さて、あらためてエド・タンのこの本の第二章「映画鑑賞の心理的機能」の見出しを書いておきます。迷子になりそうなので。

メディアの使用は動機づけられているのか
  映画と娯楽
  心理的機能
    映画的状態 
    映画のイデオロギーと参加
    メディアの娯楽と感情の統制
      ファンタジーと感情の統制
    メディアの娯楽と学習
    それ自体を目的として映画を楽しむ
  主要動機としての緊張緩和
結論

中見出しの「心理的機能」が終わったので、本日からは「主要動機としての緊張緩和」。

劇映画に特有の満足が得られる源泉は二つある。一番目は映画が描く虚構の世界。二番目は媒体の技術的・様式的性質である。

観客は、自由で邪魔の入らない他人への凝視から喜びを得るかもしれない。実際の経験から、伝統的な劇映画は、ジャンルにかかわらず、自分たちが見られることなく他人を見ているという印象を観客に与える。登場人物の出入りに関して好奇心が呼び起こされ、その後、その好奇心が満たされる。映画を見ることは、「擬似退行」と呼ぶのが最も適している映画的状態を喚起する。言いかえると、観客が虚構の世界に魅了され、没頭してしまうこともあるという事実は、最も重要な動機の一つだと思われる。観察の喜びと虚構の世界に没頭する喜びは表裏一体のものかもしれない。想像の中で観客は虚構の世界にとどまる。その世界では、どんな危険を冒すこともない。観客は空想を促され、導かれる。

二番目の性質は、虚構世界への関与を補足するもので、同様に映画の魅力に貢献している。映画がほかの何か(劇映画の場合は虚構世界)の再現として理解されるだけでなく、独立した人工の構造物としても理解されることは重要である。観客にとって構造物としての映画で最も重要なのはプロットとスタイルである。通常、プロットは、虚構の行動が前進と停滞を繰り返す出来事の複雑な連続として観客に提示される。その結果、全体の行動をより完全に概観し、より深く洞察しようと常に努力している観客は、欲求不満と努力が報われることが交互する。ミステリーのプロットは、この構造の典型だが、すべての物語映画が、選択した間隔と選択した量で観客に提示する不確かさを作り出す。

(続く。)

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2012年2月12日 (日)

映画と感情: Emotion and the Structure of Narrative Film (13)

小津安二郎のサイレント映画4本「若き日」(1929)、「落第はしたけれど」(1930)、「淑女と髭」(1931)、「青春の夢いまいづこ」(1932)収録のDVD2枚組が2月20日にイギリスで発売。送料込み2,259円で英アマゾンに予約。

フランスは日本より8時間遅れているので、向こうで午後6時に始まる Buono! (ボーノ)のコンサートは、日本時間だと明日の午前2時の開演。私がモゾモゾと起き上がるころに終わっています。無事に向こうに到着したようで、℃-ute (キュート) のブログには鈴木愛理とももちが凱旋門の前で撮った写真が掲載されています。コンサートの様子をとらえた何らかの映像が出てこないかな。

おお、騒いでる、騒いでる

それはそれ、これはこれ。本日は中見出し「心理的機能」の最後の小見出し「それ自体を目的として映画を楽しむ」。

これまで言及してきた動機の多くは、より限定的な意味での映画経験とかけ離れた望ましい状態に関するものだった。そうした動機は二次的なものかもしれない。二次的な動機は、映画を見に行くこと以外の方法のほうが容易に実現できる。たとえば、同じ考えの人々による集団への所属感は、家族や友人との親交やサークルやクラブなどの社交の場に参加すれば、より簡単に得ることができる。退屈は、クロスワードパズルをしたり、少しうたた寝をすることで解消できる。だが、ほとんどの二次的な動機は、比較的長続きする望ましい状態と関係しており、そうした状態はすぐには達成できない。強い自我または社会における明確な独自性は一日で失われることはないが、それらは何年もの経験を通じてしか得ることができない。

一次的な動機は、ただちに実現できる点で二次的な動機と異なる。一次的な動機は、はかないことが多く、媒体としての映画と密接に関係している。精神分析主義の理論家たちが仮定した退行状態は一つの例であり、感情統制は別の例である。ほとんどの一次的な動機は、それ自体を目的とした劇映画の経験に関係する。その意味で、一次的な動機は美学的と言えるかもしれない。維持や成長への欲求を満たすこととは別に、見るという経験自体が報酬になりえる。芸術作品の特性自体が魅力的である。映画の特性も喜びを与える。現実主義の理論家が強調するように、映画が見せてくれる特定の現実を見ることに喜びを見出す人々がいる。観客は、現実自体か、見世物としての現実を観察するよう促される。劇映画も、出入りする人々を観察する独特の機会を提供する。

いわゆる形式主義の映画理論家は、映画経験を形成して、その経験を非常に快いものにする映画的手段を詳述している。彼らは、現実主義の理論家と異なり、映画的手段の助けによって、まだ加工されていない原材料として現実がカメラの前で披露されているとする。アルンハイムは、非映画的な現実の模倣としては映画が不十分な例を数多く挙げている。それら不完全な点が視覚的にゴマかされるというより利用される程度によって、各作品の芸術的価値が定まる。

バラージュは、カメラを、映画が現実を再創造するために利用できる一番の資源としている。バラージュの見方によると、伝統的芸術は、遠くから鑑賞することのできる閉じられた小宇宙として提示されている。映画がユニークなのは、その小宇宙に入って、登場人物と同一化する機会を観客が与えられることである。観客は、登場人物が見るものを見るだけでなく、どのように登場人物が見るかも見ており、これによって感情面での同一化が可能となる。

アルンハイムとバラージュが20年代、30年代に出した本に関して、エド・タンは別の本を参考文献として挙げていますが、ここでは現在入手できる本を紹介します。特にバラージュのは昨年出たばかり。

Rudolf Arnheim (2006) Film as Art: 50th Anniversary Printing (University of California Press)
Bala Balazs (2011) Early Film Theory: Visible Man and The Spirit of Film (Berghahn Books)

(明日に続く)

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2012年2月11日 (土)

夜明けの英国音楽: RTの一問一答 (1月分)

明日のパリ公演のためにコンサートの楽しみ方をフランス人に伝授する Buono! (ボーノ)。

サンディ・デニーが残した詩に曲をつけたギルモア嬢 Thea Gilmore の名前は「ティア」とか「テア」とか書いているものがありますが、このウェブページの映像を見ると、私の耳には「シア」に聞こえます。

リチャード・トンプソン (RT) の新しいDVD "Live at Celtic Connections" から "The Money Shuffle"

では、私の感想。すでに日アマゾンやFacebookに投稿していますが、日アマゾンには、まだ表示されていない。

【強力なバンドをバックにトンプソンのギターが唸る】

2011年1月にグラスゴーで行われたコンサートを収録したもので、前半は前年に発表されたアルバム Dream Attic を順番に演奏したもの(13曲中2曲割愛)。後半はおなじみのナンバーが中心。新曲のライブ演奏が収められた Dream Attic と同じメンバーで、このおじさんバンドは強力かつ安定度抜群かつ楽しげに演奏していて、年齢層の高い聴衆同様、こちらもア然としながら楽しい時間を過ごしました。ドラマチックな展開の曲で唸るトンプソンのギターをドラムやフィドルがあおる、あおる。4月のギター一本での来日も素晴らしいのだろうけど、やっぱりバンドをバックにエレキギターをガンガン弾き鳴らしているトンプソンを見たい。

では、2012年2月4日に発表されたリチャード・トンプソンのQ&A。かなり端折っています。これまで、たとえば2月に発表されたものは、ここでは2月分としてきましたが、RTが1月分としているのだから、ここでも1月分にして、私のウェブサイトに転載したものも、過去にさかのぼって変更しようかなと考えているところ。

キース・リチャーズの自伝に関する質問に対して

とても面白かった。初期のダートフォード時代、薬漬けでの長い録音セッション、けっこうあからさまなサー・マイケルに対するこきおろしが特に面白かった(サー・マイケルはミック・ジャガーのこと)。キースは偉大なギタリストだとは思わないが、彼はリズムギター奏者として優れており、記憶に残るリフの考案者だ。同様に、チャーリー・ワッツも偉大なドラマーではないが、二人してロック史上に残る偉大なグルーブ感を作り出した。これまで知らなかったが、二人はホテルで生ギターと練習用ドラムでカセットに録音して、「ストリート・ファイティング・マン」のリズムトラックとして使用した。ミック・テイラーは美しいスライドギター奏者だ。5弦ギターやオープンチューニングに関しては、多くをライ・クーダーに負っていると思う。キースはライとジャムをしたり意見を交わしたりして、「ホンキー・トンク・ウイメン」ができあがった。そのことについてライは喜んでいないと聞いている。

アルバム Strict Tempo の中の "Rockin' in Rhythm" が好きです。オリジナルのデューク・エリントンのを捜して聴きましたが、それも素晴らしかったです。あのようなのをほかにやらないのですか。たぶん、ほかの人がもっとうまく演奏するからと答えるのでしょうが、"Rockin' in Rhythm" は本当に独特で、ギターであんなにうまく演奏できる人はいないでしょう。

初期のジャズの古典であるストリング・バンド形式のアルバムを私が作れるかな?あの曲が好きなら、"Dreams with Sharp Teeth" というドキュメンタリーのために作った "Harlan's Bounce" を私のウェブサイトから無料でダウンロードできる

最近、クリスティーン・コリスター Christine Collister と共演しましたか。

2010年6月の Meltdown Festival で共演した。クリスティーンに関する質問はよくもらう。

私がいつも感じるのですが、あなたが関わることのできる人物の視点から曲を書いているんじゃないかと思うんです。あなたの曲が自伝的だという意味ではなく、連続殺人者、自爆テロリスト、不快な連中に関する曲も含めて、深い同情や何らかの含みを感じます。一つだけ例外があります。"The Money Shuffle" は、まったく同情できない風刺です。ウォールストリートの汚れた連中に対して、他の悪者たちとは違った扱いをしたいと思わせる何かがあるのですか。

彼らは人間だと思っている。もし小説を書く時間があったら、いくつかニュアンスの異なる同情を探り出したい。3分のポップソングでは、見出しにとどまったほうがよさそうだ。私を最も困惑させるのは、多くの人々に対して強欲がもたらす悲惨さの量だと思う。

クレズマティクス Klezmatics との共演はいかがですか。トミー・エマニュエル Tommy Emmanuel のギターをどう思いますか。

彼のことは全然知らない。アイバー・エマニュエルIvor Emmanuel なら知っている。

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2012年2月10日 (金)

フィルムノワール入門 (41)

アマゾンのレビューとFacebookにも同じ文章を掲載しましたが、ここにも掲載しておきます。Pilgrims' Way というグループの Wayside Courtesies というアルバムです。

【女性の声が魅力の硬派な英国トラッドアルバム】

怖そうな顔のねえちゃんが、やさしそうな顔のあんちゃん二人と怖そうな犬二匹を引き連れたジャケット写真から、ただならぬものを感じる Pilgrims' Way のデビューアルバム。なんといっても女性リードボーカルの歯切れの良い声が目玉。流麗ではなくゴツゴツした感じのフィドルも土臭くて、イングランドの民謡の雰囲気を醸し出しています。基本的にはフィドルとメロディオンの伴奏で、ときどきギター、1曲無伴奏というシンプルさがたまらない。11曲中、6曲目までがトラッドで、7曲目からはアーチー・フィッシャーやラルフ・ベラミーの曲や、フィドルを中心としたダンスチューンになります。楽しみが一つ増えました。

BBCの記事。

Facebookのプロフィールを英語にしたのですが、こういうコメントまでは英語で書けない。というより、誰に対して自分の話を聴いてほしいかと言うと、やはり日本の人。というわけで、プロフィールを日本語に戻します。

では、Andrew Spicer の "Film Noir" (2002, Longman) の続き。

先週の「主観カメラと夢の状態」の続きといきたいところですが、残りはヒッチコックの「めまい」の事例研究で、これは割愛させてもらって、さっさと先に進みます。第5章「フィルムノワールの性 Gender in Film Noir」。見出しは次のとおり。

  • 男性犠牲者
  • 傷ついた男:社会不適応の退役軍人と悪徳警官
  • 私立探偵
  • 犯罪者と精神異常者
  • 魔性の男
  • 魔性の女
  • 家庭を守る女性:隣の女の子
  • 善良な悪女
  • 女性犠牲者
  • 演技者
  • 男性演技者
  • 女性演技者
  • ギルダ

この章は面白そう。でも、お楽しみは来週からにして、今週はリチャード・トンプソンの新作ライブDVDが届いたので、今日はそれを見て、明日感想を書きます。明日は2月に発表された彼の一問一答もやります。

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2012年2月 9日 (木)

映画と感情: Emotion and the Structure of Narrative Film (12)

なんか近所のスーパーの前らしき場所でコツコツがんばっている吉川友。この営業の規模と曲の良さとの落差が泣かせます。

では、月曜の続き。

現実について鑑賞者に何かを教える力が芸術にあるとする考え方には、かならず解釈の問題が浮上する。解釈それ自体が学習しなければならないものである。伝統的な映画を普通に見ている者が、批評家なら見つけることがうまい隠された意味を、自動的に見つけるとは考えにくい。彼らが気づかないでいる限り、このことが劇映画を見る動機だとは言えない。

芸術に対する伝統的な見方が示唆しているのは、努力をしている鑑賞者には相当の報酬が与えられるということである。公平無私な鑑賞眼を得るための努力、たとえば美術館に行ったり、背景の情報を丹念に調べたりすることには、洞察力を得るという素晴らしい価値があると思われている。

一方、娯楽世界の産物である伝統的な映画は、さほどの努力なしに、より単純な真実を見せることができ、そのため、多くの観客にとって魅力的なのである。

Atkin (1985) は、この考えを証明する連続ドラマの視聴者に関する調査結果を報告している。視聴者たちは、連続ドラマに含まれている情報が日常生活の問題を解決したり、現実や他人を理解するのに何らかの形で役立っていると確信していた。

McGuire (1974) は、ラジオの連続ドラマの効果に焦点を当てた研究を参照して、次のように主張する。「洗練された教育者は、連続ドラマが教えることが最良のレッスンかどうか疑問に感じるだろう。だが、重要な点は、聴衆が、どのように生き、対処するかをラジオドラマから学んでいると強く信じていることである。」

連続ドラマや人気の劇映画によるレッスンは、動機として機能するために、目新しいものである必要はない。現在の自分の考え方が正当だと証明されるのを観客が見たがっているという可能性は、すでに論じられている。

C.K. Atkin (1985) "Informational Utility and Selective Exposure to Entertainment Media" in D. Zillmann & J. Bryant (eds.) Selective Exposure to Communication (Lawrence Erlbaum Associates))

W.J. McGuire (1974) "Psychological Motives and Communication Gratification" in J.G. Blumller & E. Katz (eds.) The Uses of Mass Communications: Current Perspectives on Gratifications Research (Sage))

(小見出し「メディアの娯楽と学習」終わり)

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2012年2月 8日 (水)

MGM以降のキートン作品集 (14): Grand Slam Opera (1936)

エデューケショナル社でキートンが主演した短編16本のうち、本日は10本目 "Grand Slam Opera" で、アメリカでは1936年2月に公開。前作は1月公開でした。これは日本でも「キートンの大放送」という邦題で当時公開されています。

もう30年ぐらい前になるのか、「ゴングショー」というアメリカのテレビ番組を日本でも放送していて、とても面白かったです。素人が歌や芸で出場して、つまらなければ演技の最中でもドラを鳴らすという趣向。James L. Neibaur の "The Fall of Buster Keaton" によると、そういうのは1930年代にも大流行していたそうですが、もちろん当時はラジオ。キートンが挑戦するラジオ番組の司会者の横にはちゃんと小さなドラが置いてあります。

サイレント映画のスターの中には、声が悪かったり、セリフ回しが下手だったりして、没落した人もいたのかもしれませんが、キートンが没落したのは声のせいじゃない。しわがれ声だけど、悪くない。もっとも、サイレント時代は異次元から来たようなキートンだったけど、声を発することで普通の人になっちゃって、つまらなくなったってことはあるかもしれない。

そのラジオ番組に出るために汽車で田舎を旅立つのが開巻。キートンは一番うしろに立って、別れを惜しむ曲を歌い、送りに来た四人ほどの男性がコーラスをつける。上述の本によると、これはジョージ・M・コーハンの "So Long, Mary" のパロディだそうです。コーハンは、ジェームズ・キャグニーが「ヤンキー・ドゥードル・ダンディ」で演じた人ですね。字幕がないので歌詞の面白さはわからないけれど、キートンの歌には味があります。

ラジオ番組で最初に出てくるのがタップダンスで、ラジオで聴いてわかるのかなとも思いますが、タップを踏む音が聞こえてくるだろうから、リスナーもある程度うまいか下手かはわかるのかな?それよりもバカバカしいのが、キートンの出し物で、なんとジャグリング。司会者が「それじゃ、わからないだろ」と言うと、「説明しながらやる」と答えて、本当に何をやっているか説明しながやるというナンセンスぶり。

楽団がそばで演奏していて、その指揮者が、すっかりおなじみになったハロルド・グッドウィン。「カレッジライフ」や「カメラマン」の頃からのキートンのライバル役。もちろん、キートンは楽団もハチャメチャにするのだけど、キートンが何かで指揮者のどこかを叩くと、指揮者がキートンの頭を指揮棒か何かで殴り返して、その繰り返しのリズムが楽団の音楽とマッチしているというギャグがあります。これは、キートンが映画入りする前に寄席でやっていた出し物で、キートンを評価していたロスコー・アーバックルが自分の作品でやったことがあるそうです。キートンがまだアーバックル作品に参加していない頃のものと、キートンが兵役でアーバックル作品に出られないときのものだそうです。一応、タイトルを書いておくと、"The Waiter's Ball" (1916) と "Love" (1918) です。

そのキートンのラジオ出演の前に、キートンがスタジオから追い出されるシーンがあるのですが、隣の部屋で待っていると、スタジオからダンス音楽が流れてきて、キートンがそれに合わせて踊ります。ダンス音楽のスタイルがコロコロ変わるので、キートンもそれに合わせてダンスのスタイルを変えます。

借りているホテルで出し物の練習をしている場面では、自分の部屋をメチャクチャにするだけでなく、下の階のカワイコちゃんにまで迷惑をかけます。この頃までにはフレッド・アステアは大スターになっていて、床に砂をまいて踊るというアステアの真似までします。この場面には、ばかげたジャグリングの練習がいくつかあって、笑わせてくれます。

自分は落選したと思ったキートンが田舎に帰るシーンは、いろんな乗り物のショットを素早くつないだモンタージュで処理しています。田舎に帰ると、ラジオから彼が当選したという知らせを聞いて、また素早いモンタージュでラジオ局に行き、賞をもらい、カワイコちゃんもゲットして終わり。

「キートンの野球大当り」と同じぐらい面白いけど、もちろんサイレント時代の傑作と比べたら、身もフタもない。そんなことはせずに、何かの長編を見る前のウォーミングアップのための短編として見ると、けっこう拾い物です。

この作品が公開された翌日、キートンがスピード違反で捕まったという記事が新聞に出たそうです。

エデューケショナル時代の短編主演作品(★★★★★満点)

  1. The Gold Ghost (1934) 「キートンの黄金崇拝」 ★★
  2. Allez Oop (1934) 「キートンの頓馬同盟」 ★★
  3. Palooka from Paducah (1935) 「キートンのレスリング」 ★★
  4. One Run Elmer (1935) 「キートンの野球大当り」 ★★★★
  5. Hayseed Romance (1935) 「田舎者のロマンス」 ★★★
  6. Tars and Stripes (1935) 「キートンの脱線水兵」 ★★
  7. The E-Flat Man (1935) 「キートンの自由結婚」 ★★★
  8. The Timid Young Man (1935) 「内気な青年」 ★★★
  9. Three on a Limb (1936) 「三つ巴」 ★★
  10. Grand Slam Opera (1936) 「キートンの大放送」 ★★★★

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2012年2月 7日 (火)

1979年2月第1週に見た映画

またもやFacebookに教えられ。なんと、今日は萩原舞ちゃんの誕生日というだけでなく矢島舞美様の20歳の誕生日ではないか。おとついのなっきぃも含めて、℃-uteのメンバーは誕生日が近い。鈴木愛理が4月12日、岡井千聖が6月21日、そして9月10日はキュートの日。

2月06日(火) 日本侠客伝 (テレビ神奈川) 3点
2月06日(火) 女房の殺し方教えます (TBS) 4点
2月07日(水) サスペリア2 (テアトル新宿) 2点
2月07日(水) 新サイコ (テアトル新宿) 4点
2月07日(水) エロスの誘惑 (烏山) 2点
2月07日(水) 赤ちょうちん (烏山) 3点
2月07日(水) 帰らざる日々 (烏山) 4点

2月10日(土) 死刑台のエレベーター (アートビレッジ新宿) 5点
2月10日(土) 恐怖の報酬 (アートビレッジ新宿) 4点
2月11日(日) シェア・スタジアム/マジカル・ミステリー・ツアー (三鷹オスカー) 1点
2月11日(日) ウッドストック (三鷹オスカー) 4点

日本侠客伝シリーズは全部で11本あります。監督は9作目までがマキノ雅弘、10作目山下耕作、11作目小沢茂弘です。

  1. 「日本侠客伝」 (1964)
  2. 「浪花篇」 (1965)
  3. 「関東篇」 (1965)
  4. 「血斗神田祭」 (1966)
  5. 「雷門の決斗」 (1966)
  6. 「白刃の盃」 (1967)
  7. 「斬り込み」 (1967)
  8. 「絶縁状」 (1968)
  9. 「花と竜」 (1969)
  10. 「昇り竜」 (1970)
  11. 「刃(どす)」 (1971)

この頃小さい白黒テレビだったし、テレビ神奈川は映りが悪いし、ワイドスクリーンの幅を最大限に利用していた東映ヤクザ映画の左右が切られているしで、あまり楽しめなかったに違いない。何度も言いますが、こういうのは新宿の昭和館で見るに限ります(もうないかもしれませんが)。

「日本侠客伝」のほうが「昭和残狭伝」よりも仲間が集まってガヤガヤやっているイメージがあって、その分「昭和残狭伝」ほど好きになれない。このシリーズは健さんが主演なんだろうけど、この一作目のときは特別出演の中村錦之助のほうがネームバリューが高かったようで、中村のほうが主演者として一番最初に書いてあるものがあります。実際のクレジットタイトルではどうなっているのでしょうね。

「女房の殺し方教えます」(How to Murder Your Wife, 1965) は、リチャード・クワイン監督、ジャック・レモン主演の笑えるコメディ。レモンが漫画家で、パーティーで酔っ払った勢いで、大きなケーキから出てきたビルナ・リージと結婚しちゃって、あとから後悔して、漫画の中で彼女をどうやって殺そうかとアレコレ考える話。レモンの助手のテリー・トーマスが面白かったような気がします。金髪でお色気だけのビルナ・リージは好みじゃないけど、ジョセフ・ロージーの「エヴァの匂い」での濃い髪で知的な感じのする彼女は素敵でした。スタンリー・ベイカーが妻ビルナ・リージを捨てて、年増のジャンヌ・モローに走る理由がわからん。それはともかく、「女房の殺し方教えます」は脚本ジョージ・アクセルロッド、音楽ニール・ヘフティ、撮影ハリー・ストラドリング・ジュニアのユナイテッド・アーティスツ配給作品。カラーですが、白黒テレビで見たはず(この翌週に見たヒッチコックの「救命艇」を白黒テレビで見た記憶があるので)。双葉さんは、リチャード・クワインがお好きじゃないらしくて、☆☆☆と辛口。これ以前にもテレビで二度見たことがあります。

「サスペリア2」は記憶にないです。割愛させてください。なにしろ、この週は10本以上見ているもので。一緒に見たのがメル・ブルックス監督主演の「新サイコ」 (High Anxiety, 1977) で、ヒッチコックのパロディ。「鳥」のパロディで、公園で鳥に糞をかけられるのが一番笑えました。あと、写真を大きく引き伸ばして証拠を見つけるシーンは、ヒッチコックというよりアントニオーニの「欲望」のパロディでしょうね。

烏山の映画館はアダルトなものだけじゃなかったんだ。まあ、日活映画ではあるけれど。藤田敏八監督の三本立てで、「エロスの誘惑」はロマンポルノです。goo によると、「東京デルタ地帯に建ち並ぶ倉庫街を舞台に、肉感的な肢体を持つ女が、不思議な魅力を発散させながら、男達を次々ととりこにしてしまう。」中川梨絵、川村真樹、小松方正、地井武男出演。撮影山崎善弘。音楽のJ・S・バッハってなんやねん。

「赤ちょうちん」って印象が薄い。かぐや姫のヒット曲を題材にしたもので、日活100周年記念とかで最近DVDが出たらしい。高岡健二、秋吉久美子主演。脚本は中島丈博と桃井章、音楽石川鷹彦。1974年のキネ旬9位で、10位には同じ藤田監督、秋吉主演で「妹」が入っています。これもかぐや姫のヒット曲が題材です。読者選出は、「赤ちょうちん」と「妹」が7位と8位。

「帰らざる日々」はアリスが主題歌。これは前の年の夏にすでに見ているので、その時書いたことを転載。

「帰らざる日々」は藤田敏八監督の青春映画で、江藤潤と永島敏行主演。江藤潤は黛ジュンと結婚していた名ベーシスト江藤勲の実弟で、「祭りの準備」も良かったけど、この映画も良かった。永島敏行は、この年のキネ旬1位「サード」のオーディションで主演に抜擢され、4位の「事件」にも出演し、「帰らざる日々」は5位。読者選出では「帰らざる日々」1位、「事件」2位、「サード」3位と、新人永島敏行の大当たり年。今では野菜づくりが似合うおじさんの印象しかありませんが。二人が汗をかきながら山道を走っている映像しか思い浮かばない。共演している浅野真弓という女優さんがきれいだった気がします。アリスが主題歌を歌っていました。「バイ、バイ、バイ、私の貴方」のところだけ口ずさめます。あと、桃尻娘の竹田かほりさんも出ていたようです。(YouTubeにリンクさせている個所をカットしました。浅野真弓さんの歌やテレビ出演の映像をリンクさせていたのですが、すでに削除されていました。)

「死刑台のエレベーター」はルイ・マル監督のデビュー作。ルイ・マルはクールすぎて、なじめない作品もあるけど、フィルムノワールなら似合う。アンリ・ドカの映像とマイルス・デイビスの音楽もグー。このときまでに何度か見ているはずです。このとき書いた感想があります。

ルイ・マルの処女作である(「沈黙の世界」で一応共同監督をしてはいるが、一人で作ったという意味で)。映画の学校を出てはいるが、それでも処女作で、このような素晴らしい作品ができるものだろうか。トリュフォー、ゴダール、シャブロル、レネなど、ヌーベルバーグの監督たちは、みな長編第一作目は彼らの代表作と言っていいほどの秀作を生んでいる。彼らは、大変映画好きで、それまで映画を撮りたくてウズウズしていたんじゃないか。しかも、研究熱心であり、また自分の持っている物を出すことができるのだ。

トリュフォー、ゴダールといった連中が主人公に自分自身を投影させ、切々としたものを作り出したのに対して、マルのこれは、一つの物語の中に閉じこもっている。「鬼火」までの彼の映画は、自分を出すというよりも、一つの話を作るという職人としての立場が強い。それは表面的なことかもしれないが、「鬼火」でさえ、マルを離れた作り話としか思えない。

モロー扮する社長夫人、インドシナ戦線の英雄であるロネ、この二人は我々からほど遠い立場であり、また恋のために命をささげるのも、彼らのような立場にいる限り、失敗してもあたり前なので、かわいそうではない。かわいそうではなく、くやしいのである、彼らは。

二人の完全犯罪を破るのは、くだらないまわりの人々なのである。まるで愛を感じさせない人々が愛する二人を別れ別れにし、結局は破滅させるところに、くさしさがある。愛を知らない人たちに、愛する者の気持ちがわかるか。

パリの風景を写したこの作品のモダンさはどうだ。若い恋人たちが類型的なのはいけないが、ロケを生かしたこと、カメラワークの素晴らしさ、それに「死刑台のエレベーター」内部での細やかな描写はどうだ。この中の人物のだれにも同化できないが、いや、ジャンヌ・モローに同化しているかもしれないが、映画全体に同化できるのだろうか?

原作はノエル・カレフ。キネ旬の1958年の6位。「沈黙の世界」はクストーによる海洋ドキュメンタリーで、1956年の9位。

クルーゾーの「恐怖の報酬」(1953)は、この頃ウィリアム・フリードキン監督、ロイ・シャイダー主演で再映画化されたことがあります。爆発の危険があるニトログリセリンをトラックに積んで、険しい山道を登っていくという話自体がドキドキさせるものです。イブ・モンタン、シャルル・バネル、ピーター・バン・アイク、ベラ・クルーゾー出演。音楽ジョルジュ・オーリック、撮影アルマン・ティラール。キネ旬では1954年の2位。1位の「嘆きのテレーズ」とは2点差。

ビートルズは大好きなんだけど、シェア・スタジアムでのライブと「マジカル・ミステリー・ツアー」は画質が悪かったです。内容も、前者は歓声がすごいことしか記憶にないし、後者は行きあたりばったりの変なテレビ作品。良い曲がたくさんあるだけに、もったいない。

「ウッドストック」は1969年夏の歴史的な大コンサートのドキュメンタリーで、このときまでに何度見たことやら。たいていは、ビートルズの「レット・イット・ビー」との同時上映でしたが、そういえば、これもビートルズとの併映だ。私にとってロックというと「ウッドストック」です。テン・イアーズ・アフター、ザ・フー、サンタナ、CSNY、ジミ・ヘンドリクス、シャナナ、ジョン・セバスチャン、ジョーン・バエズ、アーロ・ガスリー、リッチー・ヘブンス、ジョー・コッカー、スライ&ファミリーストーンなど。

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1979年2月に見た映画 (概観)

本日は萩原舞ちゃんの16歳の誕生日。おめでとう。あらためて「行け!元気君」。

Facebook に参加していると、いろんなことに気づかせてくれます。クライテリオンからの記事によると、2月6日はトリュフォーの80歳の誕生日だったのですね。残念ながら52歳で亡くなっているので、もし生きていればの話ですが。まだ健在だった33年前の2月には「アメリカの夜」と「あこがれ」を見ています。

第1週の感想は本日中に書きます。

第1週

  • 2月06日(火) 日本侠客伝 (テレビ神奈川) 3点
  • 2月06日(火) 女房の殺し方教えます (TBS) 4点
  • 2月07日(水) サスペリア2 (テアトル新宿) 2点
  • 2月07日(水) 新サイコ (テアトル新宿) 4点
  • 2月07日(水) エロスの誘惑 (烏山) 2点
  • 2月07日(水) 赤ちょうちん (烏山) 3点
  • 2月07日(水) 帰らざる日々 (烏山) 4点
  • 2月10日(土) 死刑台のエレベーター (アートビレッジ新宿) 5点
  • 2月10日(土) 恐怖の報酬 (アートビレッジ新宿) 4点
  • 2月11日(日) シェア・スタジアム/マジカル・ミステリー・ツアー (三鷹オスカー) 1点
  • 2月11日(日) ウッドストック (三鷹オスカー) 4点

第2週

  • 2月12日(月) 異邦人 (テレビ神奈川) 4点
  • 2月15日(木) パリのめぐり逢い (八重洲スター座) 4点
  • 2月15日(木) アメリカの夜 (八重洲スター座) 5点
  • 2月16日(金) 救命艇 (テレビ神奈川) 4点
  • 2月17日(土) ちびっ子ギャンク特集 (アートビレッジ新宿) 4点

第3週

  • 2月20日(火) サード (テアトル新宿) 4点
  • 2月20日(火) ホットロック (新宿ローヤル) 4点
  • 2月21日(水) 県警対組織暴力 (新宿昭和館) 4点
  • 2月21日(水) 網走番外地・荒野の対決 (新宿昭和館) 3点
  • 2月21日(水) ザ・ゴキブリ (新宿昭和館) 1点
  • 2月23日(金) ストレート・タイム (池袋テアトルダイヤ) 3点
  • 2月23日(金) ザ・ドライバー (池袋テアトルダイヤ) 3点
  • 2月23日(金) ミスター・グッドバーを探して (池袋文芸坐) 3点
  • 2月23日(金) 結婚しない女 (池袋文芸坐) 3点

第4週

  • 2月26日(月) 短編映画特集 (東芸劇場)
    ふくろうの河 (4点)、あこがれ (4点)、ゲルニカ (4点)、チャールストン(2点)、ニースについて (4点)、ハートオブエイジ (1点)、愛の唄 (3点)
  • 2月26日(月) 未来戦争の恐怖 (東京12) 3点
  • 3月03日(土) 日本一のゴマスリ男 (フジ) 3点
  • 3月04日(日) 俺たちの交響楽 (笹塚京王) 3点
  • 3月04日(日) 幸福の黄色いハンカチ (笹塚京王) 5点
  • 3月04日(日) 荒野に生きる (テレビ朝日) 4点

以前の鑑賞記録はこちら

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2012年2月 6日 (月)

映画と感情: Emotion and the Structure of Narrative Film (11)

昨日の続き。

感情学習のプロセスに関して報告された結果はたくさんあるが、テレビや映画のドラマを見る動機としての認知学習効果の可能性を説明したものは少ない。だが、後者の方向性を持った数多くの有名な主張がさまざまな芸術の分野の理論家たちによって為されている。最近の心理美学では、刺激における構造秩序を超える洞察を芸術が作り出すという考えは、いくぶん注目されなくなっている。その理由は、芸術作品にメッセージがないという仮定のせいというより、方法論の選択のせいである。多くの場合、芸術は、何かについてである。芸術は、人々に考えさせ、あらたな視野を提示する。芸術作品は鑑賞者に直接語りかけないが、真実、理想、可能性といった問題に関する洞察に導くプロセスに人々を関わらせる。

実験美学と対照的に、直接得ることのできない真実への洞察を得るというロマン主義的な考えは、もはや現代の芸術理論にとって縁遠くはない。ランガーによると、芸術作品は美的感情を喚起し、その美的感情は我々の内面生活と外面の現実の両方に対する包括的な洞察に取って代わられる。(S.K. Langer (1953) Feeling and Form (Scribner))

まったく別の例をあげると、ゲシュタルト心理学者アルンハイムは、鑑賞者は刺激の中に秩序を見出し、この秩序が本物の深遠な人生観を反映すると主張した。(R. Arnheim (1971) Entropy and Art: An Essay on Disorder and Order (University of California Press))

だが、芸術と現実の関係という問題は、非常に複雑なので、今後十分に理解されるかどうか疑わしい。

映画も何かについてであり、現実について多くのことを観客に教えることができる。劇映画が現実について何を言っているのか、どのようにしてそうするのかを説明するのはむずかしい。抑圧された空想、願望、恐れという内面の現実へのアクセスを映画が提供してくれるという精神分析的な観点は、すでに十分に論じた。徴候的な意味にもとづく映画の解釈は無数にあって、ここで吟味するには多すぎる。(D. Bordwell (1989) Making Meaning: Inference and Rhetoric in the Interpretation of Ciname (Harvard University Press))

映画と現実の関係は、古典的な映画理論家の考え方が最も異なる主題かもしれない。現実主義の理論家、特にバザンとクラカウアーは、映画は現実をそのまま描くべきだという見方を支持している。だが、現実とは何かという点で両者の考えは異なる。

バザンが信じるところでは、映画は変化を記録できるので、現実の完全なる再現を作り出すという長年の人間の欲求に対する最終的な答えである。(アンドレ・バザン「映画とは何か」)

クラカウアーは、現実はあばかれるべきだと主張する。映画作家は、自分の意のままにできる映画技法を使って、間違って現実だと見られていることをあばく。(S. Kracauer (1960) Theory of Film: The Redemption of Physical Reality (Oxford University Press))

映画と現実の関係に関する別の有名な見方は、ドラマ理論に根ざすものである。映画を含むドラマは、社会現実のモデルとして見ることができる。よく知られた問題をはらむ状況をドラマ化して描くことは、観客が現実に立ち向かうことを手助けするかもしれない。Gurvitch は、社会状況の昇華によって、観客は社会の矛盾を新たな視点から見ることができ、その解決策を見つけることさえできるかもしれない。
(A. Gurvitch (1956/1973) "The Sociology of the Theatre" in E. Burns & T. Burns (eds.) Sociology of Literature and Drama (Penguin))

(続く)

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2012年2月 5日 (日)

今日は中島早貴の誕生日だった!

今日はなっきぃの18歳の誕生日だったって今知りました。萩原舞の誕生日が近いということしか頭になかった。なっきぃが一番好きなのに不覚でした。さっきの「Kiss Me 愛してる」で「セイ!」とか「カモン!」とか言っている娘です。これでも見てもらいましょうか。やっぱり、"Forever Love" のバックで踊っているのが最高!

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映画と感情: Emotion and the Structure of Narrative Film (10)

萩原舞は2月7日が誕生日。まだ16歳。今月発売されるキュートのアルバムに入っている「行け!元気君」のミュージック・ビデオが楽しい。そこのコメントに書いたように、これを聴かないと一日が始まらない。彼女がボーノの楽屋裏やコンサートをリポートするドキュメンタリーも良くできていて、もうテレビはいらない。矢口真里主演の昼ドラ「銭湯の娘」にレギュラー出演したことがあって、あれは2006年の今頃だったから、10歳。彼女が岡女体育祭で岡村の隣で踊っていたのは2003年10月だから、まだ7歳。今の人気子役ぐらいの小ささ。テレビで売れっ子になったことがないからか、素直に育った感じ。グループでは矢島舞美や鈴木愛理が前面に出てくれるから、のんきな感じ。昨年二月に出たキュート(℃-ute って書かなきゃダメ?)の「Kiss Me 愛してる」はプロモーションビデオを見ても何とも思わなかったけど、ライブは興奮します。私の中では昨年のレコード大賞。

では、本日は小見出し「メディアの娯楽と学習」。

鑑賞者がテレビドラマから学習するのは決して想像できないことではない。テレビドラマから学習するという期待から鑑賞者がこの種の番組を好むという可能性は娯楽の心理的機能にとって重要である。学習するという言葉には、新たな態度や洞察を獲得すること、現在の知識を強化するなど、幅広い意味がある。

攻撃性とテレビ観賞との関係に関する調査は、攻撃的な衝動が減少するという仮説を調べているだけでなく、ある種の感情的行動、特に攻撃は、メディアによって喚起された空想を通じて学習することができるという可能性を提示している。この可能性は Bandura が詳しく研究している。彼の研究は社会学習理論に基づいている。彼は、用心深く、この仮説とカタルシス理論(スッキリ理論)とのバランスを保つようにしている。(A. Bandura (1973) Aggression: A Social Learning Analysis (Prentice Hall))

J.L. Singer と D.G. Singer は、経験的なデータに基づいて、社会学習理論のほうがスッキリ理論よりももっともらしいと結論づけている。社会学習理論によると、テレビドラマは、感情の統制よりも、感情の学習のようなものに貢献している。アクションものは、攻撃などの、ある種の感情に満ちた行為と、そうした感情に伴う認知を強化するのに役立つ。たとえば、アクションものは、攻撃が社会的な目標を達成するための手段である空想モデルを描く。(J.L. Singer & D.G. Singer (1981) Television, Imagination and Aggressoin: A Study of Preschoolers (Lawrence Erlbaum Associates))

鑑賞者の攻撃的傾向と彼らが暴力的なテーマを好むこととの正の相関関係は数多くの研究によって示されている。ただ、原因と結果を識別するのは難しい。感情の傾向と番組のテーマの内容との正の関係は、この傾向の強化がその番組を選択する動機だということを必ずしも意味しない。恐怖といった不快な感情の場合、鑑賞者にマゾ的な動機があると仮定せざるをえなくなる。スッキリすること、より正確にはスッキリする期待のほうが、より有望な仮定に思える。犯罪の恐怖と、犯罪をテーマにしたドラマへの好みの関係に焦点をあてた研究によると、スッキリすると期待することが主な動機である。テレビの犯罪シリーズの多くは、正義が勝つ。したがって、怖がりの鑑賞者は、すべてが大丈夫だと判明するのを切望しており、怖がりでない者よりも犯罪シリーズから満足を得る度合いが大きい。

強烈な感情を経験することで、自尊心を強化することができる。スリラーやホラー映画のような興奮する映画は、征服した気分や有能な感じを味わう機会を観客に与える。この種の映画を見る観客は、本当は怖いのだが、自分の恐怖を征服することができたという満足感を経験する。これは、悲しみ、憐み、嫌悪を喚起させる映画についても同じだろう。興奮するテレビドラマを定期的に見ることが習慣となる証拠は少ない。反応の強度は弱くなるかもしれないが、感受性が弱まることが現実での出来事に適用できると証明されたことはない。にもかかわらず、そのような効果によって次第に無感覚になることを期待することは、ある種の観客にとっての動機となるだろう。

(続く。)

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2012年2月 4日 (土)

映画と感情: Emotion and the Structure of Narrative Film (9)

本日は「ファンタジー(空想)と感情の統制」。これは小見出し「メディアの娯楽と感情の統制」の補足らしき部分です。

メディアが気分をスッキリさせるという仮説で興味深いのは、メディアの娯楽、特にテレビドラマが、攻撃的な感情などの強度を減らすことができる空想を呼び起こすことである。空想の仕組みは、攻撃性を抑えることなどによって気分をスッキリさせることができる。その仕組みには、目標をとり変えたり、攻撃性を象徴的に表現することが含まれる。想像や象徴的な形で攻撃的な反応を表現するのである。前向きな姿勢を強化した場合、願望の充足といった空想によって、攻撃的な反応とは相容れない楽しい感情を喚起することができる。

テレビドラマが喚起する空想は、それ自体が楽しいものかもしれない。言い換えると、そうした空想は、スッキリすることに貢献するだけでなく、テレビ観賞に伴う、感情が充満した象徴的な想像がそのテレビ番組を見る動機となるかもしれない。このことは、さまざまな空想研究家によって注目されている。

Klinger (Structure and Function of Fantasy, 1971) は、義務感のない精神作用である空想は現在の関心を反映していると主張している。現在の関心には、まだ実現していない目標や、中断された手段的活動のような単純なことが含まれる。空想の最も有名な形には強い人物との同一化が含まれる。ウォルター・ミティ効果やランボー現象などである。この種の願望充足的な空想は、より永久的な同一化効果の一因になるかもしれない。(ウォルター・ミティは、ジェームズ・サーバーの短編小説の主人公で、空想の中でヒーローになる。ランボーは、シルベスター・スタローン扮する戦士。ここでは二作目「ランボー/怒りの脱出 Rambo: First Blood, Part II」を挙げています。)

映画理論家は、空想を解放する映画の可能性をよく指摘する。Sorlin は、物語を理解することに含まれる合理的な喜びと、空想を感情化することによって表現される非合理的な要素とを区別している。

ミュンスターバーグは次のように書いている。「ずっしりした外の世界は、重さを失い、空間、時間、因果関係から自由になり、われわれの意識という形で表現される。」
(Munsterberg (1916) The Film, A Psychological Study)

この効果の一部は、上映が終わってからも続くことがある。空想するという活動は、内容とは関係なく、それ自体が楽しいことだということと、メディアは空想にふけるための強力な刺激を与えてくれるということを仮定することによって、我々は一段先に進むことができるかもしれない。

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2012年2月 3日 (金)

フィルムノワール入門 (40)

Andrew Spicer の "Film Noir" (2002, Longman) の第4章「テーマと物語戦略」の後半の物語戦略。「ボイスオーバーとフラッシュバック(その1)告白」「ボイスオーバーとフラッシュバック(その2)調査」「主観カメラと夢の状態」の三つに分かれていて、今日は最後の「主観カメラと夢の状態」。

主観カメラというと、まず出てくるのがロバート・モンゴメリー監督・主演の「湖中の女」(Lady in the Lake, 1947)。ロバート・モンゴメリーは「奥さまは魔女」のサマンサ、エリザベス・モンゴメリーのお父さんです。原作はレイモンド・チャンドラーのフィリップ・マーローもので、主演といっても、ほとんどカメラが彼の視点になっているので、鏡に映っているときぐらいしか姿は見えない(最初にロバート・モンゴメリーが登場して、何か説明するんでしたっけ?)。しかし、このやり方では、観客は主人公と同一化できず、主人公の眼から物事を見るという体験はできませんでした。3年ほど前に、"Film Noir: An Encyclopedic Reference to the American Style" がこの映画について書いているのを訳しています

主観的なカメラや語り口を発展させたのは、心理的に障害のある状態を描いたドイツ表現主義で、ここでは、まず、ドイツから亡命したカーティス・バーンハートの「失われた心」(Possessed, 1947) と "High Wall" (1947) を取り上げています。「失われた心」については1年前に書いていますが、"High Wall" は未見です。これはアメリカ盤DVDが入手可能なので、近々見てみることにします。

「失われた心」については省略することにして、"High Wall" について。主人公は空軍のパイロットだったスティーブ・ケネット(ロバート・テイラー)。彼の頭には血の固まりがあって、ひどい頭痛と記憶喪失に襲われる。彼は妻を殺してしまったようだが、そのときの状況を思い出せない。医師アン・ロリソン(オードリー・トッター)による麻酔療法によって当時の状況を思い出そうとする。彼の回想は主観的に表現される。彼が不実な妻のおびえる顔に近づいていくのを彼の視点から描き、嫌悪の表情が妻に迫ってくるのを彼女の視点から描いている。二人のバストショットになり、ケネットが妻の首を絞めようとしているが、彼の手の力が弱まり、頭を抱えて倒れる。彼が気を失うのは渦巻状の溶暗で表現され、そこでは回転木馬が回っている。その場所は妻の愛人ウィラード・ウィトコム(ハーバート・マーシャル)の家で、彼がその家を再び訪ねると、取っ組みあっている間に床に落ちたオルゴールの音によって回転木馬の映像が浮かび上がったことを思い出し、本当の殺人者がウィラードであると理解する。

精神障害を表現する夢の場面も表現派に由来する。第2章で論じた "Stranger on the Third Floor" (1940, ボリス・イングスター)にもあるが、最も野心的なのはヒットコックの「白い恐怖」(Spellbound, 1945) である。ダリが設計したもので、主要な物語とまったく異なる世界を作り出しており、たぶんより正確に主人公の心の過程を描いている。プロデューサーのセルズニックは、アメリカの観客には過激すぎるとして、この場面をかなり削ってしまった。

コーネル・ウールリッチを原作とする "Fear in the Night" (1947) は、主人公の被害妄想と混乱を描くために夢の場面を使用している。素晴らしいシュールな開巻で、ビンス・グレイソン(デフォレスト・ケリー)は、逃れることができない鏡の部屋で男を殺す悪夢を体験する。彼が目覚めると、首に残っている親指の跡、引きちぎられたボタン、食器棚のカギなど、夢が事実だったことを示すさまざまな証拠を見つける。グレイソンは、自分の正気を疑い、自分が殺人者だと確信して、姉や恋人と疎遠になり、自殺しようとする。義理の兄である刑事は、彼が催眠術をかけられたことを示す手がかりを次第に見つけていく。(ここで全部見ることができます。

こうした主観的な工夫は、内面の状態を客観的に表現しようとするフィルムノワールの試みだが、ハリウッドの映画作家は、保守的な商業制度の中で映画を作らなければならず、ヨーロッパの現代主義に鼓舞された革新的な実験と一般的な慣行の要求との間の緊張があった。個人の病理に対する関心が薄れた50年代になると、主観カメラ、フラッシュバック、ナレーションに関するこうした実験は、より因習的な語り口のために消え去っていく。しかし、ひとつの偉大な例外があって、ウェルズの「黒い罠」のように、商業的な映画作家がたどり着くこのできる一番遠くまで進んでいる。ヒッチコックの「めまい」(Vertigo, 1958) である。

(以下、来週に続く。)

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2012年2月 2日 (木)

映画と感情: Emotion and the Structure of Narrative Film (8)

50年代後半に公開されたときは「戦争と貞操」という邦題で、その後リバイバルされた際に原題に忠実な「鶴は翔んでゆく」という邦題になったソ連映画、良かったです。ダイナミックな映像の連続なんだけど、技巧のための技巧にならずに、物語に効果をもたらしているのがすごい。主人公の女性が魅力的。私が購入したのはクライテリオンがずっと前に発売したものですが、来月あたり同じ監督の「送られなかった手紙」もクライテリオンから発売されるので、今から楽しみ。

【メディアの娯楽と感情の統制】

効用や満足感に基づいたテレビ観賞の心理学的機能の研究がたくさんある。ここでは、劇映画に最も似ているテレビドラマの機能を扱う。最近の研究では、テレビ鑑賞が感情調節に一役買っていると仮定されている。

テレビによってもたらされた興奮自体は満足を与えるものではなく、恐怖、怒り、困惑といった感情の組合せとして説明することもできる。この刺激には適切な距離が必要である。たとえば暴力が非常に様式化されると、距離が遠くなり、不快な感情が喚起されず、スッキリすることもない。近すぎる場合は、感情に圧倒されて、感情を解放する機会がなくなる。たとえば、暴力がリアルであからさまに描かれた場合である。

アンケート調査よりも直接的なやり方で、メディアの使用と感情調節の関係を示そうと試みている研究があり、興奮の増減は気分の管理に有効かもしれないとしている。実験では、被験者に最適な興奮をもたらすドラマを選択させている。被験者を退屈な状態に置いた場合、興奮させてくれそうなドラマを選ぶ。被験者を緊張状態に置いた場合、あまり興奮しない内容のドラマを選ぶ。

別の実験では、テレビ観賞者の感情の質と強度は番組によって調節できることが示された。月経周期の中間にある女性は、コメディよりもシリアスなドラマを選択した。月経前または月経期の女性はコメディに、より興味を持った。

快楽理論に基づく娯楽の感情調節機能は次のように要約できる。

1. 一般に、満足を最大限にし、嫌な気持ちを最小限にする傾向がある。
2. 刺激が少ない状況にあると、変化に富んだ、興奮しそうな刺激を選ぶ。
3. 刺激が多い状況にあると、2と逆の刺激を選ぶ。
4. 嫌な気持ちが強いと、心を奪う楽しい刺激に救いを求める。
5. 満足を感じて、心地良い状態にあると、その状態を続けたいので、さほど心を奪われない刺激を求める。

ただし、テレビや映画のドラマによって気分を調節する可能性には限度がある。感情が強すぎたり、長続きする効果を刺激がを持っていると、娯楽作品自体の影響を取り消してしまう。ただちに解決しなければならないと感じる挑発による怒りなど、重大な問題を持っていると、メディアの利用を一時的にやめてしまう。

小説も同様の働きをする。気分を高める手段として読書が重要だとする調査データがある。読書の満足について小学生と中学生に対して行った調査によると、感情のバランスを保ったり回復したりするために読書をするというのが読書態度として最も重要な形である。

さらに、上述したメディア娯楽の概念と余暇の社会学との間には、うわべの関係以上のものがある。少なくとも、感情調節の興奮を強める面に関して。メディアの利用、特に劇映画を見ることは、模倣の余暇活動としてみなすことができる。そのような活動は、日常生活の真ん中にある孤立地帯であり、感情の高まりが限度内にとどまり、感情面でスッキリする結果となる。これは、現代社会の単調さや退屈さに対する埋め合わせのようなものである。テレビドラマと映画に共通する特徴は、感情の喚起と感情の安全な経験の両方が登場人物との同一化によって達成されることである。

1月23日に書いた戦争映画10本セットについて、米アマゾンに書いてあるのと二本ほど映画が違うと書きましたが、米アマゾンと同じでした。すわなち、懐かしいハーディ・クリューガーの「脱走四万キロ」は入っておらず、アルドリッチの「攻撃」が入っていました(掲載されている写真が間違っている)。10本で二千円少々だから、どちらでもいいです。6枚のDVDに収録されていて、4枚が両面に1本ずつ、2枚が片面に1作で、計10作です。写真のように、この6枚がDVD1枚と同じ大きさのケースにうまく収納されていて、助かるわあ。

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2012年2月 1日 (水)

MGM以降のキートン作品集 (13): Three on the Limb (1936)

バスター・キートンが30年代半ばにエデュケーショナル社で主演した16本の短編映画を見ているわけですが、これらは Kino から出ているDVD二枚組 "Lost Keaton" に全部収録されています。残念ながら字幕はありません。

で、本日は9本目の "Three on a Limb"。半分過ぎて二枚目に突入。日本では劇場公開されていないようですが、キネ旬の「世界の映画作家26/バスター・キートンと喜劇の黄金時代」では「三つ巴」と訳されています。キートン、ハロルド・グッドウィン、グラント・ウィザーズの三人がロナ・アンドレを取りあうからです。長身のグッドウィンは長編の「カレッジライフ」と「カメラマン」でもライバルを演じているし、エデュケーショナル時代でも「野球大当り」で共演しているので、きっとキートンと仲が良いのでしょう。

James L. Neibaur の "The Fall of Buster Keaton" (Scarecrow Press, 2010) によると、前作「内気な青年」の撮影後にキートンはアル中に逆戻りし、さらに精神衰弱になったために、療養所に入ったそうです。新聞では肺炎にかかったと報道されたようですが。

それにもかかわらず、前の何作かよりは良くなっていると著者は書いていますが、前々作「自由結婚」や前作「内気な青年」も、そこそこ面白かったです。

「三つ巴」の最初はハンバーガーショップでのドタバタ。車までカワイコちゃんたちが運んで来てくれるドライブイン式の店。キートンは半ズボンのボーイスカウト姿でポンコツ車に乗ってやってくるのですが、相変わらずドジばかり。自分のバーガーセットを地面に落とすだけでなく、他人のセットまで落とす始末。やってきた警官ハロルド・グッドウィンはカワイコちゃんのひとりロナ・アンドレに気があるけれど、ロナはさほどでもなさそうで、キートンの車に乗せてもらって家に帰る。

さっき出会ったばかりなのに、ロナは両親に会ってくれとキートンに言う。このあたり、二人が何をしゃべっているのか私には理解不能なのだけど、彼女は両親から早く結婚しろとか言われているのじゃないかと思います。

居間で待たされたキートンが椅子に座ろうとすると、そこにはシェパードがいて、キートンがそれに気づかなかったものだから、シェパードはキートンが嫌いになる。キートンが別の椅子に座ろうとすると、キートンに向かって吠えて、自分がその椅子に座る。キートンが家具にもたれかかろうとすると、また唸り声を上げので、キートンはどうすることもできない。

両親が登場し、キートンの恰好を見て、父親がボーイスカウトで何をやっているのかと尋ねるので、キートンは木で火をつけると答える。父親は暖炉から木の棒を二本持ってきて、やってみろと言う。キートンが床で二本の棒をこすり合わせていると、敷物が燃えてしまって、両親が大慌て。キートンが廊下のホースを部屋に引っぱり込もうとするのだけど、ここでもドジばかりで、結局廊下を水浸しにするだけ。

父親が娘婿にしたいと思っているグッドウィンがやってきて、さらに母親がお気に入りのウィザーズもやってくる。さっさと娘をグッドウィンと結婚させたい父親の策略でキートンは神父を連れてくる。自分が結婚式を挙げてもらえると思っていたキートンは部屋から放り出され、グッドウィンとロナが神父の前に立って儀式をしようとする。すると今度はウィザーズがグッドウィンを叩きのめす。部屋に戻ったキートンは、また部屋から放り出される。さらに、二股かけていたウィザーズの恋人がやってきて、もうテンヤワンヤ。いつのまにかキートンが母親と式をあげる格好になっていたりする。ヘトヘトになった神父の前でキートンとロナが式を挙げてもらって終わり。

これらはテンポよく展開すれば面白かったろうに、タイミングが悪くて、あまり笑うことができない。前作の監督はマック・セネットでしたが、これは、その前の七作と同じチャールズ・ラモント。

この作品の前にキートンはMGMによるカラーの「西班牙舞曲」(La Fiesta de Santa Barbara) に出演していますが、この作品のあとにも「踊る人魚達」 (Sunkist Stars at Palm Springs)というMGMのカラーのオールスター映画に出演しています。ちなみに、1935年の前者には三人組ガム・シスターズの末娘として13歳のジュディ・ガーランドが出演しています(彼女の本名は Frances Ethel Gumm)。

エデューケショナル時代の短編主演作品(★★★★★満点)

  1. The Gold Ghost (1934) 「キートンの黄金崇拝」 ★★
  2. Allez Oop (1934) 「キートンの頓馬同盟」 ★★
  3. Palooka from Paducah (1935) 「キートンのレスリング」 ★★
  4. One Run Elmer (1935) 「キートンの野球大当り」 ★★★★
  5. Hayseed Romance (1935) 「田舎者のロマンス」 ★★★
  6. Tars and Stripes (1935) 「キートンの脱線水兵」 ★★
  7. The E-Flat Man (1935) 「キートンの自由結婚」 ★★★
  8. The Timid Young Man (1935) 「内気な青年」 ★★★
  9. Three on a Limb (1936) 「三つ巴」 ★★

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