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2012年1月31日 (火)

1979年1月に見た映画 (追加)

当時の感想があったので、付け加えておきます。これらは、私のウェブサイトの映画鑑賞記録に、はめ込みました。

「いかすぜ!この恋」(1月24日 池袋文芸坐) 3点

ヨォ、プレスリー!! 今までプレスリーの映画なんて、と思っていたけど、さすが国民のアイドル。この映画でのプレスリーの自信満々さはどうだろう。

たいした顔していないのに、腕っぷしが強くて、頼もしくって、歌が上手で、全女性に愛されて、自分では意識してないのに、顔から体から女に対して色気を見せる。他の男なんてまるで存在感がない。もし、こんな男がいたら、もう殺してやりたいぐらいにイヤな男だろうが、まるでそうは思わせず、ただただ自分と同化させてくれる。ここまで徹底した独自の世界を作り出すなんて今の映画じゃできませんゾ。映画以前にプレスリーがいたから、できたのだ。これは一つの神話である。プレスリーは神様である。

しかし、時の流れは残酷なことヨ。神様は天から降りて、みっともない姿をさらけだしてしまう。時の流れが自分と逆らった方向に進もうとするなら、こういう人は、その方向へ進もうとはせずに、流れの底に沈むべきですナ。

開巻のバスに乗り遅れた人は災難ですナ。こんなけっこうな経験はありませんゾ。エルビス死すとも、映画は残る。

「ミッドナイト・エキスプレス」(1月25日テアトル新宿) 4点

この映画は、一人の男が主人公である。この男は、麻薬所持のためトルコの警察に捕まってしまう。男は不当に裁判されて、かなり長い間、刑務所の中で過ごすことになる。

トルコの刑務所は、かなり不潔だが、刑務所内部は自由に出歩くことができ、他の人とも話すことができる。ただ、アメリカ人とトルコ人の違いがこのアメリカ人をいらだたせる。刑務所にいるということは外の社会と断絶されることで、この映画ではそれが強く感じられる。彼の不安は、人間として忘れられるかもしれない、ということだろう。

この男は、まわりに対して無力なのである。ただ、最後に脱獄することになるが、あくまで偶然であり、ほとんどなすがままである。これが本当なのである。まず脱獄の映画だと、その脱獄の計画のすばらしさ、あるいは脱獄者の不屈さが描かれるであろう。ところがそれはまず作り話めいている。ところが実話になると、「パピヨン」にしろ「ミッドナイト・エキスプレス」にしろ、囚人は、なかなか抜け出せない。われわれと同じ人なら、まず脱獄なんてできなのである。もし、脱獄できるとしたら、この映画のように、たまたまそうなったというぐらいのものでしかない。

もともと、この映画は脱獄の方法を描いたのではない。なぜなら、この刑務所の立地条件がまるでわからないからだ。また、壁を開けて脱獄しようとして、地下水道に入ったまではいいが、すぐ行き詰まってしまうアッケなさを見ろ。また、壁の穴がすぐ見つかってしまうアッケなさを見るがいい。

それに、この映画は、主人公の生き様を描いたものでもない。ほとんど、この男は為すがままにされているのである。彼は、われわれと同じなのである。彼はわれわれの一つのモデルなのである。

とすれば、一体何が残る。トルコの警察、あるいは裁判所のあいまいさ、ゴウマンさが残る。いや、そんなことではない。

この主人公は、われわれと同じ人間であり、たやすく同化させてくれるところに意義がある。この映画は、われわれに大変な経験を積ませてくれるのだ。

だから、最後の喜びもひとしおである。

「ロング・グッドバイ」「チャイナタウン」(1月28日三鷹オスカー) どちらも5点

ちょっと見れば、「ロング・グッドバイ」は、チャンドラーの傑作ハードボイルド小説をみごとに破壊して、アルトマン調にし、「チャイナタウン」はポランスキーが念入りにハードボイルドの世界を描いたもののように見える。しかし、よく見れば、本当にハードボイルドなのは「ロング・グッドバイ」であり、「チャイナタウン」よりはるかにハードボイルド小説の感じに近い。

「チャイナタウン」は、時代が戦前になっており、すべてが忠実に再現されているようではあるが、なぜかケバケバしく、どぎつい。主人公、JJギデスは、名前こそいかにもハードボイルド探偵といった感じだが、どこかナヨナヨしい。しかも、女依頼人と寝るのであるからチャンドラーやロス・マクドナルドの主流派とは違う。マーローは絶対女を抱いたりしない。「ロング・グッドバイ」を見よ。目の前に裸の女がワンサといるのに、まるで興味を示さない。一級の探偵や殺し屋(探偵と背中合わせ)は、絶対女に気を許さない。

マーローやアーチャーといった探偵は、悲劇を客観的に見つめる第三者だが、冷酷になりきれないところから、その悲劇が彼らの中にもしみ込んでいくのである。彼らは第三者になりきれないのである。外面的に第三者であっても内面は事件の中に入っている。JJは、外面的に事件中の人物とかかわりあっても、内面的にはまるでかかわりあっていないように思える。

「チャイナタウン」は、全部が作り物みたいだ。事件は、大変陰惨なものとなったが、作り物ではそれも白々しい。JJ自体、作り物みたいで、彼の人間性がよく出ていない。探偵ものでは、探偵は私たちと同化しなければならない。私たちは、JJに同化できないのである。

一方、「ロング・グッドバイ」は、事件が最後までよくつかめない感じだが、マーローと我々は見事に同化している。まず、開巻を見たまえ。実にいいではないか。リアリティがあるのだ。

彼をとりまく人物が、みんな実にくさいが、それに事件も平凡だが、マーローの心にはJJ以上に悲しみがしみこんでいくである。

ラストがにくいですなァ。

「家族の肖像」(2月2日岩波ホール) 5点

一人ゆうゆうと書斎で暮らす大学教授。メイドが二人おり、家事一切の心配もない。学問に没頭しており、孤独感はあるが、絶望にはいたらない。実にうらやましい。こちらとしては、部屋の中で一人で暮らしてゆけるものならどんなに素晴らしいことだろうと思っているのに、そうはいかない。

ところが、彼の人生もこのままでは終わらせてくれない。いくら世間と関わりあおうとしなくても、やはり社会とは、どこかで関わりあわなくてはいけない。この教授が何年こんな生活をしているかは知らないが、かなりの間だろう。そこへ突然と外部の者が忍びこんできたら、彼の社会への免疫が利かなくなりかけてしまっている今、死ぬしかないのではないか。

孤独に生きてきた者が人と関わりあうのがどんなにわずらわしいことかわかるのである。主人公はまるで檻の中のライオンだ。ライオンだが草食のライオンだ。外へ出ると撃ち殺されるだろう。この教授が外へ出ると「ベニスに死す」になる。「ベニスに死す」では、主人公は不器用に少年を愛してしまい、外部の世界は刺激的で心臓に悪かったのであろう、死んでしまう。

ここでは、彼の家の中に忍びこむ。ああ、本当にわずらわしいなあ、他人と関わりあうのは。しかし、一方で人と接したくもあったのだ。人と接していくこと、これは「愛」によって為されるのであろう。彼が一番心に触れたコンラッドという青年。しかし、教授は心から彼を愛することはできない。人間への不信感というより、人間との関わりを断っているのだ。彼は怠惰なのだ。

一見、落ち着いた人物に見えるが、実は彼の虚像なのである。社会から逃げているのにすぎない。知性のかたまりの彼は、頭の中では欲望に身を任せる人たちに勝てるのだが、実際はそうはいかない。

むなしいのである。すべてがむなしい。人間の心の生き方は何であろうか。社会に身を任せるか、自分の中で生きていくか、どちらも悲しい。その接点を生きるのは、なかなかむずかしい。

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