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2011年12月31日 (土)

映画と感情: Such Stuff as Dreams (30)

人の感情は、表情、声、身ぶり、行動から知ることが多い。嫌悪の表情は特徴的で、世界中で共通らしい。何か嫌悪を感じるものを想像するだけで、誰でも嫌悪を示す表情になります。とすれば、俳優にとって嫌悪を表現するのは簡単なことだと思いがちです。

散文でも、演劇でも、映画でも、登場人物は感情をもっているものとして描かれますが、彼らの感情が真の問題ではありません。映画監督が俳優に嫌悪の表情をさせたなら、観客は登場人物が嫌悪を感じていると思うでしょう。でも、観客自身に嫌悪を感じさせることのほうがよりすぐれています。無表情の俳優にスープ、遊ぶ子供、死んだ女性を組み合わせるクレショフの実験の要点は、部分的に、このことでした。さらに、「戦艦ポチョムキン」の前述のシーンにおけるエイゼンシュテインのモンタージュの要点でもあります。よくできた劇映画で感情を感じるのは観客なのです。

嫌悪の研究は映画の発明以前にさかのぼります。ダーウィンが「人及び動物の表情について」(1872)で嫌悪について書いています。ダーウィンは、ビーグル号での航海中、ティエラデルフエゴ(南アメリカ 大陸南端にある諸島)の原住民の男が、ダーウィンが食べようとしていた保存肉を指で触る様子を描いています。肉が柔らかいとわかり、男は嫌悪の表情をします。男の手はきれいだったのですが、ダーウィンは食事をとる気がしなくなりました。より最近の研究では、嫌悪の表情の認識にかかわる脳の領域は、嫌悪を経験する領域と同じです。それで、我々が他人の嫌悪を認識するとき、自分自身が嫌悪の経験を作り出したり、シミュレーションしたりして他人の嫌悪を認識するのです。ダーウィンが食事をとる気がしなくなったのは、彼の保存肉を他人がさわったからではありません。それはダーウィン自身の嫌悪感によるもので、それは肉を触った男の嫌悪感の反映です。

ウジのわいた肉のように人が食べたくないものを見たときの嫌悪は、倫理上の嫌悪、すなわち他人による受け入れがたい行動の拒否と同じ反応です。嫌悪を催す食べ物と不正の関係こそ、エイゼンシュテインが提示しようとしたことです。並置という手段によって、映画は、物、人、感情に基づく考えのつながりを提示するのが特に上手になっています。

人は、映画を見たり、小説を読んだりする際、出来事に関連して感情の流れを経験します。それらの出来事をつなげて、自分自身にとって意味のあるものに構築し、その結果として感情を経験するのは我々なのです。

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2011年12月30日 (金)

「拳銃貸します」

本日は「拳銃貸します This Gun for Hire」(1942)を見ました。日本では劇場公開されたことがないはずで、邦題はテレビ放映時か、グレアム・グリーンの原作の題名だと思います。グレアム・グリーンには「ブライトン・ロック」という小説もあって、リチャード・アッテンボロー主演で映画化されていて、DVDを持っているのですが、字幕がなくてよくわからないので途中で見るのをやめて、丸谷才一さんが翻訳したものを先に読みました。若い悪党がうまく描かれていて、たぶんグリーンは犯罪者を描くのがうまいんじゃないかと推測します。ほかの作品を知らないので、単なる憶測ですが。

アラン・ラッドがブレイクした作品で、最初、殺し屋がぼろホテルで子猫を可愛がっているという孤独な様子は、メルビルとドロンの「サムライ」みたい。「サムライ」のジェフ・コステロは小鳥を可愛がっていました。猫は、あとのほうにも出てきて、身を隠しているラッドとベロニカ・レイクのところに猫が来て、ニャアニャアうるさくて、人に見つかってしまいそうなので、ラッドが首を絞めるかどうかして殺してしまい、あとで後悔するという場面も印象的でした。こういうのって原作にあるのでしょうか。普通考えつかないような気がする。

ユーモラスな場面もあるし、線路の上の陸橋でのおっかけや、そのあと列車に飛び乗るというアクション場面もあって、思った以上にサービスが豊かでした。もっと陰鬱な作品だと思っていたから。

ベロニカ・レイクは刑事ロバート・プレストンと恋仲ですが、むしろアラン・ラッドとのコンビのほうがお似合い。実際、「殺し屋は放たれた」で殺人者ウェンデル・コーリーよりもはるかに印象に残らないジョセフ・コットンのように、ロバート・プレストンも影が薄い。ベロニカ・レイクは、ちょっとしたマジックを披露しながら歌うというナイトクラブのシンガーで、この芸を見せるシーンが二度あるのですが、これがけっこうしびれる。ただし、歌は御本人ではなく吹替え。ラッドとレイクは「青い戦慄 The Blue Dahlia」 (1946) というのでも共演しているので、そのうち見たい。

少し前にフィルムノワール入門のフロイト主義のところで、この作品について言及してました。アラン・ラッドが、子供時代に虐待されて、精神的にも肉体的にも障害を負ったことや、いつも夢を見るということをベロニカ・レイクに語る場面が確かにありました。こういう場面だけだと、ラッドは観客の共感を呼ぶ人物に思えますが、先ほどの猫を殺すシーンとか、あっけなく警官を射殺してしまうシーンとかあって、けっこう複雑で、深みがあります。

オーソン・ウェルズみたいな巨漢の化物俳優レアード・クレガーが悪役。彼が主演した20世紀フォックスのホラー映画について以前書いたことがあるので、ご覧ください。1913年生まれだから、1942年の「拳銃貸します」のときは30前だけど、中年にしか見えない。

Film Posters of the 40s から。

Thisgunforhire

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2011年12月29日 (木)

「殺し屋は放たれた」

夜になって頭が動かなくなったので本日の「映画と感情」はお休み。

吉川友の新曲っていいじゃないですか。モー娘を落とされたのは美人すぎたからか。美人だからか、19歳なのに、もっと年上に見えます。新年のハロプロのコンサートにゲスト参加するらしくて、なんだかんだで、にぎやかじゃないですか。

バッド・ベティカーの「殺し屋は放たれた The Killer Is Loose」(1956)の米盤DVDは字幕がないので、よくはわからないが、Film Noir Guide の星一つ半はひどい。私なら三つあげてもいい。銀行強盗に加担した銀行員(「裏窓」の刑事ウェンデル・コーリー)を逮捕しに彼のアパートに出向いた刑事ジョセフ・コットンが間違えて彼の妻を殺してしまう。妻を愛していたコーリーは、復讐のためにコットンの妻ロンダ・フレミングを殺そうとして脱獄する。

まず、開巻の銀行強盗のシークエンスが素晴らしい。近代的な郊外の道路わきに建つ銀行。明るい日差しの中をスーツに帽子の一味が何人か銀行に入っていく。銀行内はスタジオ撮影ではなく、ガラス張りのために明るい外がよく見えて、車が行き交っている。強盗そのものは派手ではなく、簡素。現代的でシャープな感覚。白黒映画で撮影はルシアン・バラード。

最後のシークエンスも良かった。夜、コーリーがコットンの妻を殺しに来るのを郊外の閑静な住宅地で待っている警察の一団。怪しい人物の動きを無線を使用して連携しながら静かに追い続ける。そして、いよいよ妻が殺されそうになったときに、さっと行動するのがクールでイカす。

Film Noir Guide で点数が悪かった理由の一つはコットンとコーリーの演技がパッとしないということで、たしかにコットンはどうでもいいけど、生真面目な銀行員と冷酷な殺人者が表裏一体となっているコーリーはリアリティがありました。

あと、アラン・ラッドとベロニカ・レイクの「拳銃貸します 」(1942)と、ジーン・ティアニーとコーネル・ワイルドの「哀愁の湖 Leave Her to Heaven」(1945)も買いました。どちらもフィルムノワール入門のフロイト主義の項で言及されていたからです。後者は、ケイリー・グラントとデボラ・カーの「めぐり逢い」(1957)、マンキーウィッツ監督の「三人の妻への手紙」(1949)、「青春物語 Peyton Place」(1957)との4枚組で1421円という安さ。どれも米盤ですけど。

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2011年12月28日 (水)

MGM以降のキートン作品集 (8): One Run Elmer (1935)

児玉数夫氏の「キートン!キートン!!キートン!!!」(ブロンズ社、1980)によると「キートンの野球大当り」という邦題があるようです。原題を直訳すると「1点をとったエルマー」でしょうか。エルマーはMGM以降にキートンがよく使っている役名です。

児玉氏は昭和11年(1936)4月に日劇・第一地下劇場で父と一緒に見に行きました。上の日劇でロイド喜劇を見たあとで、地下にハシゴしたそうです。ここは日本初の地下劇場で、現在の日劇文化と書いてあるのですが、この本が出た1980年時点のことで、現在はなくなっているのでしょうね。インターネットで調べたら、ATG映画専門だった時期もあったそうです。私の映画観賞記録を調べたら、1977年5月に「キートンの大列車追跡」、1977年9月に「上海から来た女」と「第三の男」、1980年10月に「オーソン・ウェルズのフェイク」と「勝手にしやがれ」を見ています。話を戻すと、児玉氏がその日見たのは、ほかに極彩色漫画「春の女神」、読売新聞社製作「寄席中継」、ワーナー短編「海の狼」、記録映画「生存の闘争」で、短編のみでのプログラムは当時でも異色だったそうです。「寄席中継」というのが面白い。今のテレビ感覚ですね。

で、エデュケーショナル社4作目の短編「キートンの野球大当り」は、意外と面白かった。サイレント時代の短編のつまらないのより面白いんじゃないかと思うほど。もちろん、「マイホーム」や「船出」のような傑作からはほど遠いのですが。

「カレッジ・ライフ」と「カメラマン」でキートンのライバルを演じた長身でハンサムなハロルド・グットウィンが、ここでもライバルを演じているのがうれしい。

砂漠の中にポツンと立っているちっぽけなガソリンスタンド。そこの主がキートン。砂漠といっても、砂だらけの砂漠じゃなくて、「イージーライダー」や「バニシングポイント」に出てくるような草木があちこちに生えている荒れ地。この自然の背景が良い。そこで、めったに通らない車を椅子に座って待っているキートンが世間離れしていて似合っています。で、道の向かいに何か建つことになって、これからにぎわうぞと期待するキートンですが、完成したら、なんとガソリンスタンド。こんなだだっ広いところにガソリンスタンドが向かい合って立っているというシチュエーションだけで可笑しい。価格競争で、黒板にキートンが安い値段を書くと、そんな安いガソリンは買わないと客に言われたり、ホースが届かなかったりして、いつもライバルに客をとられてしまうのが、まず面白い。

ヒロイン、ロナ・アンドレが運転する車がやってきて、キートンが車やロナのほこりを払おうと悪戦苦闘している間に、またもやライバルにガソリンを入れられてしまう。ロナが野球好きなのを知ったキートンが家に戻ってユニフォームに着替えてくると、すでにライバルが別のチームのユニフォームに着替えてロナと談笑している。

ロナが走り去ったあと、キートンとライバルが野球対決をする。最初はキートンがピッチャーで、ライバルがバッター。キートンが投げるごとにライバルがジャストミートして、そのたびにキートンの家が壊れていく。バッターとピッチャーを交代すると、キートンが空振りばかりするので、そのたびに球がキートンを素通りして家を壊していく。

で、後半が二人の所属するチームの野球対決。キートンは野球好きだから、ここでも面白いギャグが次々と飛び出すのですが、それは割愛。勝ったキートンにロナが抱きつくと、キートンの背後からライバルがロナの唇を奪う。それに憤慨したロナがライバルに平手打ちを喰らわそうとすると、間違えてキートンをぶってしまう。自分がぶたれたと勘違いしたキートンが砂漠を逃げていくと、ロナが追いかけていくというラストは、キートンらしいし、その後の二人を考えると胸キュンとなります。

監督はずっとチャールズ・ラモント。前作の公開が1935年1月で、これは2月。製作はエデュケーショナルですが、配給はフォックス。

  1. The Gold Ghost (1934) 「キートンの黄金崇拝」 ★★
  2. Allez Oop (1934) 「キートンの頓馬同盟」 ★★
  3. Palooka from Paducah (1935) 「キートンのレスリング」 ★★
  4. One Run Elmer (1935) 「キートンの野球大当り」 ★★★★

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2011年12月27日 (火)

1978年12月第4週に見た映画

12月25日(月) 妖星ゴラス (フジ) 2点
12月26日(火) リオブラボー (テレ朝) 4点
12月29日(金) 輪舞 (広島のテレビ) 3点
12月31日(日) 忘れじの面影 (NHK教育) 4点

週の初めのほうは東京にいて、中ごろ広島に帰ったらしい。

「妖星ゴラス」の「妖星」って何やら怪しげで、吸い寄せられるような言葉ですが、点数からすると、さほどでもなかったみたい。造語ではなく、ちゃんとした単語で、新明解国語辞典(第四版)によると、「昔、災害の前兆と信じられた、不気味な星」だそうな。キネ旬の日本映画作品全集(1973)を頼りにすると、「太陽系にまよいこんだ遊星ゴラスのため、地球は次々に天変地異を続発。」地球に激突すると予測した科学者たち(上原謙、池部良、志村喬ら)が南極にロケットエンジンを設置して、地球そのものを動かそうとする。このアイディアは壮大でワクワクするし、この記事を書いている石上三登志氏も、アイディアの壮大さでは「SF映画史上に記録されるべきものである」と述べています。しかし、肝心のロケット噴射がチャッチいらしいし、とけた氷の下からセイウチみたいな怪獣マグマが出てきて、前述のアイディアをぶち壊しているそうです。原案は丘美丈二郎。ウィキペディアによると、東京帝国大学工学部卒の探偵作家で、航空自衛隊のパイロットでもあったそうです(1918年生まれ、2003年没)。東宝のSFものでは、ほかに「地球防衛軍」(1957)、「宇宙大戦争」(1959)、「宇宙大怪獣ドゴラ」(1964)の原案を提供しています。脚色木村武、監督本多猪四郎、特撮円谷英二。最近この手の作品を見たことがないので、1月下旬にクライテリオンから発売される「ゴジラ」(1954)の二枚組を買おうかなと思っています。不勉強ながら、まだ見たことがないのです。クライテリオンのにはオリジナルと、レイモンド・バーが演じるリポーターのシーンを加えたアメリカ版が収録されています。(追記:「妖星ゴラス」は1962年の東宝映画)

「リオ・ブラボー」(1959)はハワード・ホークス監督、ジョン・ウェイン、リッキー・ネルソン、ディーン・マーティン、アンジー・ディッキンソン、ウォルター・ブレナン出演のおなじみの西部劇。BHマッキャンベルの短編小説に基づいたジュールズ・ファースマンとリー・ブラケットの脚本。音楽ディミトリ・ティオムキン、撮影ラッセル・ハーラン。

「忘れじの面影」は、今は自分の好きな10本に入る作品だけど、この頃は単なる名作として見たらしい。たぶん夜10時ごろからの放映だったと思います。シネシャモ第2回上映作品なので、詳しいことはそちらをご覧ください

その前々日に「輪舞」を見ていて、マックス・オフュルス監督作品がテレビで二日続けて見ることができるって奇跡!と思っていたら、ロジェ・バディム監督とジェーン・フォンダ夫妻のリメイクでした(1964)。リメイクする際に、オフュルス監督のオリジナル(1950)を処分しようとしたという、おぞましい話を昔なにかで読んだことがあります。プロデューサーはアキム兄弟。フォンダのほかにジャン・クロード・ブリアリ、マリー・デュボワ、アンナ・カリーナ、モーリス・ロネ、カトリーヌ・スパークら出演。撮影アンリ・ドカ、音楽ミシェル・マーニュ。双葉さんの採点は白星3つと平凡で、「一つのエピソードをつくる二人の人物の一人が次のエピソードの人物に結びついていくという<尻取り形式>」の作品。

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2011年12月26日 (月)

映画と感情: Such Stuff as Dreams (29)

映画は固有の言語を持っており、現場にいたら目撃したであろうことを単に見せるわけではない。このことは、Sermin Ildirar と彼女の仲間たちによる実験が証明しているそうです(これは学術誌に発表されたもので、単行本としては出ていないようです)。

彼女たちが対象にしたのは、トルコの田舎に住む映画を見たことがない人々、映画やテレビを5年間見てきた人々、そして10年以上見てきた人々です。各々のグループは映画の断片を見せられます。その中には、次のような映画言語の要素が含まれています。
ジャンプカット(異なるカメラの位置から同じ対象を撮影した二つのショットのつながり)
パン(同じ位置からのカメラの横への首ふり)
エスタブリッシング・ショット(状況全体を説明するショット。たとえば、ビルの中で何かが起きる前のビルの外見のショット)
省略(アクションやプロットのシークエンスから何かを省くこと)
平行モンタージュ(同じテーマに関することで、別の場所で生じていることを撮影したショットを並べて、両者間の関係を暗示すること)

省略と平行モンタージュは、どのグループも理解できました。しかし、映画を見たことがないグループと5年しか見ていないグループは、ジャンプカット、パン、エスタブリッシング・ショットの意味が理解できませんでした。10年以上見てきた者は、こうした技法が伝える意味を完全に理解できました。すなわち、映画は言語であり、それを習得するには時間がかかるということです。

映画作家も観客も、映画言語を習得することによって、映像間の関係を物語表現の構造が求めるものと一致させることができます。カメラは、プロットにおける必要な各々の出来事を記録し、感情の流れを暗示するために、正しい時間に正しい場所にいます。それで、「戦艦ポチョムキン」が始まると、戦艦における水兵の生活を垣間見て、彼らに対して同情を感じ始めます。肉にわいたウジの映像で終わる合計11秒の映像の連続で、観客の同情が高まり、観客は、自ら、そして水兵の苦境に対して、嫌悪を感じます。

(見出し「心の中で」終わり。次は見出し「嫌悪の光景」)

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2011年12月25日 (日)

映画と感情: Such Stuff as Dreams (28)

Keith Oatley の "Such Stuff as Dreams: The Psychology of Fiction" の第5章「感情」。最初の見出し「心の中で」。

まず、エイゼンシュテインの1925年のサイレント映画「戦艦ポチョムキン」を取り上げています。前回述べたように、この章の最初に、肉にウジがわいていて、それに虫眼鏡を当てている写真が載っています。それは「戦艦ポチョムキン」の最初のほうの場面からのもので、その場面では、こんな肉が食えるかと水兵たちが騒いでいるのです。そこへ軍医がやってきて、二つ折りにすると虫眼鏡になるというメガネで検査するのです。軍医は健康に影響がないという判断を下します。その場面からの断片。

1. 集団ショット: 画面左に肉があり、中央と右に水兵たちの顔がある。水兵たちは少し顔をしかめて、肉から顔をそむける。(1秒)
2. 集団ショット: 画面左の軍医が肉を見て、眼鏡をはずす。右側に水兵が一人がいて、その様子を眺めている。(4秒)
3. クローズアップ: 軍医がメガネを折り曲げで、虫眼鏡にする。(2秒)
4. 特大クローズアップ: 虫眼鏡を通じて軍医の目が見える。(2秒)
5. クローズアップ: 軍医が虫眼鏡を肉に当てる。虫眼鏡を通さなくても、肉の表面で10数匹のウジがはっているのがわかる。(2秒)

主な動きは画面上で起るのではなく、ショット間で起きる。すなわち、観客の心の中で起きる。

ここで問題にするのは、一連の動きではなく、観客の心の流れ。これを念頭において、映画言語の発展における三つの時期を概略しています。

初期の映画では、演劇を正面から見ているかのように、固定カメラが役者の動きを記録します。最初の発展は異なるショットからの構図で、1903年の「大列車強盗 The Great Train Robbery」が画期的な作品となっています。この12分の作品は、異なる時間をつなげていて、エドウィン・ポーター監督は映画編集の発明者とされています。映画は、ロマーン・ヤコブソンが特定した二つの機能、選択と組合せを持つ言語になりました。

二番目は、1920年代で、レフ・クレショフの有名な実験。スープ皿のショットのあとに有名男優スターの無表情な顔をつなげる。テディベアで遊んでいる少女のショットのあとに同じ顔をつなげる。亡くなった女性が棺桶に横たわっているショットに同じ顔をつなげる。観客は、各々、飢え、幸福、悲しみをうまく表現している男優に心を打たれたそうです。これはクレショフ効果として知られています。感情的に、観客は、男優が感じていると彼らが思っていることに心を奪われるのです。

三番目がエイゼンシュテインで、彼は短期間クレショフの生徒だったことがあります。前述の一連のショットは日常生活ではお目にかからないものです。というのも、各ショットは別の位置から撮影されており、誰も瞬時にそれらの位置に移動することはできないからです。これは監督と編集者によって入念に考えだされたもので、意味は観客が構成します。エイゼンシュテインはこの効果を「モンタージュ」と呼びました。個々のショット内にはない意味をショットの並置によって構成するものです。これはクレショフ効果から進化したもので、感情的に、観客は自分自身の中に嫌悪感を経験します。

(見出し「心の中で」は明日に続く。)

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2011年12月24日 (土)

夜明けの英国音楽: fROOTS誌のベストアルバム2011

本日は、イギリスの雑誌fROOTS選出によるベストアルバム特集です。ただ今、夜の7時15分。「妖怪人間ベム」の最終回が始まる9時までのおつきあい。

特集の前に、最近気に入っている中島卓偉の曲をひとつ。「明日への階段」。ワンショット撮影による映像もいいし、不思議な駅の通路もいいし、サウンドもカッコいい。声もいい。なにより、ハロプロと同じ事務所なのがいい。ベリーズやスマイレージの曲を書かせろって、ももちやつんくとの対談で言っているけど、つんくは千枚程度のインディーズか何かから始めるのならとか返事して、メジャーなグループの曲を書かせるのは明け渡したくないのかね。

fROOTS は、たぶん「エフルーツ」と言うのだと思うのですが、「フルーツ」でしたっけ?もともとは「フォーク・ルーツ」という名前でした。イギリスのフォークあり、ワールドミュージックあり、アメリカのルーツミュージックありといった雑誌。新作部門と編集盤・再発盤部門がありますが、今日は新作部門だけで終わるでしょう

1位は、なんとジューン・テイバーとオイスターバンドの新作(June Tabor & Oysterband "Ragged Kingdom" )。少し前に購入したばかりでした。この女性歌手とフォークロックバンドの組合せは20年ほど前にもあって、たぶんあれ以来だと思います。ベルベット・アンダーグラウンドやポーグスのカバーもあった前作も心地良かったです("Freedom and Rain")。テイバーとオイスターバンドのメンバーが、この新作について語り合っている映像があるので、それを見てもらいましょう

2位は、Fatoumata Diawara の "Fatou"。ファトゥマタ・ディアワラはマリのシンガー・ソングライターだそうです。アルバムから "Kanou" という曲のミュージックビデオを見てもらいましょう

3位はライ・クーダーの "Pull Up Some Dust and Sit Down"。政治色の強いアルバムのようですね。1曲目の "No Banker Left Behind" を聴いてください

もう8時になっちまった。

4位は Justin Adams と Juldeh Camara による JuJu というデュオの "In Trance"。ジャスティン・アダムズはアフリカ音楽好きのイギリスのブルーズマン。もう一人はガンビアのマルチプレーヤーで歌手らしいです。アルバムからの曲のライブ演奏がありました

5位は、アメリカの女性シンガー・ソングライター Gillian Welch の "The Harrow and the Harvest"。ギリアン・ウェルチではなくウェルシって発音するってバラカンさんが言ってました。2年ほど前に相棒のデビッド・ローリングスのアルバムに参加していましたが、彼女自身のアルバムとしては2003年の "Soul Journey" 以来の5作目。前作はドラムやベースやエレキギターが入っていて、それが評判悪かったのか、今度はローリングスと二人だけのシンプルなスタイルに戻っています。アルバムの中から "The Way It Will Be" のライブ演奏を。この男女ペアは声がよく似てる。

6位の Jackie Oates の "Saturnine" で本日は終わり。ジャッキー・オーツ嬢はイギリスのフォークシンガーでフィドラーらしいです。今日見てもらうのは以前のアルバムからのようですが、なんか面白い

7位以下は、上記のfROOTSのサイトをご覧ください。ジューン・テイバー&オイスターバンドと一緒に購入した Martin Simpson の新作は12位でした。リチャード・トンプソン、アンディ・カッティング、BJコール、ディック・ゴーガンなどが参加しています。ジューン・テイバーの歌とシンプソンのギターでリチャード・トンプソンの「ストレンジ・アフェア」を演奏していますが、1980年のテイバーの3枚目 "A Cut Above" でも同じ曲を一緒に演奏しています。そのアルバムは June Tabor with Martin Simpson という名義で、シンプソンが全面的にギターでサポートしているのです。

ではでは、来週までにはモー娘の「ピョコピョコウルトラ」のビデオが見れるかな。こんなに良い音楽がいっぱいあるのに、同じシングルを何十枚も買うなんてもったいないよ。

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2011年12月23日 (金)

フィルムノワール入門 (36)

「ピョコピョコウルトラ」のCD予約しました。ジャケットが史上最悪と言っている人たちもいますが、おじさんとしては可愛いと思う。こちらで見ることができます。笑える限定盤Bも捨てがたいけど、私にはオシャレに見えるAにしました。これはダンス・バージョンのDVD付き。ぐるぐる王国で予約したんだけど、あややのベストみたいにポスターが別個に送られてくるらしい。

あややのベストのCDとDVDは、本人の選曲なのか、ヒット曲ばかりではない。DVDは、デビュー曲の公式ビデオから始まって、2007、8年ごろのコンサートの「ダブル・レインボー」と「灯台」(こちらは違うコンサートのもの)で終わる。撮影風景の映像は、ジャケット写真だけだから、5分程度のもの。少しコメントしています。落ち着いた感じで、あまり笑いは見せない。小さな顔と細い体に似合わない豊かな胸。「Your Song ~ 青春宣誓」は、どのコンサートのを聴いても感動してしまいます。これも、このDVDに収められているものと違うコンサートですが、あいかわらず素晴らしい

では、「フィルムノワール入門」の続き。 Andrew Spicer の "Film Noir"。いつまで続けるんだと思われるかもしれませんが、ずっと続けます。本に言及されている作品は極力見てみようということで、この前フロイト主義に関するところに出てきた「殺し屋は放たれた」「拳銃貸します」「哀愁の湖」の米盤をファンタシウムに注文しました。来週中には届くと思います。フロイト主義については12月9日に書いています。バッド・べティカーの「殺し屋は放たれた」については10月21日に言及しています。

テーマに関する第4章の中の社会テーマは、「法と秩序」と「汚職とアウトサイダー」の二つに分かれており、先週は「法と秩序」を読んだので、今週は「汚職とアウトロー」。

先週扱った保守的なフィルムノワールも重要だが、アメリカ社会は病んでいて腐敗していると批判する左翼自由主義のフィルムノワールのほうが、より強力。こっちのほうは、1930年代のニューディール政策の精神を保とうと試みており、資本主義の不平等には福祉国家主義者の介入と改善が必要だとしています。中でも重要なのがオーソン・ウェルズだそうで、彼をそんな目で見たことがないから、意外。「恐怖への旅 Journey into Fear」(1943)、「オーソン・ウェルズ in ストレンジャー The Stranger」(1946)、「アーカディン/秘密調査報告書 Mr. Arkadin」(1955)、「上海から来た女 The Lady from Shanghai」(1948)、「黒い罠 Touch of Evil」(1958)は、1930年代のニューヨークの政治劇場で鍛えられた過激主義的な映画作家世代を特徴づける実存主義者マルクス主義(こんな言葉があるのかな)の特徴を持つ。その映画作家世代とは、ジュールズ・ダッシン、エドワード・ドミトリク、ジョン・ヒューストン、エリア・カザン、ジョセフ・ロージー、アブラハム・ポロンスキー、ニコラス・レイ、ロバート・ロッセンであり、フィルムノワールに対する彼らの貢献はかなりものである。たしかに、そうそうたる監督たちが列挙されています。

ジュールズ・ダッシンの「真昼の暴動 Brute Force」(1947)は、刑務所を舞台に、全体主義体制を批判しています。囚人たちの自由への企てには社会的な寓意と実存主義的な寓意があって、罠と迫害に対する反抗が一般化されています。左翼にとって、犯罪は、財産を奪われ、社会から取り残された者の叫びか、犯罪がアメリカの企業精神の裏返しである資本主義制度によって生み出された強欲についてのメッセージだそうです。ポロンスキーが脚本を書き、ロッセンが監督し、ジョン・ガーフィールドが主演した「背信の王座 Body and Soul」(1947)は、スラム街の子供がボクサーとして成功するが、物欲的な成功によって腐敗するという模範的なストーリー。

左翼として知られるガーフィールドは、ポロンスキー監督の「苦い報酬 Force of Evil」(1948)にも主演しており、数当て賭博を合法的な宝くじにするために賭博組織に雇われた弁護士を演じているそうです(このガーフィールド主演の二作は見たことがないので、近いうちにDVDを買います)。ポロンスキーは、左翼作家にとってのフィルムノワールの魅力を次のように語っています。「知的な内容が暗い犯罪的な映画に吸収されているので、受け入れられるものになっている。」夜明けの冷たい光の中で撮影された記憶に残るラストシーンで、ガーフィールドはマンハッタン橋の下の急勾配の土手をゆっくり降りながら、「俺は下へ下へと降り続ける。世界の底まで降りているようだ。俺の兄を捜しに。」(彼を法律学校にやるために自分の野心を犠牲にした兄は、賭博組織に殺されるか何かで死ぬらしい。)ガーフィールドが兄の死体を見つけたとき、「奴らは川のそばの岩場に兄を投げ捨てた。まるで、誰もいらなくなった古くて汚いボロ切れのように。自分が殺したような気がする。」よく練られたポロンスキーの散文リズムとジョージ・バーンズの明晰な撮影は、ガーフィールドのモラルの目覚めを象徴し、商業的な犯罪映画のお決まりの筋書きを成功の代償に関する表現豊かな描写へと高める寓話的な場面を作り上げているとのこと。

とはいえ、こうした資本主義の強欲への攻撃は左翼に限ったことではないらしい。というのも、左翼に関係ない多くのフィルムノワールも、自由放任の資本主義を強烈に批判しているから。したがって、左翼への攻撃は、特定の映画の内容よりも、共産主義の有名な支持者に対して行われたとのこと。ポロンスキーとドミトリクは、ハリウッド・テンのブラックリストに入れられたために、監督としてのキャリアが大きく損なわれました。この赤狩りによって、共産主義支持者のほとんどのキャリアが損なわれ、左翼のフィルムノワールに対して効果的にブレーキがかかりました。

ジョン・ヒューストンやジョセフ・ロージーなど、直接告発されなかった監督は、ヨーロッパに行くまで、少ししか映画を作ることができませんでした。ヒューストンの「アスファルト・ジャングル Asphalt Jungle」(1950)は、共感を誘う強盗団のメンバーたちを悪徳弁護士ルイス・カルホーンや独善的な警察本部長と対比しています。ロージーの「密行巡査 The Prowler」(1951)は、赤狩りでブラックリストに載せられたダルトン・トランボがクレジットなしで脚本を書いた作品ですが、資本主義がもたらした間違った価値に関する寓話であり、「1000万ドル、キャデラック、ブロンド美人」への欲望のために若い警察官バン・ヘフリンが堕落します。ロージーが1951年にリメイクした「M」では、警察とギャングは同様に堕落しているために、子供殺人者はスケープゴートにされた共感的なアウトサイダーになっています。ロージーが主張するところでは、ラングは哀れな怪物を描いたが、彼自身の視点は、社会が殺人者に対して責任があり、彼は病んでおり、母親に支配された実利主義の下層中流アメリカ社会の産物だというものです。

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2011年12月22日 (木)

映画と感情: Such Stuff as Dreams (27)

昨夜の「家政婦のミタ」の最終回は不完全燃焼。続編は作らないと読んだことがあるので、完全燃焼するかと思ったのに。あれではいくらでも続編が作れそう。主演女優は、このイメージを定着させたくはないだろうけど、たまに単発でなら、わりと年をくってでもできそうな役柄なので、いい保険になりそう。でも、別のドラマを持った家庭でのミタさんの活躍が見たい気もする。それにしても、隣の奥さんを演じた佐藤仁美さんはオバさんになっちゃったなあ。最初気づきませんでした。

30%超えるのだろうかと思っていたら、なんと40%!10%の人は最終回で初めて見て面白いのだろうかと余計な心配をしましたが、ずっと録画で見ていた人が最終回だけはリアルタイムで見たのかもしれない。そのあたりの視聴率の事情はよく知らないから、深く考えないことにします。

「流行語大賞」は、一年がちゃんと終わってから選べば良かったのに。今年の候補の60語の中には「謎解きはディナーのあとで」から「お嬢様の目は節穴でございますか」が入っていたのに、「承知しました」はなかった。選考委員の目は節穴でございますか?

では、Keith Oatley の "Such Stuff as Dreams: The Psychology of Fiction" の続き。半分ぐらい読んで、今日から第5章「感情」。これまで何を読んできたか、わからなくなっていますが、やっと核心に触れてきそう。第5章の最初のページには写真が載っています。肉にわいているウジに虫眼鏡を当てている写真。なんの写真かというと、エイゼンシュテインの「戦艦ポチョムキン」からのもの。この章は期待できそう。

今日は見出しだけにします。

感情: 想像の中の場面 Emotions: Scenes in the Imagination
 心の中で In the mind
 嫌悪の光景 A view of disgust
  共感と同一化 Empathy and identification
 フィクションにおける感情の経験 The experience of emotion in fiction
   同情の感情 Emotions of sympathy
   文学の感情 Literary emotions
   追体験の感情 Relived emotions
   感情の誘出の結論 Conclusion on elicitation of emotions
 喚喩の空間で In the spaces of metonymy
 探求と投射 Exploration and projection

さて、今、夜の9時。これから、あややのCD1枚、DVD1枚の 10th Anniversary Best からDVDのほうを見ます。歌は9曲入っていますが、すでに発表されたものばかりだと思います。で、最後に、このベスト盤のジャケット写真の撮影風景が入っています。

  1. ドッキドキ!LOVEメール(ミュージックビデオ)
  2. オシャレ!(Naked Songs から)
  3. ね~え?(ミュージックビデオ)
  4. Good Bye 夏男(ミュージックビデオ)
  5. Your Song ~青春宣誓~(コンサートツアー2004秋)
  6. 渡良瀬橋(砂を噛むように…NAMIDA~スタジオライブ)
  7. 砂を噛むように…NAMIDA(Live in 上海)
  8. ダブル・レインボウ(コンサートツアー2008春)
  9. 灯台(コンサートツアー2007秋) 

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2011年12月21日 (水)

MGM以降のキートン作品集 (7): Palooka from Paducah (1935)

勝谷さんが毎日配信しているメールを読むと、「東京というのは壮大な田舎だ。あんなに不味いものを堂々と出し、それをメディアがありがたがってとり上げている土地はない。」と書いてあって、フムフムと思う。私の頭にあるのは食べ物のことじゃないけど。

ラジオで2分かかったモー娘の「ピョコピョコウルトラ」がYouTubeに出回っているようで、プロモーションビデオや生で歌う姿を見ないと何とも言えませんが、衣装も曲も最初は微妙だったものの、衣装はずっと見てると慣れてきたし、曲も何十回と聴いていくうちに楽しくなってきました。少なくとも、楽しい方向に進んでいるのは確か。公式の映像が発表されたら、あらためて感想を書くことにいたしましょう。

キートンはエデュケーショナル社で16本の短編に主演しているのですが、「キートン!キートン!!キートン!!!」(1980、ブロンズ社)の児玉数夫氏によると、そのうち8本が日本公開されました。この3作目はフォックスの日本支社の広告には「キートンの西洋相撲」とあって、封切りの新宿武蔵野館のプログラムには「キートンのレスリング」となっていたそうです。しかし、キネ旬の「世界の映画作家26/バスター・キートンと喜劇の黄金時代」には「キートンの西部相撲」となっています。一応わかりやすさで「キートンのレスリング」を採用します。

まず最初は、「じゃじゃ馬億万長者」が億万長者になる前のような田舎暮らしの家族の風景で、ここにはキートンの家族が集結しています。お父さんのジョー・キートン、お母さんのマイラ、妹のルイーズがバスターとともに田舎っぺ家族を演じています。バスターは髭を生やしていてよくわからないし、とにかく、彼一人が目立つことなく、家族全体で笑わせてくれます。

この家族にはキートン一家以外にバスターの兄弟役のデューイ・ロビンソンがいます。この兄弟が立たせた小枝に蹄鉄を投げて引っ掛ける遊んでいると、ルイーズがダイナマイトで木を吹っ飛ばそうとしているらしいのですが、そのダイナマイトが兄弟の遊んでいるところに落ちて、それを小枝だと間違えて立てたものだから、蹄鉄が引っ掛かったときに爆発してキートンが倒れます。さらに上のほうでも爆発が起こってルイーズが転がり落ちてきます。なぜダイナマイトみたいな大げさなものを使うのかわからないナンセンスなギャグです。

貧しい一家はレスリングに勝って賞金をもらおうとします。レスリングをするのはバスターではなく、デューイ・ロビンソンです。納屋で二人がレスリングの練習をするシークエンスもまずまず笑わせてくれます。

本当の試合では、なぜかバスターがレフェリーで、でっかいデューイと相手役の間でバスターがつぶされるのが笑わせてくれます。デューイが劣勢なのを見かねた小柄なマイラがリングに上がって相手役を叩く様子は、まるで「じゃじゃ馬億万長者」のお婆さんだし、試合に勝って着飾って町をのし歩く家族も、まるで「じゃじゃ馬億万長者」です。街中でレスリングの相手役だった男を見るけると、逃げる彼を画面奥のほうに追いかける家族なのでした。

点数は5つ星で2つ星。これまでの2作も2つ星。

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2011年12月20日 (火)

1978年12月第3週に見た映画

【あややをたしなむ】
本日の昼、あややの新作ベスト盤が届きました。夜に同じ宅配屋さんが来て、昼間渡すのを忘れたと言って細長い筒を渡してくれました。ジャケットと同じ写真のポスターでした。CDには竹内まりや書き下ろしの新曲入り。YouTube を検索したら、最近のコンサートでその曲を歌っているのが公式にアップロードされているではないか。天照大神が出てきたようで、ありがたや、ありがたや。DVDも付いていて、これまで発表されたものの中から9曲入っています。あと、ジャケット撮影のメイキングも入っているらしい。今日は見る余裕がない。

12月19日(火) 侠骨一代 (テレビ神奈川) 3点
12月21日(木) 冬の光 (池袋文芸坐) 5点
12月23日(土) 道化師 (早稲田松竹) 3点
12月23日(土) アマルコルド (早稲田松竹) 5点

「侠骨一代」は健さん主演の1967年の任侠映画。キネ旬の日本映画作品全集に山田宏一氏が、わりと詳しいあらすじを書いています。昭和初期、運送業を営む志村喬の組で働くことになった健さんですが、南原宏治の悪い組に仕事を妨害され、健さんが殴りこみにいくという、いつものお話。健さんを救う芸者に藤純子で、健さんの亡き母親に似ているので、その母親との二役。志村の娘が宮園純子で、志村から嫁にもらってくれと言われる。舞台となる芝浦の飯場をとりしきる、もう一つの組があって、その代貸が大木実。健さんの戦友で、その組が悪い組に抱き込まれても、健さんをかばって倒れる。「昭和残狭伝」シリーズでいえば池部良のような役柄。監督マキノ雅弘。富沢有為男の原作を村尾昭、松本功、山本英明が脚色。撮影は星島一郎(東映スコープ、フジカラー)、音楽は八木正生。これらも山田氏がちゃんと書いています。1967年の健さんの出演作は次の9本(キネ旬の日本映画俳優全集・男優編による)。

  1. 日本侠客伝・白刃の盃 (1月28日公開、監督マキノ雅弘)
  2. 網走番外地・決斗零下30度 (4月20日、石井輝男)
  3. あゝ同期の桜 (6月3日、中島貞夫)
  4. 昭和残狭伝・血染めの唐獅子 (7月8日、マキノ雅弘)
  5. 網走番外地・悪への挑戦 (8月12日、石井輝男)
  6. 日本侠客伝・斬り込み (9月15日、マキノ雅弘)
  7. 侠客の掟 (10月10日、鳥居元宏)
  8. 侠骨一代 (11月1日、マキノ雅弘)
  9. 網走番外地・吹雪の斗争 (12月23日、石井輝男)

「冬の光」はベルイマンの1963年のスウェーデン映画。「鏡の中にある如く」(1961)と「沈黙」(1963)とともに神の沈黙三部作と呼ばれているますが、なぜか「冬の光」のみ当時日本で公開されませんでした。この三本の中では一番見やすいと思うのですが。1975年に岩波ホールで公開されたときに見て、これが二度目。この頃、オールナイトで郵便局の仕分けのバイトをしていたので、かなり眠かった記憶があります。非常に静謐で透明感のある作品で、他の二本のような荒涼感は記憶に残っていません。脚本ベルイマン、白黒のきれいな映像はスベン・ニクビスト。バッハの音楽が使われているようです。牧師グンナール・ビョルンストランドの教会にグンネル・リンドブロムが夫マックス・フォン・シドーを連れてやってきて、中国が原子爆弾を持ったことに夫が不安を感じていると相談する。だが、牧師自身、妻に先立たれて苦悩しており、愛人イングリッド・チューリンとの仲も冷え切っている。

土曜にはフェリーニの二本立て。この前の週も「8 1/2」を見ているので、フェリーニづいている。「道化師」(1970)も「アマルコルド」(1973)もすでに見たことがあるので、安心して充実した週末が過ごせたことでしょう。「道化師」はもともとテレビ映画で、サーカスの道化師を題材にした偽ドキュメンタリー。というより、実際と作り物が混在している作品で、その点で「フェリーニのローマ」(1972)に似ています。初めのうちドキュメンタリーだと思っていたら、いつの間にか虚構の世界に入り込んでいる。「オーケストラ・リハーサル」(1978)もそんな映画だったような。音楽はおなじみのニーノ・ロータ、撮影はダリオ・ディ・パルマ。1976年の12月に映研の仲間と一緒に岩波ホールで見ました。

「アマルコルド」は3度目。1974年のキネ旬1位で、2位がベルイマンの「叫びとささやき」、3位がトリュフォーの「アメリカの夜」でした。60年代に難解だったヨーロッパの映画作家も70年代になると丸くなって、新鮮さは薄れたものの、円熟したわかりやすい作品を見せてくれるようになりました。「アマルコルド」は、たぶんフェリーニの子供時代の思い出にもとづいたものだと思うのですが、どこか海辺の町の愉快なエピソード集でした。脚本はフェリーニとトニーノ・グエッラ、音楽ニーノ・ロータ、撮影ジュゼッペ・ロトゥンノ。

ハロプロのCDやDVDは、たいてい楽天のぐるぐる王国に注文していて、いつも安心して購入できるのですが、宅配屋さんに「ぐるぐる王国からです」と大声で言われると、少々恥ずかしい。そんな私だから、「ピョコピョコウルトラ」をCDショップで買う勇気はない。

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2011年12月19日 (月)

映画と感情: Such Stuff as Dreams (26)

「妖怪人間ベム」は、徐々に視聴率が下がっているようですね。単純に勧善懲悪でいいんじゃないかな。心の弱い相手をこらしめてもスッキリしないし、一番悪そうな柄本明との対決も、あまり盛り上がらない。ベムたちの過去もさほど新鮮味がなかった。刑事の家族をつうじて人間の家族愛を見せつけるよりも、もっと活躍の場を広げて、巨大な悪と戦ってほしい。もし、第二シリーズがあるのなら。

「家政婦のミタ」は、続編を作らないし、映画化もしないらしいので、今度の最終回がすごく楽しみ。なんか最近ミタさんに死の影が忍び寄っているような気がするのだけれど、そうじゃなくて笑顔が戻るのでしょうか。いずれにせよ、あいまいな終わり方にはしてほしくない。

「たしなむ」って言葉いいね。「語感の辞典」(岩波書店)によると、「「愛好する」のような硬さのない、むしろやわらかい感じの和風の表現。趣味と教養が交じり合ったプラスのイメージで用いられる傾向がある。」

フィルムノワールをたしなむ。リチャード・トンプソンをたしなむ。パロプロをたしなむ。そして、映画と感情の理論をたしなむ。

Keith Oatley の "Such Stuff as Dreams: The Psychology of Fiction" の続き。今、どこを読んでいるのか路頭に迷っているところですが、次回からは第5章「感情」なので、新たに気を引き締めて、しっかり読んでいくことにします。今は第4章「人物(キャラクター)、行動、出来事」という章を読んでいて、今回が最後。映画よりも文学が中心ですが、私は物語を観賞するのが好きなので、映画がなくなれば小説を読むだけのことです。

最後の見出しは「社会的説明の小説 The novel of social explanation」

ジェーン・オースティンのことが書いてあります。「高慢と偏見」には探偵小説のような味わいがあるって書いているようです。まとめてみると、

通常、探偵小説の創始者は短編「モルグ街の殺人者」のエドガー・アラン・ポーだと言われているという文から始まる。このジャンルは、犯罪が起っていることが必要で、それは単なる犯罪じゃなくて、謎のあるもの。そこへ探偵役の人物が登場し、頭脳を使って、説明できないと思われる出来事を解明し、社会の秩序を回復させる。

エドガー・アラン・ポーよりも昔、「高慢と偏見」でオースティンがこの種の筋を発明している。謎のある出来事というのは、育ちの良さそうな若者が、若い女性について乱暴なことを、彼女に聞こえるぐらい大きな声で、しゃべっているというもの。続いて、オースティンは、この無作法をどう説明すべきかの議論をひととおり行う。これがダーシーという人物の描写と理解の第一段階。

それまでにも謎のある作品はあったが、オースティンが探ろうとしている謎は以前のものとは違う。オースティンが考案したのは社会的な説明に基づく小説で、解決は会話によって達成される。

登場人物間の議論と、さらなる出来事によってのみ、ダーシーの無作法な態度は理解でき、徐々に説明されることによってエリザベスとダーシーとの間で理解が深まっていく。探偵小説では、好奇心が次第に満たされていき、ときどき探偵の洞察力に驚かされるが、オースティンの小説では、ダーシーという人物を次第に理解することによって、彼に対する尊敬や愛情を感じるようになり、それはエリザベスの愛が高まるにつれて高まっていく。

より深い点は、他人の性格も、自分の性格でさえも、常に不完全にしかわからないということである。いくつかのジャンルにおいて、性格が隠されている登場人物がいて、探偵によって探られる必要があるということは、我々が常にいる状況の寓意である。オースティンは、探偵小説の作家以上に、この問題を、他人を知り、自分自身を知る世界で適切に描いている。

オースティンは、エリザベスが感じているようにダーシーに同情するよう読者に求めてはいない。オースティンは、明言することなく、ほのめかすだけである。彼女は、200年前の夢の世界を提示し、ダーシーについての会話や、ダーシーとエリザベスとの会話の中に自分がいたらと想像するよう読者を誘っている。バージニア・ウルフは次のように述べている。「ジェーン・オースティンは、外見よりはるかに深い感情を持つ大家だ。彼女は読者を刺激して、そこにないもの、読者の心で広がる何かを提供する。」

モー娘の「ピョコピョコウルトラ」の衣装がヒヨコらしくてガッカリ。ベタすぎる(画像で検索すると、それらしきものが出てくる)。かくなるうえは、Berryz工房の「行け!行け!モンキーダンス」以上に吹っ切れたものにしてほしい。

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2011年12月18日 (日)

夜明けの英国音楽: RTのQ&A (12月分その3)

朝から仕事で、今、夜の10時。もう頭が回らない。昨日の続き。

Jez Butterworth の劇 Jerusalem というのがあって、その中でサンディ・デニーの「時の流れを誰が知るWho Knows Where the Time Goes」が歌われるそうです。で、RTはその劇を見たかという質問。

RTはまだ見ていませんが、この冬にはロンドンで見たいそうです。Mark Rylance がずば抜けて良いそうで、この作品なのか別の作品なのか、彼が演じたクレオパトラはRTが見た中で一番素晴らしいと言っています。それから “London Road” というミュージカルを勧めています。

企画ものコンサート1000 Years of Popular Music を最近やっていませんが、再びやるつもりですか、もうやめたのですかという質問に対して、少し変えて2013年に英国でやろうと考えているところだそうです。

次はフェアポートの1枚目に入っている “Decameron” という曲の共作者 Paul Ghosh と Andrew Horvitch が誰かという質問。

ポールとアンディはロンドンのハイゲイトの William Ellis School に通っていたとき学校仲間。”Decameron” と “Sunshade” の歌詞を作るのを手伝ってくれたとのこと。アンディは写真家兼映画編集者で、ロサンジェルスのRTの家に近くに何年も住んでいたけれど、最近シアトルに引っ越したとか。ポールはロンドンで文筆業。ふたりとも今でも連絡をとりあっているそうです。

最後の質問は、ローリングストーン誌がまたトップ100ギタリストを発表したらしいのですが、こういうリストをどう思いますかというもの。

そういうのは売り上げの役に立つけど、もっとジャンルを増やすべきだと思うという答え。次のようなことを言ってます。いろんなジャンルのミュージシャンを比べるのは不公平だし、馬鹿げている。ローリングストーン誌のリストを見たことがないが、だいたいそういうのはセゴビアが73位なんだ。クラシック、ブルーズ、フォーク、ロック、ジャズに分ければいい。偉大な革新者という部門があれば、セゴビア、レス・ポール、デイビー・グラハムが入るだろうね。ワールド部門というのもお願いしたい。セゴビア Segovia がお気に入りのようで、YouTube で検索したら、いくつか出てきました。

今11時で、グロッキー。正月明けまで仕事があって、しんどい。

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2011年12月17日 (土)

夜明けの英国音楽: RTのQ&A (12月分その2)

ボーノの新曲「初恋サイダー」。これをひっさげてパリ公演ってカッコいいじゃん。このグループはあまりつんくの曲を歌わないから新鮮。

先週に続けて、リチャード・トンプソン(RT)のファンとの一問一答。先週は10月分でしたが、今週は11月分。どちらも12月にアップロードされたので、ここでは12月分にしています。「妖怪人間ベム」まであと1時間。時間がきたら、次週に続く。今回は自分の言葉で書くことに努めます。

まず、マーティン・スコセッシ監督のジョージ・ハリソンに関する映画の質問。そんな映画あったのか。"Living in the Material World" という題名らしい。ドキュメンタリーなんですね。DVDが出たら見てみよっと。ビートルズが解散する頃一番好きだったのはジョージ・ハリソンで、3枚組の "All Things Must Pass" が出たとき、わりと早く買った気がします。お年玉で買った記憶があって、あれが発売されたのは1970年11月らしいから、中学2年の1月です。私が映画に夢中になる直前。

で、RTは映画を見たと言っています。見方のバランスがとれていて、いくつか興味深い洞察があるという感想です。ギタリストのジョージについては、常に向上しているギタリストだったって言ってます。最初のころはひどかったが、ソロの後期には熟達していると。ジョージの曲はいつも好きだったし、ビートルズのアルバムでは最も興味深くて構成が大胆、人間的には生まれながらに高潔な男だったというのがRTのジョージ評。

次の質問者は、RTとフランク・ザッパが一番好きで、二人はあったことがあるか、ザッパについてどうおもうかという質問。

RTはザッパに会ったことがない。マザーズ・オブ・インベンションのいくつかのアルバムは好きだし、ザッパは非常に独創的なギタリストなので、真似する気がしないとか。

次の質問者によると、たまにRTはバードウォッチングについて言及するとか。で、RTはバードウォッチングが好きなのか?

RTは25年間バードウォッチングをしている。ツアーマネージャーの Simon Tessano とベーシストのダニー・トンプソンは熱心な鳥類学者だそうです。いろんな国でバードウォッチングをするのは素晴らしいことで、定期的に中央アメリカに旅行して、カラフルな鳥を観察するそうです。

次はRTの呼び方について。リチャードの愛称はディックなんですが、RTはディックと呼ばれたことはないそうです。若い頃、母親からはリチャードかリッチ、姉からはリッキー・ネルソンにちなんでリッキーと呼ばれました。フェアポートの仲間はヘンリー。学校では名前を呼ばれることはめったになく、ときどき苗字を縮めてThommoと呼ばれたそうです。これって「トモ」と発音するのだろうか。

ジョー・ボイドやクラブUFOとの関係からすると、1967年にシド・バレットに会ったことがないか、というのが次の質問。

本当の意味で会ったことはないというのがRTの回答。何度か楽屋をともにしたことがあるかもしれないけど、薬のせいで、みんなあまり口をきかなかった。シドがいた頃のピンク・フロイドのアルバムは独創的なひらめきがあったし、イギリス的な奇抜さとユーモアのセンスがあった。というのがRTの意見。そのあとの "A shame it got too much for him." というのはどういう意味なんだろう。「彼の手に負えなかったのが残念だ」って意味?シドがピンク・フロイドをやめた経緯を知らないので、よくわからない。ピンク・フロイドは「原子心母」と「おせっかい」を中学か高校時代に買ったことがあるし、シド・バレットのソロをFMで聴いたこともあります(当時はLP片面かけていました)。でも、シドがいたピンク・フロイドのアルバムは聴いたことがない。シングルは聴いたことがあるけど。

もう8時40分なので、メモ帳に書いているこの文章をブログに張り付けたりしていたら、あっという間に9時になってしまう。残りは来週。

それにしても、来月末発売のモー娘の新曲「ピョコピョコウルトラ」がどんな曲なのか、好奇心で胸が張り裂けそうです。

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2011年12月16日 (金)

フィルムノワール入門 (35)

Andrew Spicer の "Film Noir" の続き。

【社会テーマ】

社会テーマは後期のフィルムノワールを支配するようになったが、初期にも存在した。第二次大戦の激動期と奉仕生活から市民生活への移行期との間の「不安の時代」に対する右派と左派の反応を確認することができる。これは、原爆の脅威、冷戦時代における外国の共産主義の脅威へのこだわり、国内におけるアメリカ式生活様式の滅亡へと変化した。

(1) 法と秩序

保守的な作品を支配したテーマは、法と秩序の執行であり、政府職員や警察官が敵を根こそぎにし、破壊する。セミドキュメンタリーは、通常、右派のイデオロギーによって特徴づけられており、アメリカの機関の警戒、奮闘、勇気を称賛している。「Gメン対間諜 The House on 92nd Street」(1945)や「鮮血の情報 13 Rue Madeleine」(1946)といった初期作品はまだファシズムにこだわっているが、ナチがギャングのような働きをしているように、スムーズに犯罪の支配者に関心が移行している。ジョセフ・H・ルイスの "The Undercover Man"(1949)は、アル・カポネの告発を再演したものである。フラン・ウォーレン(グレン・フォード)はタフな国税庁捜査官であり、影の大物による脅迫、殺人、詐欺、脱税をあばく。彼は、陪審団が買収されていることを裁判官に納得させ、アメリカ社会のあらゆる階層をむしばんでいる汚職に責任のある者たちを罰することができる。

1950年代の法と秩序の映画は、より強力で組織化されたシンジケートによる会社の乗っ取りに強い関心を示している。「脅迫者 The Racket」 (1951) は禁酒法時代を振り返っているが、誠実な刑事マッキーグ(ロバート・ミッチャム」とギャングの一員スキャンロン(ロバート・ライアン)との対決は、州政府の最高部まで達している汚職に組み込まれてしまう。スキャンロンもマッキーグも不誠実な協調組合主義の時代における古臭い個人主義者である。「脅迫者 The Enforcer」 (1951) はさらに被害妄想的な映画であり、タフな地方検事マーティン・ファーガソン(ハンフリー・ボガート)が、狂った悪の天才であるメンドーザ(エベレット・スローン)の殺人シンジケートと戦う。開巻、重要証人リコが、警察署に拘束されているにもかかわらず、恐怖のあまり窓から身を投げる。この開巻は、フィルムノワールの基準からしても特に暗くて閉所恐怖症的な映画を通じて持続する被害妄想の強烈さをうまく表現している。この視覚スタイルは、しばしば、右翼のイデオロギーの効力を弱める。というのも、映画が喚起する被害妄想や恐怖は、法の執行者の努力以上に記憶に残るからである。

50年代初期には共産主義の脅威を明確に描いた作品群が登場した。"Walk East on Beacon" (1952) は「Gメン対間諜」の反共産主義版である。「FBI暗黒街に潜入せよ I Was a Communist for the F.B.I.」 (1951) では、普通の市民(フランク・ラブジョイ)が共産党に潜入するために雇われる。セリフのまったくない "The Thief"(1952)では、原子エネルギー委員会のアラン・フィールド博士(レイ・ミランド)が極秘情報を盗むが、最終的には自首する。共産主義の脅威の異なる面を、アメリカの民主主義の活力によって敗北することとともに、描いている。「三人の狙撃者 Suddenly」(1954) は非常に被害妄想的な映画で、小さなのんびりした町においてでさえ、大統領の生命が攻撃されやすいことを描いている。元軍人のジョン・バロン(フランク・シナトラ)は暗殺者として生計を立てている。誰が彼を雇ったのかは明らかにされないが、容易に推測できる。

サミュエル・フラーの「拾った女 Pickup on South Street」 (1953) がより複雑なのは、下層の主人公たちに対するフラーの共感によって右翼の根拠がややこしくなっているからである。年取ったネクタイ売りモウ(セルマ・リッター)は情報を売ることで生計の足しにしている。キャンディ(ジーン・ピーターズ)は、根はまともな娼婦である。主人公のスリ、スキップ・マッコイ(リチャード・ウィドマーク)はスリによって極秘のマイクロフィルムを見つけてしまう。この三人は奇妙で流動的な同盟を形成しており、最終的に共産主義のスパイ団をやっつけてしまう。各々は、面前で国旗を振られても気にも留めないが、基本的な愛国心に気づく。最も心を打つ場面はモウの死と彼女の葬式である。葬式は遠くから固定したカメラで撮影されており、彼女が殺されるという暴力のあとの静かな威厳が感じられる。これらによって観客の注意は、共産主義の敗北から、現代都市の残骸、アメリカの夢から見捨てられた者に対する共感へと移る。そのような者は、左翼映画の中心的な関心事なのだが。

「拾った女」

Pickup

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2011年12月15日 (木)

映画と感情: Such Stuff as Dreams (25)

Keith Oatley の "Such Stuff as Dreams: The Psychology of Fiction" の続き。

ダーシー氏のキャラクター

ジェーン・オースティンの「高慢と偏見 Pride and Prejudice」は、人が自分のキャラクターに取り入れる高慢に対する愛の関係についての小説である。高慢は、成人したてのころに

例愛小説の重要な前提条件は、最初、主人公が相手についてよく知らないことである。ジェーン・オースティンの「高慢と偏見 Pride and Prejudice」の主人公エリザベス・ベネットは、愛情深いが愚かな母親と賢いが冷笑的な父親を持つ。彼女は、恋愛の対象となる相手に、彼女自身の信頼、希望、期待を持ちこむ。「ロミオとジュリエット」では、単に外見からロミオはジュリエットを好きになるが、これは単なる投影にすぎない。「高慢と偏見」では、ダーシーが最初にすることは何か残酷なことを言うことなので、まずエリザベスは自分のプライドを守る立場にいる。彼女が、そして読者が、ダーシーのことを次第に知っていくにつれ、彼女の愛が深まる。ダーシー自身、小説を通じて変化していく。

最初の数章でオースティンは登場人物にいくつかのコメントを言わせる。第2章でベネット氏は「相手がどんな人物か二週間しないとわからない」と言う。第4章ではエリザベスの姉ジェーンがビングリー氏のことを「分別があり、明るくて、快活で、とても育ちが良い」とエリザベスに言う。エリザベスは、「それにハンサムだし。若い人はできるだけそうでなくちゃ。だから彼は完璧な人物だわ」と言う。

最初のほうの話題の中心はビングリーの友人ダーシーのキャラクターである。第4章で語り手は、二人は、「性格が正反対なのに」、友人だと言う。

小説の最初に読者が最も親近感を感じるのはエリザベスである。オースティンが、エリザベスを好ましく、姉ジェーンにやさしく、洞察力にすぐれ、ウィットに富んだ人物として描かれているからである。さらにオースティンは、冒頭でエリザベスを困難な状況に置いている。自分がよく知らない人物がいて、困っていたら、同情することができる。オースティンはこの原則を知っていた。ダンスパーティーで、姉ジェーンはビングリー氏に選ばれ、二人は踊る。ジェーンは喜ぶ。語り手は「エリザベスはジェーンの喜びを感じた」と言う。しかし、読者はそう感じない。なぜなら、ジェーンのことをよく知らないから。対照的に、エリザベスはダーシー氏によって傷つけられたように感じる。彼がビングリーに「エリザベスはまあまあだが、私が魅力を感じるほどきれいじゃない」と言うのがエリザベスに聞こえる。第5章でエリザベスは「彼が私のプライドを傷つけなければ、簡単に彼のプライドを許すことができたのに」と言う。この時点で、読者はエリザベスについてよく知らないが、彼女が困難な立場にいるので、彼女に同情することができる。

19世紀の小説では、ダーシーの性格は主に3つの方法で描かれる。最初は語り手による描写である。ダンスパーティーを描いた第3章で語り手は次のように言う。「ダーシー氏は、ハンサムで、背が高く、気品があるので、すぐに会場の注目を集めた。彼がやってきてから5分もたたないうちに彼が毎年1万も稼ぐということが知れ渡った。」

2番目の方法は行為である。ダーシーは、友人ビングリーの姉妹以外はダンスを断る。語り手は「彼は断固とした人物だった。彼は世界で最も高慢で、無愛想な男だった」と言う。この評価を補強するかのように、彼のエリザベスに対する侮辱的な意見が発せられる。行為は、プロットの基盤として重要である。アリストテレスは、プロットは読者が行為とその効果を理解する方法であると述べた。遅くともシェークスピアの時代以降、行為は、プロットを先に進める方法となっただけでなく、出来事を決定づけるものである(その結果、出来事が性格をあきらかにする働きをする)。

3番目は他人による意見である。第5章で、エリザベスの友人シャーロット・ルーカスは、ダーシーについて、彼は家族と財産があるから、高慢になる権利がある」と言う。

19世紀初頭に書かれた「高慢と偏見」では、20世紀初頭にバージニア・ウルフの中心となる登場人物の内省が描かれ始めたばかりである。「高慢と偏見」において、ダーシー氏はほんのときたま内省を垣間見せるだけであるが、エリザベスのキャラクターに強く貢献している。エリザベスが、ビングリーの姉妹について、「喜んでいるときはユーモアがあるのに、金持ちで高い位の人たちといつも付き合っていて、うぬぼれており、自分たちのことをよく思い、他人をけなす」と考えているとき、読者は彼女の内面を垣間見る。それで、シャーロットは金持ちの腰の低さを畏怖しているが、エリザベスは批判的である。

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2011年12月14日 (水)

MGM以降のキートン作品集 (6): Allez Oop (1934)

1934年3月に公開されたエデュケーショナル社の二作目。「キートンの頓馬同盟」という邦題で、まったくストーリーと関係ない。原題はフランス語で、軽業師が跳び出す瞬間の掛け声らしいです。時計修理屋キートンは客の女性に一目ぼれして、サーカスに誘う。女性は空中ブランコの軽業師に恋をして、彼と付き合い始めるが、自分のアパートで乱暴されそうになり、もみあっているうちに火事になる。男は彼女を置き去りにして逃げるが、キートンが助け出して、めでたしめでたし。

女性にふられたドジなキートンが最後には大活躍して彼女の愛を取り戻すというストーリーは、サイレント時代からのキートンにおなじみのもの。ただ、トーキーになり、キートンも40近くなると、昔の子供っぽい純粋な恋心というより、すぐ女性に恋してしまう婚期を逃した中年男性の哀れさを感じてしまう。

時計を直したキートンが彼女のアパートで時計を渡すときに不器用さぶりを発揮し、最終的に花瓶の水の中に落としてしまうというエピソードも、面白いというより、ドジすぎて情ない。

しかも、相手役のドロシー・セバスチャンも少々年をくっているので(30すぎ)、純情な田舎娘シビル・シーリーとの若い二人の恋愛のように自然に惹かれあうという設定が信じがたい。まあ、人の好みも十人十色なので、ドロシーがキートンのデートの誘いをOKするのは許すとしよう。ちなみに、ドロシー・セバスチャンは、キートンのMGM時代、1929年の「キートンの結婚狂」で相手役を務めているし、1930年の「キートンのエキストラ」で特別出演しています。彼女もMGMを解雇されて不遇な時代を過ごさなければならなかったのですが、「結婚狂」での泥酔した彼女を寝かせる場面で彼女の能力を認めていたキートンは、MGMと違って自由に相手役を選べるようになったエデュケーショナル時代の二作目の相手役に彼女を選んだのです。

二人はサーカスを見に行きます。売り子が来るごとにキートンがスナック菓子、ドリンク、クッションなどを二個ずつ購入するので、隣の紳士は大迷惑。キートンの不器用ぶりに少々イラッとするものの、まあまあ面白い。ドロシーが軽業師のサインをもらってきてくれと言うので、頼みに行くが、断られたので、自分でパンフレットにサインを書くことにするが、それを彼女に見られてしまい、嫌われる。

ドロシーは軽業師と付き合い始めます。キートンは彼女の愛を得ようと裏庭で空中ブランコの練習をするのですが、これまたドジの連続で、ちょうど通りかかった二人に笑われる始末。アメをなめながら無表情にキートンの練習を眺めている子供の存在が面白い。

気の利いたストーリー展開上の工夫がありました。初めのほうで、ドロシーのアパートに行ったキートンがサーカスのチケット二枚を床に落とします。それを見つけたドロシーがキートンの意向を察して、キートンの店に行くのだけど、留守の札がかかっているので、札の裏に「急いで来てちょうだい」と書きます。ずっとキートンはそれに気づいていなかったのですが、ちょうどドロシーが軽業師に乱暴されかかっていたころ、キートンはそれに気づいて彼女のアパートに出向くのです。

音をうまく使った場面があります。ドロシーともう一度会いたいキートンはドロシーのアパートから出る際、大きな振り子時計をいじって故障させ、店で彼女からの修理依頼の電話を待ちます。電話が鳴ったと思ったら、それが時計の音だったり、店のドアの音だったりして、実際に彼女から電話がかかったとき、時計や玄関の音だと勘違いして、電話に出そびれます。サイレント時代にこのギャグはできなかったし、自由のきかないMGMではさせてもらえなかったでしょう。

大きな振り子時計を故障させるエピソードは、少し複雑になっています。キートンが自分に気があることを知ったドロシーは、キートンが大きな振り子時計を故障させたことに気づかず、彼女も時計をいじって故障させ、修理の電話をかけるのです。ところがキートンが電話に出ないので、彼女は自ら出かけていくのですが、留守なので、上述したように、札の裏にメッセージを書くのです。なぜ、キートンが留守なのかというと、キートンは電話に出られたなかったものの、それがドロシーからだと思い込んで(実際にそうだったのですが)、ドロシーのアパートに急行したからです。

このあと、キートンはフランスで長編「キートンの爆弾成金 Le Roi des Champs-Elysees」に主演し、次にイギリスで長編「キートンのスペイン嬌乱 An Old Spanish Custom」に主演します。

以上、James L. Neibaur の "The Fall of Buster Keaton: His Films for MGM,Educational Pictures, and Columbia" (2010, Scarecrow Press) を参照しています。

「キートン!キートン!!キートン!!!」の児玉数夫さんは1935年10月31日に「キートンの頓馬同盟」中野館で見ており、併映は朝日世界ニュース、日活予告篇集、実写「高原を行く」、漫画「黒猫のジャングル征服」、黒川弥太郎、花井蘭子主演「追分三五郎」、藤井貢、逢初夢子主演「大学を出た若旦那」。「この年からのち、フォックス映画提供のエデュケイショナル作品のキートン喜劇が公開され、こういう邦画館にも歓迎された」とあります。

"The Fall of Buster Keaton" から。

Keatonallez

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2011年12月13日 (火)

1978年12月第2週に見た映画

今年のテレビ番組出演本数ランキングの6位に大島さと子さんが入っているのが意外(女性では1位)。もう何年もテレビで見たことがない。大学の映研の2年下で、まったく会話した記憶がない。文化祭で美人の写真を廊下に張って大学のマドンナを選ぶというのがあって、彼女は2位になりました。1位になった女性が辞退したので、東京のほかの大学とのコンテストには彼女が出場し、優勝したような気がします。ウィキペディアで調べたら、「ナイル殺人事件」のイメージガール、ミス・ナイルを選ぶコンテストだったようです。たぶん配給会社が文化祭のころから各大学の映研に働きかけていたのでしょう(私は映画を見ることしか考えていなかったから蚊帳の外。こういうことにガゼン張り切る部員がいたらしい)。「ナイル殺人事件」は1979年の正月映画だから、今振り返っている頃のことです。

12月11日(月) あすの花嫁 (東京12) 3点
12月12日(火) ローリング・サンダー (銀座文化) 4点
12月12日(火) 8 1/2 (京橋フィルムセンター) 5点
12月17日(日) コッチおじさん (三鷹オスカー) 4点
12月17日(日) 恋人よ帰れ!わが胸に (三鷹オスカー) 4点

この頃にしては、おとなしい週。これぐらいの本数が適度だと思う。

「あすの花嫁」は、おなじみ吉永小百合と浜田光夫のコンビ作。このコンビは1963年から1966年までがピークだったらしいので、1962年9月公開のこの作品の頃はコンビが定着し始めたころなんでしょうかね。吉永小百合が1962年に出たのは10本で、「さよならの季節」「上を向いて歩こう」「キューポラのある街」「激流に生きる男」「赤い蕾と白い花」「霧の夜の男」「星の瞳をもつ男」「あすの花嫁」「若い人」「ひとりぼっちの二人だが」です。「赤い蕾と白い花」の主題歌が「寒い朝」で、この曲で歌手としてデビュー。さらに橋幸夫と「いつでも夢を」をデュエットしてレコード大賞受賞、紅白出演。というわけで1962年は17歳の彼女がブレイクした年なのでした。(キネ旬の「日本映画俳優全集・女優編」(1980)を参考にしています。脱線するけど、「星の瞳をもつ男」って誰なんでしょうね。高橋真麻のお父さんでした。)「あすの花嫁」は「二十四の瞳」の壺井栄原作で、監督は野村孝。どんな映画だったか記憶にないし、今も興味ない。3点だから、退屈はしなかったのでしょう。

「ローリング・サンダー」は東映のヤクザっぽくて面白かった。シドニー・ポラック監督、ロバート・ミッチャムと健さん主演の「ザ・ヤクザ」よりもB級っぽい拾いものだったから、よけい任侠映画らしく思えたのでしょう。ヒーローとして戦争から帰ってきたウィリアム・ディベインが強盗団に妻と息子を殺され、片腕をつぶされ、戦友のトミー・リー・ジョーンズとともに復讐する話。キネ旬21位。監督ジョン・フリン、脚本ポール・シュレイダーら。AIP製作配給。日本で仕事をしながら缶コーヒーを飲む宇宙人トミー・リー・ジョーンズもこの頃は細身でハンサムな若者でした。

銀座で「ローリング・サンダー」を見たあと、京橋のフィルムセンターでフェリーニの「8 1/2」を見ました。前のほうでワイドスクリーンを見たので、よくわからなかった気がします。「8 1/2」を見たということだけで5点あげたのかもしれません。このあと、1983年に有楽スバル座で見ているので、リバイバルされたようですね。1988年には今はなき名画座の八重洲スター座で見て、1991年にはNHK教育で放映されています。4回も見ているのに、どういう映画か説明できない。クライテリオンのDVDを持っているのですが、未見なので、そのうち見て、面白かったら、ここに何か書きます。

この頃の「コッチおじさん Kotch」(1971) の上映は珍しかったと思います。ジャック・レモンとウォルター・マッソーは、この映画までに「恋人よ帰れ!わが胸に」と「おかしな二人」で名コンビになっていましたが、ここでは監督レモン、主演マッソーという関係(レモン唯一の監督作)。嫁フェリシア・ファーに老人ホームに入れられるが、そこから逃げて、妊娠している10代の女の子デボラ・ウィンターズと同居し、彼女が子供を産むのを手助けすることで生き甲斐を見出すというような話らしい(例によって記憶にないので、gooのあらすじを参照してます)。マッソーが演じるおじいさんが70歳すぎで、今から考えると老人ホームに入れられる年齢にしては若い。1970年ごろは日本もアメリカも男性の平均寿命が70ぐらいで、あれから10年ほど延びているので、今だと80歳ぐらいの老人の話か。フェリシア・ファーはジャック・レモンの奥さんで、1962年に結婚して、レモンが2001年に亡くなるまで連れ添いました。マッソーはアカデミー主演男優賞にノミネートされましたが、「フレンチ・コネクション」のジーン・ハックマンが獲得しました。

「恋人よ帰れ!わが胸に The Fortune Cookie」(1966) は、ビリー・ワイルダー監督、レモン主演、マッソー助演という期待せずにいられないトリオ作品。マッソーがアカデミー助演男優賞を獲得。これがレモンとマッソーの最初の共演作。このあと二人は1968年に「おかしな二人」で再び共演し、1974年に「フロント・ページ」で共演しています。90年代にけっこう共演しているようですが、この1978年暮れの時点では思っていたよりも共演作が少ない。たぶん「おかしな二人」の印象が強いので、かなり共演していると思い込んでいたのでしょう。テレビカメラマンのジャック・レモンがフットボールの試合で選手に体当たりされて入院。義兄の弁護士マッソーが大金をせしめようと、レモンに半身不随になったふりをさせる。そこからコメディが始まる。期待しすぎていた分だけ面白くなかった記憶があります。脚本ワイルダーとI・A・L・ダイアモンド、音楽アンドレ・プレビン、撮影ジョセフ・ラシェル。白黒、ワイドスクリーン。

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2011年12月12日 (月)

映画と感情: Such Stuff as Dreams (24)

昨日の続き。

【本との関係】

新たに人と関係を持つには何らかの雅量が必要である。同様に、詩、短編、小説、劇、映画と関係を持つにも何らかの雅量が必要である。そうすれば、作者の作品を受け入れることができる。自分の心を開いて、作品が自分の心の中に入ってくるのを許す。内面の世界に混乱をもたらすかもしれない態度や考え受け入れたくないから、人は読書の際に注意深くなるのかもしれない。

読者が関係を持つのは作者だけではない。読者は、登場人物、語り手、作者の順に強い関係を持つ。フィクションとの関係の最高の隠喩は友情である。友人は我々に影響を与え、我々を変える。友人を選ぶときに用心深いように、何を読むか、どの登場人物や語り手と関わりを持つかについて用心深い。

友人としての登場人物

読者は登場人物と関わりを持ち、彼らが何をしようとしているか考える。読者は、登場人物が次にどんな行動をとるか、考えや感情の動きも含めて、常に考えている。このようにして、登場人物が行うことは認識できるようになるが、ときどき驚かしてくれる。

作者は、ときどき、作者がコントロールできないように思えることを登場人物が行っていることに気づく。本を出版したことがない者も含めて、50人のフィクション作家を対象にした研究によると、登場人物による自主的な行動を経験した者が46人いた。本を出版した者のほうが頻繁にそのような経験をしていることから考えると、専門的技術と関連があるのかもしれない。同じ研究によると、普通の人と比べて、作者は子供時代に想像上の友人を持っていた者が多い。共感に関しても、作者のほうが普通の人よりも強い。したがって、登場人物の心の中に自分が入り込むのを想像するのは読者だけではない。作者も同様のことを行っている。

登場人物は自主的に動くだけでなく、新たな展望も開く。登場人物の特徴や性癖がなければ、作者は登場人物が実現する可能性を手に入れることができないかもしれない。作者にとって、制御しにくい登場人物は、作者自身の性格が拡大したものであり、そうした性格の拡大によって、愛想のよい人物、品のない人物、騒々しい人物、あるいは静かな人物であることの習慣的な限界を作者が超越するのを手助けするのかもしれない。

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2011年12月11日 (日)

映画と感情: Such Stuff as Dreams (23)

日経新聞にルース・フィネガンの「隠れた音楽家たち-イングランドの町の音楽作り」という本が紹介されていました。「「プロの演奏を聴く」のではない、「アマチュアが自分でする」形にこそ、音楽の本来のありようを見出そうとする」という趣旨のもとにロンドン近くの新興都市の音楽活動を調べた本です。

そういえば、この前テレビで見たイギリス映画「ブラス!」というのも炭坑労働者たちのブラスバンドがロンドンのアマチュア大会に出る話で、アマチュアとして演奏を楽しんでいました(マーチングバンドではなく、普通のオーケストラのように指揮者に合わせて座って演奏するバンドでした)。

法政大学出版局から出た面白そうな本なのですが、なんと価格が税抜きで6,600円。アマチュアに手が出せる価格じゃないじゃないですか。原書 "Hidden Music: Music-Making in an English Town" だと紀伊國屋で2,000円少々で、断然洋書のほうがお得。さっそく注文。

とはいえ、原書で読むと遅くてしょうがなくって、部屋にたまった洋書の山を見ていると、一生かかっても読めないだろうなあと、けっこうプレッシャーを感じてます。それにもめげず、今日も Keith Oatley の "Such Stuff as Dreams: The Psychology of Fiction" を読み進めていきますよ。

セッションが済むと、ロジャーズはカメラに向かって要約する。彼は進行に満足していると言う。Magai と Haviland-Jones はロジャーズが次のようにしゃべった瞬間に注目する。「ある関係に入ることができると、うまくいったと感じます。」最後のほうで彼の声は高まり、Magaiらは次のようにコメントする。

「彼は自然であり、興奮と得意げな喜びが高まっている。表情はよりオープンで無防備になり、映画の中で唯一の「純粋に」興味を表現したものである(まゆが上がり、アーチ状になる)。次に起こったことは、さらに顕示的である。まゆが上がったのはほんの一瞬であり、外側のまゆをコントロールする筋肉が外側の角を下げ、悲しいまゆを作り出し、あやふやな表情となる。」

ロジャーズは、自分が成し遂げたことに興奮と喜びを一瞬感じるが、それは、彼のキャラクターの感情的構造がいつまでも続けることを許さないことだった。過度の自己満足を表現することは恥ずかしいことであり、決して誇りを感じてはならない。表情は恥によってすぐに抑制され、いつもの少し悲しげな表情に戻る。

精神科医や他の同僚とのロジャーズの敵対はどうだろう。Magai と Haviland-Jones は、彼の宗教的な育ちから派生した独善的な排他性のレパートリーに頼っていると述べている。彼は外部の者に対して遠慮がちに接し、ときには軽蔑をもって接する。

Magai と Haviland-Jones は、このように、キャラクター理解の新たな領域を作りあげている。ダンテから、シェークスピア、ジェーン・オースティン、ジョージ・エリオットを経由して、バージニア・ウルフに至るまでの最良のフィクションのキャラクター研究のように。他人との相互関係から生じ、のちの相互関係を形成する領域である。ジョン・キーツが述べているように、人間は哀しみの谷間ではなく魂作りの谷間に生きていると考えるべきである。このような世界以外で、いかに魂を作り出すことができるのか、とキーツは問いかける。

一般に、愛着は最初の恋である。ほとんどの恋愛小説は第二の恋についてである。確立された感情の習慣的な動きを作り出すために愛着や家族文化に基づいてキャラクターを形成することに関する Magai と Haviland-Jones の本は、最初の恋から第二の恋への橋渡しにおいてフィクション作家に多くを提供するかもしれない。

(C. Magai and J. Haviland-Jones (2002) The Hidden Genius of Emotion: Lifespan Transformations of Personality (Cambridge University Press))

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2011年12月10日 (土)

夜明けの英国音楽: RTのQ&A (12月分その1)

中島卓偉って事務所の片隅でサンダル履きで24時間ライブをやっている四畳半フォーク歌手かと思ったら、けっこうカッコいいロックもやっているんですね。興味津々。

で、本日は、先日発表されたリチャード・トンプソンのファンとのQ&A。10月分となっていますが、12月に発表されたので、私のところでは12月分にしときます。例によって、わからないところ、興味ないところは割愛してます。

10月分が掲載された2日後に11月分が掲載されました。これは来週やります。

ポールが結婚するってニュースを聞いて思ったのですが、あなたはビートルズの誰かに会ったことがありますか。フェアポートが交通事故を起こしたとき、ビートルズがメッセージを送ったことがありますよね。それから、デイブ・マタックスはマッカートニーのバックでドラムを叩いたことがあります。ポールやリンゴと一緒に演奏したことがありますか。一番好きなビートルズのアルバムと曲は何ですか。

誰にも会ったことがない。交通事故のときはビートルズもストーンズも花を贈ってくれた。サンディ・デニーと私は1968年のマッカートニーのパーティーに呼ばれた。サンディは行ったが、私は理想主義すぎたし気どりすぎていたので、ビートルズのメンバーからの招待を受諾できなかった。カリフォルニアの温水プールに行ったら、5メートルほどのところにジョージがいた。でも、そこは大衆から逃げるための場所だったので、 "Don’t Bother Me" でどのアンプを使ったのかたずねて彼の平安を乱すほどの心臓を持ってなかった。「迷惑をかけないでくれ Don’t bother me」と言われるかもしれなかったから。好きなアルバムは「リボルバー」、好きなシングルは「ペイパーバック・ライター」、好きな曲は「ゼアズ・ア・プレイス」だ。

マーティン・シンプソンの新作 Purpose and Grace でのあなたの演奏は素敵です。過去にシンプソンとよく演奏しましたか。ほかのミュージシャンの曲に参加するとき、下準備のために時間をかなり使いますか。すなわち、前もってどのように演奏するか考えますか。それとも、その場でおもむくままに演奏しますか。

マーティンとは長年の知り合いだが、そんなに演奏したことはない。二人とも万全の準備をしようとするミュージシャンなので、デュエットが常に自然なものになるわけではない。マーティンが私に曲を送ってくれたのか、私が出向いたのか思い出せない。私にとってはどちらでもOKだ。即興演奏のためにソロをダビングするほうが簡単なこともある。そのほうがより自然に聞こえることが多い。

あなたはツアーで曲を無作為に選ぶという試みを行っていますが、選曲が本当に無作為だと感じていますか。それとも、特定の時間と場所にいくらか適したものだと感じていますか。

とても哲学的な質問だね。ここではめったに出くわさない質問だ。同じ選曲であれ異なる選曲であれ、各コンサートのユニークさを感じている。観客も場所も違うから1回限りのイベントだ。選曲も違えば、もひとつギアを上げることができる。各々の曲の中に入ろうと努めているし、コンサートごとに異なる成功を収めている。

私はベース奏者で、マンドチェロに興味があります。あなたは今年再発されたアルバム Strict Tempo で演奏してますよね。なにかアドバイスがありますか。

マンドチェロは素晴らしい楽器だ。ケルト風の曲でときどき使う。ギター、マンドリン、ブズーキを補足したり、代わりを務めてくれたりする。通常はチェロと同じチューニングだが、別のチューニングにすることもできる。「ストリクト・テンポ」では何曲かに使った。たとえば、"Rockin’ In Rhythm" ではベースとして使用したし、ダンス曲では一オクターブ下を弾いたり、持続低音として使った。100年以上前にダラスで作られた大きいのを持っていて、とても豊かな音がする。

なぜ "Sights and Sounds of London Town" を演奏しないのですか。アルバム Mock Tudor を発売してから12年間、あなたが演奏しているのを聴いたことがありません。昨夜は Mock Tudor から5曲演奏しましたが、あの曲は歌いませんでした。お願いですから次に来るときには演奏してくださいませんか。

じゃあ、わかった。

何年か前、"My Daddy Is a Mummy" を演奏したとき、子供たちのために歌を集めたプロジェクトに含まれると言いました。実現してないですよね。興味をなくしたのか、あのとき観客をからかったのですか。

子供のために書いた "My Daddy Is A Mummy" と "Six-Legged Friend" はいろんなミュージシャンによる学校への資金集めのためのCDに収められている。あのCDは、まだ少し残っていると思う。

バート・ヤンシュが10月に亡くなりましたが、なにかひとことお願いします。

とても影響力のあるギタリストだった。フォークとブルーズを融合させてユニークなサウンドを作ったデイビー・グレアムの何人かのフォロワーの一人だった。いつも彼の演奏を楽しんだ。とても悲しい。

最近のインタビューで、歌は人生の別の段階で再び歌う機会がある点で絵画とは異なるとおっしゃいました。昔、ジョニ・ミッチェルがアルバム Miles of Aisles のときに「誰もゴッホに、もう一度「星月夜」を書いてくださいとは頼まない。絵画は一度きりだ」と言ったのを思い出しました。あなたのコメントの趣旨はジョニのとは違いますか。意見が同じだったのは単なる偶然ですか。

ジョニと私はいつも似たような考え方をしている。

自分の過去の曲を再び聴いたときに、歌詞や音楽に驚いたり、印象づけられたりしますか。

ときどき驚く。良い意味でも悪い意味でも。

ジョニ・ミッチェルがやっているようにウェブサイトに自分の絵を掲載しようと考えたことはありませんか。

ジョニは本物の画家だが、私は再び描き始めたばかりだ。自分の音楽のように絵を吟味されたり批評されたりすることを自分は欲しているだろうか。いいや、けっこうだ。

バート・ヤンシュが亡くなったなんて知りませんでした。ご冥福をお祈りします。なにか一曲。今日はこれで終わり。

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2011年12月 9日 (金)

フィルムノワール入門 (34)

Andrew Spicer の "Film Noir" の続き。

【フロイト主義】

フロイト主義を単純化したものがアメリカに浸透したのは両世界大戦間。初期のフィルムノワール「拳銃貸します This Gun for Hire」(1942) では、子供虐待のために身体的にも精神的にも障害を負っている、ひねくれ者の殺し屋レイブン(アラン・ラッド)は精神分析に助けを求めることができるかどうかたずねる。「毎晩、夢を見る。精神なんとかという医者について、どこかで読んだことがある。自分の夢のことを話すと、その夢をもう見なくてすむんだ。」

ヒッチコックの「白い恐怖 Spellbound」(1945) もトラウマと精神分析に関する作品で、戦後の精神的な最適合という時事的な主題を詳細かつ繊細に描いたことで評価を得た。(L.J. Leff (1987) Hitchcock and Selznick (Weidenfeld & Nicolson))

ルドルフ・マテ監督の "Dark Past" (1948) では、脱走中の殺し屋ある・ウォーカー(ウィリアム・ホールデン)が子供時代のトラウマに悩まされている。父親が警察に射殺されたとき、アルはテーブルの下に隠れていたのだが、テーブルの割れ目から血がしたたり落ちてきたのである。慈愛に満ちた警察精神科医のコリンズ(リー・J・コッブ)は、アルの人質となっているのだが、アルの夢の解釈をつうじて彼の精神異常の原因を次第に解明する。夢の中でアルはぼろぼろの傘をさしており、自分を守ろうと無駄な試みをしている。雨は父親の血を象徴しており、彼が傘を握っている手は罪の意識と無能のためにしびれている。

「白い恐怖」、"Dark Past"、そして主人公がフロイトに関する講義をするフリッツ・ラング監督の「飾窓の女 The Woman in the Window」(1946) のあからさまな利用は、フィルムノワールによるフロイト主義の使用の一面にすぎない。幻想、夢、精神分裂、無意識の抑圧された欲望、隠匿、置き換え、圧縮へのフィルムノワールのこだわりは、実存主義のように、フィルムノワールが作りあげる構造の一部となっている。("Something More Than Night: Tales of the Noir City" in D.B. Clarke (ed.) The Cinematic City (Routledge))

このようにフロイトの主題に満ちていることが、フィルムノワールを初期の犯罪ものと異なるものにし、「レベッカ」などのゴシック風フィルムノワールや「哀愁の湖 Leave Her to Heaven」(1946) などのロマンチックスリラーの性的メロドラマを特徴づける。「哀愁の湖」では、独占欲が強すぎて夫と妹との間の幸福を壊すために自殺まで仕組む妻エレン(ジーン・ティアニー)の行動に対する非難と、彼女の父親への強迫的な献身(近親相姦的なあこがれが精神的な障害として残っている)に原因があることに対する理解の間で物語が揺れる。

実存主義のように、フロイト主義は初期フィルムノワールによる個人の病理へのこだわりの一部を形成していたが、50年代に社会テーマの探求へと移行するにつれ重要ではなくなっている。だが、例外もある。「暴力団 The Big Combo」 (1955) の表向きの主題は犯罪組織だが、犯罪者と警官を結びつける精神病理が深くしみ込んでいる。「めまい Vertigo」 (1958) は、フィルムノワールによる性心理的な置き換えを最も深く掘り下げた作品である。

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2011年12月 8日 (木)

映画と感情: Such Stuff as Dreams (22)

ここでは、カール・ロジャーズのキャラクターの研究を略述してみる。彼は裕福なキリスト教根本主義一家の6人兄弟の4番目だった。子供時代は体が弱かったので、長く生きないんじゃないかと両親は心配して、彼のことをとても気づかった。温かい家庭だったが、怒りのような感情は禁止された。大学を出てすぐに結婚し、長年にわたる幸せな生活を送った。仕事においても大成功をおさめ、患者がしゃべることに解釈を加えることなく理解と共感をもって話を聞くという療法を確立した。自伝の中で、自分は恥ずかしがり屋で、仕事の上では少々一匹狼的だが、緊密な人間関係を楽しんでいると書いている。まわりの人は彼をやさしくて、まったく怒らないと評しているが、精神分析の仲間たちの何人かは「とってもイライラさせる」と評している。何度か職場を変えているが、職業的な対立から逃れるためだったらしい。

Magai と Haviland-Jones は次のように書いている。

ロジャーズの主要な愛着関係は安定的な愛着であり、回避的な愛着でも不安定な愛着でもなかった。しかし、仲間との交流において不機嫌になることがあった。また、とても内気になることもあったが、それでも人間に興味があり、集団による感受性訓練療法を行うこともあった。しばしば、他人を彼の存在の中心に置いた。他人と対立することもよくあったが、特に「怒りっぽい」とか敵対的ではなかった。

Magai と Haviland-Jones は、緊密な人間関係を切望する図式をは発展させたと述べている。しかし、とても恥ずかしがり屋で、それはキリスト教根本主義という環境で育ったからであり、母親は常に欠点を指摘したがっていた。温かくて守られた天国のような幼少時代を過ごしたのち、学校に入り、兄弟のからかいや競争の対象となったとき、幻滅を感じた。親密さに対するあこがれは消え去ることがなかったし、恥ずかしがり屋も治らなかった。目を合わせるのを避けるし、躊躇しながらしゃべった。仕事において、ロジャーズは、安定的な関係という雰囲気を患者に与えることに基づいた療法を提唱した。

上述した映画を見て、表情分析の専門家である Magai と Haviland=Jones
は、患者グロリアとしゃべるときのロジャーズの表情には彼がかなり興味を持っていることが示されているが、少し下がった眉毛が悲しさを感じさせることに気づいた。暗黙のうちに、彼は、親密な事柄に関する会話を含む保護的な関係へとグロリアを誘導した。グロリアは、自己批判の恥ずかしさを避け、いつもロジャーズが患者に与えている、より大きな自己受容へと向かう機会を捕えた。このセッションについて、グロリアは次のように語った。「ロジャーズ博士といるときは、自分がより魅力的で、落ち着いていて、思いやりのある自分自身を感じました。それから、より率直になった気がしました。セックスに関してさえも。そのことに驚いています。」

(続く)

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2011年12月 7日 (水)

MGM以降のキートン作品集 (5): The Gold Ghost (1934)

【スマイレージ】
つい先日ダンスレッスンの映像がアップロードされたばかりなのに、もう公式のミュージッククリップを流してます。これが12月28日発売で、来年2月1日には「チョトマテクダサイ!」という新曲が出る。売れてるのかどうか知らないけど、最近のハロプロは活動だけはすごい。

【中島卓偉】
ももちが対談してCDを交換した中島卓偉。たぶん、この「3号線」という曲でしょう。ぶったまげた。つんくばかりじゃあきるので、もっと曲を提供させろ!

【The Gold Ghost】
MGMを解雇されたキートンはエデュケーショナル社で1934年から37年の間に16本の短編を作ります。トーキーになっても、テレビが普及するまで短編映画は盛んに作られていました。これら16本はアメリカの Kino から "Lost Keaton" という題名の2枚組DVDに全部収録されています。残念ながら、字幕はないし、音も良くないので、セリフの面白味は私には伝わってきません。

これらの短編は日本に輸入されていて、第一作目 "The Gold Ghost" の邦題は「キートンの黄金崇拝」。金持ちのぼんぼん、キートンは彼女に男らしさを証明するために西部に行って、ゴーストタウンで保安官になる。その町には誰もいないので、当然彼が一番強い男である。町のはずれにはおたずね者の悪党が住んでいるが、寂しがり屋なので、話し相手を見つけて喜ぶ。ほこりだらけのテーブルの上で二人がトランプをやると、トランプを一枚テーブルに出すごとにほこりがもうもうと立ちこめるのに、それにかまわずにトランプに熱中する二人がおかしい。

二人がいるのを見て金があると誤解したのか、再びこの町に人が押し寄せてきます。その中にはキートンの彼女とその父親もいます。山賊たちとの戦いに勝ったキートンは彼女の愛を得ます。

馬の飲料用の水槽で裸になってキートンが洗濯しています。水槽が画面の手前にあるのでキートンは全裸のように見えます。すると、画面奥から何台もの車がやってきて、しばらくして気づいたキートンはあたふたしますが、パンツはちゃんとはいているのでした。このワンショットは視覚的に面白い。キートンはもっとしまった体をしていると思ったら、けっこうだらしない。キートンは1895年生まれだから、40近くなっているし、MGM時代以降はあまり鍛えていなかったのかもしれない。

最後の山賊たちとの戦いで、小さな樽をボーリングの球みたいに転がして一人ずつやっつけたり、その間に偶然スロットマシーンが動いて、何十年間も使用されていないはずなのに効果がジャラジャラ出てきたり、といったギャグもあります。

甘やかされて育ったので何もできない金持ちのぼんぼんという役柄はキートンの得意とするところですが、顔も白塗りではなく人間臭くなっているし、味わい深い声もぼんぼん向きではない。ドロシー・ディクスという女優さんもさほど魅力的ではない。

監督はチャールズ・ラモント。キートンの即興や思いつきを快く受け入れてくれたので、低予算だけど、MGM時代よりも自由な感じ。

「キートン!キートン!!キートン!!!」の児玉数夫氏は、昭和10年(1935年)7月15日に神田の銀映座という映画館で見ています。併映が盛りだくさんで、朝日ニュース、「太平洋攻防戦」(予告編)、記録映画「世界の銀座」、漫画三本、「バディの運転手」、「春の訪れ」、「モシモシ亀よ」、テクニカラーの「クカラチヤ」、リイ・トレイシー、サリー・アイラース主演のコロンビア映画「カーニバル」。

YouTubeに二つに分けてアップロードされています。「パート1」「パート2

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2011年12月 6日 (火)

1978年12月第1週に見た映画

12月04日(月) 2001年宇宙の旅 (新宿武蔵野館) 5点
12月05日(火) 侠客列伝 (テレビ神奈川) 3点
12月07日(木) 天国と地獄 (新宿座) 3点
12月09日(土) バレーメカニック (学校) 2点
12月09日(土) 謎 (学校) 4点
12月10日(日) 非行少女 (五反田東映シネマ) 4点
12月10日(日) 私が棄てた女 (五反田東映シネマ) 3点
12月10日(日) キューポラのある街 (五反田東映シネマ) 4点

「2001年宇宙の旅」がリバイバル上映されました。終わりのほうの奥へ奥へと進んでいくような映像が快感でした。80年代にレーザーディスクを購入したことがあります。

テレビ神奈川で毎週火曜日に任侠映画を放映していたのか、この頃だけなのか、二週間後にも「侠骨一代」というのを放映してます。「侠客列伝」というのは1968年にマキネ雅弘が監督した健さん主演、桜町弘子、若山富三郎共演の作品です。キネ旬の日本映画俳優全集・男優編によると、健さんは1968年に「日本侠客伝・絶縁状」「獄中の顔役」「荒野の渡世人」「侠客列伝」「緋牡丹博徒」「ごろつき」「人生劇場・飛車角と吉良常」「祇園祭」「新・網走番外地」「博徒列伝」の10本に出演しています。「飛車角と吉良常」はキネ旬の9位に入っています。今村昌平の「神々の深き欲望」が1位で、洋画では「俺たちに明日はない」が1位、「2001年宇宙の旅」が5位。そういえば、2001年は10年前のことになってしまいました。そういえばピーター・ハイアムズの「2010年」も過去のことになってしまいました。この頃は二週間ごとにプログラムが変わっていたようで、「侠客列伝」は「盛り場ブルース」との二本立てで8月1日に公開されています(キネマ旬報ベストテン全集1960-1969)。変則的に7月21日に「ウルトラセブン」「魔法使いサリー」「太陽の王子ホルスの大冒険」「ゲゲゲの鬼太郎」が公開されているのだけど、成人向けとお子様向けと別々の映画館で上映されていたのだろうか。「列伝」と名の付く作品はほかに「博徒列伝」「渡世人列伝」「遊侠列伝」「任侠列伝・男」と五本あるらしい。オールスターのシリーズだそうで、「列伝」というのはその和訳か。その一作目が「侠客列伝」で、健さんのほかに、流れ者の鶴田浩二、彼に恋する芸者が藤純子。この作品、この年の9月3日にもテレビで見てました。

「天国と地獄」はエド・マクベイン原作の1963年の黒澤映画。割愛。

「バレーメカニック」と「謎」という実験映画は大学のどこで見たのだろう。映画の授業中以外考えにくい。「バレーメカニック」はフェルナン・レジェの1924年のフランス映画。坂本龍一が音楽を付けたものをYouTubeで見ることができますが、短いですね。私の持っているのでは、Kino のDVD2枚組 "Avant-Garde: Experimental Cinema of the 1920s and 30s" と "Unseen Cinema: Early American Avant-Garde Film 1894-1941" という7枚組に入っています。前者は11分で弦楽器による音楽で、後者は16分でPaul Lehrman という作曲家が George Antheil の原曲に基づいて音楽を入れているようです。なぜかパートカラー。YouTube には坂本龍一が音楽をつけたものもあります。

なぜ松本俊夫の「謎」が学校で上映されたのか謎。しかも意外と点数が良い。全然記憶にないのですが、「エニグマ<謎>」という3分のビデオアートで、この年の作品なので、もしかして学校で松本氏が講演でもしたのだろうか。これ、YouTubeにあります。なんか、「2001年宇宙の旅」の私が好きな箇所と似ているような。でも、奥へ奥へじゃなくて、外へ外へですね。「2001年宇宙の旅」もどっちだったか忘れてしまいました。

最後は浦山桐郎の日活映画三本立て。見た順に書いていますが、古い順に並べると「キューポラのある街」「非行少女」「私が棄てた女」。浦山監督の1作目から3作目。キネ旬1962年2位、1963年10位、1969年2位。当時このペースでよく監督業が続けられたなあ。特に63年から69年までの間は何をしてたのでしょう。

「キューポラのある街」は川口市の貧しい職人一家の話。東野英治郎の娘が吉永小百合。これ以前から人気はあったようですが、これで人気に拍車がかかったようです。弟の市川好郎がなつかしい。母親は杉山徳子。浜田光夫も出ているけれど、キネ旬の「日本映画俳優全集・女優編」(1980)には「63年から66年までの四年間、彼女(吉永)は浜田光夫との共演を中心とした青春映画のヒロインにふんし安定した活動を続ける」とあるから、まだコンビは確立されていなかったようです。原作早船ちよ、脚本今村昌平、浦山、撮影姫田真左久、音楽黛敏郎。白黒。

「非行少女」は、和泉雅子の出世作。恋人役に浜田光夫が出ていますが、その後、彼女は高橋英樹とコンビを組み、さらに山内賢とコンビを組んで「二人の銀座」というヒット曲まで出しました。原作森山啓、脚本石堂淑朗、浦山、撮影高村倉太郎、音楽黛敏郎。白黒。

「私が棄てた女」は、原作遠藤周作、脚本山内久、撮影安藤庄平、音楽黛敏郎、出演河原崎長一郎、小林トシエ、浅丘ルリ子、加藤治子。白黒(パートカラー)。前二作ほど印象にないです。

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2011年12月 5日 (月)

映画と感情: Such Stuff as Dreams (21)

ももちが幼稚園や小学校の先生になるために勉強している大学って、今週の週刊ダイヤモンドによると、幼稚園・保育士にとって狙い目大学だそうな。ももちって、けっこうしたたか。だって、来年パリ公演をするボーノにもアメリカ公演をするベリーズ工房にも入っているし。

一方、ベリーズには注意していないと限りなく横に広がるメンバーがいる。縦に伸びたり、伸びなかったりするのはしかたないにしても、横に伸びるのはアイドルとして管理してほしい。「ニッポンの未来は WOW WOW ライブ」というハロプロの今年夏のコンサートのDVDを購入したけれど、正直、見苦しくて、ベリーズの曲は飛ばして見てます(今年春のベリーズのコンサートを収録したDVDでは気にならなかったし、今は少し良くなっているらしいのですが)。真野恵里菜の「My Days for You」とキュートで何とか元がとれたって感じ。モー娘の鞘師ちゃんが坐骨神経痛で休養していたのが残念。

「My Days for You」を作曲した人の番組にももち乱入。

では、Keith Oatley の "Such Stuff as Dreams: The Psychology of Fiction" の続き。

キャラクターの心理学的分析

ぞっとする子供時代から脱出するフィクションの例は数多くあるが、どのようにキャラクターが子供時代の愛着という発達経験から生じるかを描く良いフィクションは思い浮かばない。これに関しては、フィクションの姉妹芸術である伝記を当てにすることができる。Carol Magai と Jeannette Haviland-Jones の "The Hidden Genius of Emotion: Lifespan Transformations of Personality" (2002, Cambridge University Press) は愛着を伝記に取り入れている。この本では、精神療法を開発した三人のキャラクターが描かれている。カウンセリングによる精神療法の創始者カール・ロジャーズ、理性感情療法のアルバート・エリス、ゲシュタルト療法の創始者フリッツ・パールズである。

この本の中心的な考え方は次のようなものである。我々の人間関係において(より広く言えば、我々の人生において)、一組の感情が支配的になり、キャラクターの感情スタイルを形成し、その一面性ゆえに、あるパターンを作る。そのパターンは、いかに他人が我々と関係するかに影響し、独特な一組の人生問題を伴ないがちである。ほとんど必然的に、人は最初の親密な関係において自分の感情のレパートリーを抑制してしまっているので、大人になってからの人間関係やこだわりへの各自の経路につながりがちな、その抑制の含意に対処しなければならない。

Magai と Haviland-Jones は、愛着理論など、感情の作用に関する最近の理論を取り入れて、感情に基づいたロジャーズ、エリス、パールズの伝記を書いた。三人とも、自伝的なものも含めて、伝記的な資料があるし、彼らの学術的な文書もあって、それらからキャラクターの手がかりを見つけることができる。さらに精神分析に関する "Three Approaches to Psychotherapy" (1966) という映画があり、その中で各々は、夫と離婚したばかりの患者グロリアと30分間対面する。映画の中で、各治療専門家のキャラクターがかなりあきらかになる。ロジャーズはグロリアの話をていねいに聴く。エリスは彼女に講義をする。パールズはほとんど彼女をいじめている。

ここでは、カール・ロジャーズのキャラクターの研究を略述してみる。(以下、続く。)

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2011年12月 4日 (日)

映画と感情: Such Stuff as Dreams (20)

昨日言及した桑田靖子さんは最近また歌い始めたのですね。

昨日の深夜、広島のテレビ局で「ロード・トゥ・パーディション Road to Perdition」(2002)をやってました。最後よくわからなくて、復讐劇がすっきりしませんでしたが、全体的に面白かったです。ポール・ニューマンが出てたんですね。彼を見たのは、たぶん「ハスラー2 The Color of Money」(1986)以来だと思います。主人公のトム・ハンクスを狙う殺し屋がジュード・ロウだということを今IMDbで調べていて知りました。初めてお目にかかったと思います。撮影は「明日に向かって撃て」のコンラッド・ホールだったのか。アカデミー撮影賞を獲得したのですね。2003年に亡くなっていて、これが最後の劇映画だったようですね。音楽のトーマス・ニューマンは、名前からアルフレッド・ニューマンやランディ・ニューマンらの音楽一族かと思ったら、やはりそうでした。アルフレッドの息子で、ライオネルの甥っ子で、ランディのいとこ(ポール・ニューマンは関係ない)。キネ旬2002年の1位で、読者も1位。

スマイレージの新曲「プリーズ ミニスカ ポストウーマン!」 楽しいですね。これまではテンポが速くて、せわしない感じの曲ばかりで、インディーズ時代の「あまのじゃく」や「あすはデートなのに、今すぐ声が聞きたい」ほど好きになれなかったのですが、今度のは好きになれそう。「勝手に増員するな!」と怒っていたことなんて忘れてしまいました。こういうレッスン映像を公式に公開する試みは面白い。この調子だと、「ピョコピョコウルトラ」も期待できそう。

では、Keith Oatley の "Such Stuff as Dreams: The Psychology of Fiction" の続き。

人間関係からのキャラクターの出現

フィクションは、どのようにキャラクターが出来事を決定できるかや、どのように出来事がキャラクターを説明できるかを探るのが得意である。だが、小説や短編では、通常、キャラクターは成人期が描かれる。しかし、キャラクターが最も発達するのは子供のころである。通常は両親によってだが、両親がいないことによる場合もある。この点で、心理学は、ほとんどのフィクションよりも進んでいると思われる。

心理学の研究によると、キャラクターの基盤は、通常母親との関係によって最初の数年間に築かれる。この理論はジョン・ボウルビィ John Bowlby によって提示された。ボウルビィは、第二次大戦中、戦争で両親を失った子供たちを調査した。子供たちは、両親の喪失によって苦悩と抗議の段階を経験せざるをえない。最終的に、彼らは絶望的なあきらめに達する。彼らの発達に不可欠な保護者との関係が損なわれ、彼らのキャラクターに深い影響を与える。ボウルビィは同僚からコンラッド・ローレンツの刷り込みについて教えられる。刷り込みとは、鳥が、まわりを動き回って音を立てる最初の大きめの物と緊密な関係を持つシステムのことである。

刷り込みと、両親からの別離が子供に与える深い影響の観察から、ボウルビィは愛着理論を考案する。人間の子供は保護者との緊密な関係を保つようにプログラムされている。保護者は子供を守り、世話する。赤ちゃんがお乳をのむことが哺乳動物の生理的特性であるように、愛着は同様な心理的特性である。

ボウルビィの共同研究者であるメアリー・エインズワースは、愛着関係にいくつかのタイプがあることに気づいた。彼女と同僚は、幼児と母親を引き離して、再会させる実験をした。子供と一緒の母親が部屋から離れて、数分後に戻ってくる。「安定的な愛着」では、母親が離れると子供は心配し、戻ってくると喜ぶ。「回避的な愛着」では、子供は母親が自分の求めに応じてくれないと考えているように見える。母親が戻ってきても、内向的な独立した態度をを示し、母親を歓迎しない。「不安定な愛着」では、子供は母親が信頼できなことを発見したように見える。母親が戻ってくると、子供は母親に対して激しく怒る。

この基盤に基づいてキャラクターが築かれ、この人間関係の図式は大人になっても残る。

スマイレージの新作発売記念にビートルズのレコードの写真を(ボケていてすみません)。ビートルズの17センチ33回転の4曲入りは結局これ1枚しか買ったことがないです。オデオン盤が1965年に出たのが最初ですが、これはアップル盤だからもっと遅い。私が中学生だった1970年ごろ購入。

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2011年12月 3日 (土)

夜明けの英国音楽: 結局、ほぼ筒美京平特集

すでに「夜明け」でも「英国音楽」でもなくなっていますが、いつか戻ると思いますので、しばらく放浪させてください。

私は1967、8年ごろのグループサウンズ時代に音楽が好きになったのですが、当時好きだったオックスの「ダンシング・セブンティーン」ザ・ジャガーズ「恋人たちにブルースを」を作ったのが同じ人だったと知って、さすがだと思いました。作詞橋本淳、作曲筒美京平です。ザ・ジャガーズのリードボーカルだった岡本信さんは2年前に亡くなられたのですね。小林信彦が中原弓彦名義で前田陽一監督と脚本を書いている映画「進め!ジャガーズ 敵前上陸」のDVD、何年か前に買いました。

荒木一郎の「今夜は踊ろう」いいねえ。もともと1966年10月に発売された彼の第二弾。デビュー曲は「空に星があるように」。「いとしのマックス」もいいねえ。荒木自身が作詞・作曲。

この前古本を買った「秘蔵シングル盤天国・邦楽編」は、岩崎良美が「赤と黒」しか入っていないし、索引では間違えて岩崎宏美の曲になっているのが不満。それから桑田靖子の「マイ・ジョイフル・ハート」(1984、作詞来生えつこ/作曲来生たかお)がないのも不満。

岡崎友紀の「私は忘れない」(1973、橋本淳/筒美京平)も入っていない。これは10数年前、テレビの懐かしい映像特集番組を見ていたら、岡崎友紀の芸能ニュース映像とともに流れてきて、一気に私は高校時代に引き戻されてしまいました。当時、少し耳にしたぐらいで気にも留めなかった曲なんですが、永遠の名曲よりも時代性を感じさせてくれたのかもしれません。それからしばらくして、筒美京平の作品集がいろんなレコード会社から一気に出たことがあって、これは「筒美京平 ULTRA BEST TRACKS 東芝EMI編 GIRLIE 70's」というCDに入っていたので購入しました。このCDで初めて聴いたのですが、「さよならなんて云わないで」も名曲です。両方ともちゃんとしたものがYouTubeにアップされていない。1974年のライブ盤がめずらしい。短いのが残念だけど、ちゃんと歌える人なんですね。

細川直美の「君はどこにいるの」(1989、作詞作曲真名杏樹)。本には「これぞB級アイドルポップス!ここまで楽しければ、言うことナシ」ってあったので探してみたら、ひえー、1989年の広島フラワーフェスティバルで歌っているではないか。珍しい映像が残っているものですね。かわいい。

少し時代をさかのぼって、森田つぐみって美少女じゃないの。本には1976年4月の「少女期」というのが載っているのですが、「恋して海岸通り」(1977)も悪くないんじゃないの。特に良くもないけど。作詞なかにし礼、 作曲竹田賢。当時はブリティッシュフォークにこっていたので、まったく知りませんが。

さて、昨日は中川翔子の「しょこたん☆かばー4-1/しょこ☆ドル篇」というミニアルバムが届きました。もちろん、「はんぶん不思議」のミュージッククリップねらいで。ショートカットの黄川翔子が可愛い。この5人は顔も声も似ているので、姉妹かと思ったら、苗字が違う赤の他人なんですね。それとも五月みどりと小松みどりのように姉妹なのかね。メイキング映像が残念で、アイドルっぽいことを言ったあと、照れ隠しに「自分でイラッとする」みたいなことを言う。ももちみたいにイラッとされてもアイドルになりきってほしかった。

ミュージッククリップはこのCoCoの曲(1990、作詞及川眠子、作曲岩田雅之)のカバーだけで、CDにはほかに南野陽子の「吐息でネット」(1988)、山下久美子の「赤道小町ドキッ」(1982)、岡田有希子の「くちびるNETWORK」(1986)、松田聖子の「蒼いフォトグラフ」(1983)。さらに「ロコモーション・ドリーム」(1989)と「約束」(1981)。前者は田村英里子で、これも、細川直美同様、1989年の広島フラワーフェスティバルの映像がありますね。後者は、なんと原日出子の歌で、この二曲とも作曲は筒美京平なのでした。

最後は麻里圭子とリオ・アルマの「裸足のままで」。1969年7月発売。これも作詞橋本淳、作曲筒美京平。

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2011年12月 2日 (金)

フィルムノワール (278): Touch of Evil (1958)

開巻3分のダイナミックな移動撮影によるワンショットでノックアウトされるオーソン・ウェルズの傑作フィルムノワール。新婚旅行中の刑事チャールトン・ヘストンと新妻ジャネット・リーにとって悪夢のような出来事。二人がアメリカとメキシコの国境近くの町を歩いていると、車に乗ったアメリカ人が爆死する。その調査を担当するのがアメリカ側の刑事オーソン・ウェルズとメキシコ側のヘストン。調査をしている間にヘストンはウェルズがでっちあげ逮捕をし続けてきたことに気づき、ウェルズは麻薬密売人アキム・タミロフと共謀してヘストンの口を封じるためにジャネット・リーを薬漬けにする。大作スターになる前のヘストンはフィルムノワールによく出ていたので、かなりサマになっているが、オーソン・ウェルズがグロテスクすぎて、悪事をあばく爽快感を得るほどの憎たらしさを感じるよりも、ただ単に気持ち悪い。ジャネット・リーは、これと「サイコ」と続けてモーテルで悲惨な目に会うのがお気の毒。「サイコ」のアンソニー・パーキンズの従兄弟のようなオドオドしたモーテルの管理人を演じるのがスピルバーグの「激突」やテレビシリーズの「警部マクロード」のデニス・ウィーバーだとは、そう言われなければわからない。ウェルズの部下ジョセフ・カレイアが味わい深い。

監督: オーソン・ウェルズ(追加シーンはハリー・ケラー)
プロデューサー: アルバート・ザグスミス(ユニバーサル・インターナショナル)
原作: ウィット・マスターソン("Badge of Evil")
脚本: オーソン・ウェルズ
撮影: ラッセル・メティ
音楽: ヘンリー・マンシーニ
撮影場所: カリフォルニア州ベニス
公開: 1958年5月(ユニバーサル・インターナショナル)

"Film Noir: An Encyclopedic Reference to the American Style" には、公開当時は過小評価だったが、今は少々過大評価だと書いてあります。たとえば、「危険な場所で On Dangerous Ground」「白熱 White Heat」「裏切りの街角 Criss Cross」「天使の顔 Angel Face」「復讐は俺に任せろ The Big Heat」のほうが、より繊細な芸術性が感じられるとしています。それでも、カリフォルニア州ベニスでの奇妙な舞台装置によるメキシコの悪夢をウェルズが鮮やかに創造したことや、変化に富んだ多くの登場人物を実現していることは紛れもないことだと述べています。ウェルズは華麗なスタイルを非常に効果的に使用しているので、ドラマを突き動かす場面と単に騒々しいだけの場面の区別がつかないと、たぶん、ほめています。

このあと例の3分強の開巻の長いショットを細かく再現していますが、ここは割愛。とにかく見てもらうしかない。

撮影はラッセル・メティで、スタジオと野外撮影をうまく調和させてフィルムノワールの影を作っている点で彼の頂点に達していると評価しています。特にアキム・タミロフが殺害されるシーンが効果的で、外部からのネオンの明かりはお決まりの技法に陥りやすいが、狭い空間の暗闇でウェルズとタミロフが動き回るのを強力に表現していると述べています。

常に変化する構図が素晴らしい長回しによる容疑者の尋問のシークエンスでウェルズはテンポを変化させているそうですが、これは悪徳刑事が自ら持ってきたダイナマイトででっち上げを試みようとして、ヘストンに見破られるシークエンスのことを言っているのかな。明日確認してみます。なにしろ、私が購入した二枚組DVDには三つの版が収録されているので、明日は別の版を見るのが楽しみ。(私が最初に見たのは字幕なしのアメリカ版VHSだったので、ジャネット・リーはかなりひどいことをされたんじゃないかと想像力をたくましくしましたが、たぶん台詞では薬漬けのことしか言及してませんよね。英語字幕だから細かいところまではわかりません。時代的なこともあるのだろうけど、あの場面の描き方からすると、もっとひどいことをされていると想像してしまうのもしょうがないと思うのですが。)

オーソン・ウェルズによる悪徳刑事のキャラクター作りはやりすぎだと思うのですが、ここには、彼の最も説得力のある演技の一つだと書いてあります。太鼓腹、不自由な足、半分とじた目、タバコやキャンディーバーへの好み、すべてがこの人物のいかがわしさに貢献していると。何年か前に亡くなった妻のことを話すとき、人間的で、切なささえ感じさせ、同情を誘う敵役だそうですが、私にはそんなふうには見えず、むさくるしくて、気味が悪いだけでした。どうも、彼の妻は正体不明の者によって殺され、彼はいまだに苦悶し続けているらしいのですが、私の英語力不足のために、そのあたりがよくわからない。だから、グロテスクであると同時に悲劇的でもあるラストは、単にグロテスクとしか思えませんでした。

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2011年12月 1日 (木)

映画と感情: Such Stuff as Dreams (19)

「家政婦のミタ」は30%近い視聴率を叩きだしたそうで、さもありなん。どろどろした過去をロボットのように淡々と話すミタさんに深い悲しみを感じました。その前に3時間ほどの歌番組があって、録画したのを見たら、主題歌の「やさしくなりたい」を歌っている斉藤和義がカッコよかった。

Keith Oatley の "Such Stuff as Dreams: The Psychology of Fiction" の続き。

行動、プロット、キャラクター

キャラクターは、個人が他の人々や自分自身から作り出す心のモデルに由来し、文学上のシミュレーション=夢の主要な構成要素である。ゴール、計画、アクションが流れ出てくるのはキャラクターからである。典型的な物語のプロットでは、行動が出来事を生む。通常、出来事はキャラクターの計画に変化が生じるために起る。よくできたプロットでは、行動が、やや予想外の結果をもたらすが、状況から考えて行動は適切だったと思わせる。世界中の文学でプロットが重要であり続ける理由は、我々が完全には予測できない効果を人間の行動が持つからだけでなく、自分が望むことを常に知っているわけでもないし、十分に理解していない理由によってしばしば行動するからでもある。プロットは、このような問題の研究であり、どのように我々がそうした問題を乗り越えるのかの研究である。

物語における状況の突然の変化をアリストテレスはペリペティア(運命の逆転)と呼び、プロットにとって欠かせないものだと主張した。なぜ欠かせないかというと、たぶん、通常、感情は予想外の場合に生じ、感情はフィクションにとって欠かせないからである。日常生活でも物語のプロットにおいても次のような図式となる。

目標 → 行動 → 出来事 → 結果 → 感情

文学的に考えると、キャラクターの本質は、人間関係の感情面から派生するいくつかの目標の総体である。そうした目標から意図が形成され、行動によって放出される。キャラクターは感情的に重要な出来事によって形成されるとか、キャラクターから感情的に重要な行動が流れ出るといったシェークスピアが実践した考えは社会に普及している。この考えは、フィクションのシミュレーションにおいて考案された。次に、シミュレーションによって、その考えが日常での理解の中に入り込んでいった。

フィクションにおけるキャラクターを論じたもので最も有名で、たぶん今までで最良のものは、EMフォースターの「小説の諸相 Aspects of the Novel」である。フォースターは、扁平なキャラクターと円球的なキャラクターを区別した。扁平なキャラクターは薄っぺらなキャラクターで、単一の性格しか持たないか、単一の動機によって行動するか(たいていの悪者)、プロットにおける特定の機能を果たすかである。円球的なキャラクターは、単一の性格、動機、プロット機能を超えた感情を持ち、行動をとる。彼らは、相反する動機を持っていたり、精神的動揺を抱えている場合がある。そうしたキャラクターは彼ら自身興味深い。彼らはフィクションの外でも生きている。すなわち、我々の心の中に生きている。

キャラクターは(自分自身や自分が知っている他の人々のように)、ひとつだけではなく多くの動機を持っているので、心の理論はフィクションにとって大切である。不安を抱え、不適切な欲望を持つ他人は、キャラクターを通じて知ることができるかもしれないが、用心深く隠されたままかもしれない。読者は、「彼女が本当に望んでいるのは何か」とか「彼は正しい行いをしようと心がけているが、彼の本当の動機は復讐ではないのか」とか考えさせられる。フィクションは、読者がそのようなことを考えるだけでなく、最良の場合、それらを理解するようになる世界である。

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