映画構造と感情システム (25)
私のブログの検索や記事のランキングは、全体的な人数の少なさのために、どれぐらいあてになるものかわかりませんが、それにしても「砂漠の白い太陽」に人気があるのが不思議。
グレッグ・M・スミスの「映画構造と感情システム」を読み進んでいて、今回から第4章「その他の認知主義 Other Cognitivisms」を読みます。(Greg M. Smith, "Film Structure and the Emotion System," Cambridge University Press, 2003)
第5章からは具体的な映画を分析しています。キング・ビダー監督、バーバラ・スタンウィック主演の「ステラ・ダラス」(1937)、エイゼンシュテインの「ストライキ」(1925)、ルノワールの「ピクニック」(1936)と「どん底」(1936)、ウェイン・ワンの「ジョイ・ラック・クラブ」(1993)、そしてマイケル・カーティス監督、ボガートとバーグマン主演の「カサブランカ」(1942)です。「どん底」と「ジョイ・ラック・クラブ」が手元にないので、昨日注文しました。「どん底」は、クライテリオンから発売されている黒澤明のとセットになったものです。なんとか今月中に第4章を終わらせて、来月から始めたいと思います。
この章では、この本の筆者の先輩が映画の感情について立てた仮説について、主として彼らとの違いについて述べています。
- ノエル・キャロル Noel Carroll
- エド・タン Ed Tan
- トーベン・グローダル Torben Grodal
筆者の「気分と合図の研究法 mood-cue approach」は、登場人物ではなくスタイル上の感情の合図を映画の感情反応における決定的な要因しているのに対し、他の人たちは、登場人物の動機、行動、目標に重きを置いています。
【ノエル・キャロル:対象の哲学】
ノエル・キャロルは、認知哲学で得た洞察を幅広く映画に応用している。視点、映画の力、音楽、サスペンス、ユーモア、ホラーなどであり、特にホラーを詳細に研究している。映画のすべてを説明しようとする大理論を避ける「断片的」理論を発展させているが、どのようにして映画が幅広い観客に感情を喚起させるかという中心的な質問に何度も立ち返っている。(断片的理論 (piecemeal theory)については、彼とDavid Bordwell の共同編集による "Post-Theory: Reconstructing Film Studies" の第2章 "Prospects for Film Theory: A Personal Assessment" 参照。)
彼の研究の中心はハリウッド映画である。サスペンスやホラーといったジャンルは感情への訴えの観点から定義されているので、これらのジャンルがどのように構成されているのかに焦点を当てている。彼の著作 "The Philosophy of Horror" では、ホラー物語は物語世界における怪物の存在が重要であると述べている。怪物は社会における分類をあいまいにする。「ザ・フライ」では人間と昆虫の区別が、ゾンビ映画では生者と死者の区別があいまいになる。怪物は、理解を超え、信じがたく、概念をあいまいにする特性に対する恐怖と嫌悪を喚起させる。観客は、知らないことや信じられないことを知りたいという欲望によって、怪物が喚起する嫌悪に喜んで耐え忍ぶ。"The Philosophy of Horror" は、ホラーというジャンルを定義しているだけでなく、そのジャンルが感情に訴える力の本質を論じている。
「原型的な感情」が対象を持つという点で、私(スミス)はキャロルと共通している。すなわち、原型的な感情は外部世界の何かに対して向けられたものである。だが、「気分と合図の研究法 mood-cue approach」では対象のない感情の状態が存在し、それらは非原型的な感情の状態である。キャロルは、何らかの対象に向けられていない状態は非原型的なだけでなく、感情でさえないと言う。キャロルにとって、純粋に身体的な状態は感情ではなく、感情には何らかの対象の認知が含まれていなければならない。「怒りの対象として働く誰かか何かがなければ、怒ることはできない。」キャロルは、非原型的な感情の状態は、感情システムに対して長期間の影響をほとんど及ぼさない限定的な現象だと考える傾向がある。
対象のないデータも対象のあるデータも、脳の感情センターである扁桃体によって処理されるから、対象のない感情の状態を感情に含めたほうが理にかなっている。
キャロルの定義と私の定義との違いは、異なる種類の証拠への信頼から生じている。哲学者キャロルは実証実験の代わりに思考実験を使う。彼がSFについて論じているとき、感情の生理への影響を刺激する薬を想像する。その薬を使用した者が感情の対象をもたず、感情に関する認知も持たないとしたら、その薬の経験はどのようなものなのだろう?哲学者にとって、この実験は心の訓練であり、より明確に感情の本質について思考するよう導いてくれる。私は、心理学と神経学の研究を通じて発見された一連のものに基づいて定義を行う。
どの定義を選ぶかは感情の概念化に大きな影響を及ぼす。キャロルは、対象を持たない状態を本来の感情から除外することによって、彼が最も重要な構成要素と考える認知に注意を限定することができる。認知によって感情が互いに異なるのであれば、感情の区別を説明したいと望む研究者は、主として感情の対象に関する認知を扱えばいい。感情に対象が必要なのであれば、研究者は、その対象と、いかに対象が知覚されるかに集中することができる。
そうすると、ホラーは、ある対象が恐ろしいと決定することが問題となる。すなわち、対象が我々の概念区分を犯していると決定することが問題となる。この実験によって何らかの身体的反応が喚起されるが、ホラーを理解する鍵は、感情を喚起する対象、すなわち怪物についての我々の認知を理解することである。純粋に身体的な状態は感情経験の重要な一部かもしれないが、因果関係においては重要ではない。キャロルによると、「感情は、原因として認知を必要とし、効果として身体の状態を必要とする。」哲学者キャロルは、このような考えによって、感情に合図を送る物語上の対象に対する我々の認知に焦点をあてる。
キャロルは、必然的に、物語世界、特に登場人物に重点を置くようになる。彼は、作品の物語手法からではなく、物語世界の怪物の特徴によってホラーを定義する。怪物ではない登場人物もホラーに重要である。彼らは、どのように観客が怪物に反応すべきかの手本として機能するし、恐怖や嫌悪を感じるよう観客を促す。キャロルは、同様に、登場人物たちと、彼らに対する観客の忠実さ(allegiance) からサスペンスを定義している。サスペンスは、観客が好意を寄せる人物に悪いことが起こる可能性に左右される。登場人物との忠実という前提がなければ、キャロルによるサスペンスの概念は説明的な価値を失うであろう。サスペンスとホラーは、観客の登場人物に対する評価と感情面での忠実さに左右される。
(ノエル・キャロルの項続く)
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コメント
「ほとんどが当時作成したトップテンですが、」と書かれているのを、「そうそう。そうなんだよ。」とわかるのは、80年代後半に青春を送ったエアチェック世代までの気がします。
良音質を得たかったらFMラジオでエアチェック。
ついでにテープレコーダーにラベルを丁寧に書き、テレビやラジオでの番組が発表するヒットチャート(小林さんのベストヒットUSAなど)とは別に、自分基準のメモを残す…。
これらすべての手作り感覚は、おそらくレンタルCD-ROMによって駆逐されたのでしょうね。
「70年代の若者の感覚」が生データで残っているのは貴重だと感じました。
そういう私も、まもなく不惑。
投稿: | 2011年6月11日 (土) 21時29分