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2011年6月30日 (木)

Berryz工房は海外で人気なのだ!

今日は一日中仕事で、「映画構造と感情システム」の続きをやるのがしんどいので、もっと楽しい話題を。明日暇になりそうなので、明日やります。

隠れハロプロファンとしては最近肩身が狭いですが、モー娘の全盛時代は良かったなあとYouTubeで昔のを眺めていたら、Berryz工房(ベリーズこうぼう)が韓国の空港で熱狂的な歓迎を受けているのを発見。タイでも公演をやったことがあるらしいけど、それらは1年以上前なので、今はどうなんだろうと芋づる式にあれこれ映像を見ていると、今年四月にアメリカのシアトルの日本フェスティバルみたいなのに出演しているのを発見。正式なものや、アメリカのオタクがコッソリ撮影したものなど、映像が氾濫していて、どれを紹介していいのやら。180センチ近くあるゴージャスな熊井友理奈ちゃん(まだ17歳)がセンターを務めるダイナミックな「シャイニング・パワー」を歌っているのを撮影禁止の客席からコッソリと撮影しているのものを見ると、アメリカのファンの合いの手は日本のファンと変わらない。YouTubeで研究するのだろうか。10曲ほど歌っているらしく、終わってからも興奮冷めやらぬファンたちが「ベリーズ最高!」と連呼している。ベリーズたちは、ちゃんと義捐金を集めて、閉会式では金額を発表している。私メお気に入りの「ライバル」も歌っているらしいけど、その映像は見当たらない。さらに調べていくと、最新アルバムがアメリカで正式に発売されていて、アメリカのアマゾンで発売されているのが愉快。ベリーズは初期に一人やめた以外はメンバーが不動なのがハロプロでは珍しいし(スマイレージでさえ新メンバーを入れるという)、年齢差があまりないので、とても仲が良いように見える。日本では、ベリーズ大好きのフットボールアワーの岩尾がまわりの芸人達からバカにされるネタにしかならないぐらいなのに。

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2011年6月29日 (水)

キートンの短編映画 (20): 「捨小舟」

キートンの短編19作目 "The Love Nest" はキートンが長編に進出する前の最後の短編。ちょうど半年でキートンの短編を全部見たことになります。今年後半は長編を楽しむ予定。

厳密に言うと、"The Love Nest" はキートンの最後の短編ではない。自分のプロダクションでの最後のサイレント短編だけど、トーキー以降、MGMでの長編時代を経て、1930年代中期から後期にかけてのエデュケーショナル時代、1939年から41年にかけてのコロンビア時代にもトーキーの短編にかなり出演しています。

1923年3月にアメリカで公開され、同年7月に長編1作目「キートンの恋愛三代記」が公開されます。1920年に「馬鹿息子 The Saphead」という長編に出ているけれど、彼のコントロールのもとに作られた作品ではないようなので、キートン作品としての長編1作目というと、やはり「恋愛三代記」になるのかな。「捨小舟」という邦題は、古風な感じなので、昔日本で公開されたときの邦題でしょう。1975年にキネ旬から発行された「世界の映画作家26:バスター・キートンと喜劇の黄金時代」にはプリントが残存していないと書いてあります。その後見つかったのか、今はDVDで見ることができます。

いつものようにエディ・クラインとの共同監督。バージニア・フォックスが出ているようですが、最初にキートンと別れる女性としてほんの少し出るだけです。短編では彼女が一番多く出ているのですが、キートンのあこがれの上流階級の女性として出ることが多いので、より少ないながら「マイホーム」や「船出」でキートンと一緒に悲惨な目にあうシビル・シーリーほど印象に残りません。

女性がキートンと別れるシーンはシルエットで抒情的に描かれており、人生に絶望したキートンがボートで目的なく大海に出るあたりまでドラマチック。その後、時間の経過を示すためにキートンの口のまわりにヒゲが生えているんだけど、あきらかにマジックで書いたような変なヒゲ。

海を漂流しているキートンを捕鯨船が拾ってやるのだけれど、そこの船長ジョー・ロバーツがとても残酷な野郎で、少しでも気に入らないことがあると部下をすぐに海に投げ込んで殺してしまう。キートンは、船長の給仕係という最も死に近い役職にされてしまうのですが、なんとか自分のドジをごまかして生きのびる。このあたり、ゆきあたりばったりの展開ではなく、設定がちゃんとしているし、細かいエピソードが計算されていて、長編への移行を視野に入れているような気がします。

船を船長もろとも沈めてしまったキートンは、なぜか大海に浮かんでいる大きな立て看板のようなものに乗っかって助かるのですが、なんとそれは海軍の大砲の標的。アイディアのスケールがでかいし、ニュース映画かなんかのフィルムを使っているにしても、視覚的に安っぽくなっていない。球が標的に当たりキートンが天国に昇っていく映像も面白い。だいたいが悪夢のようなキートン作品に、実は夢でしたというラストは蛇足だと何度か書いてきましたが、ここでのそれは悪くない。

私のキートン採点表(5つ星満点)

  1. 「マイホーム」 ★★★★★
    奇抜に作られた家が秀抜で、この中心がしっかりしているし、その前後も充実している。
  2. 「囚人13号」 ★★★★
    とりとめもないが、ブラックなジョークがシュール。
  3. 「スケアクロウ」 ★★★
    可愛いシーリーとの初々しい恋愛以外、普通に面白い。
  4. 「隣同志」 ★★★★
    両脇にアパートがあって、真ん中に塀があるという中庭が良い。
  5. 「化物屋敷」 ★★
    銀行の前半は接着剤のついた札束を使ったドタバタがくどいし、後半の化物屋敷のドタバタもありきたり。
  6. 「ハード・ラック」 ★★★
    私が年取ったからなのか、枠組がしっかりしたものに安心するようで、とりとめもないものが苦手になってます。
  7. 「ザ・ハイサイン」 ★★★
    キートンがアーバックルから独立して最初に作った短編。 キートンが気に入らなくてお蔵入りになっていたが、新作を撮影中に負傷したため、やむなく公開。
  8. 「強盗騒動」 ★★★★
    ノンストップのチェイスもの。
  9. 「一人百役」 ★★
    多重撮影で出演者がすべてキートンという着想は面白いが、中身が伴わない。
  10. 「船出」 ★★★★★
    私にとってのキートンの最高傑作短編。家族四人がボート遊びに出かけて散々な目にあう。
  11. 「白人酋長」 ★★★★
    お馬鹿な蝶々収集家が酋長に祭り上げられ、インディアン部族を利権争いから救い、部族の娘と結ばれる。
  12. 「警官騒動」 ★★★★★
    大量の警官に追いかけられるアナーキーなキートン。
  13. 「華麗なる一族」 ★★
    室内でのドタバタが中心。地味で貧乏臭い。
  14. 「鍛冶屋」 ★★★
    個々のエピソードは面白いが、それらの結果がひとかたまりになってキートンに襲いかかってくるというダイナミックさがない。
  15. 「北極無宿」 ★★★
    シュールな珍品。
  16. 「白日夢」 ★★★
    キートンが三つの職に就く全体の構成がきちんとしているし、各エピソードに含まれているギャグも面白いが、新鮮味を感じない。
  17. 「電気館」 ★★★
    電気仕掛けの家というお得意の題材なのに、ハチャメチャぶりが物足りなくて、家全体が散々な目にあう「マイホーム」のダイナミックさがない。
  18. 「空中結婚」 ★★★★
    つじつまの合わない夢のような展開が続き、おおらかな自然の中で、やっと互角にドタバタできる女性と出会う。
  19. 「捨小舟」 ★★★★
    良くできているけれど今ひとつ物足りないと思っていたら、最後にスケールのでかいギャグがあるので星一つオマケ。

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2011年6月28日 (火)

1978年7月に見た映画 (概観)

試験期間だったのか、6月の最終週は映画を見ていません。それで、早めに7月に見た映画を掲載します。第5週が8月に見た映画なのは、月曜日を基準にしていて、第5週の月曜が7月31日だからです。成人映画は有名な作品以外、隠しておこうかなとも考えましたが、誰に対して隠しだてするのかわからないし、今あらためて調べてみるのも悪くない。ホームビデオの発達以降の即物的なものよりも情緒があったような気がするし、扇情的な題名から想像されるほど興奮したこともないし。それに、これだけ映画を見ていると、映画なら何でも見たい人なんだなと思ってもらえて、スケベ心をカモフラージュできるかもしれない。

第1週

  • 7月03日(月) マイ・ラブ (大塚名画座) 3点
  • 7月03日(月) ジョアンナ (大塚名画座) 4点
  • 7月03日(月) 総長賭博 (新宿昭和館) 4点
  • 7月03日(月) 暴力街 (新宿昭和館) 1点
  • 7月03日(月) ごろつき (新宿昭和館) 3点
  • 7月09日(日) 緋牡丹博徒二代目襲名 (新宿昭和館) 2点
  • 7月09日(日) トラック野郎御意見無用 (新宿昭和館) 2点
  • 7月09日(日) 最も危険な遊戯 (新宿昭和館) 3点

第2週

  • 7月10日(月) 海底王キートン (池袋文芸坐) 4点
  • 7月10日(月) 恋愛三代記 (池袋文芸坐) 4点
  • 7月13日(木) 原子力戦争 (池袋文芸地下) 1点
  • 7月13日(木) 日本列島 (池袋文芸地下) 3点
  • 7月13日(木) モダンタイムス (池袋文芸坐) 3点
  • 7月13日(木) 海底王キートン (池袋文芸坐) 4点
  • 7月13日(木) 恋愛三代記 (池袋文芸坐) 5点
  • 7月13日(木) 底抜け艦隊 (東京12) 2点
  • 7月13日(木) 月夜の出来事 (東京12)?
  • 7月14日(金) 前衛映画特集 (新宿アートビレッジ)
    水の娘/狂熱/幕間/アネミックシネマ/秋の霧/貝殻と僧侶/エマクバキア/アッシャー家の末裔/ハーツ・オブ・エイジズ
  • 7月14日(金) シベールの日曜日 (東京12) 5点
  • 7月15日(土) ゼロの焦点 (東京12) 3点   

第3週

  • 7月18日(火) 西鶴一代女 (フィルムセンター) 5点
  • 7月21日(金) 百万長者と結婚する方法 (東京12) 3点
  • 7月22日(土) 要塞攻防戦 (TBS) 2点
  • 7月23日(日) 太陽は傷だらけ (TBS)  4点
  • 7月23日(日) 神々の深き欲望 (調布公民館) 3点
  • 7月23日(日) ゴルゴ13・九竜の首 (新宿昭和館) 1点
  • 7月23日(日) 三代目襲名 (新宿昭和館) 3点
  • 7月23日(日) 現代やくざ・与太者仁義 (新宿昭和館) 2点

第4週

  • 7月24日(月) 殺意 (TBS) 3点
  • 7月25日(火) ラスト・タイクーン (池袋テアトルダイヤ) 3点
  • 7月25日(火) さよならの微笑 (池袋テアトルダイヤ) 4点
  • 7月28日(金) ヒア&ゼア (三百人劇場) 3点
  • 7月28日(金) 勝手にしやがれ (三百人劇場) 5点
  • 7月29日(土) モンブランへの挽歌 (NHK) 3点
  • 7月30日(日) 日本性乱史 (烏山) 1点
  • 7月30日(日) 現代姦通秘聞 (烏山) 1点
  • 7月30日(日) 悶絶一夜妻 (烏山) 2点
  • 7月30日(日) 実録白川和子・裸の履歴書 (烏山) 2点

第5週

  • 8月4日(金) ラスト・ワルツ (日比谷みゆき座) 5点
  • 8月6日(日) ペルソナ (新宿名画座ミラノ) 4点
  • ??       あした晴れるか (?) 3点

以前の鑑賞記録はこちら

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2011年6月27日 (月)

映画構造と感情システム (31)

【より豊富な知識】

「ステラ・ダラス」が進行するにつれ、月明かりの散歩シーンで示された感情の合図の変形が使われる。映画が感情を喚起する力は、観客により豊かな感情の知識を与え、登場人物に限られた知識しか与えないことによって生じる。そのための重要な方法の一つは、行動の演出である。ステラと娘ローリーが台所で同方向を向いて調理をしているので、娘がモリソン夫人(スティーブンが再婚したがっている相手)のことを女神のようだったと興奮してしゃべるとき、ステラが嫉妬の表情を浮かべているのは観客にしかわからない。他の登場人物が見えない表情を観客に見せるために鏡もよく使われる。ステラがコールドクリームを塗っている間、ローリーはまだ夫人のことをしゃべっている。ソーダショップのシーンでの鏡の使用はとても凝っている。観客は、大きな壁の鏡によって、上流階級の若者たちがステラのことをクスクス笑っているのが見えるが、ステラはそれに気づかない。

この種の演出は、ある人物が重要な感情の情報を他人から故意に隠すことを強調するように行われる。「ステラ・ダラス」の登場人物は、相手を気づかって、自分の感情についてウソをつくが、演出によって観客は本当の表情を見ることができる。登場人物が同一方向を向いていると、互いに反応を隠そうとしている登場人物の表情を観客は見ることができる。上流階級の友人が母親を笑ったことを知ったローリーは、家に帰ろうと荷造りをし始める。この行動によって、不思議がっているステラから顔をそらすことができる一方、痛ましい犠牲を観客に示すことができる。

そのようなメロドラマ風の感情のシーンを演出するのに、「ステラ・ダラス」は演劇や映画でよく使用される一連のテクニックに頼る。たとえば、登場人物がときどき抱擁するが、それによって互いの表情を隠すことができるし、観客は彼らの表情を見ることができる。

この映画の演出は、登場人物が芝居をしていることを常に思い起こさせてくれ、彼らの演技が終わったあとで本当の気持ちがわかる特権的な「舞台裏」を観客に見せてくれる。娘のために、自分が母親として以外の楽しみをいつも求めている女性のふりをステラがするとき、ステラは部屋をかたずけ、枕をふくらませているが、自分の演技を本当のことだと信じているかどうか、ときどきローリーをコッソリ見る。ローリーが部屋を出るまでそれを続けるが、出たあとにステラは崩れ落ち、感情に関する努力を果たしたことを観客に見せる。

観客のみが表情を見ることができる最も精巧な例は寝台車のシーンで、寝台の上下に寝ているステラとローリーが、廊下で若い女性たちがステラの服装についておしゃべりをしているのを聞いてしまう。上に寝ているローリーは母親を見ることができず、母親がまだ起きていて、彼女たちの話を聞いたのではないかと心配する。映画が二人を交互にとらえるので、観客はローリーのパニックと痛ましくもステラが知ってしまうことを見ることができる。母親が寝ているかどうかローリーがうかがうと、ステラは寝たふりをして、話を聞いていないよう装う。ローリーが母親のベッドに入ってきて、横で目を閉じると、ステラは目を開けるので、観客は彼女の眼の中をうかがうことができる。

(この項続く)

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2011年6月26日 (日)

日曜はトリュフォーだ!はお休み

トリュフォーの「恋愛日記」のインタビューを読むはずだったのですが、本日は休みにします。とにかく暑いのが苦手。

庭のミニトマト

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2011年6月25日 (土)

土曜はRTだ!と言う元気もない。

暑いし、週明けに提出しなければならない仕事があるしで、今日はもう寝たい。

なんと、もうすぐギリアン・ウェルチ(ウェルシ?) Gillian Welsh の新作が出ます。ソロアルバムとしては2003年の Soul Journey 以来8年ぶり。タイトルは The Harrow and the Harvest。

Richard Thompson (RT) の Live at the BBC と The Folk City Broadcast が届きました。前者はCD3枚、DVD1枚、後者は1982年の生ギター弾き語りライブ Small Town Romance と同時期の同じようなアルバムですが、19曲入りで Small Town Romance と数曲しかダブっていないと思います。RTの承認なしで発売されたので、販売の差し止めを求めているとか。よって、後者は一人でこっそり聴くとして、前者は追々何か書いていくつもり。

一緒に Hazel Dickens and Alice Gerrard の Pioneering Women of Bluegrass というのを購入しました。前者が今年4月に76歳で亡くなったという記事を読んで関心をもったのでした。1960年代半ばから1970年代にかけて発表したアルバムの編集盤のようです。ジャケットに惹かれるものがあります

最近マリンバ好きなので、本日のウィークエンド・サンシャインでかかった加藤訓子(かとうくにこ)さんというマリンバなどのパーカッション奏者の曲を聴いて、さっそく注文しようと思ったのですが、少し迷っているうちに、HMVでは「在庫あり」から「一週間待て」に変わったのです。誰か番組を聴いた人が先に注文したのでしょう。上述のアルバムを聴かなきゃならないので、一週間後に届いてくれたほうがありがたい。3枚注文すると安くなるので、ギリアン・ウェルチの新作とサンディ・デニーのソロ・ファーストの2枚組デラックスエディションを注文しました。デニーのは昔売ってしまった英国盤LPをカセットに録音したものしかなかったので、昨年ボーナストラックが3曲ほどついたCDを買ったばかりでした。そしたら、1枚丸ごとボーナストラックのCDが付いた2枚組が最近発売されたのでした。

来週のウィークエンドサンシャインはアコーディオン特集。私がリクエストしたのは Morris On です。私にとってはフェアポートの3枚目「アンハーフブリッキング」と双璧をなすアルバムなので、かけてもらえなかったときのショックを考えると、来週が来なければいいのにと思ってしまう。

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2011年6月24日 (金)

フィルムノワール入門 (11)

アンドリュー・スパイサーの「フィルムノワール」を読んでいます。第1章「フィルムノワールの背景」の「アメリカ社会を反映する暗い鏡としてのフィルムノワール」という見出しに含まれている「戦後の再順応」(「再整理」より適切)、「マッカーシズム」「実存主義とフロイト主義」という小見出しのうち、今日は「戦後の再順応」。

その前に全体の説明。楽観的で肯定的はハリウッド映画の中に、なぜ暗くて、皮肉っぽくて、悲観的な映画が出現したかを説明するのに、映画歴史家は「暗い鏡」という比喩をよく使用する。フィルムノワールは戦後アメリカの暗い鏡であり、道徳の混乱を反映しているというように。道徳の混乱や社会不安は、いくつかの要素に関連している。アメリカの第二次大戦への参加と不干渉主義の終わり、マッカーシズムへと発展する「赤の脅威」への被害妄想、広島と長崎への原爆投下の影響である。マッカーシズムと原爆の恐怖が戦後のフィルムノワールで繰り返される恐怖と被害妄想を生じさせている。このように、歴史家は、1940年代後期のアメリカを、安定と繁栄の外見と疑惑と疎外感の内面との間にかなりの緊張がある不確かで不安な時期だと見る傾向がある。フィルムノワールは、統一的で集合的な戦争文化から断片的で方向の定まらない戦後社会への変化の結果だとする者もいる。心理学者の説明によると、フィルムノワールは、時代の暴力と調和した暴力的な逃避として働き、鬱積した感情を浄化する。観客は、戦争によって、この種の映画を見る心の準備ができていた。

【戦後の再順応】

フィルムノワールには新たな環境に順応できない元軍人がよく登場する。過酷な崩壊、危険、興奮を経験したために、平和な市民生活に適応するのが難しい。戦争の経験によって精神的障害を受け、予測不能な暴力、不安定な状態、目的のなさによって市民生活に適合できない元軍人の問題に関する報告は多い。彼らは戦前に就いていた平凡な仕事に失望することがよくある。このような帰還兵の問題はマスコミによって取り上げられ、大衆の意識に刻み込まれた。この問題を扱ったウィリアム・ワイラーの「我等の生涯の最良の年」は公開された1946年に最も人気のある作品となった。「影を追う男」(1945, Cornered) や "Ride the Pink Horse" (1947) といったフィルムノワールに登場する元軍人は広く関心を集める要因となったが、物語のパターンや視覚スタイルによってフィルムノワールはこの問題をより広範に探求することができた(第4章と第5章で論じる)。不適応の問題は終戦直後には重要な関心事であったが、1950年代になるとほとんど表面化しなくなった。

帰還兵の問題と複雑に絡み合っていたのは戦時中に変化した女性の役割である。女性を労働力として使用することによって、新たな社会的および経済的な独立の考え方が生まれ、男性が解雇される恐怖や不安を助長し、ファムファタールという女性像に集約された。だが、強固な意志を持ち、他人を操り、性的に積極的なフィルムノワールの女性の優越は、ハリウッド映画が女性を描く際のしきたりに対する挑戦でもあった。男女間の関係は家庭よりもナイトクラブで描かれることが多いし、家庭や家族生活は不在のことが多い。(男性の被害妄想と独立した女性の問題は、第5章で詳しく論じる。)

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2011年6月23日 (木)

映画構造と感情システム (30)

月明かりのシーンの場合、二人は自分自身に対して適切な感情をもつほどの物語情報を十分に持っていないので、一連の合図によって観客は二人に同情するよう仕向けられる。このシーンは、作品が観客の感情に訴えるために繰り返し使用するパターンを観客に気づかせる。作品は、しばしば登場人物には与えられない感情の情報を観客に与え、観客を「感情の全知者」にする。もし登場人物がその情報を知っていれば、彼らは特定の感情を持つだろうと観客は期待する。しかし、そうした情報は登場人物から隠されているので、すべての情報を知っている観客が登場人物に同情する余地ができる。登場人物が知らないために自分自身では持つことのできない感情を観客が持つ余地ができる。

たとえば、月明かりのシーンでステラは自分が変わりたいという願望を興奮してしゃべる。彼女のしゃべり方が性急で興奮気味なので、彼女はスティーブンの間接的な不賛成を聞き逃したか無視していると観客は思う。二人は腕を組んで前方を見ながら歩いているので、互いの表情を見ることが制限されている。一方、観客は両者の表情を解釈できる有利な位置にいる。ステラは、スティーブンが伝える重要な情報に注意を払っていないように見えるし、スティーブンの表情は、ステラが述べている気持ちを強く心配しているような兆候を見せない。両者は、このジャンルに詳しい観客なら一連の合図によって発見するであろう重要な対立に気づいていないように見える。

ステラの野心からすると、もし彼女がスティーブンの不賛成に気づいていたら、彼女は自分が変わりたいという気持ちをしゃべるのをやめるであろう。何が起こっているかを彼女がすべて知ったら、彼女は当惑するはずだと観客は思うだろう。もし彼女が知っていたらどう感じるのだろうかと観客が彼女に同情する機会が生まれる。この同情の瞬間は、作品が要求する支配的な気分を示している。ステラにとっての当惑と、階級に基づく差し迫った破局の期待である。

登場人物への同情は共感とは異なる。登場人物が銃を突きつけられた捕虜であれば、登場人物も観客も危険を理解しているので、観客は登場人物に共感することができる。もし登場人物が望遠レンズ付きライフル銃で遠くから狙われていたら、登場人物の代わりに恐怖を感じることができる。同情と共感の違いは物語上の情報による。登場人物との共感は、感情に関する状況について観客がほぼ同じ情報を持っているかどうかによる。もし観客が登場人物の知らない情報を持っていて、その登場人物がその情報を知った場合に何らかの感情を持つと予測される場合、観客がその登場人物に同情する可能性が生じる。共感の場合、登場人物は、どのように観客が反応すべきかを例示する。同情の場合、観客は、ほかの映画や社会活動などからの最小台本に基づいて適切な感情反応を自ら判断することができる。

観客は、登場人物に同情してほしいという作品の誘いを断ることができる。女性映画に対して観賞力がない観客は、そうする可能性が高い。だが、月明かりの散歩のシーンは、ステラに代わって当惑を感じるよう観客に促すために、物語上重要な合図による密度の濃い情報を観客に与えている。

このシーンにはセリフだけでなくアルフレッド・ニューマンの音楽もある。通常、気分を確立するのに音楽がよく使われるが、このシーン以前にはほとんど音楽が使われていない。クレジットタイトルでテーマ曲が流れ、ハリウッド映画が最初のシーンにスムーズに移行するための常套手段として、最初のシーンに入ってからも少し続く。しかし、スティーブンが通り過ぎるのを庭からステラが見ているシーンでも、ステラの家の中のシーンでも、スティーブンの職場のシーンでも音楽は流れない。

音楽がないことは、こうした労働者階級の背景が、厳しくて、温かみの少ないことを表現しているのかもしれない。これらの冒頭のシーンが不運な恋愛ものの枠内に容易に収まるからかもしれない。適切なジャンルの枠組みが明確になる前に音楽の合図を送ることによって、間違ったジャンルの仮定が強まってしまうからかもしれない。ステラが事務所でスティーブンを誘惑しようと試みるときに音楽が流れると、この映画は恋愛ものだという可能性が高まるだろう。これらのシーンで音楽を控えることで、「ステラ・ダラス」を理解するためにはどの台本が適切なんだろうかという問いを未解決なままにすることができる。

映画館のシーンで音楽が再び流れる。二人が見ているサイレント映画のピアノ伴奏によって、観客は、多くの映画が観客に感情を理解させる合図を送るために音楽を使用していることを思い出す。映画館から出て月明かりの中を散歩するシーンで、やっと虚構の世界の外からの音楽が流れる。最初はフルートで、続いて弦楽器の伴奏が流れる。ハリウッド映画の慣行に詳しい観客であれば、月明かりの散歩には豪華な弦楽器を期待するだろうが、この音楽には、この種の作品に特有のものということ以上の働きがある。これ以前の比較的静かなシーンと比べると、音楽と会話による合図の密度によって、このシーンが提供する情報が前面に押し出される。

「ステラ・ダラス」のロマンティックなテーマ曲は特定のジャンルの情報を観客に与えない。恋愛ものなのか母ものメロドラマなのか観客が区別できるだけの音楽的な含みがない。しかし、虚構の世界の外からの音楽の存在は、それ以前のシーンに不在だったことから比べると、物語的にも感情的にも、このシーンが比較的重要だということを示している。物語上の対立と感情への訴えが明確に導入されるまで音楽を差し控えることは、観客が間違った方向に進むことを防ぐ手助けとなる。

「ステラ・ダラス」の音楽の使い方はかなり古典的で、登場人物、場所、大まかな感情の方向に関連したライトモチーフを使用している。最初に感情の方向の合図を送るとき、音楽が情調と連想的に関連づけられる。そうすることで、映画は気分を高めるための強力な道具を獲得する。テーマを繰返すことで、月明かりのシーンがていねいに作り上げた情調が呼び起こされ(ステラが当惑を感じることや関係の対立が生じる不安)、最初の気分を新たにする。

メインテーマは繰り返しによって主人公と結びつけられ、特定の物語機能を得る。メインテーマは非常に強くステラと関連づけられるため、ある登場人物がステラのことを考えているのを示すのにメインテーマの短い断片を流すだけでよい。繰り返しによる連想力を通じて、ライトモチーフやテーマは気分の喚起や再喚起を行うのに貴重な道具であるが、ロマンチックな音楽の漠然とした文化的な含みだけに頼っているわけではない。明確なメインテーマは、物語や感情のほかの合図との連携を通じて独自性を獲得し、より明確に感情を喚起する訴えを行うことができる。

(「気分の確立」の項終わり。次回は「より豊富な知識」)

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2011年6月22日 (水)

キートンの短編映画 (19): 「キートンの空中結婚」

昨日から蒸し暑くなって、節電の折申し訳ないけど、暑がりで汗っかきの私としてはエアコンを入れないと仕事にならない。

短編18作目「キートンの空中結婚」(The Balloonatic) は1923年1月にアメリカで公開。いつもどおり監督と脚本はキートンとエディ・クラインで、撮影はエルジン・レスリー。相手役はフィリス・ヘイバーという少しポッチャリした女優さんで、シビル・シーリーやバージニア・フォックスと違ってキートンと互角にドタバタするのが新鮮。フィリス・ヘイバーは昨年アメリカで "Chicago" という1927年のサイレント映画がDVDで出て、ちょっと気になっているのですが、それに主演しているぐらいだから、ほとんどキートン作品にしか出ていないシーリーやフォックスよりもちゃんとした女優さんでしょう。

音なしですが、こちらで全部見ることができるようです

「北極無宿」だったか、夢を見ていたなんて設定は不必要だと思ったのですが、ここでは夢のようにあれよあれよと展開するのに夢を見ているという設定がなくて、これでいいのだ。おなじみキートンの帽子のアップから、キートンが顔を上げて、マッチの火で照らされるキートンの顔のアップになる最初のショットはカッコつけてる感じで、珍しい。そんな事を思う間もなく、素晴らしく速いテンポでビックリハウスの骸骨、煙、龍の大きな頭にキートンが仰天し、床がパッと開いて、キートンが落ちて、滑り台から路上に落ちる。キートンだから上手にお尻から落ちることができるわけで、普通の人がこんな目に会ったら腰のあたりが骨折するに違いない。しかも、普通に人が歩いているところに落ちるという歩行者にとっても危険なアトラクション。

太めの女性がチケットを買ってビックリハウスに入るので、彼女が滑り台を落ちて来るのを見ようと、キートンが待っていますが、きれいな女性にウットリして滑り台の真下でボーとしているところに太めの女性が落ちてくる。太めの女性はスタントらしく、ゆっくり見ると、キートンの頭にぶつかるあたりで、うまくキートンが頭をしゃがめて、まともにぶつからないようにしているように見えます。お尻から落ちるところにはクッションか何か敷いているのでしょうか。いくら上手に落ちたとしていも、お尻が痛くてしょうがないと思うのですが。その女性がもうコリゴリという感じで立ち去るのではなく、面白かったらしく、またチケットを買って中に入るのが愉快。

遊園地には「愛のトンネル」というアトラクションもあって、暗い洞窟の中を男女がボートに乗ってイチャイチャするおなじみのものですが、キートンは見知らぬ女性の横に座り、トンネルから出てきたときには目にアザを作り、帽子や服装もメチャクチャ。隣の女性はプンプンしています。

どこかの空き地で気球に乗ろうとしている人がいて、キートンはペナントを張るために気球に登らされ、その間に気球が浮いてしまいます。本当の操縦士は地上においてけぼりで、キートンだけが気球に残る。キートンが食事のために鳥を鉄砲で撃つと気球が割れて、森に落ちる。

そこにはフィリス・ヘイバー演じるキャンプ大好き女がいて、釣りをしたり、泳いだりと、一人で自然を満喫しています。彼女の天真爛漫ぶりが見てて楽しい。落っこちたキートンは、なぜかカヌーや釣り道具を持っていて、キートンも一人で自然を満喫します。ときどき二人は出会うのですが、どうも彼女は遊園地でキートンの目にアザを作った女性のようで、キートンを見るごとにウンザリした顔をします。

ところがキートンが偶然にもクマを退治するので、それを見た彼女がウットリ。二人でカヌーに寝そべっていると、彼らの先に滝があるのだけど、カヌーは落ちることなく、気球に吊られて空中をフワフワ遊泳。キートンがやっとお似合いの女性を見つけたハッピーエンドが短編では珍しい。後半の川の水たっぷりの自然が気持ちいい。

私のキートン採点表(5つ星満点)

  1. 「マイホーム」 ★★★★★
    奇抜に作られた家が秀抜で、この中心がしっかりしているし、その前後も充実している。
  2. 「囚人13号」 ★★★★
    とりとめもないが、ブラックなジョークがシュール。
  3. 「スケアクロウ」 ★★★
    可愛いシーリーとの初々しい恋愛以外、普通に面白い。
  4. 「隣同志」 ★★★★
    両脇にアパートがあって、真ん中に塀があるという中庭が良い。
  5. 「化物屋敷」 ★★
    銀行の前半は接着剤のついた札束を使ったドタバタがくどいし、後半の化物屋敷のドタバタもありきたり。
  6. 「ハード・ラック」 ★★★
    私が年取ったからなのか、枠組がしっかりしたものに安心するようで、とりとめもないものが苦手になってます。
  7. 「ザ・ハイサイン」 ★★★
    キートンがアーバックルから独立して最初に作った短編。 キートンが気に入らなくてお蔵入りになっていたが、新作を撮影中に負傷したため、やむなく公開。
  8. 「強盗騒動」 ★★★★
    ノンストップのチェイスもの。
  9. 「一人百役」 ★★
    多重撮影で出演者がすべてキートンという着想は面白いが、中身が伴わない。
  10. 「船出」 ★★★★★
    私にとってのキートンの最高傑作短編。家族四人がボート遊びに出かけて散々な目にあう。
  11. 「白人酋長」 ★★★★
    お馬鹿な蝶々収集家が酋長に祭り上げられ、インディアン部族を利権争いから救い、部族の娘と結ばれる。
  12. 「警官騒動」 ★★★★★
    大量の警官に追いかけられるアナーキーなキートン。
  13. 「華麗なる一族」 ★★
    室内でのドタバタが中心。地味で貧乏臭い。
  14. 「鍛冶屋」 ★★★
    個々のエピソードは面白いが、それらの結果がひとかたまりになってキートンに襲いかかってくるというダイナミックさがない。
  15. 「北極無宿」 ★★★
    シュールな珍品。
  16. 「白日夢」 ★★★
    キートンが三つの職に就く全体の構成がきちんとしているし、各エピソードに含まれているギャグも面白いが、新鮮味を感じない。
  17. 「電気館」 ★★★
    電気仕掛けの家というお得意の題材なのに、ハチャメチャぶりが物足りなくて、家全体が散々な目にあう「マイホーム」のダイナミックさがない。
  18. 「空中結婚」 ★★★★
    つじつまの合わない夢のような展開が続き、おおらかな自然の中で、やっと互角にドタバタできる女性と出会う。

この前、スーパーのハローズ東尾道店の前の川上ベーカリーに行ったら、クリームパンやアンパンが60円少々でビックリ。味はともかく、安さと親しみやすさで勝負。本日は、尾道の高須町にある「るりのパン」に行きました。国道二号線から少し奥のところにあって、前から気になっていたパン屋さんですが、今日前を通りかかったら二号線沿いに移動していました。で、スッと入ることができて、一個150円ぐらいのを三種類購入。下の写真はそのうちの一つ。

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2011年6月21日 (火)

1978年6月第3週に見た映画

6月21日(水) 白夜 (池袋文芸坐) 3点
6月21日(水) 少女ムシェット (池袋文芸坐) 4点
6月22日(木) わが心のふるさと (早稲田松竹) 5点
6月22日(木) ネットワーク (早稲田松竹) 3点
6月25日(日) ボクサー (新宿昭和館) 5点
6月25日(日) 銀蝶渡り鳥 (新宿昭和館) 3点
6月25日(日) ジャコ万と鉄 (新宿昭和館) 4点

フランス映画二本立てを見て、アメリカ映画二本立てを見て、日本映画三本立てを見た一週間。

まずはロベール・ブレッソン二本立て。「少女ムシェット」は、これが二度目。1967年の白黒映画で、このあと1969年にドストエフスキー原作、ドミニク・サンダ主演の初カラー作品「やさしい女」を作り、その次の1971年の「白夜」もカラー作品。これもドストエフスキー原作で、同じ原作を1957年にビスコンティがマストロヤンニ、マリア・シェル主演で作っています(ビスコンティのは1986年に劇場で見ています)。「少女ムシェット」も「白夜」も日本での劇場公開はフランスでの公開から数年後です。前者は1974年9月から10月、後者は1978年2月から4月にかけて岩波ホールで公開されました。ということは、このときの「白夜」の名画座での上映は、ロードショー公開が終了してから、さほど経過していない時期での上映だったようです。撮影のピエール・ロムとしてはメルビルの「影の軍隊」に次ぐ作品。省略しすぎるブレッソンの作品を最初に見たときから素晴らしいと思ったのは「抵抗」「スリ」「ラルジャン」ぐらいで、たいていは何度か見ないとよくわからないです。「白夜」は1980年1月にドライエルの「奇跡」と一緒に三百人劇場で見たときに満点あげています。食べ物の好み同様、年をとるとアッサリしたものが好きになって、DVDで持っている「バルタザールどこへ行く」(1966)や「少女ムシェット」を今見ると、実に味わい深いです。「白夜」は1978年のキネ旬8位。

「わが心のふるさと」(1976)は「ウディ・ガスリーわが心のふるさと」というのがちゃんとした邦題で、ディランに影響を与えた放浪のフォークシンガーの半生を描いた劇映画。原題の "Bound for Glory" はガスリーの自伝の題名で、それが原作になっているようです。ガスリーを演じるのは、テレビシリーズ「燃えよ!カンフー」で人気のあったデビッド・キャラダイン。ジョン・キャラダインの息子で、キース・キャラダインの兄。サミュエル・フラーの「最前線物語」(1980)に出ているロバート・キャラダインの兄でもあります。キースとロバートは同じ母親から生まれていますが、デビッドの母親は違うらしい。放浪の旅に出かけるガスリーを寂しげに見つめる奥さんはメリンダ・ディロンで、翌年「未知との遭遇」に出演。砂ぼこりでかすんだような映像はハスケル・ウェクスラーで、1976年のアカデミー撮影賞を獲得。音楽のレナード・ローゼンマンも獲得。作品賞にもノミネートされましたが「ロッキー」にノックアウトされました。1977年のキネ旬9位。

同じく「ロッキー」にノックアウトされたのが「ネットワーク」。でも、主演男優賞(ピーター・フィンチ)、主演女優賞(フェイ・ダナウェイ)、助演女優賞(ベアトリス・ストレイト)、脚本賞(パティ・チャイエフスキー)はしっかり獲得。監督のシドニー・ルメットは「ロッキー」のジョン・G・アビルドセンにやられる。1977年のキネ旬でも倍以上の得票差で「ロッキー」に敗れ二位。テレビのニュースショーの視聴率競争をめぐっての人間関係を描く作品だったと思います。脚本家のパディ・チャイエフスキーは、前作「ホスピタル」(1971)のときに、監督(アーサー・ヒラー)よりもネームバリューがあるので「パディ・チャイエフスキーの「ホスピタル」」と呼ばれているとどこかで読んだことがあって、なんかすごい脚本家みたいだなあと思ったことがあります。もともとは「マーティ」などのテレビドラマで名声を築いた人で、「マーティ」の映画版と「ホスピタル」に続いて「ネットワーク」で三度目のアカデミー賞を獲得したのでした。下品な話で申し訳ないですが、ダナウェイの騎乗位が話題になったぐらいだから、私が辟易して低得点しかあげていないのもむべなるかな。

新宿昭和館に本格デビュー。本格というのは東京に出たてのころに「新幹線大爆破」をここで見たことがあるから。紀伊國屋や伊勢丹が並ぶ東口の中心通りの丸井の裏にディスクユニオンがあって、フェアポートなどのLPをよく買っていましたが、さらにその裏のほうに昭和館がありました。成人映画の昭和館地下というのもありましたが、そっちは入ったことがないです(たぶん)。

東映のヤクザ映画専門で、1977年キネ旬8位の寺山修司の「ボクサー」も東映映画なのでした。脚本石森史郎、岸田理生、寺山、撮影鈴木達夫、音楽JAシーザー、出演菅原文太、清水健太郎。みんなが集まる食堂が涙橋食堂というように、「あしたのジョー」へのオマージュらしく、文太が丹下段平、健太郎が矢吹丈に相当するらしい。そこの食堂でドンチャン騒ぎがあって、寺山修司らしい悪趣味な色づかいで、私は楽しめたけど、一緒に見に行った友人はそれが気に入らなかったようです。私のこの年の邦画3位

「銀蝶渡り鳥」こそ昭和館らしい。なにしろ休憩の間には演歌が流れる映画館だったのだから。主題歌はこちら。梶芽衣子さんは今どうしておられるのだろう。キネ旬の「日本映画俳優全集・女優編」(1980)によると、彼女の東映出演第一作。その前に日活の「野良猫ロック」シリーズなどで活躍していたけれど、日活がポルノ路線になったので、ポスト藤純子として東映が彼女に白羽の矢を立てたらしい。そんなこと今初めて知りました。gooによると、監督山口和彦、脚本山口と松本功、撮影仲沢半次郎、音楽津島利章。共演渡瀬恒彦、小山明子で、田中春男、由利徹、梅宮辰夫、五木ひろし、フラワー・メグも出たらしい。五木ひろしは前年に「よこはま・たそがれ」をヒットさせていて、この作品では「かもめ町みなと町」を歌っているようです。フラワー・メグって誰やねん。

「ジャコ万と鉄」は、谷口千吉が監督し、月形龍之介と三船敏郎が主演した1949年の東宝映画ではなく、東映による1964年の再映画化。ジャコ万が丹波哲郎で、鉄が高倉健。健さんが漁師たちとドンチャン騒ぎをしているときに変な踊りをするのを見て、なんか無理してるなあと思ったことを記憶しています。監督深作欣二、脚本は前作と同じのを使用したらしく黒澤明と谷口、撮影坪井誠、音楽佐藤勝。白黒。

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2011年6月20日 (月)

映画構造と感情システム (29)

いよいよ具体的な映画を使っての事例研究。第5章は "Couldn't You Read between Those Pitiful Lines?" という題名で、おとついDVDで「ステラ・ダラス」を再見したら、このセリフが出てきました。「手紙の行間から彼女の悲しみがわからないの?」というような意味。ステラはダメな母親だけど、適齢期の娘は母親を愛しているので、ステラから離れようとしない。ステラは娘に幸せになってもらいたいので、わざと娘が自分を嫌いになるような手紙を書く。ステラの気持ちを理解している人物がこの手紙を読み、彼女の真意をくみとって言うのが上記のセリフ。

「ステラ・ダラス」は1937年の作品で、制作サミュエル・ゴールドウィン、監督キング・ビター、主演バーバラ・スタンウィック。貧しい労働者の家に育ったステラは上流階級のスティーブンと結婚し、娘ローリーをもうけるが、スティーブンがニューヨークに栄転したので、別居状態。娘はステラが育てるが、スティーブンからの仕送りが多かったからか、上流階級向きの上品な女性に育つ。スティーブンは金持ちの未亡人と仲良くなったので、ステラに離婚を申し出るが、嫉妬心からステラは拒否する。上流階級の避暑地にステラとローリーは出かけるが、ステラの悪趣味の服装が皆から笑いものとなり、恋仲になったローリーと青年の関係が危うくなる。それを知ったステラは、未亡人と会って、離婚するからスティーブンと二人で娘を幸せにしてほしいと頼む。さらに、ローリーが自分から離れようとしないので、だらしないアル中の遊び仲間の男性と結婚するつもりだと娘に偽って、娘を遠ざける。娘が立派な結婚式を挙げているのを遠くから眺めたステラは、幸せそうな顔でどこへともなく去っていく。

第5章は4つの見出しから成っています。「気分の確立」「より豊富な知識」「虚構世界の詳細」「音楽」です。まずは「気分の確立」。

ここで使っている「気分 mood」は、長時間持続する気持ちで、「怒りたい気分」とか「泣きたい気分」というように、何らかの感情が起こりそうな傾向を示す状態のことです。

最初の場面はステラの家の庭が舞台で、ステラが主人公であることを示し、仕事から戻って来た兄チャーリーとケンカするのを見せる。兄妹がケンカしている場合、観客は二つの最小台本を想定する。本当に仲が悪いのか、仲がいいからケンカするのか。

スティーブンの悲しい過去と孤独な現在が新聞の切り抜きによって示される。ステラがスティーブンに夢中だということや彼女が階級の点で劣等感を持っていることが会話で示される。

ステラは、兄の弁当を持っていくことを口実に会社でスティーブンに会おうとする。惣菜屋で買った弁当だが、自分で作ったことにする。ステラは、スティーブンを誘惑するために、このような罪のないウソがつける女性だが、彼女がお金目当てだと観客が誤解しないように映画は用心している。カメラは彼女が純粋にスティーブンを好きだということを細かく見せる。たとえば、スティーブンが見ていない場合でも、彼女が彼に魅せられていることを示す。スティーブンが背を向けているとき、ステラの目は彼の体を上から下まで眺める。彼が部屋を少し離れたとき、彼女は彼の服をなでる。

このように、映画はステラの性格に関する情報を伝えるだけでなく、映画全体を特徴づける物語パターンを示す。観客は、他の登場人物が見ることのできない顔を見ることができる。それらの顔は他の登場人物から表情を隠そうとするものではないので、観客は率直な表現を普通に解釈することによって彼らの本当の気持ちを読み取ることができ、他の登場人物には知ることのできない感情の情報を得る。

初めの一連のシーンでは、カメラの配置、衣装、会話、照明、舞台装置、演技を通じて、登場人物間の階級関係、家族関係、恋愛関係を観客に見せ、その後の展開のための設定を行う。これらのシーンでは、ステラがスティーブンに魅せられていることだけでなく、ステラが魅力的な女性だということも描いている。その後ステラが着用する数々の悪趣味な服を見たあとでは、スティーブンとのランチの場面でステラが普通にきれいなことは忘れがちになるが。絹のドレスと帽子や背後からの照明は、彼女の美しさを示すための伝統的なハリウッドの合図である。スティーブンの上司は彼女がきれいだと言うし、スティーブンも同意する。初めの一連のシーンは、ステラを魅力的で、野心的で、印象的な女性として設定することが主眼である。

ステラの願望が叶う。スティーブンと映画に行って、月明かりの中を腕を組んで歩く。ここまで物語は人物の性格に焦点を当てており、どの気分が適切かを示す感情の合図をあまり送っていない。ただ、感情の合図を送るのは映画自体だけではない。観客は、宣伝、予告編、原作小説、ヘンリー・キングによる1925年の最初の映画化からも受け取っているかもしれない。少なくとも、観客は、基本的なジャンルの知識によって、これが女性映画であり、そのジャンルに関連した物語と感情の台本を期待しているはずである。

だが、どんな女性映画なんだろう。最初にこのカップルが一緒にいるところを見ても、どのようにジャンル分けしていいのか明確ではない。階級の差を前面に出すことは、恋愛ものの特徴でもあるし、母ものメロドラマの特徴でもある。「ステラ・ダラス」は母ものメロドラマの典型だと広く考えられているので、これは恋愛ものではないということを観客に示す具体的な感情の合図が初めの一連のシーンにないことに気づきにくい。(母ものメロドラマと恋愛ものの違いは Mary Ann Doane の "The Desire to Desire: The Woman's Film of the 1940's (Indiana University Press, 1987) 参照)。

映画は、母ものメロドラマに関連した情調が適切だということを示して、虚構世界に対する感情の方向性を確立しなければならない。たとえステラがまだ母親になっていなくても。月明かりでの散歩のシーンには、カップルの間に生じるであろう緊張の源泉を暗示するジャンルの合図が密集している。それら合図のほとんどは、階級間の移動に関する両者の考え方の違いを示す会話である。ステラは教養があって洗練された人物になりたがっているが、スティーブンは本来の自分ではないように振舞うことは上品なことではないと言うことで見せかけの階級移動に対し嫌悪を示す。このシーンは、スティーブンの態度とステラの野心の間の緊張を明確に確立している。

このシーンに至るまで、誰が物語に緊張を与えるのかに関して強い合図はない。恋愛ものでよくあるように、階級を超えたカップルに対して両者の家族が反対するのだろうか。このシーンでは、カップル以外の者ではなくスティーブンによって見せかけの階級移動に対する軽蔑が示され、観客はカップル間の緊張を予想する。同様の映画を見た経験に基づいて、より公然と敵対する形でこの対立が表面化することを期待する。観客は、メロドラマに関連した恋愛カップル間の階級緊張の最小台本を適用し始める。

この対立の種は以前から示されていたが、このシーンをきわめて重要なものにしているのは、緊張を前面に押し出す合図の集中である。ステラの工員に対する軽蔑など、短いヒントは以前のシーンにもあったが、物語、ジャンル、感情に関する全体のパターンがまだ明確でないときに断片的に示されるだけだった。女性映画に精通している観客であれば、断片的なヒントから適切な台本を選ぶことができるかもしれないが、ハリウッド映画の大衆に対する魅力は、より密度の高い合図のパターンに依存している。月明かりの散歩シーンは、物語上重要なセリフを連続的に示すことによって、今後の物語と感情を理解するために重要な情報であることを観客に気づかせようとしている。重要なセリフを集中させることで、観客が適切な注意を向けることを確実にしている。このシーンは、観客が最初の感情の方向性を持つための基盤となっている。

(「気分の確立」続く)

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2011年6月19日 (日)

日曜はトリュフォーだ!:「トリュフォーの思春期」

アイリッシュ原作でロバート・シオドマクが監督した「幻の女」は昨年日本でDVDが出たのですね。見たい作品だったので早速注文しました。

「トリュフォーの思春期」(1976)は1977年の1月に日比谷のみゆき座に見に行きました。思春期前の子供たちのエピソード集で、全体的に可愛いらしくて愉快なんですが、親から虐待を受けている少年の比重がけっこう高くて、心地良い作品を期待していた私の甘さにクギを刺してくれました。少年の虐待が発覚したあと先生が子供たちに演説するときの真剣さは、「夜霧の恋人たち」のストーカー男のように映画全体のバランスを崩しそうになります。

昨日久しぶりにDVDを見たら、その虐待を受けた少年が可哀そうでしょうがなくなり、涙さえ出てくるほどでした。昔見たときはお荷物に思えた部分が、今ではこの映画の中心のように思えてきました。そういえば、「夜霧の恋人たち」のストーカー男も、強迫観念を持った70年代のトリュフォー作品の主人公たちの先駆的存在として私の中で重要度が高まっています。

「トリュフォーの映画術」(水声社、2006)の第23章「トリュフォーの思春期」のインタビューを読みましたが、特に書くことはないです。インタビューは面白いんだけど、特にここで補足することがないということ。

というわけで、トリュフォーの伝記「フランソワ・トリュフォー」(原書房、2006年3月)を読んでみます。著者はアントワーヌ・ド・ベックとセルジュ・トゥビアナ、訳者は稲松三千野。上記の教師による演説が掲載されています。

「先生がみんなに言いたかったのは、幼い頃のいやな思い出があって、大人の子供への接し方が好きじゃないから、今の仕事を、小学校の先生になることを選んだということだ。人生はたやすいものではなく、厳しいものだ。だからみんなはそれに立ち向かえるよう強くなることを学ぶのが大切なんだ。いいかい、厳しくなれ、ではなく、強くなれと言っているんだよ。不思議なバランスのようなものがあって、子供の頃苦労した人は、守られた人やとても愛された人よりも、大人になってからの人生に立ち向かえるよう鍛えられていることが多い。一種の埋め合わせの法則だ。みんなはいずれ子供を持つだろうけど、子供を愛し、子供に愛されるようになってほしい。本当のことを言えば、きみたちが子供を愛するなら、子供にも愛されるようになる。きみたちが愛されなければ、子供は自分の愛情や優しさを、他の人やものに注ぐようになる。人生は、愛し、愛されることなしではいられないようにできているんだ。」

主要な子供15人は地元の子供たちではなく、パリでオーディションを行って選んだ子供たちです。体の不自由な父親と暮らすパトリックを演じるジョルジュ・デムーソーはクロード・ド・ジブレーの息子です。虐待されている子供ジュリアンを演じるフィリップ・ゴールドマンは哲学者リュシアン・ゴールドマンの息子です。トリュフォーの娘二人も出演していて、エバはナンパされて映画を見に行く二人連れのうちの一人。ローラは映画館のニュースに出てくる口笛赤ちゃんの母親役。

クロード・ド・ジブレーはカイエ・デュ・シネマ誌以来のトリュフォーの友人。監督1作目「のらくら兵」(1960)はトリュフォーがプロデュース。2作目「頭でっかち」(1962)はトリュフォーと共同脚本。トリュフォーの「夜霧の恋人たち」と「家庭」の脚本に参加。

撮影場所はピュイ・ド・ドーム県のティエール市。撮影は1975年7月中旬から2ヵ月間。すなわちバカンス時期。地元の人々や子供たちがエキストラとして出演。1976年3月中旬にパリの10館で上映されて大ヒットし、その後ティエール市で上映されると人口1万7千人のうち半分近くが鑑賞しました。アメリカ、ドイツ、スカンジナビア、日本でもヒット。

このあと、子供の心を持っている人が必要だというスピルバーグの要望によって「未知との遭遇」に科学者役で出演することになります。

出演者で補足させてもらうと、虐待された子供の祖母と母親として、警察に連行されるシーンに少しだけ登場するのは、ジャンヌ・ロブルとクリスチーヌ・プレ。白髪の魔女のようなジャンヌ・ロブルは「恋のエチュード」で主人公クロードのアパートの管理人として、また「緑色の部屋」の家政婦として出演しています。前者は思い出せないし、今あらためてDVDをチェックする気にはならないのですが、後者はトリュフォー演じる主人公と聾唖の少年につきそう印象的な役でした。クリスチーヌ・プレは「夜霧の恋人たち」の探偵社の秘書役で、短髪でメガネの細身の女性。、「野性の少年」でシュザンヌ・シフマンが助監督に昇格して以降、トリュフォーの遺作「日曜日が待ち遠しい!」までずっとスクリプトガールを務めたようです。

Carole Le Berre の "Francois Truffaut at Work" の英語版から。

Smallchange

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2011年6月18日 (土)

土曜はRTだ!: コステロのTV番組「スペクタクル」

エルビス・コステロ司会によるテレビシリーズ「スペクタクル」シーズン2のDVDが届きました。もともと4月末発売予定だったものが、やっと発売されたのです。ボノ、シェリル・クロウ、ライル・ラベット、ブルース・スプリングスティーンなどが出演する7回分が収録されています。私が見たかったのは第3回目で、ゲストはリチャード・トンプソン(RT)、アラン・トゥーサン、ニック・ロウ、リボン・ヘルム。みんなでザ・バンドの「ザ・ウェイト」を歌っているのをYouTubeで見て、この番組の存在を知ったのでした。よって、まだ第3回目しか見ていません。

2009年9月24日にニューヨークのアポロシアターで収録されたもの。バックのインポスターズにはアトラクションズのドラマー、ピート・トーマスやキーボード奏者スティーブ・ナイーブがいます。フィドルやスライドギターを弾いているのはラリー・キャンベルという長髪の人。

まずザ・バンドの「ラグ・ママ・ラグ」のリフをバックに、コステロが張り切ってゲストを紹介。最前列に座っているゲストたちは自分が紹介されるのをニコニコしながら聴いています。

一番目に舞台上に呼ばれたのがリチャード・トンプソン。数分間コステロとおしゃべりしたあと "Shoot Out the Lights" をコステロ&インポスターズをバックに演奏。字幕がないので何をしゃべっているのかわからないのですが、チャーリー・クリスチャン、ジャンゴ・ラインハルト、スコッティ・ムーア、ジェームズ・バートンといったギタリストの名前がRTの口から聞こえてくるので、影響を受けたギタリストを羅列しているのかもしれません。それから、RTの作る曲が暗いということにも触れているようです。コステロはずっと前にRTの "Withered and Died" や "The End of the Rainbow" という暗い曲をシングルのB面でカバーしたことがあります。その後 Goodbye Cruel World や King of America にボーナストラックとして収められたようですが、これらのアルバムが現在でも発売されているかどうかは知りません。

次に登場したのがアラン・トゥーサン。バラカンさんが本当は「トゥーサント」と発音するのだと言ってたような気がしますが、私のポンコツ耳で聞く限りでは微妙で、あえてトをつけなくてもいいような気がします。ちなみに、バラカンさんによるとモンキーは本当はマンキで、「猿はマンキ お金はマニ」という本を書いているぐらいですが、そうすると私が最初に好きになったモンキーズはマンキズになってしまい、どのグループのことを指すのかわからなくなってしまう。話が脱線しましたが、トゥーサンはニューオリンズ・スタイルのピアノのフレーズを軽く弾きつつ、数分間コステロと会話を交わたあと、"Holy Cow" という曲を歌います。これはトゥーサンの曲で、リー・ドーシーがヒットさせたようです。ビルボードのチャート本で調べたら、1966年12月に全米23位まで上昇しています。

続いて登場したのがニック・ロウ。昔自分が好きだったころは髪がボサボサで、たいした服装もしていなかったのですが、すっきりした短髪、小ざっぱりした服装で、メガネをかけていて、ケイリー・グラントみたいな素敵なオジ様になっています。コステロとは昔からの仲間ですが、ジョニー・キャッシュのことをしゃべっているようです。ニック・ロウの昔の奥さんカーリン・カーターは、ジョニー・キャッシュと再婚したジューン・カーターの連れ子だから、キャッシュの義理の息子だった時代もあったのでしょうね。ロウは生ギター一本で "The Beast in Me" という曲を歌います。The Impossible Bird という1994年のアルバムに入っていた曲のようです。でも、なんであんなしわがれ声になったのだろう。自分が好きだったころとは全然違う。80年代半ばにアルコール中毒になったことがあるらしいので、その影響なのだろうか。80年代初めの4枚目ぐらいまではアルバムを買っていましたが、ビートルズやフィル・スペクターっぽいポップな感じからカントリーっぽい感じになったので聴かなくなったのでした。

リボン・ヘルムは喉頭ガンの後遺症で声が出ないらしく、彼単独のコーナーはありません。

ここから全員がステージに上がっての演奏。まずはグレイトフル・デッドの "Tennessee Jed"。リードボーカルはコステロ。グレイトフル・デッドは詳しくないのですが、Europe '72 というライブ盤で最初に紹介された曲のようですね。作ったのはジェリー・ガルシアとロバート・ハンター。どういう因縁で、ここでこの曲を演奏しているのでしょう。ヘルムの2009年のアルバム Electric Dirt で1曲目に取り上げているようです。このアルバムにはトゥーサンもアレンジャーとして参加しています。このアルバムが発売されたときにレターマン・ショーで歌っているのをYouTubeで見ることができます。ここでもラリー・キャンベルがスライドギターを弾いています。

続いてトゥーサンのボーカルで "A Certain Girl" という曲。ナオミ・ネビルという人の曲で、ネビル・ブラザーズの一員かと思いきや、アラン・トゥーサンの母親の名前で、トゥーサンのペンネーム。アーニー・ケイ・ドゥが歌っているのが1961年12月に全米71位まで上昇しています。ヤードバーズがカバーしています。

で、最後が「ザ・ウェイト」。上述の映像を見てもらえば十分。今年のグラミー賞のコンテンポラリー・フォーク部門でRTの「ドリーム・アティック」を破って受賞したレイ・モンターニュが特別参加しています。彼は、このコステロの番組の2回あとの第5回目にライル・ラベットとジョン・プラインとともにゲスト出演していますが、同じアポロシアターで前日の9月23日に収録されています。

以前書いたように、RTの1982年の生ギター弾き語り単独ライブの Folk City Broadcast は本人が販売差し止めを求めているようですが、私が予約していたHMVにはすでに入荷しています。でも来週発売されるRTのBBCライブと一緒に注文しているので、こちらに届くまでもう少しの辛抱。RT自身が嫌がっているのなら、一人でこっそり聴きますが、BBCライブのほうは本人のウェブサイトでも宣伝しているので、ここで大いに書くつもり。

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2011年6月17日 (金)

フィルムノワール入門 (10)

アンドリュー・スパイサーの「フィルムノワール」を読んでいます。もう100ページぐらい読んでいる気がするのですが、まだ18ページぐらい。全部で200ページほどなのに、内容が凝縮されているのか、すでにいろんなことを勉強した気がします。まだ第1章「フィルムノワールの背景」を読んでいるところで、フィルムノワールに影響を与えたものに関する部分は今回で終わり。次回からは「アメリカ社会を反映する「暗い鏡」としてのフィルムノワール」で、「戦後の再整理」「マッカーシズム」「実存主義とフロイト主義」という小見出しが含まれています。このあと、フィルムノワールの定義の問題に触れて、第1章は終わり。

【アメリカ表現主義:ユニバーサルのホラー映画、バル・リュートン、オーソン・ウェルズ】

ドイツ表現主義の直接的な影響を最も強く受けたのは1930年代初期にユニバーサルが作ったホラー映画だった。ドイツ生まれのカール・レムリが率いたユニバーサルは、以前からワイマール映画の人材を雇っていた。その中には「黒猫」(1934)を監督したエドガー・ウルマーもいた。ユニバーサルのホラー映画は1931年に公開されたアメリカ人のトッド・ブラウニングの「魔人ドラキュラ」とイギリス人のジェームズ・ホエールの「フランケンシュタイン」から始まる。洗練された知識人でゴシックに強く関心のあるホエールが中心的存在で、彼は「魔の家」(1932)や「フランケンシュタインの花嫁」(1935)も作った。ロバート・フローリーの「モルグ街の殺人」(1932)が一番表現主義風で、曲った通り、奇妙に歪曲された家、きらめく舗装道路、陰鬱な影など「カリガリ博士」の影響が強い。ドイツからの亡命者カール・フロイントは「モルグ街の殺人」と「魔人ドラキュラ」を撮影し、「ミイラ再生」(1932)を監督した。

ユニバーサルのホラー映画のうち優れた作品は、構成(設計と装飾)、カメラのアングル、照明に細心の注意を払っており、ペースがゆっくりしているために、微妙に暗示的な演出が意味を作りだすことができた。ユニバーサルによるホラー映画の第二の流行は「フランケンシュタインの復活」(1939)から始まったが、最初の流行ほどは特徴がなかった。だが、どちらの流行もユニバーサルの初期のフィルムノワールに大きな影響を与えた。ユニバーサルのフィルムノワールはヒッチコックの「疑惑の影」(1943)とシオドマクの「幻の女」(1944)から始まり、その後のフィルムノワールの発展に影響を与えた。

他の映画会社でフィルムノワールとの関係が深かったのはRKOで、バル・リュートンとオーソン・ウェルズの貢献が大きい。ロシア生まれのリュートンは1942年からRKOで働き、自分のB級映画チームでホラー映画を制作した。低予算と低い地位のために、リュートンは会社の介入なしに自由に創造力を発揮することができた。唯一会社が介入してきたのは毒々しい題名だけだった。低予算にもかかわらず、制作のあらゆる面におけるリュートンの学識と細心さによって11本の映画が作られ、それらは一貫性があり、視覚的に独特で、美的にもすぐれていた。彼が起用した監督はジャック・ターナー、ロバート・ワイズ、マーク・ロブソンで、三人ともすぐれたフィルムノワールを作ることとなる。ユニバーサルの怪物と異なり、リュートンのホラー映画の主人公たちは普通の男女であり、通常は現代の都会が舞台だ。主要なカメラマンはニコラス・ムスラカで、すでに「ムードある照明」で定評があったが、リュートンのホラー映画において低予算のセットを雰囲気のある照明効果によって変身させることで自分の腕をさらに磨いた。ムスラカは、最も重要なフィルムノワールのカメラマンの一人となる。

リュートン制作の最初の映画「キャット・ピープル」(1942) は超自然のゾクゾクさせる作品であり、三番目の「レオパルド・マン-豹男」 (1943) はコーネル・ウールリッチ原作で、逃亡した豹に疑惑を向けさせることで注意をそらそうとする連続殺人魔の話である。最も雰囲気があり、微妙に暗示的で、ゾクゾクさせる映画は四番目の「第七の犠牲者」(1943)だろう。死を救いと考える若い女性ジャクリーヌの孤独と絶望の物語である。悪魔的な教団がジャクリーヌを追い求め、彼女の妹と恋人がジャクリーヌの失踪の謎を解こうとする。視覚的に有名な場面がある。教団から解放されたジャクリーヌが人けのない夜中の街を歩き、脅迫的な影にさいなまれる。街灯からの明るい光線と脅迫的だが不明瞭な音が挿入される。緊張感が最大限になったところでバスが到着するのだが、ブレーキの音と空気圧式のドアの開きは怪物の出現と同じぐらいビックリさせる。リュートンは、観客の想像力に働きかける。観客は、正しい暗示が与えられると、どのハリウッドのホラー映画の脚本家でさえ思いつかないぐらい恐ろしいものを暗闇に住まわせることができる。リュートンの作品は、夢のような性質を持つ経験、神話と幻想の力、無意味さの絶え間ない脅迫を強調することで、知覚の本質に疑問を投げかけ、合理性の偽りと理性の作用をあばきだす。テーマとスタイルの点で、これらの作品はフィルムノワールの誕生に貢献している。

オーソン・ウェルズの驚くほど革新的な「市民ケーン」(1940)は「アメリカの表現主義」の代表的作品とされており、ヨーロッパの現代主義とフィルムノワールの架け橋の一つである。この作品は、舞台装置、照明、鏡、多重撮影、ゆがんだ遠近法、多重の回想シーンなど、数多くの表現主義的技法を使用している。複雑なデザインは、前例のない数のセットを含めて、カメラの劇的な動きを容易にしているが、これはワイマールの室内劇映画に影響を受けている。もっとも洗練されたワイマールの室内劇映画は「最後の人」(1924)である。ムルナウ監督と撮影のカール・フロイントは、クレーンや移動撮影装置を使用して自由なカメラワークを発展させた。カメラの機動性によって、複雑な視点からの主観的な経験を映像にすることができた。

ウェルズの革新は、熟練したカメラマンであるグレッグ・トーランドとの共同作業によって生まれた。「市民ケーン」は奥行きのある撮影で有名で、前景と遠景にある物が同等の鮮明さで写っている。このディープフォーカスはトーランドによって発明されたものではないし、トーランドはすでに何度か使っていた。その中の一本、サミュエル・ゴールドウィン制作、ウィリアム・ワイラー監督の「デッド・エンド」(1938)はフィルムノワールの先駆的作品である。だが、「市民ケーン」ではこの技法が大胆に使用されている。トーランドは「市民ケーン」で常に広角レンズとローアングルの構図を創造的に使用しており、前景がゆがむために、人物が細長くなるか少しふくれて見える。ラジオで仕事をしたことのあるウェルズの音響効果も革新的だし、バーナード・ハーマンの慣習にとらわれない音楽も、型破りな楽器編成と共に、彼がフィルムノワールにもたらした多くの貢献のうちの最初のものとなった。

戦争のためにディープフォーカスの発達は停止してしまったが、表現主義的な照明は「市民ケーン」の公開後すぐに流行となった。「市民ケーン」を思わせる凝った移動撮影、長回し、奥行きのある構図、舞台装置は1940年代のフィルムノワール作品において明白である。複雑な回想による主観的な語り口も「市民ケーン」の影響である。

数年前バル・リュートンの5枚組DVDセットを購入したことがあります。自分のサイトから転載します

The Val Lewton Horror Collection (Warner Home Video) リージョン1

  • Cat People (「キャット・ピープル」)
    The Curse of the Cat People (テレビ「幽霊屋敷の呪い」)
  • I Walked With a Zombie (テレビ「生と死の間」)
    The Body Snatcher (テレビ「死体を売る男」)
  • Isle of the Dead (死者の島)
    Bedlam (ベドラム精神病院)
  • The Leopard Man (豹男)
    The Ghost Ship (幽霊船)
  • The 7th Victim (第七の犠牲者)
    Shadows in the Dark(Val Lewton に関する1時間弱のドキュメンタリー。影響を受けた映画人や関係者のインタビューが中心です。)

戦時中の作品なので、当時どれも日本公開されていません。「キャット・ピープル」は80年代終りに三百人劇場で公開されました。「テレビ」と書いているのは、テレビ放映時の邦題です(そのほかは私の直訳)。どの作品も1時間少々で、低予算だし、出演者も知らない人ばかりです。タイトルやジャケットのイラストから想像されるような三流ホラー映画ではなく、しっかりした演技による心理ドラマです。監督は、ジャック・ターナー3作品、マーク・ロブソン4作品、ロバート・ワイズ2作品です。ロブソンとワイズはRKOの編集部出身で、共同で「市民ケーン」を編集しています。

「キャット・ピープル」や「豹男」には猫や豹の安っぽいメーキャップをした人間は出てきません。観客の想像力を刺激するような暗示的な演出です。「キャット・ピープル」の続編 "The Curse of the Cat People" は猫なんてまったく関係ない話です。セットのみで作られたような他の作品と違い、野外撮影と組み合わせているので新鮮です。この作品の監督ロバート・ワイズは「ウエストサイド物語」や「サウンドオブミュージック」でもミュージカルを屋外に出しているので、きっと外の空気が好きなんでしょう。彼が監督したもう一本「死体を売る男」は、昔の話で、墓に埋められたばかりの死体を掘り出して(ときには殺人を犯して)、医者に売る男の話ですが、その男を演じたボリス・カーロフがうまいし、そうした違法行為を知りつつ人体の研究をする医者の矛盾が描かれていたりして、見ごたえがあります。"I Walked With a Zombie" は、マイケル・ジャクソンのプロモビデオに出てくるような動く死体が出てくるわけではなく、太鼓の音や光と影で超自然的な現象を暗示させる創造的な作品に仕上がっています。"Bedlam" はウィリアム・ホガースによる精神病院の絵にインスパイアされた18世紀の話です。反体制的な考え方の女性が家畜小屋のような精神病院に入れられるのですが、彼女は不潔な場所をきれいにし、患者たちをいやしてあげます。とてもヒューマンな話で、後味がすこぶるよろしい。「死者の島」や「幽霊船」も見ごたえ十分の心理劇です。どの作品も、三流ホラーの外見をしているけれど、実は知的で創造的な作品なのでした。

5千円少々と安かったのですが、字幕はないと思います。この中から数作品が日本でもDVDで発売されているようです。

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2011年6月16日 (木)

映画構造と感情システム (28)

現在読んでいる "Film Structure and the Emotion System" の Greg M. Smith の先駆者たちに関する第4章「その他の認知主義」の最後を飾るのは Torben Grodal の "Moving Pictures: A New Theory of Film Genres, Feelings, and Cognitions"

【トーベン・グローダル:物語の流れの心理学】

グローダルは、厳密な意味で「現実」ではない再現に対して観客がどのように感情的に反応できるのかという哲学的難問を見事に説明している。グルーダルは、脳の構造に関する認知研究を利用して、現実の判断は「心のモジュール性」(すなわち脳の異なる機能中枢による並列的な処理の可能性)に依存すると主張する。

彼は二つのシステムを仮定している。
・ 現象の現実性を評価し、その現象を「現実」または「虚構」と分類する、より全体的なシステム
・ 知覚を処理し、反応を活発にする、より局所的なシステム

虚構または現実の対象を心で再現することは、心の中では同一の「局所的現実」だが、現実性を判断する全体のモジュールによって観客は虚構を現実と間違えることがないし、局所的なシミュレーションによって喚起される感情を経験することができる。

グローダルは、虚構、現実、感情の相互関係に関する説得力のあるモデルを提示している。グローダルは、タン以上に、映画分析で使用される感情の理解は現在の神経心理学研究と一致すべきだと信じている。彼は、感情システムの構造に対する洞察の主要源として、中枢神経系と自律神経系の構造研究に依存している。彼は、感情機能を理解するための重要な原理として、異なる心のモジュール間の並列的処理と相互作用に重点を置く。

グローダルは、特に感情システムの連想の重要性を力説する。言葉とイメージは、多数の感覚、思考、運動シミュレーション、記憶を呼び起こし、映画スタイルが感情を喚起できる可能性を開く。観客は、映画の筋を処理している間に、映画スタイルに関する情報を簡単に捨て去ることなく、スタイルに関する情報を巨大な視覚メモリーに置いて、連想ネットワークによって働かせ続けることができる。神経学的な感情の概念に基づくグローダルの考え方は、映画感情の分析に関する革新的な研究法を発展させる可能性を含んでいる。その研究法は、単に人物中心の感情の理解のみならず、あらゆる種類のスタイル上の合図を考慮するものである。

しかし、グローダルは、そのようなスタイルに基づく研究法を作り出すことはない。彼が行っている他の想定のために、彼の考え方は非常に登場人物中心になっている。彼は同一化の卓越性を信じているので、感情システムのより革新的な可能性から向きを変えている。

同一化と共感の相互作用を通じて、観客は、登場人物の好み、計画、目標を組み立てて、こうした計画や目標の実行手段や可能性を評価しようとする。観客は、同一化を通じて登場人物の状態を模倣することで、目標達成への登場人物の動機に関する台本を活発にする。もし観客が登場人物に感情移入すると、その台本と調和する感情経験が活発になる。

どのように登場人物が目標を達成しようとするかは、グローダルの感情の分類にとって重要である。もし主人公が目標に突き進む人物で、虚構の世界を積極的にコントロールしようとしているならば、観客は「緊張」を感じるであろう。目標が邪魔されると、緊張が積み重なって「飽和状態」となり、行動傾向へと移ることができない。こうした飽和状態は、身動きのとれないメロドラマの消極的な主人公に観客が同一化するときに生じる。積極的な主人公と消極的な主人公の違いはグローダルの感情の分類には非常に重要である。というのも、この違いは観客間に積極的または消極的な感情のシミュレーションをもたらすからである。主人公が目標に向かう道に妨害物を発見すると、観客も、下流への物語の流れにおいて妨害を経験する。

グローダルのシステムの鍵は、この「流れ」のモデルである。物語の流れは、通常、下流へと向かい、単純な過程から複雑な過程へと進む。流れの初めは映像自体である。カラー、コントラスト、明度などによって驚きといった単純な感情反応が作り出される(抽象的な前衛映画はこの段階にある)。次の段階では、映像との連想的なつながりを求めるよう観客は促される(歌詞はあるが物語性のないミュージックビデオはこの段階にある)。さらに下流の段階に古典的な物語映画がある。行動を評価して、登場人物、動機、目標といった物語の図式にまとめる。こうした物語の図式は、同一化と結合して、より大きな感情反応を作り出す。何らかの妨害がない限り、下流に行くほど、より大きな感情反応が作り出される。

妨害は虚構世界の外にもある。もし映画がスローモーションになったら、目標の達成が延期されるし、より負荷が観客の知覚にかかることになる。グローダルは、これを「抒情的 lyrical」と呼ぶ。虚構世界の内にあるか外にあるかを問わず、登場人物の目標が妨害されるたびに、観客の感情経験は異なる様相へと流れ込む。

グローダルの説は流動性の比喩に基づいている。感情過程の下方への流れが妨害されるごとに、その流れは感情経験の別の様相へと変化する。たとえば、「深夜の告白」は主人公の死が近いことを示すことから始まるので、先の展開を期待する通常の愛と犯罪の物語が妨害されている。すでに結果がどうなるのか知っているので、標準的な物語が重点を置く目標志向が妨害されている。水の流れにたとえるグローダルの説によると、この妨害によって観客の感情経験は飽和と抒情性の「上流」に向きを変え、緊張やサスペンスから遠ざかる。グローダルによる映画の分類と結果としての感情経験は、標準的な下方への流れに対するさまざまな妨害の種類によって左右される。

グローダルによる用語「流れ」と「妨害」は少々わかりづらい。彼は、基本的な概念として同一化を使用することで、虚構世界における登場人物の目標の妨害と観客自身の感情システム内の妨害の差異を隠しやすくしている。同一化のために、登場人物の目標の妨害は観客の通常の感情の流れを妨害する。この二つの妨害は、同じ名称のために交換可能に見えるが、同等のものではない。

「サイコ」を例にとると、グローダルは、同一化できる人物が変わることと、それらの同一化に従って生じる妨害に興味を持つだろう。映画は、注意深く観客がマリオンに共感するように仕向け、彼女の行動が映画をコントロールする間(すなわち、彼女がお金を盗むと決意するとき)、「サイコ」は「緊張」に分類される。捕まるという恐怖がマリオンの心に芽生えると、彼女は積極的に話を形成する者から、差し迫った逮捕におびえる消極的な人物へと変わる。グローダルによると、登場人物の進行が妨害されているので、これは飽和状態への変化である。驚くべきことに、マリオンが殺されたとき、観客の同一化の対象がなくなる。これは妨害の中で最も抗しがたいものである。彼女の死は観客の同一化に「空白」を作りだし、その空白に入り込む人物はノーマン・ベイツしか残されていない。観客の共感相手としては異常な選択に思える。ノーマンが血だらけの浴室をていねいに掃除しているとき、観客は彼と同一化するよう促される。彼が社会から拘束されていないために観客は再び緊張状態に戻り、彼の生活に妨害が生じ始めると映画は飽和状態に戻る。アーボガスト、サム、ライラがノーマンと彼の母親に近づくにつれ、ノーマンの行動は拘束され、いらだちやすくなる。すぐに、道徳面で観客が同一化しやすい人物が登場する。最初は探偵のアーボガストで、彼が殺されると、マリオンの妹のライラが登場する。彼らによってノーマンが窮地に陥り始めると、観客は、虚構世界を積極的にコントロールする人物と同一化する。グローダルの説は、キャロルやタン同様、登場人物が中心である。三人のうち、グローダルの説が最も同一化と密接に関係している。

流れと妨害という比喩を使ったこの考え方の第一の利点は、さまざまな感情経験に関して一連の用語を作り出すことができることである。さまざまな妨害によって、結果としての感情経験に名称を付ける必要が生じる。グローダルは目のくらむような用語をあみだしている。彼は、映画の感情経験のすべてを記述するのに必要なほど幅広い用語体系を提示しようと試みる。彼は、上意下達の分類法を作りだし、映画をジャンルや様式に分類する。

「気分と合図の研究法」よりもグローダルの研究法が有利なのは、前者の下から上への方法よりも包括的な映画経験の用語を提示できることである。だが、前者の方法には個々の映画の表面近くにとどまるという利点がある。より多くの映画を取り込むにつれて、個々の映画の具体的な構造に根ざした用語を付け加えることができる。グローダルの分類法は、個々の作品よりも映画の部類を記述するのに適している。

グローダルは、同一化に重点を置いているために、連想ネットワークの可能性を軽視している。彼の流れモデルにおける連想段階は、かなり低い処理レベルに置かれており、このレベルは、ほとんどの主流の映画において、より大きな同一性のプロセスに取って代わられてしまう。メロドラマや抒情的な作品のように目標志向の下方への流れを妨害すると、観客は連想に重点を置くことに立ち返ってしまうこともあるが、いったん妨害が取り除かれると、下流への勢いによって観客はより大きな感情の流れに身を任せる。

グローダルの研究法のように、「気分と合図の研究法」は、観客が共感する人物をマリオンからノーマンに、アーボガストからライラに変えるのを説明することに関心があるが、登場人物の特徴だけでなく、この共感関係を確立するスタイル上の手段も探る。最初のシーンでは、マリオンの行為に対して、いくらか受け入れることのできる動機が与えられ、観客がマリオンに同一化しやすくしている。かなり標準的な編集技法が使われているが、長回しが一つある。移動カメラは、マリオンがベッドに横たわり、再び起き上がって安ホテルの部屋を動き回るのを追う。空間を移動する人物を追い続けるカメラワークは、物語において彼女が中心的な役割を果たすことを示す重要なスタイル上の目印である。

この工夫は、同一化すべき人物が変わることに目印を付ける以外ほとんど使用されることがないので、特に重要である。同一化の対象がノーマンに移るのは、グローダルが主張するように他に同一化すべき人物がいなくなったからであるが、異常に世俗的な行為によっても同一化の移動を際立たせている。シャワーのシーンのあと、ノーマンが事態を収拾する様子を延々と細かく描いている。手を洗い、浴槽の内外をきれいにし、壁や床をタオルで拭き、車を用意し、トランクを開け、シャワーカーテンで死体を包み、トランクの中に入れる。部屋の中を移動するノーマンを追うことは、彼が新たな同一化の対象であることの目印となる。同様に、ノーマンのモーテルを捜査するアーボガストやライラをカメラが追う。映画の初めのほうで、感情反応を形成する重要なパターンを気づかせるが、こうしたパターンは人物中心かスタイル上のものである。

タンのように、「気分と合図の研究法」は、どのように感情エピソードが確立され、分類され、維持されるかに関心がある。登場人物の動機と目標の理解のみには重点を置かない。サスペンスを確立し維持するための一連の気分に一致した合図を捜す。会話による尋問は(実際のものであれ想像的なものであれ)、登場人物の動機や目標同様に、「発覚の恐怖」反応に合図を送る点で重要である。

映画は、マリオンがお金を盗んだあと、彼女の被害妄想的な思考過程を繰り返し観客に示すことによって、彼女を心配するよう観客に促す。彼女は、運転中、彼女がお金を盗んだことを会社の同僚と家族が発見する一連の会話を想像する。彼女が警官に呼び止められたとき、観客は彼女が神経質になっているのを見る。警察による尋問の間、彼女が不信を抱かせるほど神経質に振舞うので、観客はびくびくする。警官が彼女を尾行するので、彼女の不審な態度が逮捕につながるのではないかと心配する。事実をあばこうとする会話が繰り返されることで、観客のマリオンへの心配が促進される。

同様のスタイル上の技法は、アーボガストがノーマンから情報を聞き出そうとするときにも働く。ノーマンが矛盾した回答をし、不審な態度をするたびに、観客はびくびくする。この尋問は、ノーマンの正体がばれるのではないかという緊張感のある心配を確立し、維持するのに重要である。このように感情の合図が繰り返されることは、より大きな登場人物、動機、目標の構造と同じくらい、感情を喚起するのに重要である。

どの理論家も、自分が好む研究、理論、方法論から感情に関する想定を受け継ぐ。キャロルもタンもグローダルも登場人物に根ざした感情の概念を選んでいるので、登場人物中心に映画感情を説明する傾向がある。「気分と合図の研究法」は、登場人物だけでなくスタイルにも細かい注意を向けているので、彼らの研究法以上に、映画の意味作用全体を分析する研究法に望まれることを満たすことができる。

というわけで、次回からは、この「気分と合図の研究法 mood-cue approach」を具体的な作品に適用する事例研究になります。最初は「ステラ・ダラス」(1937, Stella Dallas)。

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2011年6月15日 (水)

キートンの短編映画 (18): 「キートンの電気館」

キートンの短編17作目 "The Electric House" は1922年10月にアメリカで公開。1921年春に撮影を開始したのですが、エスカレーターのシーンで足首を骨折して、撮影中止。そのため、キートンが気に入らなくてお蔵入りにしていたキートン・プロ第一作「ザ・ハイサイン」を公開せざるをえなくなったのです。それまで月1本ペースで公開していたのに、8作目「強盗騒動」と9作目「一人百役」の間に半年の開きがあるのは療養していたためらしい。その間、ナタリー・タルマッジと結婚。「一人百役」の撮影のときは完治していなかったので、あまり激しい動きはしていない。半分ぐらいは多重撮影なので、動かなくてすむ。

1年半後に同じ題材で最初から取り直し。本当は大学で植物学を専攻していたのに、エンジニアリング専攻と間違われて、家に電気設備を設置してほしいと金持ちジョー・ロバーツに頼まれ、娘バージニア・フォックスに一目ぼれしてしまったために、引き受けてしまう。一家が旅行中に、エスカレーターなどの珍妙な電気設備を設置し、帰って来た一家を混乱の渦に巻き込む。

傑作と言われている長編「キートンの大列車追跡」(1926、The General)の機関車に代表されるように、キートンは機械を使うのが得意なので、格好の題材ですが、家を丸ごと使った「マイホーム」のようなダイナミックさがない。キートンが設置した設備のうち、エスカレーター(1900年のパリの万博あたりから普及)、厨房から食堂まで食事を運んでくれる小さな鉄道みたいなもの(回転寿司の元祖)、食器洗い機(これも1900年頃から普及)は実用的ですが、本棚から読みたい本を取り出してくれる装置、浴室から浴槽がベットのそばまでやってくる装置、プールが瞬時に排水されたり満杯になったりする装置、ビリヤードの玉が自動的にセットされる装置あたりは、あまり意味がなかったり、技術的に不可能だったりします。ビリヤードの球が自動的にセットされるのは、もしかしたら開発されているかもしれませんが、それよりも興味深いのは、1924年の長編(というか中編)の「キートンの探偵学入門」でさらに発展させるビリヤードのシーンがここで登場していること。もっとも、あっちはキートンの唖然とする妙技を見ることができますが、ここではキューの先が折れたために、キートンが台に上がって、キューをゴルフクラブのように使って球を沈める程度。

キートンに仕事を奪われた本当のエンジニアが家に侵入し電気系統の配線を変えたために、それらの装置の具合が悪くなって混乱が生じるのだけれど、家全体がつぶれるほどではないし、一つの部屋さえ壊れないというハチャメチャ度合いの弱さです。でも、破壊に破壊を重ねる大量消費時代の象徴のような派手なアメリカのコメディよりは洗練されていて、好感が持てるかなと思わなくもないです。

エスカレーターに乗った者が勢い余って壁を突き抜け、裏のプールに落ちるのが何度か出てきて、笑いが増幅することと(お笑い好きの観客が集まっていれば)、キートンがなかなかエスカレーターからうまく降りられないドジぶりを体を張った妙技で見せてくれるのが見どころ(なにしろ、最初の撮影で大怪我をしたぐらいだから)。

いつもどおり監督と脚本はキートンとエディ・クラインの共同。ジョー・ロバーツとバージニア・フォックスというおなじみの助演者のほかに、キートンの両親のジョーとマイラも出演し、ルイーズ・キートンという妹も出演しているらしい(いずれもどの役かわかりませんでしたが)。

私のキートン採点表(5つ星満点)

  1. 「マイホーム」 ★★★★★
    奇抜に作られた家が秀抜で、この中心がしっかりしているし、その前後も充実している。
  2. 「囚人13号」 ★★★★
    とりとめもないが、ブラックなジョークがシュール。
  3. 「スケアクロウ」 ★★★
    可愛いシーリーとの初々しい恋愛以外、普通に面白い。
  4. 「隣同志」 ★★★★
    両脇にアパートがあって、真ん中に塀があるという中庭が良い。
  5. 「化物屋敷」 ★★
    銀行の前半は接着剤のついた札束を使ったドタバタがくどいし、後半の化物屋敷のドタバタもありきたり。
  6. 「ハード・ラック」 ★★★
    私が年取ったからなのか、枠組がしっかりしたものに安心するようで、とりとめもないものが苦手になってます。
  7. 「ザ・ハイサイン」 ★★★
    キートンがアーバックルから独立して最初に作った短編。 キートンが気に入らなくてお蔵入りになっていたが、新作を撮影中に負傷したため、やむなく公開。
  8. 「強盗騒動」 ★★★★
    ノンストップのチェイスもの。
  9. 「一人百役」 ★★
    多重撮影で出演者がすべてキートンという着想は面白いが、中身が伴わない。
  10. 「船出」 ★★★★★
    私にとってのキートンの最高傑作短編。家族四人がボート遊びに出かけて散々な目にあう。
  11. 「白人酋長」 ★★★★
    お馬鹿な蝶々収集家が酋長に祭り上げられ、インディアン部族を利権争いから救い、部族の娘と結ばれる。
  12. 「警官騒動」 ★★★★★
    大量の警官に追いかけられるアナーキーなキートン。
  13. 「華麗なる一族」 ★★
    室内でのドタバタが中心。地味で貧乏臭い。
  14. 「鍛冶屋」 ★★★
    個々のエピソードは面白いが、それらの結果がひとかたまりになってキートンに襲いかかってくるというダイナミックさがない。
  15. 「北極無宿」 ★★★
    シュールな珍品。
  16. 「白日夢」 ★★★
    キートンが三つの職に就く全体の構成がきちんとしているし、各エピソードに含まれているギャグも面白いが、新鮮味を感じない。
  17. 「電気館」 ★★★
    電気仕掛けの家というお得意の題材なのに、ハチャメチャぶりが物足りなくて、家全体が散々な目にあう「マイホーム」のダイナミックさがない。

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2011年6月14日 (火)

Facebookの動画を削除

Facebook の動画の条件に「自分または友人が写っていること」というようなのがあったので、これまでアップロードしてきた鳥の動画を削除しました。

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1978年6月第2週に見た映画

6月14日(水) アタラント号 (新宿アートビレッジ) 5点
6月15日(木) 流れ者 (池袋文芸坐) 2点
6月15日(木) 追悼のメロディ (池袋文芸坐) 4点
6月17日(土) 素晴らしき放浪者 (大塚名画座) 4点
6月17日(土) ピクニック (大塚名画座) 5点
6月18日(日) アデルの恋の物語 (三鷹オスカー) 5点
6月18日(日) まぼろしの市街戦 (三鷹オスカー) 5点
6月18日(日) 恋人たちの曲・悲愴 (三鷹オスカー) 5点

なんと8本のうち7本がフランス映画。残りの1本もイギリス映画で、アメリカ映画はない。期待はずれだったルルーシュの「流れ者」以外は高得点。満点が5作品もある楽しい一週間。

私が好きに書くことのできる自分のウェブサイトやブログでは「ヴ」という字を使わないことにしているのですが、これだけは例外にしたかったのが「ジャン・ヴィゴ Jean Vigo」。でも、まあ「ビゴ」と書いても誰のことかわかるだろうから許してください。「ヴ」を使わない理由はいろいろあるのですが、主義じゃなくて好みなので、他人がヴを使うのはかまわないし、私も自分の土俵以外ではヴを使うでしょうね。私の中でも迷いがあるようで、日曜に言及した私のサイトの「アデルの恋の物語」ではバッチリ、「ヴ」を使用しています。

そのジャン・ビゴの唯一の長編が「アタラント号」(1934, L'atalante)。1934年に29歳で夭折したビゴは他に短編2本と中編1本あるのですが、ずっと日本では劇場未公開で、1977年正月ごろにコクトー原作、メルビル監督の「恐るべき子供たち」との併映で中編「操行ゼロ」が公開されたのが最初じゃないのでしょうか。今回はアートビレッジだから16ミリのフィルムは一般的に貸し出されていたんでしょうかね。1992年に池袋シネマセレサで「黄金の馬車」との二本立てで再見しているので、そのときまでにはどこかで劇場公開されたみたいですね。1991年のキネ旬外国映画の45位に入っているので、きっとそうでしょう。DVDに関しては、今は絶版のようですが2005年に全作品集が日本で発売され、今年の8月にアメリカのクライテリオンから全集が発売されます。

撮影ボリス・カウフマン、音楽モーリス・ジョベール、主演ミシェル・シモン、ジャン・ダステ、ディタ・パルロ。ジャン・ダステは「操行ゼロ」にも出ていて、トリュフォーの「緑色の部屋」(1978)では主人公が勤める新聞社の編集長みたいな役で出ていました。トリュフォーは「アデルの恋の物語」「思春期」「恋愛日記」「緑色の部屋」と連続してジョベールの音楽を使用しています。ディタ・パルロは「大いなる幻影」(1937)でジャン・ギャバンが逃げ込む農家の未亡人を演じた人です。川を運行する小さな運搬船の水夫ミシェル・シモンは不気味なものばかり集める変人で、とにかく彼が印象的。船長ダステはパルロと結婚するが、パリにあこがれるパルロとケンカして、パルロをパリに置き去りにして出発してしまう。心配したシモンが彼女を見つけて連れ戻す。ルイ・ルフェーブルという俳優が演じているシモンの助手の少年がいたんですかね。全然記憶にない。ルネ・ルフェーブルという有名な俳優さんがいるからややこしい。8月に発売されるクライテリオンの全集を予約しているので、それが届いたら、あらためて何か書きます。

その翌日の木曜は、池袋文芸坐でフランスの娯楽映画二本立て。流麗な映像のクロード・ルルーシュはけっこう好きで、「流れ者」(1970)はシャープな犯罪ものだろうと期待していたら、ミュージカルシーンみたいなのが挿入された変な映画でした。音楽は例によってフランシス・レイで、中学時代にテーマ曲をよくラジオで耳にしたような気がします。撮影はルルーシュ自身、主演はジャン・ルイ・トランティニャン。最初はこんな感じ。ルルーシュ作品としては、次の「恋人たちのメロディ」や「冒険また冒険」のほうが好き。

70年代のドロンやベルモンドは監督よりも偉くなって、生ぬるい作品ばかり連発していましたが、「追悼のメロディ」は、「地下室のメロディー」「太陽の下の10万ドル」「シシリアン」「華麗なる大泥棒」の安定感のあるアンリ・ベルヌイユ監督だから、そこそこ面白かったのでしょう。どんな話だったのか全然記憶にないのですが、goo のあらすじを読むと、無実の罪を着せられた男が街の大物に復讐する話のようです。ベルヌイユとベルモンドのコンビ作には、この前に「恐怖に襲われた街」というのもあって、あれもまあまあ面白かった。「追悼のメロディ」の音楽もフランシス・レイ。

ルノワールの「素晴らしき放浪者」(1932)と「ピクニック」(1936)が日本でちゃんと公開されたのは1977年3月から4月にかけての岩波ホールでの上映だと思います。まだルノワールが偉大な監督だとは思っていなかった頃なので、そのときには馳せ参じなくて、名画座で上映されるようになって、やっと見たわけです。川に飛び込んだところを救われたミシェル・シモン演じるブーデュが商人の家で傍若無人にふるまうという話で、これにもジャン・ダステが出ているようです。これを見た真面目な友人が電話をかけてきて、モラルのないブーデュがひどい奴で最低の映画だったと文句を言ってきたので、あれはああいう映画だし、主人公にモラルがなくても映画自体には節度があるわけだしというように擁護しました。何年か前にファンタシウムのバーゲンセールで購入したクライテリオンのDVDがあるのですが、まだ見ていません。近々見て、あらためて何か書きます。

「ピクニック」は私の映画史上ナンバーワン作品。第20回シネシャモ上映作品としてインターネット上で仮想上映しているので、そちらをご覧ください。

この頃、京王線の仙川に住んでいて、そこから中央線の三鷹までバスが出ていました。映画を見るために日曜の早朝に20分ぐらいバスに乗るっていうのは気持ちが良いものでした。で、33年前の日曜日に見に行ったのは「アデルの恋の物語」「まぼろしの市街戦」「恋人たちの曲・悲愴」。3本立てすべて満点というのは、あとにも先にもないと思うのですが、大満足かというと少々複雑。というのも最初の2本はすでに見たことがあるし、見る前から満点が確実だったからです。

「アデルの恋の物語」は、この二年前の1976年にロードショーで見たときは、女性が男につきまとうだけの一方的な展開が辟易させてくれましたが、そういう話だと思って見た1977年には年間トップワンにするほど面白かった。最初はもっとロマンチックなものを期待していたのかもしれませんが、「夜霧の恋人たち」のストーカー男の化身みたいな女性を極端にまで推し進めたものだと思えば、あとはトリュフォーの演出やアルメンドロスの撮影に目を見張るばかり。ないがしろにされた相手役のブルース・ロビンソンはのちに監督業に乗り出し、「ウィズネイルと僕」という変なコメディを作りました。この "Withnail and I" はクライテリオンからDVDが出ているので、数年前に購入しました。

「まぼろしの市街戦」は第12回シネシャモ上映作品。詳しくはそちらでどうぞ。74年11月に淀川さんの日曜洋画劇場で見たのが最初で、続いて77年10月に池袋文芸坐と自主上映会で2度見たから、これが4回目。このあとしばらく見る機会がなくて、今から7年前に日本盤DVDが出たのでした。

「恋人たちの曲・悲愴」(1970, The Music Lovers) はケン・ラッセル監督のイギリス映画で、リチャード・チェンバレンがチャイコフスキーを演じる伝記もの。共演グレンダ・ジャクソン、音楽アンドレ・プレビン、撮影ダグラス・スローカム。ケン・ラッセルの悪趣味だけどパワフルな感じを面白く思い始めた頃ですが、クラシック好きの友人はこの映画が嫌いでした。私もザ・フーのロックオペラを映画化した「トミー」(1975)にはガッカリだったので、自分の好きな分野以外について映画化してもらったほうが気軽に楽しめるのかも。同じ年にはソ連でもインノケンティ・スモクトゥノフスキー主演で「チャイコフスキー」が作られました。

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2011年6月13日 (月)

映画構造と感情システム (27)

本日は暇なので二本目。

【エド・タン: 興味と行動の心理学】

Ed S. Tan の "Emotion and the Structure of Narrative Film: Film as an Emotion Machine" (Lawrence Erlbaum Associates, 1996)はハードカバーしかなく、円高の今でも7千円ぐらいします。私は2年前に紀伊国屋で良品の古本を千円少々という安さで購入できました。今読んでいる Greg M. Smith の "Film Structure and the Emotion System" が終わったら、エド・タンの本を読もうと思っています。

「気分と合図の研究法」が主に信頼を置いているのは認知心理学である。エド・タンも、彼の著書 "Emotion and the Structure of Narrative Film: Film as an Emotion Machine" で、認知心理学者の実証的研究に信頼を置いている。しかし、一連の心理学的研究を感情に統合する代わりに、映画感情を説明する基盤として一人の心理学者(ニコ・フライダ Nico Frijida)の研究を選んでいる。そのことに対して彼を非難することはできない。フライダの研究は、感情に関する他の研究の多くを統合しているし、幅広い感情経験をカバーするに十分なほど包括的である。彼の理論は、どのように感情が働くかの法則を生み出しており、仮説を立てるのに有益である。フライダは、感情の心理学に対してより「人文主義の」研究法をとっており、下位のプロセスの細かい研究よりも、より大きな認知構造とプロセスに重点を置いているので、より直接的に人文科学に適用することができる。

映画鑑賞の中心をなす感情の働きは「興味」であるとタンは主張する。観客は、興味に促されて映画を調べようとするし、映画の虚構世界について知ろうとする。観客は、興味に促されて物語の展開がどうなるかを予測し、より強く物語に引き入れられる。興味は、観客が物語の情報を認知や感情の面から処理するのを導く。

私(スミス)が気分に重点を置くのに対し、タンは興味に重点を置く。一見すると、気分と興味は似ている。どちらも、作品に対する全体的な感情の方向性を定め、作品を精査して感情の合図を捜すよう観客に促す。どちらも、感情経験に統一性を与える構造である。実際、タンは、気分が感情反応の統一性を作りだすのに貢献していると指摘している。だが、タンにとって、気分は興味の副産物でしかない。両者の違いを理解するには、タンによる感情の定義を調べる必要がある。

タンはフライダにならって、感情には行動を起こさせる傾向があると主張しているので、興味は観客に何らかの行動を促すとしている。興味は、作品をより詳細に調べて次に何が起こるのかを予測するよう観客を導く。映画館では、登場人物に対して持つ感情に促されて行動を起こしはしない。登場人物に対する憐みや怒りは架空の行動傾向を作りだすだけである。観客は、登場人物に怒りを感じても、暴力を振るおうとはしない。そのため、観客の感情は十分な表現の機会を与えられない。しかし、興味という感情によって要求された行動に対しては十分に関わっている。観客は感情の情報を求めて映画を精査する。もしタンやフライダが主張するように行動傾向が感情の定義にとって重要であれば、実際の行動傾向は架空の行動傾向よりも重要である。それで、タンは第一の映画感情として興味に重点を置くのである。

タンによれば、映画が観客の興味を作りだす方法を決定づけるのは主に二つの要素で、行動または筋書きの構造(主題の構造)と登場人物の構造(共感、同情、賞賛、思いやりなど)である。「主題」は、登場人物の行動、動機、予想される結果を導く台本である。よくある主題は、裏切り、自己犠牲、欺瞞などである。「サイコ」のシャワーのシーンは、法律から逃げる横領者に暴力を加えることによって「罰」という主題を活性化させる。「復讐」の主題構造には、まず損害を与える悪意の行動があり、その行動が登場人物に悪意ある行動で仕返しをするよう促す。こうした主題に関して観客が持つ台本は、成功、損失、悪意ある行動など、主要な目印となる細かい筋書きで構成されている。

タンは共感を伴わない感情の可能性について言及しているが、観客の感情経験に関するタンの説明は登場人物との共感が中心である。登場人物に対する理解が観客各々で異なることがタンにとって鍵となる。その相違が観客の感情反応の相違を生むからである。たとえば、弱い登場人物に対する共感は同情を生む。強い者に対する共感は賞賛を生む。「サイコ」のライラ、マリオン、ベイツを強いとみなすか弱いとみなすかが、彼らとの共感と映画を見ているときの感情経験に大きく影響を与える。

タンが自分の考え方を「サイコ」に適用するとしたら、キャロルと非常に異なったものになるだろう。タンは、映画をいくつかの主題にまとめるだろう。それらは、感情エピソードとして、登場人物の行動を解釈するための一貫した構造を提供する。タンは、登場人物の動機に関する観客の知識が変化することによって観客の登場人物との共感や彼らの行動の解釈がどのように影響を受けるかに注意を払うだろう。「サイコ」のほとんどは、発覚の恐怖という主題を中心にして展開する。マリオンは横領で捕まるだろうか。ノーマンの母親の犯罪は発覚するだろうか。映画の上映中に変化するのは、どの人物が発見者になるのかと、どの人物が発覚の瀬戸際にいるのかである。タンは、「サイコ」の最初の仕事が、マリオンの行動に共感する動機を確立することだということに注目するはずである。マリオンはサムと結婚して世間に認められたいためにお金を必要とする。彼女の横領に対して比較的受け入れることのできる動機を確立することで、彼女の差し迫った逮捕に対する観客の恐怖が変化する。マリオンは、いくらかまともな理由で犯罪生活に入ったのである。

その一方で、ノーマンと母親が逮捕され、殺人事件が発覚するかどうかという点から映画が進展していくとき、彼らに対する思いやりのある動機を映画は与えてくれない。ノーマンの母親は、息子への愛情に基づく嫉妬心か、だらしない女性から息子を守ろうとする過保護ぶりによって、マリオンを殺したように思える。映画は同一の主題(発覚の恐怖)を追求し続けているが、感情の視点がかなり変化する。

さまざまな調査員に関して観客が持つ情報がどのように感情の平衡を変化させるかにもタンは注目するだろう。私立探偵アーボガストがモーテルからのマリオンの失踪を調べるとき、彼の行動は報酬によって動機づけられているように見える。マリオンの姉妹のライラが調査を引き継ぐと、彼女のより個人的な動機は、発見の過程に特別な緊急性を与える。観客が登場人物の動機に関して内々に知る情報は、映画を通じて主要であり続ける主題の範囲内で観客の登場人物との感情の協調を変化させる。

タンの考え方は、実際の観客を使って実験するのに十分なほど具体的な仮説を生みだしている。これは感情に訴える力がどのように働くかを理解する点において相当な業績である。にもかかわらず、彼の構造分析は登場人物の目標、動機、出来事に関して語る特定の方法を教えてくれはするが、登場人物を重視していない感情の合図についてどのように語るかについては指導してくれない。さらに、「興味」は映画全体の魅力を説明するのに説得力のあるものだが、特定の作品の感情に訴える力を説明する工夫としては、興味の中心概念は非原型的な合図を調べるよう批評家を促さない。

一人の研究者の理論に頼ることによって、タンの映画的感情の説明は私のよりも内面的に一貫性がある。フライダは、感情の神経心理学における新たな研究に過度の関心を持たなかったので、非常に系統だった説明を行っている。たとえば、フライダは感情の機能性を主張しており、これによって強い一貫性が説明に付与される。だが、これは、より低いレベルの実証研究においては裏付けられていない。感情に関する最近の心理学研究全体を調べると、フライダの説明は感情の原型を明確化するものに思える。

フライダは、より高いレベルの感情プロセスを最も革新的に明確化した認知心理学者である。彼は、感情が従わなければならない数多くの法則を仮定しており、それらの法則は証明可能な実験仮説を作り出す際に非常に役立つ。だが、フライダによる感情の説明は「上位下達」風で、居心地が悪い。認知心理学が感情の問題を取り上げる際、神経心理学によって研究中の「下位から上位への」細かいプロセスに重点を置くことで、どの「法則」に感情が従うべきかという先入観に頼りすぎることを防いでくれる。より幅の広い研究を統合することは、感情機能(連想ネットワーク)の複雑なモデルを使わざるをえなくなるが、感情システムをより繊細に描くことができる。

タンは実際の観客からの実証データを使用しているので、自信をもって、映画によって引き起こされる感情を分類することができる。彼は、映画による感情への訴えが主として「恐ろしい」か「サスペンスに満ちている」かどうか迷う必要がない。というのも、彼の被験者が映画感情を述べるためにどのレッテルを貼るかを簡単に確かめることができるからである。彼の研究法は「気分と合図の研究法」よりも明確な感情の用語を提示することができる。

だが、彼の機能主義的な考え方は登場人物中心なので、映画の物語法の細かいプロセスを論じるには「気分と合図の研究法」ほど役には立たない。ハリウッドの大ヒット作が目を見張る特殊効果や複雑なサウンドトラックを際立たせ続け、ニュアンスに富んだ人物描写やよくできた古典的な物語構成を凌駕しつつある今、映画批評は、登場人物や筋のみに基づいた感情の理解を採用すべきではない。

これでエド・タンの項は終わり。最後の部分からすると、最近の映画よりも古い映画のほうが好きな私としては、エド・タンの本は役に立ちそう。それに、このスミスの本自体、後半の事例研究では古い名作ばかり論じているし。次回は【トーベン・グローダル:物語の流れの心理学】。それが終わると、「ステラ・ダラス」から始まる事例研究。

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映画構造と感情システム (26)

(ノエル・キャロルの続き)

ノエル・キャロルは同一化という概念からは距離を置いている。彼によると、映画で感情を経験するのに主人公との同一化は必ずしも必要ではない。同じ怪物に対して観客と主人公が叫ぶことは、観客が主人公と同一化していることを意味しない。キャロルは同一化の概念を受け入れていないものの、彼の考え方は登場人物中心で、観客の反応は主人公との協調や主人公の反応に左右される。

キャロルは感情の対象に重点を置いているので、対象のない合図にはあまり注意を向けない。そのため、ホラーやサスペンスの主な要素を登場人物の行動、目標、動機、特徴に限定する傾向がある。キャロルは対象のない合図の可能性を認めているが、何が感情自体を形成するかについての彼の基本的な定義ゆえに、そうした事柄には関心を払わない。キャロルにとって最も重要なことは、何らかの基準によって感情の対象を評価することである。

ただ、基準がどこにあるかは明らかではない。基準は観客の中にあるのか、批評家が作品を分類するために使用する基準なのか。ときどきキャロルが言及しているのは、観客が映画を理解し、映画に反応して感情を経験するために使用する基準である。ホラー映画の観客は、怪物が分類を違反していることに気づくので、恐怖や嫌悪によって反応する。だが、キャロルは基準をジャンルの定義に使用することもある。恐ろしいものがホラー映画を定義する特徴となり、ジャンル評論家としてのキャロルは、その基準に適合する一群の映画によってジャンルを形成することができる。したがって、漠然とした怪物が出てくる「絶対の危機」(1958, The Blob)はホラー映画だが、心理的な悪者は怪物ではないので「サイコ」はホラー映画から除外される。

多くの人々が重要なホラー映画だと考えているものを除外していることは、キャロルの基準がジャンルを構築するためのもので、観客の働きを記述するためのものではないことを示している。評論家によるジャンルの構築と観客による感情の合図の分類は無関係ではないが、非常に異なるものである。キャロルは、ホラー映画に含めたり除外したりするための明確な規則によってジャンルを構築することを望んでおり、これはジャンル評論家にとっては適切なことである。観客は評論家よりもあいまいな論理を使用する。観客は、知覚した合図に基づいて、自らのホラー映画の基準を今見ている映画と大まかに突き合わせる。多くの観客は、自分が持つホラー映画の原型にほとんど「サイコ」が適合するので、「サイコ」をホラー映画に分類する。観客は、キャロルのように恐ろしいものに対する細心の論理的な比較を行うことはない。

観客がホラー映画に分類する特徴を「サイコ」が多く持っていることをキャロルは認める。しかし、キャロルにとって一番の問題はノーマン・ベイツが怪物かどうかである。ノーマン・ベイツは精神分裂病であり、それは現代の科学的な心理学の枠内で受け入れられている人格異常なので、ベイツは怪物ではないとキャロルは主張する。キャロルの分類は、物語、サウンドトラック、視覚スタイルにおけるホラー映画の特徴を識別する観客の働きに基づいていないが、これらは「気分と合図の研究法」にとっては重要な要素である。「気分と合図の研究法」がキャロルの研究法よりもすぐれているのは、登場人物に関する合図のみに頼ることなく映画的感情を説明できることである。

認知哲学は、映画的感情に関して、ハッとする洞察力をもたらすことができる。たとえば、キャロルの著作は「ホラー」と「サスペンス」の原型がどのようなものか鋭く描いている。だが、哲学者の研究が非実証的なために、感情の哲学が非原型的な感情の可能性を検討するのは困難である。「気分と合図の研究法」に対して感情の哲学が持つ主要な価値は、感情の原型をさらに明確にすることである。

(ノエル・キャロルの項終わり)

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2011年6月12日 (日)

日曜はトリュフォーだ!: 「アデルの恋の物語」のインタビュー

「トリュフォーの映画術」の第22章は、トリュフォーの長編14作目「アデルの恋の物語」。1976年のキネ旬ベストテンでは、「トリュフォーの思春期」が3位、「アデルの恋の物語」が7位と快調。しかし、そのあと、「恋愛日記」と「緑色の部屋」という、より個人的で暗い作品を作ってしまうのが娯楽と芸術を綱渡りするトリュフォーのバランス感覚。その次が「逃げ去る恋」というアントワーヌ・ドワネル・シリーズの変なまとめ映画で、若すぎる晩年をしめくくるのが「終電車」「隣の女」「日曜が待ち遠しい!」という、ふっきれたような快作。「アデルの恋の物語」については、私のウェブサイトに断片的に書いているページがあります

トリュフォーはクロード・ピノトー監督の「平手打ち」(1974)でイザベル・アジャーニを見て「圧倒的な感動におそわれ」、それで彼女を選んだそうです。この映画はリノ・バンチュラとアニー・ジラルド主演のコメディらしいです。

トリュフォーは「映画はカラーになって以来、多様性のなかで方向を失っている」と述べており、ブレッソンと同じく、「映画は可能なかぎり集中すべきだ」と思っています。「集中」があまりよくわからないのですが、ブレッソンを引き合いに出したことからすると、たぶん無駄なものをそぎ落とすといった意味じゃないのかと思います。「カラー映画はあまりに多くの情報を与えすぎる」が、カラー映画は当たり前になっているので、場所や登場人物を減らして統一感を作り、より大きな感情を生みだすようにすべきだと述べています。3D映画なんてとんでもないって感じですね。

「アデルの恋の物語」はフランス語版と英語版があります。単に吹き替えただけのものではなく、各シーンのフランス語版を撮影したあと、英語版を撮影するのです。撮影のネストール・アルメンドロスはあとから撮影した英語版のほうが完成度が高いと言っているとトリュフォーが述べていますが、アルメンドロス自身も「キャメラを持った男」(筑摩書房、1990)で同じようなことを述べていると思います。

英語版のおかげで、アジャーニは1975年のアカデミー賞の主演女優部門にノミネートされました。「カッコーの巣の上で」のルイーズ・フレッチャーが受賞しましたが。

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2011年6月11日 (土)

土曜はRTだ!(その2): RTの一問一答 (2011年6月)

今から考えると、サンディ・デニーはバンドの一員として活動したほうが良かったのでしょうか、ソロで活動したのは正解だったのでしょうか。私はフォザリンゲイをもっと続けてほしかった。彼女のソロアルバムは素晴らしいが、古典的になるほど際立ったものはないと思います。

今から考えても、よくわからない。彼女はバンドにいるとリラックスしているようだったが、傑出した人物は自分を試したくなるものだし、彼女は野心的だった。彼女がソロになるのは必然的だったが、残念なことに商業的に成功しなかった。もっと長く生きて、もっと成功していれば、最近のミュージシャンがやっているように、バンドとソロの間を行き来して、両方の利点を楽しんだだろう。

この一問一答で特に面白いのは、ファンがあなたの曲を解釈するのを読むことと、それに対するあなたの反応です。ジョン・レノンが彼の歌詞を分析しようとする試みに対して「アイ・アム・ザ・ウォルラス I Am the Walrus」にナンセンスな言葉を入れることで答えたのは有名です。同じようにしてリスナーの頭をオモチャにして遊ぼうと思ったことはないですか。

リスナーから手かがりを奪うためだけにくだらない歌詞を書くことを心に描くことは難しいが、不可能なことではない。私の考えでは、「アイ・アム・ザ・ウォルラス」はブライアン・エプスタインのお気に入りの言葉を集めたもので、彼に対する一種のトリビュートだと思っているし、作者がどう言おうが、ナンセンスとはほど遠い。適切じゃないかもしれないが、フランク・シナトラが契約義務を履行するためにスタジオに行き、最低の曲を選び、美しくアレンジし、真のシナトラのスタイルで歌ったという話が好きだ。それは「ボクのワンちゃんがウーとうなる My Doggie Goes Woof」という曲だったと思う。

私はギターの弦を指が動くときに出るヒッカキ音にウットリします。人間っぽいからです。あの音を最低限に抑えようとしますか。あれは必然的に出るものでしょうか。それとも技術とか経験に関係するのでしょうか。エレキよりも生ギターのほうがよく出るのでしょうか。本物の演奏が出す音が永遠に続くように。あなたはお嫌いですか。

ヒッカキ音が嫌いなのでクラシックのギターを聴くことができない人々を知っている。最低限に抑えることは可能だが、通常は避けることができない。エレキだと感情の一部として賞賛されることがある(自分もやる)。ジャズ奏者は、フラットワウンド弦(表面に凸凹のないツルツルの弦)を使って、ノイズを抑えようとするが、別の状況だとあまり良い音に聞こえない。ヒッカキ音は我々が共に生きていかなければならないものだと思う。

1月にグラスゴーのロイヤル・コンサート・ホールで行った「ケルティック・コネクションズ」コンサートが素晴らしかったです。あのときの記録はないのですか。

コンサート全体のDVDがもうすぐ発売されるはずだ。

あなたのバンドのドラマー、マイケル・ジェロームはジョン・ケイルともよくライブ演奏をしています。70年代にはティミ・ドナルドとパット・ドナルドソンがあなたとケイルのバックでよく演奏していました。ジョン・ケイルと知り合いなんですか。もしそうなら、彼らをケイルに推薦したのですか。

ジョンは60年代から知っていた。アイランド・レコードやウィッチシーズン・プロダクションの時代からだ。いつも彼のことが好きだし、彼の音楽を楽しんでいる。リズムセクションに関しては偶然だ。誰かドラマーを頼むとき、相性のいいベーシストがいるかどうか聞くのは珍しいことじゃない。

50年代後期から60年代初期にかけてフランダースとスワン Flanders and Swann はイギリスで大変人気がありました。「千年のポピュラー音楽」コンサートで "Slow Train" なんかいかがですか。多くの鉄道の支線がなくなったことを嘆いている歌です。あなたの声に合うし、ほとんどが和音のピアノの部分もギターに合うと思うのですが。

洞察の鋭い提案をありがとう。あのコンビは好きだし、演奏することを考えたことがあるが、いつもギルバートとサリバンやノエル・カワードなど同じ傾向の人たちの曲を演奏してしまう。"Slow Train" は好きだから、次の「千年のポピュラー音楽」コンサートの準備をするときには公平に考慮しようと思う。

オールスターのバンドを組むとしたらだれを選びますか。あなた以外の二人のギタリスト、キーボード奏者、ベーシスト、ドラマーを選ぶとしたら。

ロックのオールスターバンドは使い古されているから、英国からベストプレイヤーを略奪して夢のフォークロックバンドを組むとしたら

マーティン・カーシー Martin Carthy
マーティン・シンプソン Martin Simpson
デイブ・ペッグ Dave Pegg
デイブ・マタックス Dave Mattacks
リチャード・ハーベイ Richard Harvey
マディ・プライア Maddie Prior
サンディ・デニー Sandy Denny

女性シンガーが多すぎる?ギタリストが多すぎる?フィドラーがいないって?

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土曜はRTだ!: She Said It Was Destiny

"Small Town Romance" の姉妹版とも言うべき1982年の生ギター弾き語りライブ "Folk City Broadcast" はリチャード・トンプソン(RT)の承諾なしに発売されるようで、販売を差し止める法的手続きを調査中とのこと。すでに予約していて、13日に発売予定なので、もしかしたら入手できるかもしれません。入手できたとしても複雑な気持ちになりそう。お楽しみはむしろ20日に発売されるCD3枚、DVD1枚のBBCライブのほうで、こっちは正式に発売されます。

鈴木さえ子(敬称略)の1987年のアルバムの邦題は「スタジオ・ロマンチスト」らしいです。私が購入したCDは、ジャケットにも、歌詞カードにも、CD自体にも、"Studio Romantic" としか書いてないんですけど。

日曜に書いたようにRTがエレキギターで "TV Dinner" という曲に参加しています。アルバムにはXTCのアンディ・パートリッジとの共同プロデュースが3曲、鈴木慶一とのが5曲あるのですが、これは鈴木さえ子の単独プロデュース。作詞が鈴木さえ子と鈴木慶一、作曲が鈴木さえ子。ベースが奈良敏博(ナラトシヒロ)、バイオリンがスチュアート・ゴードン Stuart Gordon で、スタクリッジから派生したコーギス Korgis に参加したことがあるようです。鈴木慶一とウツシカワ・マサヨ(たぶん移川マサヨ)がバッキングボーカル。この頃RTはラウドン・ウェインライトと二人で来日したり、グレッグソン&コリスターを含むバンドで来日したりしているから、そのあたりで知り合いになったのでしょうか。

アップテンポでポップなサウンド。終わり近く「マハリク マハリタ ヤンバラ ヤンヤンヤン」という言葉が出てくるのですが、それが違和感ないぐらい軽快。鈴木さえ子の声もアイドルみたいに可愛い。RTのギターの前にバイオリンのソロが入り、RTのギターも少々前衛的で、同じ年の French Frith Kaiser Thompson の "Live, Love, Larf & Loaf" を思い起こさせます。そこではフレッド・フリスがバイオリンを弾いています。ちなみにRTは「ハイサイおじさん」を歌ってます

Black Cab Sessions というタクシーの後部座席でいろんな人が歌うサイトがあるようですね。RTは、DVDの The 1000 Years of Popular Music の二人の女性とともに歌っています。最初のは 1000 Years の中で歌っている曲ですが、ジャズっぽい二曲目は何だろう?聞きとれる歌詞から探ると、My Very Good Friend the Milkman という曲で、オリジナルかどうかわかりませんがファッツ・ウォーラー Fats Waller がよく歌っていたようです。クラプトンも昨年発売したアルバムで歌っているんですね。

The Old Kit Bag (2003) の7曲目は "She Said It Was Destiny"。先週書いたように、全12曲が第1章「呪われた形見 The Haunted Keepsafe」と第2章「放浪者の空想 The Pilgrims Fancy」で6曲ずつ分かれているので、LPでいえばB面の1曲目。

「これも運命ねと彼女は言った。」中川五郎氏による訳を読むと、男が一人称で語っていて、付き合っている彼女と距離ができてきて、男は悩んでいるんだけど、彼女は星の巡り合わせによる運命だからと平然としているらしい。「でも金星と火星が手を組んで一直線に並ぶと / ぼくはいつでもがっくりきてしまう」ってどういう意味なんでしょうね。金星と火星が並ぶっていうのは星占いで何か意味があるのでしょうか。

アップテンポの曲としては、3曲目の "I'll Tag Along" に続いて2曲目。"I'll Tag Along" はストレートすぎて少し物足らなかったけど、これはキャッチーなメロディで、特に "She said it was destiny" から始まる繰り返し部分が魅力的。さっき述べたタクシーの後部座席の真ん中に座って窮屈そうなジュディス・オーウェンのバッキングボーカルも胸キュン。イントロや感想のギターも私の心をグイとつかむ。

YouTubeでは、生ギターの弾き語りライブがアップロードされていますが、アルバムからのは見つからず。このアルバム発売時のバンドでのツアーの演奏を収めた "Ducknapped!" ではピート・ゾーンがバッキングボーカルで色気がないなあ。

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2011年6月10日 (金)

フィルムノワール入門 (9)

アンドリュー・スパイサーの「フィルムノワール」を読んでいます。文化的な影響として挙げている「ハードボイルド小説」「ギャング映画」「ゴッシク小説」「ヨーロッパの影響(1):ドイツ表現派」「ワイマールの「街路映画」と都会派スリラー」「亡命者」「ヨーロッパの影響(2):フランスの詩的リアリズム」「アメリカ表現派:ユニバーサルのホラー映画、バル・リュートン、オーソン・ウェルズ」のうち本日は「ヨーロッパの影響(2):フランスの詩的リアリズム」。残すは「アメリカ表現派」のみ。

【ヨーロッパの影響(2):フランスの詩的リアリズム】

詩的リアリズムという言葉が最初に使用されたのは1933年で、パリの労働者などの下層階級による都会のドラマを指し、破滅や絶望を強調した恋愛または犯罪の物語である。詩情や謎は日常的な物や背景の中にある。不気味さが放出されるのはゴシック的な環境からではなく、日常的な環境からである。

戦前のフランスの批評家は、フィルム・ノワール(暗い映画)という言葉をこれらの作品に使用した。詩的リアリズムが盛んだったのは1936年から39年で、脚本家ジャック・プレベールと監督マルセル・カルネのコンビが支配していた。このコンビは7本の作品を作り、中でも「霧の波止場」(1938)と「陽は昇る」(1939)が重要である。

詩的リアリズムは、日常的で平凡なことを中心とした犯罪小説の伝統を受け継いでいる。代表的な作家はジュルジュ・シムノンで、1930年代初めに著名となり、インテリと一般大衆の両方に人気があった。しかし、シムノンは、アメリカのハードボイルド作家へのフランス人の強い好みと競い合った。カルネはハードボイルドに夢中になった。ジェームズ・M・ケインの「郵便配達は二度ベルを鳴らす」が最初に映画化されたのはフランスで、1939年のピエール・シュナール監督による "Le Dernier Tournant" (The Final Twist) だった。

詩的リアリズムの視覚スタイルはワイマール映画の影響が強く、ドイツのカメラマンや美術監督が雇われることが多かった。ラングやシオドマクなど数名の監督はアメリカに渡る前にフランスで映画を作ったし、フランスの映画人たちもドイツで仕事をした。しかし、詩的リアリズムは表現主義の強い明暗を加減して、より柔らかな画調にしている。詩的リアリズムは、危険と欲望の場所である光輝く舗道とネオンきらめくナイトクラブによって独特の環境を出すのに苦心した。雰囲気を出すために使用されたのは主に影か霧だった。だが、ワイマールの「街路映画」ほどは抽象的に描かれていない。セットはしっかりと設計され、一般的な環境ではなく、特定の環境を作り出している。詩的リアリズムのペースはハリウッドよりもワイマールに近く、しっかりとコントロールされたカメラの動きと長回しを多用し、奥行きのあるセットにおいてショットの切り替えよりもカメラの移動による再枠取りを行った。

ダドリー・アンドリューが "Mists of Regret" で述べているように、詩的リアリズムは、そのペースと執拗な演出によって、出来事よりも登場人物に焦点が当てられており、代表的な主人公はフィルムノワールを予感させる。欲望の危険は、「街路映画」のように、ファム・ファタールまたは「さまよう女」によって表現される。さまよう女のベレー帽と輝くレインコートは夜の都会を彼女の身体に反射させ、まるで彼女が中身のない表面のみの存在のように見える。主人公の男性は、混乱し、受身となり、分裂し、内省的になる。代表的な俳優はジャン・ギャバンで、いつもアウトサイダーで、ロマンチックで、自己破壊的な力にとりつかれている。ギャバンは、性的にも社会的にも複雑であいまいな現代の普通の男という新たな男性像を作り上げた。彼のタフで男性的な力は、女性的な感受性ともろさによって打ち負かされることが多く、この点でアメリカ映画の主人公と異なる。まともな労働者や兵士を演じるが、自分にはどうすることもできない環境によって、罪を犯してしまう。フィルムノワールの多くの主人公のように、彼の過去は常にほのめかされるが、完全に打ち明けられることはない。アメリカ映画の主人公と違うのは、彼がいつも死んでしまうことで、「望郷」(1937)などのフランス映画のほうがアメリカのフィルムノワールよりもわびしいし、より運命論的である。照明、雰囲気、図像、性格づけ、特にギャバンの苦悩にさいなまれた主人公は、フィルムノワールを予示している。

「霧の波止場」はフランスで1938年に公開された映画の中で最もヒットした。イギリスやアメリカの知識人の間でも、大人っぽい内容と洗練された映像によって賞賛された。詩的リアリズムの作品のうち何本かはアメリカで再映画化された。ルノワールの「牝犬」(1931)はフリッツ・ラングによって「スカーレット・ストリート」(1945)として再映画化されたし、「陽は昇る」は、アナトール・リトバク監督、ヘンリー・フォンダ主演で "The Long Night" として再映画化された。

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2011年6月 9日 (木)

映画構造と感情システム (25)

私のブログの検索や記事のランキングは、全体的な人数の少なさのために、どれぐらいあてになるものかわかりませんが、それにしても「砂漠の白い太陽」に人気があるのが不思議。

グレッグ・M・スミスの「映画構造と感情システム」を読み進んでいて、今回から第4章「その他の認知主義 Other Cognitivisms」を読みます。(Greg M. Smith, "Film Structure and the Emotion System," Cambridge University Press, 2003)

第5章からは具体的な映画を分析しています。キング・ビダー監督、バーバラ・スタンウィック主演の「ステラ・ダラス」(1937)、エイゼンシュテインの「ストライキ」(1925)、ルノワールの「ピクニック」(1936)と「どん底」(1936)、ウェイン・ワンの「ジョイ・ラック・クラブ」(1993)、そしてマイケル・カーティス監督、ボガートとバーグマン主演の「カサブランカ」(1942)です。「どん底」と「ジョイ・ラック・クラブ」が手元にないので、昨日注文しました。「どん底」は、クライテリオンから発売されている黒澤明のとセットになったものです。なんとか今月中に第4章を終わらせて、来月から始めたいと思います。

この章では、この本の筆者の先輩が映画の感情について立てた仮説について、主として彼らとの違いについて述べています。

  • ノエル・キャロル Noel Carroll
  • エド・タン Ed Tan
  • トーベン・グローダル Torben Grodal

筆者の「気分と合図の研究法 mood-cue approach」は、登場人物ではなくスタイル上の感情の合図を映画の感情反応における決定的な要因しているのに対し、他の人たちは、登場人物の動機、行動、目標に重きを置いています。

【ノエル・キャロル:対象の哲学】

ノエル・キャロルは、認知哲学で得た洞察を幅広く映画に応用している。視点、映画の力、音楽、サスペンス、ユーモア、ホラーなどであり、特にホラーを詳細に研究している。映画のすべてを説明しようとする大理論を避ける「断片的」理論を発展させているが、どのようにして映画が幅広い観客に感情を喚起させるかという中心的な質問に何度も立ち返っている。(断片的理論 (piecemeal theory)については、彼とDavid Bordwell の共同編集による "Post-Theory: Reconstructing Film Studies" の第2章 "Prospects for Film Theory: A Personal Assessment" 参照。)

彼の研究の中心はハリウッド映画である。サスペンスやホラーといったジャンルは感情への訴えの観点から定義されているので、これらのジャンルがどのように構成されているのかに焦点を当てている。彼の著作 "The Philosophy of Horror" では、ホラー物語は物語世界における怪物の存在が重要であると述べている。怪物は社会における分類をあいまいにする。「ザ・フライ」では人間と昆虫の区別が、ゾンビ映画では生者と死者の区別があいまいになる。怪物は、理解を超え、信じがたく、概念をあいまいにする特性に対する恐怖と嫌悪を喚起させる。観客は、知らないことや信じられないことを知りたいという欲望によって、怪物が喚起する嫌悪に喜んで耐え忍ぶ。"The Philosophy of Horror" は、ホラーというジャンルを定義しているだけでなく、そのジャンルが感情に訴える力の本質を論じている。

「原型的な感情」が対象を持つという点で、私(スミス)はキャロルと共通している。すなわち、原型的な感情は外部世界の何かに対して向けられたものである。だが、「気分と合図の研究法 mood-cue approach」では対象のない感情の状態が存在し、それらは非原型的な感情の状態である。キャロルは、何らかの対象に向けられていない状態は非原型的なだけでなく、感情でさえないと言う。キャロルにとって、純粋に身体的な状態は感情ではなく、感情には何らかの対象の認知が含まれていなければならない。「怒りの対象として働く誰かか何かがなければ、怒ることはできない。」キャロルは、非原型的な感情の状態は、感情システムに対して長期間の影響をほとんど及ぼさない限定的な現象だと考える傾向がある。

対象のないデータも対象のあるデータも、脳の感情センターである扁桃体によって処理されるから、対象のない感情の状態を感情に含めたほうが理にかなっている。

キャロルの定義と私の定義との違いは、異なる種類の証拠への信頼から生じている。哲学者キャロルは実証実験の代わりに思考実験を使う。彼がSFについて論じているとき、感情の生理への影響を刺激する薬を想像する。その薬を使用した者が感情の対象をもたず、感情に関する認知も持たないとしたら、その薬の経験はどのようなものなのだろう?哲学者にとって、この実験は心の訓練であり、より明確に感情の本質について思考するよう導いてくれる。私は、心理学と神経学の研究を通じて発見された一連のものに基づいて定義を行う。

どの定義を選ぶかは感情の概念化に大きな影響を及ぼす。キャロルは、対象を持たない状態を本来の感情から除外することによって、彼が最も重要な構成要素と考える認知に注意を限定することができる。認知によって感情が互いに異なるのであれば、感情の区別を説明したいと望む研究者は、主として感情の対象に関する認知を扱えばいい。感情に対象が必要なのであれば、研究者は、その対象と、いかに対象が知覚されるかに集中することができる。

そうすると、ホラーは、ある対象が恐ろしいと決定することが問題となる。すなわち、対象が我々の概念区分を犯していると決定することが問題となる。この実験によって何らかの身体的反応が喚起されるが、ホラーを理解する鍵は、感情を喚起する対象、すなわち怪物についての我々の認知を理解することである。純粋に身体的な状態は感情経験の重要な一部かもしれないが、因果関係においては重要ではない。キャロルによると、「感情は、原因として認知を必要とし、効果として身体の状態を必要とする。」哲学者キャロルは、このような考えによって、感情に合図を送る物語上の対象に対する我々の認知に焦点をあてる。

キャロルは、必然的に、物語世界、特に登場人物に重点を置くようになる。彼は、作品の物語手法からではなく、物語世界の怪物の特徴によってホラーを定義する。怪物ではない登場人物もホラーに重要である。彼らは、どのように観客が怪物に反応すべきかの手本として機能するし、恐怖や嫌悪を感じるよう観客を促す。キャロルは、同様に、登場人物たちと、彼らに対する観客の忠実さ(allegiance) からサスペンスを定義している。サスペンスは、観客が好意を寄せる人物に悪いことが起こる可能性に左右される。登場人物との忠実という前提がなければ、キャロルによるサスペンスの概念は説明的な価値を失うであろう。サスペンスとホラーは、観客の登場人物に対する評価と感情面での忠実さに左右される。

(ノエル・キャロルの項続く)

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2011年6月 8日 (水)

キートンの短編映画 (17): 「キートンの白日夢」

エルビス・コステロのテレビ番組「スペクタクル」のシーズン2のDVDは当初4月末発売予定だったのですが、それが6月7日に延期になって、やっと見ることができると思ったら、ファンタシウムから入荷が数日遅れるという連絡が。ケン・ローチの「ケス」と「英国王のスピーチ」も一緒に注文していて、それらは4月中に入荷しているのですが、一緒にお預けをくらっています。4月にファンタシウムから二本を先に送りましょうかと申し出があったのですが、別に早く見たいわけでもないので一緒でいいですと返事をしたのを少々後悔しています。

キートンの短編16作目 "Daydreams" が過去に日本で映されたときの題名は「成功々々」。70年代のリバイバル・シリーズは途中で中止になったので、この「キートンの白日夢」という邦題で公開されたことがあるのかどうか。

彼女と結婚するためにいろんな職に就くという話で、各仕事で失敗するというパターンがきちんとしているので、連想式にとりとめもなく展開していくことが多いキートン作品の中では、あまりふさわしい題名だとは思えません。しかし、私の辞書には "day dream" には「楽しいが夢のような計画」という意味があると書いてあるので、夢見心地で遠くをぼんやり見ながら花占いをしていて仕事なんて全然できそうにないキートンが結婚するために職に就くと考えること自体が白日夢なのかもしれません。

アメリカでは1922年9月公開。この年の正月前後に公開された10作目あたりの「船出」や「警官騒動」を頂点にして、質が落ちている気がするのですが、あの頃は2ヵ月ごとに公開していたのに、この頃は1ヵ月ごとに公開されているということも影響しているのでしょうか。初期のころも1ヵ月おきの公開だったので、「船出」や「警官騒動」の頃に力が入っていたということでしょうか。そのあたりの具体的な撮影事情がさっぱりわかりません。それを知りたくて、Gabriella Oldham の "Keaton's Silent Shorts" という本を購入したのですが、作品自体の非常に細かい分析が中心で、映画制作に関する本ではありませんでした。

キートンが仕事を変えるごとに彼女に手紙を出して、実際よりも体裁よく書いているものだから、彼女が立派なキートンの姿を夢見ますが、そのキートンと実際のショボいキートンのギャップから面白さを出そうとしています。彼女が夢見ているから「白日夢」なのか。その彼女は、シビル・シーリーでもバージニア・フォックスでもなくルネ・アドレーという女優さん。シーリーはキートンの短編以外ほとんど出ていないし、フォックスもキートンの短篇に出るまでに何本がチョイ役で出演しているぐらいで、"An Encyclopedic Dictionary of Women in Early American Films 1895-1930" という本には載っていませんが、フランス出身のルネ・アドレーは載っています。1925年のキング・ビダーの「ビッグ・パレード」が代表作らしいです。

キートンが就く職は、犬猫病院の世話係、道路清掃員、舞台のエキストラです。各々、彼女には病院の医師、ウォール街の株成金、シェークスピア俳優と告げています。彼女が最初に夢見る病院の医師のシーンは私が見たDVDにはないのですが、キートンが外科手術の前に看護婦に手伝ってもらって白衣を着ているスチール写真はよく見かけます。もともと編集段階でカットされたのか、完全なフィルムが残存していないのか。

各エピソードにおけるギャグが面白いから退屈しませんが、後半は警官との追っかけになり、「警官騒動」の二番煎じという感じがします。でも、ゆっくり走っているうちに加速度をつけてフルスピードになるキートンを見るのは快感です。

私のキートン採点表(5つ星満点)

  1. 「マイホーム」 ★★★★★
    奇抜に作られた家が秀抜で、この中心がしっかりしているし、その前後も充実している。
  2. 「囚人13号」 ★★★★
    とりとめもないが、ブラックなジョークがシュール。
  3. 「スケアクロウ」 ★★★
    可愛いシーリーとの初々しい恋愛以外、普通に面白い。
  4. 「隣同志」 ★★★★
    両脇にアパートがあって、真ん中に塀があるという中庭が良い。
  5. 「化物屋敷」 ★★
    銀行の前半は接着剤のついた札束を使ったドタバタがくどいし、後半の化物屋敷のドタバタもありきたり。
  6. 「ハード・ラック」 ★★★
    私が年取ったからなのか、枠組がしっかりしたものに安心するようで、とりとめもないものが苦手になってます。
  7. 「ハイ・サイン」 ★★★
    キートンがアーバックルから独立して最初に作った短編。 キートンが気に入らなくてお蔵入りになっていたが、新作を撮影中に負傷したため、やむなく公開。
  8. 「強盗騒動」 ★★★★
    ノンストップのチェイスもの。
  9. 「一人百役」 ★★
    多重撮影で出演者がすべてキートンという着想は面白いが、中身が伴わない。
  10. 「船出」 ★★★★★
    私にとってのキートンの最高傑作短編。家族四人がボート遊びに出かけて散々な目にあう。
  11. 「白人酋長」 ★★★★
    お馬鹿な蝶々収集家が酋長に祭り上げられ、インディアン部族を利権争いから救い、部族の娘と結ばれる。
  12. 「警官騒動」 ★★★★★
    大量の警官に追いかけられるアナーキーなキートン。
  13. 「華麗なる一族」 ★★
    室内でのドタバタが中心。地味で貧乏臭い。
  14. 「鍛冶屋」 ★★★
    個々のエピソードは面白いが、それらの結果がひとかたまりになってキートンに襲いかかってくるというダイナミックさがない。
  15. 「北極無宿」 ★★★
    シュールな珍品。
  16. 「白日夢」 ★★★
    キートンが三つの職に就く全体の構成がきちんとしているし、各エピソードに含まれているギャグも面白いが、新鮮味を感じない。

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2011年6月 7日 (火)

1978年6月第1週に見た映画

6月10日(土) 青春の蹉跌 (新宿?) 3点
6月10日(土) 化石の森 (新宿?) 3点 
6月10日(土) 雨のアムステルダム (新宿?) 2点
6月10日(土) アフリカの光 (新宿?) 3点

ショーケン特集は「新宿伊勢丹横の東宝の映画館」で見たので、正式な映画館名を調べようと、その文言で検索したら、7年ほど前に書いた「このオールナイトは良かった」という自分のページが出てきて、役に立ちませんでした。たぶんビレッジ1か2という名前の映画館じゃないかと思います。映画研究部の仲間数名と見に行きました。全体的に点数が低い。「青春の蹉跌」なんて、もっと面白かった印象があるのですが。

その「青春の蹉跌」は神代辰巳監督、萩原健一、桃井かおり、壇ふみ出演。1974年のキネ旬では批評家4位、読者3位で、ショーケンが主演男優賞。NHK-FMの夜10時ごろ、毎月だったか、飯島正さん、登川直樹さん、品田雄吉さん、佐藤忠男さんの四人で映画時評をやっていました。1974年に高校三年生だった私は、誰かが「主演の男優が何をしゃべっているのかよく聞きとれない」というようなことを言ったのを聞いたような気がします。ショーケンが独り言で「つまんねえなあ」みたいなことをいつもモゴモゴしゃべっていたような印象があります。原作石川達三、脚本長谷川和彦、撮影姫田真左久、音楽井上堯之。goo であらすじを読んでみると、基本的には金持ちの娘と結婚するために付き合っている彼女を始末するという「陽のあたる場所」などでおなじみのパターン。それを上昇志向のなさそうなショーケンがやるのが面白かったのかな。1974年といえば、10月から半年間、日本テレビ系で土曜夜10時に放映されたショーケンと水谷豊の「傷だらけの天使」がめっぽう面白くて、あれも神代辰巳が何話か演出しているし、元スパイダースの井上堯之が大野克夫と音楽を担当しているし、桃井かおりが出てくる話もありました。「太陽にほえろ!」はまったく興味なかったなあ。

「化石の森」は篠田正浩監督の1973年の作品。キネ旬では二人が投票しただけで50位。でも、ショーケンは、この年4位に入った市川崑の「股旅」があるし、この前年には5位の「約束」があるから、順調に俳優としてのキャリアを積んでいたようです。「化石の森」は病院が舞台のドラマで、原作石原慎太郎、脚本山田信夫、撮影岡崎宏三、音楽武満徹。共演は二宮さよ子、八木昌子、杉村春子ら。私が1973年から購読し始めたキネ旬で宣伝や記事が載っていたので、その点で懐かしい作品。

蔵原惟繕監督の「雨のアムステルダム」(1975)は「青春の蹉跌」に次ぐ萩原健一主演作。これもキネ旬では二人が投票しただけで54位。「約束」の岸恵子と再び共演。脚本山田信夫、撮影岡崎宏三、音楽井上堯之。共演は三国連太郎、アラン・キュニー、松橋登ら。

同じ年の「アフリカの光」は神代辰巳監督。こっちは四人が投票して、1位に推している人が一人いるので26位。原作丸山健二、脚本中島丈博、撮影姫田真佐久、音楽井上堯之。共演田中邦衛、桃井かおり、高橋洋子、藤竜也ら。萩原と田中がアフリカに行くのを夢見ている北海道の漁村の若者だそうです。この頃までにシラケ世代の代表としてのショーケンが消費し尽くされたのか、次の「八つ墓村」(1977)や「影武者」(1980)からイメージが少々変わります。すでに1975年から1977年のテレビドラマ「前略おふくろ様」で以前のイメージから変わりつつあったのでしょうか。

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1978年6月に見た映画 (概観)

【手狭に生きる】

作家の曽野綾子さんってテレビにもよく出ていた美人で知的なおばさまという印象があるのですが、「新潮45」6月号を読んでいたら、50歳まで極度の近眼で自分の顔さえよく知らなかったそうです。そのため引っ込み思案で人と付き合うことができないので、ひがみを持つようになったが、それは解放感も与えてくれたと書いています。「「手狭に」ひっそりやるなら過労にもならずに済むものなのである。「手広く」やれば、多くの人によく思って貰わねばならない、という現実的な問題も出て来る。しかし「手狭に」生きるなら、人がどう思うかなどということもさして問題にならない。」

今度、8月にクライテリオンから蔵原惟繕作品集とジャン・ビゴ作品集が出る予定で、昨日両方を予約しましたが、偶然にも33年前にこの二人の作品を見ています。「雨のアムステルダム」と「アタラント号」です。

第1週

6月10日(土) 青春の蹉跌 (新宿?) 3点
6月10日(土) 化石の森 (新宿?) 3点 
6月10日(土) 雨のアムステルダム (新宿?) 2点
6月10日(土) アフリカの光 (新宿?) 3点

第2週

6月14日(水) アタラント号 (新宿アートビレッジ) 5点
6月15日(木) 流れ者 (池袋文芸坐) 2点
6月15日(木) 追悼のメロディ (池袋文芸坐) 4点
6月17日(土) 素晴らしき放浪者 (大塚名画座) 4点
6月17日(土) ピクニック (大塚名画座) 5点
6月18日(日) アデルの恋の物語 (三鷹オスカー) 5点
6月18日(日) まぼろしの市街戦 (三鷹オスカー) 5点
6月18日(日) 恋人たちの曲悲愴 (三鷹オスカー) 5点

第3週

6月21日(水) 白夜 (池袋文芸坐) 3点
6月21日(水) 少女ムシェット (池袋文芸坐) 4点
6月22日(木) わが心のふるさと (早稲田松竹) 5点
6月22日(木) ネットワーク (早稲田松竹) 3点
6月25日(日) ボクサー (新宿昭和館) 5点
6月25日(日) 銀蝶渡り鳥 (新宿昭和館) 3点
6月25日(日) ジャコ万と鉄 (新宿昭和館) 4点

以前の鑑賞記録はこちら

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2011年6月 6日 (月)

映画構造と感情システム (24)

「ミス・ブロディの青春」の米盤DVDが届いたので、さっそく見ましたが、娯楽作品としては後半深刻すぎるし、芸術作品としては前半面白すぎて、複雑な気持ち。当時マギー・スミスの旦那さんだったロバート・スティーブンズ演じる美術教師に今ひとつ魅力が感じられないのが残念で、女子生徒パメラ・フランクリンが彼を誘惑しようとすることに説得力がない。アラン・ベイツなら良かったのに。アカデミー主演女優賞を獲得したマギー・スミスが好演しているのは当然としても、裸になってまで奮闘するパメラ・フランクリンも好演で、最後の二人の対決ではマギー・スミスに引けを取らない。米盤DVDでは彼女と監督ロナルド・ニームの解説を聞きながら映画を見ることもできます。あと、「逢びき」の真面目な主婦シリア・ジョンソンがすっかり年配の女性になって、校長役でいい味を出しています。あの女子校は、中学なのか高校なのかよくわかりませんでしたが、中学と高校が一緒になっているのですね。というより、中学と高校は分かれていないのですね。

さて、「映画構造と感情システム」の「ストレンジャー・ザン・パラダイス」の箇所の続き。

この繰り返される音楽の合図は別れのシーン自体には流れない。多くの合図を同時に送ると、すでに確立している控えめな感情への訴えからこのシーンが浮き上がってしまう。そのかわりに、その前後で音楽を使用して、別れの重要性をより微妙なものにしている。このように、「ストレンジャー・ザン・パラダイス」は、綿密に構成された最小限の感情の枠組を保ちつつ、個々の瞬間においてより強い感情を微妙に喚起させようとしている。

この映画は、観客が気づかないように感情の合図を送る手法も使用している。音響効果という通常観客が意識することがない手法によって、けっこう濃い合図を送っている。遠くからの撮影のわりに近くから音を拾っている。タバコの包装を解くパリパリという音や椅子が床をこする音などである。会話の間が長いことが多いので、こうした近くからの音は、より明確で重要となる。

視覚的に登場人物から離れ、聴覚的に彼らに近づくことは、映画では視覚が支配的なので視覚の工夫のほうが気づきやすいということを逆手にとっている。観客は会話やスクリーミン・ジェイ・ホーキンズの「アイ・プット・ア・スペル・オン・ユー」以外には音にさほど注意を向けないので、ジャームッシュは、映画全体の控えめな調子を壊すことなく、音響効果によって濃い合図を送ることができる。

最初の二幕と比べると、第三幕はかなり目標志向になっている。ウィリー、エディ、エバの三人はフロリダに行って、ギャンブルで大金を得ようとする。この映画で初めて登場人物たちはどこかへ行って、何かをするので、観客は、より正確に感情を分類することができる。彼らがフロリダに到着したときの興奮がわかるし、エディが金をすったときにエバとウィリーが怒っていると推測できる。第三幕は、お金をすって、取り戻して、再びするというコメディのひねりが利いた古典的な物語映画のように見える。ここでの脚本は、「野郎どもと女たち」(1955, Guys and Dolls)から「ゴー!★ゴー!アメリカ/我ら放浪族」(1985, Lost in America) までのギャンブルに関するコメディの伝統に多くを負っている。

目標志向が強まることで、より直接的に感情に訴えてくるし、クライマックスに対して強く反応するよう観客は促される。この目標志向を最初から見せていたら、視覚的に奇妙だが、より伝統的な物語映画だと観客は分類していただろう。ジャームッシュは、目標志向のほとんどないところから始めて、控えめな感情の合図を期待するよう観客に求めたので、予想以上の結果を生むこととなった。

微妙な感情の枠組を確立することに努力しながら、最後に目標志向の物語になる点で、「ストレンジャー・ザン・パラダイス」は「ローカルヒーロー」に似ている。このやり方は、あからさまに指示することなく、感情的に満足できる結果を観客にもたらすことができる。観客は、情報の少ない映画だと分類するが、感情面で際立っているものとしてクライマックスを解釈するよう求められる。情報の濃い場面が長く続かない限り、観客は枠組を修正することがないので、非常に強い感情をもたらすラストを見て劇場を出たあとでも、微妙な作品だという印象を持ち続ける。

(第3章「気分と合図による研究法 The Mood-Cue Approach」終わり。次回からは第4章「その他の認知主義 Other Cognitivisms」)

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2011年6月 5日 (日)

日曜はトリュフォーだ!: 第21章「まとめII 1969年-1974年」

「笑点」で一笑いしたあとの流れで「真相報道バンキシャ!」を見たら、バラカンさんがコメンテーターとして出ていました。こんな番組にも出るのかと思いながら30分ほど見ましたが、しゃべる機会はほとんどありませんでした。録画しているので後半は明日にでも見てみます。木曜日に書いた鈴木さえ子さんのアルバムは「スタジオ・ロマンチスト」ではなく「スタジオ・ロマンチック」でした。訂正しておきます。"Happy Families" はアンディ・パートリッジの曲をバラカンさんが訳して、それをもとに鈴木慶一さんとさえ子さんが歌詞を書いたようです(この二人はすでにお別れになっているようです)。で、うれしい驚きはリチャード・トンプソンが1曲参加していること。"TV Dinner" という曲なんですが、You Tube では見当たりません。鈴木さえ子さんは「ケロロ軍曹」の音楽も書いているんですね。(あとでわかったことですが、鈴木さえ子さんのアルバムの題名は "Studio Romantic" と表記されているものの、邦題は「スタジオ・ロマンチスト」らしいです。まぎらわしい。)

さて、「トリュフォーの映画術」を読み進めていくことにしましょう。

「アメリカの夜」で、バレンティナ・コルテーゼがあるシーンを撮影中にいつも最後に開けるドアを間違えてしまい何度もNGを出すというエピソードがありました。あれはトリュフォーがメイク係の女性から聞いた実話で、「あの気の毒なマルティーヌ・キャロルが、最後の出演作で、あるシークェンスの撮影中にドアを間違えてしまったというものです」。なぜマルティーヌ・キャロルは気の毒なんでしょうか。最後の出演作って何なのでしょうか。マルティーヌ・キャロルはマックス・オフュルスの「歴史は女で作られる」で主人公ローラ・モンテスを演じていて、カイエ・デュ・シネマ派の間で評判の高い映画なので、主演女優にも何らかの思い入れはあったでしょう。セクシー女優だった彼女はブリジット・バルドーの出現によって人気が落ち、60年代には薬物中毒になって、1967年に心臓発作で46歳で亡くなります。最後の作品は "Hell Is Empty" というイギリス作品ですが、さて、この作品にドアを開ける場面はあるのでしょうか。それとも、フランスでの最後の作品のことを言っているのでしょうか。どれもDVDで出てなさそうだし、それを捜すほど興味はない。

撮り直しを何度もするといえば、子猫がうまくミルクをなめてくれないというエピソードもありましたが、あれは「柔らかい肌」の撮影中に経験したことがもとになっていて、実際、「柔らかい肌」に子猫がミルクをなめる場面があります。

トリュフォーを映画に惹きつけたのは物語で、「俳優がある人物を演じ、それによってなにか興味深いことが彼らに生じる」という映画が好きなので、そのような物語を描かない現代映画に不満なようです。「物語を語る人間がわたしだけになったとしても、わたしはいつまでも物語を語り続けるつもりです。」

オーソン・ウェルズ、イエジー・スコリモフスキー、イングマル・ベルイマンといった演劇出身の人たちは、観客を退屈させるのを恐れるので、長々と映画を撮らないが、ジャック・リベットなどの文学的な監督は、直接観客と接する機会がないので、13時間半もの映画を作ると指摘しています。ベルイマンは撮影の計画が入念で、上映時間が1時間半を超えることは絶対にないとトリュフォーは述べていて、確かにこの頃の「叫びとささやき」も1時間半ぐらいですが、1982年の「ファニーとアレクサンデル」はけっこう長かったです。3時間版と5時間版があるようですが、私が1986年に高田馬場東映パラスで見たのはどっちだったのでしょう。

私は「ピアニストを撃て」が大好きなので、トリュフォーが次のように語るのにはガッカリしてしまいます。いったん作品を世に放ったら、あとは観客に任せればいいと思うのですが。「「ピアニストを撃て」は正直にいってひどい作品でした。自分でも気づいていなかったのですが、ジャンルがあまりに不統一です。観客は常識的なものの見方に慣れています。だから、いままでに観てきたたくさんの映画と相反するような真実をとつぜん突きつけられたら、馬鹿にされているような印象を持つことでしょう。」一般大衆なら戸惑うかもしれませんが、普通の映画じゃ物足りない観客にとっては調子がコロコロ変わるところが面白い映画なんだから。でも、トリュフォーはこのあと観客の期待に沿った常識的な映画を作り続けるかといえば、そういうわけでもないので、話半分に聞いておきましょう。

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2011年6月 4日 (土)

土曜はRTだ!: First Breath

リチャード・トンプソン(RT)の2003年のアルバム The Old Kit Bag は全12曲入りで、第1章「呪われた形見 The Haunted Keepsafe」と第2章「放浪者の空想 The Pilgrims Fancy」に6曲ずつ分かれています。このようにLPのように分けてくれると覚えやすくてありがたい。LP時代のアルバムをCD再発する際には、A面とB面を分けて表記してくれればいいのにといつも思ってます。本日の「ファースト・ブレス」は6曲目で、A面の最後に相当します。

昔ウィークエンドサンシャインで1曲目特集や最後の曲特集を組んだことがあって、各々エルビス・コステロのデビューアルバムの最初の曲とリチャード&リンダ・トンプソンの「シュート・アウト・ザ・ライツ」の「ウォール・オブ・デス」をかけてもらいました。A面最後の曲特集を組んでほしいと頼んだとしても、古いおじさんしかリクエストが来ないだろうから却下されますかね。A面最後って特権的な場所でしょうか。私が最初に購入したアルバムは「小鳥と蜂とモンキーズ」なんですが、そこにはマイク・ネスミスの意欲的な長い曲が入っていて、全体的にポップなアルバムの中で意欲的な分だけ面白くなくて、今はその曲だけ飛ばして聴いています。フェアポートの3枚目「アンハーフブリッキング」の「船乗りの生涯」はトラッドを11分演奏する意欲的なものだし、5枚目「フル・ハウス」の「スロース」も長い曲でした。私が持っている数少ないローリング・ストーンズのアルバム「ベガーズ・バンケット」には「ジグソーパズル」という長めの曲が入っていて、ミック・ジャガーがディラン風に唄っていて、アルバムの中では少々異色に感じます。ビートルズは、「プリーズ・プリーズ・ミー」「プリーズ・ミスター・ポストマン」「キャント・バイ・ミー・ラブ」「カンザス・シティ」「涙の乗車券」「ミッシェル」「イエロー・サブマリン」「ビーイング・フォー・ザ・ベネフット・オブ・ミスター・カイト」「アイ・アム・ザ・ウォルラス」「ハピネス・イズ・ア・ウォーム・ガン」「アイ・ウォント・ユー(シーズ・ソー・ヘビー)」などそうそうたるものですが、他にも良い曲がアルバム中にちりばめられているので、A面最後が特権的な場所というわけでもないでしょう。RT自身はどうかというと、長くなりそうなので、別の機会に。(「リボルバー」のA面最後が「イエロー・サブマリン」だと勘違いしていて、本当は「シー・セッド・シー・セッド」でした。でも「オールディーズ」のA面最後が「イエロー・サブマリン」なので残しとくか。)

前置きが長くなったのは「ファースト・ブレス」についてある程度の量の文章が書けるかどうか不安だから。言葉少なな歌詞を長く引っぱって歌う、ゆっくりした物憂げな曲で、なんか苦手。このアルバムの中で一番長く、7分以上ある。RTの生ギター弾き語りにダニー・トンプソンのダブルベースとマイケルジェロームのパーカッションがお供する。途中、ハーモニウムなのかエレキギターなのか何か漠然とした音がうしろのほうで聞こえるような気がします。

Let's love
What's left
Last dance
First breath

が繰り返し部分。「愛し合おう、残されたもの、最後のダンス、最初の一息」。他の部分も具体的ではないので、歌詞から物語を見つけ出そうとしても無理。短い言葉の中から何かをイメージしなきゃいけないのだろうか。何度も聴くうちに、知り合った男女がゆっくりと最初の営みへと進んでいくイメージがわいてきました。人生に絶望気味の若い二人が出会って、何かフッと新鮮な希望が見えてくるといった映画を思い浮かべられないこともない。

ジョゼ・ジョバンニ原作、ジャン・ピエール・メルビル監督の「ギャング」の原題は Le deuxieme souffle で、これを英語にすると second breath。「新たな活力」という意味だそうです。

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2011年6月 3日 (金)

フィルムノワール入門 (8)

【亡命者】

フリッツ・ラングは、第二の人生をアメリカで送った数多くのドイツ人監督の一人。ワイマール映画の評判とその創造的ですぐれた技術によって、ドイツの映画人はハリウッドにとって喉から手が出るほどの人材だった。ナチの台頭と1933年のヒットラーの権力掌握によって、すでに確立されていた亡命に拍車がかかった。監督では、ラングのほかに、ウィリアム・ディターレ、オットー・プレミンジャー、ロバート・シオドマク、脚本家兼監督のビリー・ワイルダー、撮影技師のジョン・アルトン、カール・フロイント、ルドルフ・マテが亡命してきたし、俳優、美術監督、脚本家、音楽監督らもやってきた。多くはフィルムノワール以外のジャンルで働いたし、多くのフィルムノワールはオーストリアやドイツの影響を感じさせない。彼らが来る前から表現主義的な照明技術はすでにハリウッドのスタイルの一部になっていた。ハリウッドの古典的な物語作法は、より厳格な表現主義の技法によって部分的に変形しただけだった。商業主義のアメリカ映画は表現主義による「精神錯乱の風景 landscape of delirium」を求めようとはしなかった。表現主義の技法は、悪夢のシークエンスで最も強く発揮された。そこでは、あからさまに主観的になり、主人公の散らばった断片を描くために内面に入り込む。ただ、直接影響を受けるよりも、より自意識の強い演出、明暗の強い照明、飾りっ気のないセット、よく動くカメラ、断片的な物語構成を通じて、以前からの慣行の上に、加減された表現主義を乗せる程度だった。

シオドマクやラングなど、ある程度アメリカの文化を吸収した者がハリウッドで成功した。ワイルダーやラングはアメリカの生活に魅了されたが、同時に批判的でもあった。故郷とアメリカの両方から距離を置く彼らは、完全にヨーロッパ風でもアメリカ風でもない分裂気味の芸術像を作りだした。ユダヤ系オーストリア人であるワイルダー、プレミンジャー、エドガー・ウルマーの感受性は、アメリカに移住する前にカトリック教が支配するウィーンにおけるユダヤ人として「国内での亡命」を経験したことによって形成された。1930年代にアメリカに帰化した彼らは、アメリカに関する詳細な知識やアメリカの民主主義と生活様式への愛着や関心を発展させる一方で、アウトサイダーであり続け、部分的な同化と超然とした批評的態度をとり続け、思考と表現の自由を抑圧しようとする試み、特にマッカーシズムに警戒した。亡命者は、ヨーロッパの現代主義の痕跡を残すように「血塗られたメロドラマ」を形成することができたが、今度は「血塗られたメロドラマ」がアメリカの表現主義によって影響を受けることになる(これは今後説明)。

「フィルムノワール事典」(Film Noir: An Encyclopedic Reference to the American Style) に含まれている監督と撮影監督の作品は次のとおり。

フリッツ・ラング
 Beyond a Reasonable Doubt 条理ある疑いの彼方に
 The Big Heat 復讐は俺に任せろ
 The Blue Gardenia 青いガーディニア
 Clash by Night 熱い夜の疼き
 Fury 激怒
 Human Desire 仕組まれた罠
 Ministry of Fear 恐怖省
 Scarlet Street スカーレット・ストリート
 Woman in the Window 飾窓の女
 You Only Live Once 暗黒街の弾痕

ウィリアム・ディターレ
 The Accused 美しき被告
 Dark City 虐殺の街
 The Turning Point 黒い街

オットー・プレミンジャー
 Angel Face 天使の顔
 Fallen Angel 堕ちた天使
 Laura ローラ殺人事件
 The Thirteenth Letter
 Where the Sidewalk Ends 歩道の終わる所

ロバート・シオドマク
 Christmas Holiday クリスマスの休暇
 Criss Cross 裏切りの街角
 Cry of the City 都会の叫び
 The Dark Mirror 暗い鏡
 The File on Thelma Jordon 血塗られた情事
 The Killers 殺人者
 Phantom Lady 幻の女
 Uncle Harry

ビリー・ワイルダー
 The Big Carnival 地獄の英雄
 Double Indemnity 深夜の告白
 Sunset Boulevard サンセット大通り

エドガー・ウルマー
 Detour 恐怖のまわり道
 Murder Is My Beat
 Strange Illusion

ルドルフ・マテ(監督作品のみ。撮影監督としての作品は含まれていない)
 Dark Past
 D.O.A. 都会の牙
 Union Station 武装市街

ジョン・アルトン(撮影監督)
 The Big Combo 暴力団(ジョセフ・ルイス監督)
 Border Incident (アンソニー・マン監督)
 Canon City (クレイン・ウィルバー監督)
 The Crooked Way 銃弾都市(ロバート・フローリー監督)
 He Walked by Night 夜歩く男(アルフレッド・ワーカー監督)
 The Hollow Triumph(スティーブ・セクリー監督)
 I, the Jury 俺が掟だ!(ハリー・エセックス監督)
 Mystery Street(ジョン・スタージェス監督)
 The People Against O'Hara(ジョン・スタージェス監督)
 The Pretender(W・リー・ワイルダー監督)
 Raw Deal(アンソニー・マン監督)
 Slightly Scarlet 悪の対決(アラン・ドワン監督)
 T-Men(アンソニー・マン監督)
 Talk about a Stranger(デビッド・ブラッドリー監督)

カール・フロイント (撮影監督)
 Key Largo キー・ラーゴ(ジョン・ヒューストン監督)
 Undercurrent(ビンセント・ミネリ監督)

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2011年6月 2日 (木)

映画構造と感情システム (23)

Greg M. Smith の Film Structure and the Emotion System を読んでいるわけですが、毎日訳すのはやめて、以前に戻って月曜と木曜に発表します。もっとまとめた形で発表できるよう努力いたします。

全然話関係ないけど、ハーパーズ・ビザールの「ポケットフル・オブ・ミラクルズ」をYou Tubeで聴いていたら、彼らが「ハッピー・トーク」も歌っているのを発見しました。私が好きなのはアンディ・ウィリアムズの奥さんだったクロディーヌ・ロンジェが歌っているものです。もともとはミュージカル「南太平洋」の曲なんですが、私が最初に知ったのは友人が聴かせてくれたフェアチャイルドのものでした。それは You Tube で見つからなかったけど、当時まったく興味なかったフェアチャイルドの映像をいくつか見たら、You さんて魅力的だったんだなあと今更ながらに思います。バックの演奏もしっかりしているけど、仲が悪くて解散したらしい。正式なドラマーはいなかったらしく、女性が叩いているものがある。で、インターネットで調べいるうちに、このドラマーが鈴木さえ子さんだと判明。鈴木さえ子さんといえば昔NHKでバラカンさんと一緒にFM番組をやっていた人で、イギリスに行ってXTCのアンディ・パートリッジと一緒に仕事をした人じゃないですか。番組で "Happy Families" がかかったときに、パートリッジは「いきますか」が「ミッキーマウス」と聞こえるらしいと鈴木さんがしゃべっていました。番組でかかったのはXTCのだったのか鈴木さんのだったのか。エンジニアがサンダークラップ・ニューマンの「サムシング・イン・ジ・エア」の人で、あれが最初の仕事だったらしいと鈴木さんが言うと、バラカンさんが「それで中間のピアノの音がひどいのか」とか言って、笑ったような気がします。鈴木さえ子さんは鈴木慶一さんの奥さんなのかな?(その鈴木さえ子さんのアルバム「Studio Romantic スタジオ・ロマンチスト」の中古盤を注文しました。その中で「サムシング・イン・ジ・エア」をカバーしています。これとトラフィックの "Hole in My Shoe" のどちらかをカバーするつもりだったと言っていたような気がします。)

で、「ストレンジャー・ザン・パラダイス」の続き。エディがドッグレースに行ってお金を賭けたいと言うと、観客はギャンブルでお金を全部すってしまうというハリウッドおきまりの最小台本が浮かんできて、実際に期待どおりになる。

「ストレンジャー・ザン・パラダイス」はウンベルト・エーコいうところの開かれた作品であり、情報の少ない作品で暗示された物語に対して観客は積極的に参加しなければならない。こうした作品は、「レイダース」のような閉じられた作品のように観客の反応を指示しない。しかし、すべての映画は、以前見た映画に基づいて解釈を行うよう観客に求める。この二本によるジャンルの台本の使用の違いは、規模や頻度によるもので、開かれた作品と閉じられた作品の間の手法上の根本的な相違はない。感情に訴える合図を送るために「レイダース」は大きなジャンルの原型(連続活劇)とジャンルの最小台本を使用しているが、「ストレンジャー・ザン・パラダイス」は、観客が感情に関する仮説を立てるのを導くために、より小さい規模の物語台本をもっぱら使用している。

「ストレンジャー・ザン・パラダイス」のコッケイな効果の多くは、特定の状況で作品や登場人物がどうするかに関する観客の期待だけでなく、ハリウッドの物語が何を見せてくれて何を見せてくれないかに関する観客の理解にも依存する。登場人物の冗談が笑いを誘うこともあるが、会話が終わってからしばらくして場面が変わるときに生じる笑いもある。

古典的なハリウッド映画はドラマティックな行動のない場面は省略するし、ドラマティックな緊張がまだ続いているうちに場面を変える傾向がある。「ストレンジャー・ザン・パラダイス」では物語と無関係の長い間のあとで場面が変わる。古典的な映画であれば省略するであろう、筋の展開に何ら影響を与えない場面が出てくる(ぼんやりテレビを見ているとか)。こうした場面や間を映画作家が含めたことに対する観客の驚きによってユーモアが生まれる。このようなジョークを面白がる観客もいれば、不満に思う観客もいるだろうが、どちらの観客も、映画が何を見せてくれて何を見せてくれないかに関する仮定を違反していることは認識している。怒りを感じるかユーモアを感じるかは、どのように映画の語りがストーリーを提示するかに関して観客が全体的にどのような原型を持っているかによる。

いったん観客の期待が確立すると、監督は標準的な感情の合図から少しずつ変化させ、ミニマリストとしての基準による感情のピークを作り出すことができる。いったん観客が情報の多い感情の合図が期待できないと知ると、感情の合図の情報が増えるにつれて、まだ「レイダース」よりもはるかに情報が少ないのに、比較的高い地点にまで感情は高まる。

物語外から不定期的に聞こえてくる弦楽器のソロは、エバとウィリーの別れのあたりでより頻繁に聞こえてくる。当初、このソロはシーン間の隙間を埋めるために使用されるのだなと観客は思う。第一幕ではあまり聞こえてこないが、このソロが出てきてもさほど驚かないぐらいは聞こえてくる。そのため、エバがウィリーの贈り物を拒絶するシーンの終わりに出てくるときには、この合図に対して観客は用意ができている。エバがクリーブランドに旅立つために荷造りする次のシーンの終わりにも出てくる。次の別れのシーンでは音楽が使用されていないが、その次のシーンでウィリーからもらったドレスを脱ぐときに、弦楽器のソロが流れる。ミニマリストの文脈からすれば、別れの場面でのジャンルの最小台本による感情への訴えに加えてのこの合図はかなり急である。こうした要素によって、別れの部分は、感情がピークに達する場面の一つとなっており、哀感さえ生じさせるほどである。

この弦楽器のソロは別れのシーン自体には使用されていない。ジャンルの最小台本と音楽を同時に使用すると、感情の合図を伝えすぎて、すでに確立されている控えめな感情の訴えと調和しない。その代わりに前後のシーンで使用することによって、別れの重要性をより微妙に示している。このように、「ストレンジャー・ザン・パラダイス」は、個々の瞬間のためにより強い感情を微妙に喚起させつつ、注意深く構築された最小限の感情の枠組を保っている。

(続く)

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2011年6月 1日 (水)

キートンの短編映画 (16): 「北極無宿」

ずっと前にニフティから光回線への勧誘電話があって、こちらも乗り気になって30分だか1時間ぐらいだか、説明を聞いたり、自分の情報を伝えたりしました。「あとでNTTから連絡がある」というので電話を待っていたら、NTTからは私の地域では光回線がまだ使えないとのこと。じゃあ、その前の電話は何だったんよ!というわけで、光回線と聞いただけで私の怒りのスイッチが入るのです。1年前にもニフティから勧誘の電話があったので、そのときのことを話したら、すぐに「すみませんでした」と言って引きさがりました。昨日も夕方に勧誘の電話があり、「お時間のほう大丈夫だったでしょうか」というカチンとくる言葉づかいがあり、光回線の説明をしようとするので、「ADSLで満足していますから」と繰り返していたら、最後は少々お怒りになられたような感じでした。こっちにカチンとくる権利はあっても、勝手に電話をかけてきたそっちが怒る権利はない。年老いた母親から同じ話を何度も聞かされる貴重な時間に電話なんてかけてこずに、メールを使えばいいじゃないか。地上デジタルみたいに光回線しか使えなくなる日が来ないことを祈る。

さて、不愉快な気分が収まったところで、本日はキートンの短編15作目「北極無宿」(The Frozen North)。アメリカでの公開は1922年8月。監督・脚本は、いつものとおりキートンとエディ・クラインの共同。

これ珍品です。実は夢を見ていたという枠組みと、当時話題の映画のパロディだということでいくらか許せるにしても、少々残酷。たとえば、家に帰ると妻が男とイチャイチャしているので、キートンはピストルで二人を射殺する。ところが、実は隣の家に間違えて入って、そこの夫婦を射殺したのです。それをまったく気にせず、自分の家に帰るキートン。最後のほうでは、キートンが女性を乱暴しようする。女性が床に横たわって泣いているところに夫が帰ってきて、キートンともみ合いになる。そこへ通りかかったキートンの妻がキートンを撃つ。倒れたキートンは、力をふりしぼり、助かったことを抱き合って喜んでいる夫婦にピストルを向ける。そこで映画館の掃除人に叩き起こされる。

フラハティの「極北のナヌーク」、ウィリアム・S・ハートの西部劇、シュトロハイムの「愚かなる妻」などが混在しているようです。女性を乱暴しようとするのは「愚かなる妻」のパロディだというのはわかる。キートンが一瞬ドイツ将校のような格好に変身するから。間違って隣の家に入り、妻が男と浮気していると思い込むところで、キートンは涙を流すが、これはウィリアム・S・ハートが映画の中で必ず一度は泣くというのをパロディにしたもので、これを見たハートは気分を害して二年間キートンと口をきかなかったとか。

夢だから連想式に話が進行し、全体の脈絡がない。キートンが地下鉄の終着駅を降りると北国で、なぜか背中に洗濯物らしき靴下をぶら下げているところから変な感じ。ジョー・ロバーツが運転するソリをひっぱる10頭ほどの犬の中に子犬が何匹も混ざっていたり、だだっ広い雪原でなぜかお巡りさんが交通整理をしていたり、スピード違反を取り締まる警官がいたりする。氷上で釣りをするシーンは笑えました。近くで釣りをしていた人の糸とからまり、力強く引っ張ると、その人を釣り上げてしまうのです。

バージニア・フォックスとよく共演するようになったキートンですが、この作品にはフォックスは出ていなくて、たまにしか出なくなったシビル・シーリーが奥さん役で出演しています。やっぱり奥さんはシビル・シーリーなんですかね。最後彼女に射殺されてしまいますが、「マイホーム」や「船出」でひどい目にあった恨みでしょうか。1921年5月に結婚したナタリー・タルマッジとの結婚生活がうまくいってなかったのか、夢見ごこちの悪い作品です。

私のキートン採点表(5つ星満点)

  1. 「マイホーム」 ★★★★★
    奇抜に作られた家が秀抜で、この中心がしっかりしているし、その前後も充実している。
  2. 「囚人13号」 ★★★★
    とりとめもないが、ブラックなジョークがシュール。
  3. 「スケアクロウ」 ★★★
    可愛いシーリーとの初々しい恋愛以外、普通に面白い。
  4. 「隣同志」 ★★★★
    両脇にアパートがあって、真ん中に塀があるという中庭が良い。
  5. 「化物屋敷」 ★★
    銀行の前半は接着剤のついた札束を使ったドタバタがくどいし、後半の化物屋敷のドタバタもありきたり。
  6. 「ハード・ラック」 ★★★
    私が年取ったからなのか、枠組がしっかりしたものに安心するようで、とりとめもないものが苦手になってます。
  7. 「ハイ・サイン」 ★★★
    キートンがアーバックルから独立して最初に作った短編。 キートンが気に入らなくてお蔵入りになっていたが、新作を撮影中に負傷したため、やむなく公開。
  8. 「強盗騒動」 ★★★★
    ノンストップのチェイスもの。
  9. 「一人百役」 ★★
    多重撮影で出演者がすべてキートンという着想は面白いが、中身が伴わない。
  10. 「船出」 ★★★★★
    私にとってのキートンの最高傑作短編。家族四人がボート遊びに出かけて散々な目にあう。
  11. 「白人酋長」 ★★★★
    お馬鹿な蝶々収集家が酋長に祭り上げられ、インディアン部族を利権争いから救い、部族の娘と結ばれる。
  12. 「警官騒動」 ★★★★★
    大量の警官に追いかけられるアナーキーなキートン。
  13. 「華麗なる一族」 ★★
    室内でのドタバタが中心。地味で貧乏臭い。
  14. 「鍛冶屋」 ★★★
    個々のエピソードは面白いが、それらの結果がひとかたまりになってキートンに襲いかかってくるというダイナミックさがない。
  15. 「北極無宿」 ★★★
    シュールな珍品。

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