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2011年5月31日 (火)

1978年5月第5週に見た映画

今まで散々オーランチオキトリウム、オーランチオキトリウムと言ってきた勝谷さんですが、昨日の配信メールでは効率性が不確かだからもっと勉強するとか書いていました。藻が石油を作ると最初知ったときはビックリでしたが、オーランチオキトリウム以外の藻での研究は各国で以前から行われていたようです。オーランチオキトリウムは生産効率がこれまで発見された藻よりも10倍高いので注目されているようです。

5月30日(火) 秋刀魚の味 (銀座並木座) 5点
6月01日(木) 最後の人 (新宿アートビレッジ) 半分寝た
6月01日(木) ヴァリエテ (新宿アートビレッジ) 4点
6月01日(木) 嘆きの天使 (新宿アートビレッジ) 5点
6月02日(金) ポケット一杯の幸福 (東京12) 4点
6月04日(日) 風と共に去りぬ (池袋文芸坐) 4点

これまでも日本映画の名作はときどき見ていましたが、日本映画が本当に面白いと感じたのは、このときの「秋刀魚の味」が最初。これがきっかけとなって日本映画もよく見に行くようになって、この年から日本映画のトップテンも選ぶようになりました。「秋刀魚の味」に関しては7年近く前に仮想上映しているので、こちらでどうぞ

「最後の人」は「半分寝た」と書いていますが、退屈だったからではなく、寝不足だったからだと思います。それと、すでにこの年の1月に同じアートビレッジで見ていたのです。そのときは4点。当時は監督のFWムルナウについてどう思っていたか知りませんが、今では映画史上最高の監督の一人だと思っています。撮影カール・フロイント、脚本カール・マイヤー。サイレントの物語映画なのに字幕なしでうまく語る力量がすごい。エミール・ヤニングスの大げさな演技のおかげもあるかもしれない。

立派な服を着てホテルの玄関に立つドアマンが老齢のために大きな荷物が持てなくなってトイレ番に降格となり、もぬけの殻のようになってしまう。そこで終わりかと思いきや、突然遺産が舞い込んできて、そのホテルで贅沢三昧をするという後日談がくっつている。遺産が舞い込んだことを説明する字幕がこのサイレント映画唯一の字幕。キネ旬の「ヨーロッパ映画作品全集」では、アメリカに輸入するためにやむをえずハッピーエンドにしたとか。

キノから出ているムルナウの6枚組に入っているので、今回あらためて見ました。画面がきれいだし、ちゃんとした音楽が付いています。もっと抑えた演出や演技ならシミジミとした味わいが出てきたでしょうが、ヤニングスの演技があまりに大げさすぎるのと、彼が住むアパート界隈のおばさんたちの扱いから考えると、喜劇的な要素は最初からあったわけで、終わりのほうのハッピーさは唐突ではない。終わりのほうだって手を抜かずにちゃんと作られているし、主人公にやさしくした夜警の老人とごちそうを食べたり、彼に代わってトイレ番になった老人にやさしくしたりと、愉快でたまらない。このつけたしのラストのために最初のほうをわざと悲惨にしたんじゃないかと思ってしまうほど。

「ヴァリエテ」は1925年のサイレント映画で、これもエミール・ヤニングス主演。監督はEAデュポン。空中ブランコの曲芸師ヤニングスの妻が太って曲芸の相手ができなくなったので、小娘(リア・デ・プッティ)に芸を仕込んでコンビを組むが、小娘のとりこになって駆け落ちする。そこへ若い曲芸師が登場して小娘と仲良くなったので、嫉妬で若い男を刺して、自首する。撮影はカール・フロイントとカール・ホフマン。

「嘆きの天使」は1930年のトーキーで、監督はジョセフ・フォン・スターバーグ、主演はまたまたエミール・ヤニングス。三本ともウーファのプロデューサー、エリッヒ・ポマーによる作品なのでした。学校教師ヤニングスが踊り子マレーネ・デートリッヒに夢中になり、学校をやめて彼女と一緒に旅芸人となる。

これらは当時の感想が残っているので転載しますが、今回はそのまま転載せずに、少々訂正します。

「最後の人」「ヴァリエテ」「嘆きの天使」の三本立てを見た。最後に「嘆きの天使」を見たのだが、これの印象が強く、他の作品は半ば忘れてしまった。

「嘆きの天使」がショックだったは、エミール・ヤニングス扮するラート教授が発狂するところだ。あまりに悲しい。「アデルの恋の物語」でも主人公は発狂するが、こちらはヤニングスの異常な演技、当時のドイツ映画の異様なムードで、怪奇映画以上に怖い作品だ。ヤニングスが演じる人物は三本とも狂人の一歩手前だ。人間の内面のドロドロした部分が見せつけられるようで、こっちはただただ怖い。見たあとは気が沈んでしょうがない。

「ヴァリエテ」も「嘆きの天使」も、女のために破滅していく男の話だ。「ヴァリエテ」の女は空中ブランコ乗りで、ヤニングスもブランコ乗りだ。二人は夫婦同然の仲なのだが、女は一緒に組むようになったハンサムなブランコ乗りに奪われてしまう。女は可愛い悪魔的な女性で、誰とでも寝るような女で、別に悪びれない。二人がいい仲なのを知ったヤニングスは男を殺してしまう。

刑務所で10年前を回想する形で話が始まるのだが、終わってまた刑務所に戻ったときのヤニングスの顔は、刑務所に長くいればこんな顔になるのかと思うくらい嫌悪すべき顔だ。自分もこういう顔を持っているのかなあと思うとゾッとする。みじめったらしさ、怒り、思いつめた感じで、まさに狂気の一歩手前の顔だ。

「嘆きの天使」は、もう初老の教師がキャバレーの女にぞっこんになってしまい、学校をやめ、彼女の世界に入る。これが彼の運のつきで、当時は尊敬されていたであろう教師が、人々を楽しませる、つまり一般人より低い職につくのだから、うまくいくはずがない。彼が以前教師をしていたところで興行をすることになり、彼はピエロをやるのだ。こんな屈辱があるだろうか。女は別の男といちゃつく。こんな文章を書いたって映画の雰囲気はわからないだろうが、男が発狂するのも当然すぎるぐらい当然の結果であり、どうにもやり場のない映画なのだ。

ところで「ヴァリエテ」は、半分ぐらい切られたのを上映したみたい。

「ポケット一杯の幸福」は1976年2月にすでにテレビで見ており、2009年2月にここで振り返っているので、そのときのを転載します。

アメリカで1961年クリスマス公開の心温まるコメディで、フランク・キャプラの最後の作品。といっても、彼が亡くなったから最後の作品になったわけではなく、引退したから最後の作品になったわけで、実際に亡くなるのは、この30年後で、94歳の長寿でした。ということは、引退したときは、まだ64歳だったわけだ。しかし、この頃の64歳は今の74歳ぐらいの感じなんだろうか。原題は "Pocketful of Miracles" で、キャプラは1933年にも同じ原作で "Lady for a Day" という映画を作っています。こちらの邦題は「一日だけの淑女」。そのときはデイモン・ラニアンの原作をキャプラ作品でおなじみのロバート・リスキンが脚色したのですが、今回さらに別の人が脚色しているようです。リンゴ売りのばあさんベティ・デイビスは娘をスペインの尼僧学校に預けているが、その娘が伯爵の息子と結婚することになり、伯爵たちと一緒にニューヨークにやってくる。ベティは、自分が貴婦人であると娘に偽っていたので、困ってしまう。その様子を見たヤクザの親分グレン・フォードは、自分がここまでのしあがってこれたのは彼女からリンゴを買っていたおかげだと思っていたので、彼女を貴婦人に仕立て、子分や踊子たちを紳士淑女に扮装させてパーティーを開く。ユナイテッドアーティスツ配給作品で、プロデューサーはキャプラやグレン・フォードら、音楽ウォルター・シャーフ、撮影ロバート・ブロナー。ほかの出演者は、ホープ・ラング、アーサー・オコネル、ピーター・フォーク、トーマス・ミッチェル、エドワード・エベレット・ホートン、アン・マーグレット、ジャック・イーラムら。白黒の記憶があるのだけど、私のテレビが白黒だったからで、本当はカラーらしい。しかもワイドスクリーンで136分あるから、DVDでちゃんと見てみたい。

というわけで、このあと、 MGM Holiday Classics Collection というケイリー・グラントの「気まぐれ天使」とローレルとハーディの「玩具の国」との三枚組のアメリカ盤を購入したのでした。ハーパーズ・ビザールがカバーしたテーマ曲が大好き

超有名な「風と共に去りぬ」は割愛。

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2011年5月30日 (月)

映画構造と感情システム (22)

昨日の番組を見たら、石油を作る藻オーランチオキトリウムはちゃんとしたもので、研究者も魅力的な人でした。勝谷さんが配信メールで書いていたように、海外にヘッドハンティングされることなく日本のために貢献しようとされているようです。名前を覚えておかなきゃいけないな。筑波大学の渡邊信(わたなべまこと)教授です。勝谷さんの言うように、被災のために塩で使えない田んぼで国を挙げて大々的に開発すればいいのに。

【レイダースよりも奇妙な】

観客は、感情の合図がどのように構成されているのかはわからないだろうが、感情に関する情報が多い作品と少ない作品の違いを感じ取ることができる。この違いが観客の好みの基盤となることがあり、感情への訴えを押しつけてくる、情報の多い作品を好む観客もいれば、感情への訴えが弱い、情報の少ない作品を好む観客もいる。情報量が異なっても、通常、作品はこれから提供するであろう感情の合図の程度や種類に関してかなり安定した期待を観客に持たせる。観客は「ローカル・ヒーロー」のような感情の情報が少ない作品を「地味な」とか「微妙な」映画だと分類し、最後の4分の1で情報がかなり多くなってもその分類を保持する傾向がある。

感情の情報が少ない作品は、目が高くて積極的に関わろうとする観客の解釈技術を必要とする。そういう観客を引きつけるには、希薄な情報の枠組を確立する必要がある。「ストレンジャー・ザン・パラダイス」は、「レイダース」のように観客の感情反応を指示しようとする努力の少ない作品である。いったん感情の枠組が確立して、感情への訴えが弱い映画だと分類すれば、「ストレンジャー・ザン・パラダイス」は大事なときに情報の多い合図を送ることが自由にできる。

「ストレンジャー・ザン・パラダイス」は、映画の表現的な特性をほとんど使用していない。空間と時間を持続させるために各シーンはワンショットで撮影されている。カメラは一箇所に設置されており、登場人物を追うために時折動くだけである。登場人物は離れたところから撮影されているので、細かい表情はほとんどわからない。室内シーンは少し高いところから撮影されていることが多く、エバ(エスター・バリント)の髪とウィリー(ジョン・ルーリー)とエディ(リチャード・エドソン)の帽子によって顔の一部が隠れる。彼らはカメラから顔をそむけていることが多く、観客は表情が読めない。白黒の照明が平板で、彫りの深さといったものがないので、散漫でわびしい気分以外の感情が伝わってこない。室内はほとんど装飾が施されておらず、ほぼ白紙状態の中に登場人物が配置されている。音楽は物語の内外からたまに聞こえてくるだけだし、会話の間も長いことが多い。

観客が登場人物の感情を分類するのを助けてくれる明確な目標を登場人物たちは持たない。登場人物たちは、怠け者の放浪者で、クリーブランドやフロリダへ行くという地理的な目標は持っている。実際に目的地に到着しても、彼らはほとんど何もせず、テレビを見たり、トランプをしたりするだけである。第一幕では地理的な目標への前進さえない。第一幕の関心は待つということである。エバはウィリーのアパートで10日間過ごさなければならない。個人的な目標が暗示されることもあるが(たぶんエディかウィリーがエバに夢中になる)、直接的には示されない。主として、登場人物は目標の追求以上に退屈によって行動を起こしているように思える。

観客の解釈を導いてくれるジャンル特有の合図もない。ときどきロードムービーのように見えることがある。不条理喜劇に見えることもある。伝統的なジャンルの分類を無視しているので、ジャンルの原型がもたらす感情に関する一連の期待が与えられない。

感情の合図を読み取るのに最も役立つのはジャンルの最小台本であり、ジャンル作品全体の構成を見渡す大きな台本ではない。観客の頭にあるジャンルの最小台本は、セリフを一行か二行聞くだけで素早く簡単に呼び覚まされる。「ストレンジャー・ザン・パラダイス」は、ハリウッド作品との違いを保ちつつ、観客がハリウッド作品との数多くの出会いを通じて蓄積してきた小さな物語台本を利用しながら、認識できるジャンル形式といった明確な戦略に頼ることなく、感情反応を引きだすことができる。

エバがウィリーと10日間過ごしたあとクリーブランドに旅立つとき、観客は彼らの別れが互いに相手を気づかっている者の切ない別れのシーンだと分類できる。観客は、それ以前に彼らが些細なことでケンカするのを見ており、数多くのロマンチックコメディでの経験から、議論のやりとりは恋愛的な興味があることの表現だと読むことができる。一方、彼らは本当にケンカしているのかもしれない。ウィリーがエバにドレスを買ってやるとき、映画は観客を前者の解釈に向かわせる。別れの際、彼女の荷物を見るウィリーの顔が演出によって強調されており、別れを悲しんでいるというほのめかしが他にないかと彼を見つめるよう観客は促される。

観客は、互いの気持ちがわからないまま別れるカップルというジャンルの最小台本によって、彼らのぎこちない別れを解釈するよう促される。この別れは、悲しく、切なく、強く心に訴えるので、哀れみを催させる合図を送っているように見える。この場面が悲しいのは、呼び覚まされるジャンルの最小台本によるところが大きい。情報の多い感情の合図だと、この映画の情報の少ない枠組と比較した場合、あからさますぎる。

(続く)

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2011年5月29日 (日)

映画構造と感情システム (21)

【感情に訴える力の分類:目標志向と希薄な情報】(続き)

通常、古典的映画は主人公の変化に焦点を当てている。物語全体の目標を達成しようとしている間に、主人公は何度も自分の内面の変化を経験する。通常、目標志向と内面の変化は関連している。しかし、「ローカル・ヒーロー」では、内面の変化と物語全体の目標は関連していない。土地取引の追求が停止したとき、マッキンタイアが温和な人物へと変身するのが始まる。この変身が自分にとっての目標となるが、この目標は短いコッケイな合図によって断続的に追求されるだけである。「ローカル・ヒーロー」は、一連のコッケイなエピソードによってマッキンタイアの変身を暗示する。マッキンタイアの詳細に関する描写が村民に関する描写より目立つことはあまりない。映画の初めのほうで確立された物語全体の目標は、その達成に向かう強力で直線的な進行によってシーンをまとめるだけの力をすでに持たない。進行は、力強い目標志向から断続的になり、単純な直線の筋書きからエピソード集になり、確固としたものから散発的なものになる。スコットランドを舞台にした部分のほとんどは、このように目標志向が比較的弱いので、感情の分類が明確でなくなる。

「気分と合図に基づく研究法」では、ジャンルや目標に関連した感情の原型を利用できない場合、非原型的に体系化された感情の合図に頼らなければならない。解決策の一つは、気分を持続させる素早い一連の小さな合図を整理することであろう。映画は、観客を導く目標やジャンルの期待がほとんどない場合でも、合図のペースを速めることで気分の方向性を強めることができる。

「ローカル・ヒーロー」は、最初の印象では、特にペースが速いように見えない。しかし、細かく調べると、驚くほど速いペースで感情の合図を送っていることがわかる。それらの合図は短いし、あっさりしている。合図が目立つことも、くどくもないことは、観客が「ローカル・ヒーロー」を「微妙な」作品とみなす一因となっている。

「ローカル・ヒーロー」は、「微妙な」性質を伝えるのを手助けするために音楽を選んでいる。「レイダース」のような目立つ音楽は感情に訴えようとしていることがミエミエなので、マッキンタイアがスコットランドに到着したときはほとんど音楽を使用していない。音楽は、スコットランドを舞台にした部分の初めのほうでは、たまに使われ、それから時間や空間が変わるときに移行の工夫として使われる。そうした音楽の合図ははっきりと機能的に使用されているので、明確な感情の合図として前面に出ることはない。

続いて、地元の人々がダンスをするシーンで物語内の音楽が聞こえてくる。マーク・ノップラーの際立った音楽が物語の外から流れてくるのは、このダンスシーンが終わってからである。この物語外からの音楽が登場するのは、主人公が当初の目標の追求を再開するときである。ダンスシーンの直後、弁護士は老人が浜辺を所有しており、売却を拒否していることを知る。これは当初の目標に対する最初の障害であり、映画が4分の3まで来たところで出てくる。最後の4分の1は目標志向であり、物語外からの音楽が前面に出てくる。くどい感情の合図をこれまでほとんど使用していなかったが、ここへきて、くどさが増してくる。

この進行によって、観客は「ローカル・ヒーロー」の感情に訴える力を「微妙」と分類するが、まだ、このくどい合図による感情の力を甘受することができる。当初、映画は、観客が見たり聞いたりする感情の合図がどのような種類のものかに関する期待を確立するだけでなく、そうした合図を受け取るのをどれくらい早く期待できるかをも確立する。初めのほうで感情の合図があっさりしている場合、観客は比較的まばらな感情の合図を予想するし、終わりに近づくにつれ感情の合図が増してくると、相当な感情の見返りが与えられる。

ある映画が他の映画よりも感情に関する情報が多いと言うことはできるが、作品間の比較なしに感情の情報量について指摘することはできない。「レイダース」は「ローカル・ヒーロー」よりも感情の情報が多いが、ノップラーの音楽と同じように音楽が次第に前面に出てくる。最初の宝物を見つけて脱出する場面のあと、音楽は比較的静かで、時間や場所の移行の工夫として使用されるだけである。ネパールのバーのシークエンスではまったく音楽が使用されていない。インディアナとマリアンが市場にやって来ると、物語内の異国情緒豊かな音楽が聞こえてくる。再び音楽の合図が豊かになるのは、このあとである。

音楽がない状態、移行のための音楽、物語内の音楽、物語外の音楽というパターンは、ノップラーが「微妙な」感情の表現を行うために「ローカル・ヒーロー」で使用したものと同じである。すなわち、非常に異なる種類の作品でも同じような感情の合図のパターンを使用することができる。「レイダース」のジョン・ウィリアムズの音楽は微妙に進行していくが、前面に出た、くどい合図(ナチのメンバーを紹介するときの突然の強烈な音楽)は、より感情面で情報量の多い作品となっている一因である。

見出し【感情に訴える力の分類:目標志向と希薄な情報】終わり。明日は、「ストレンジャー・ザン・パラダイス」を例にとった【レイダースよりも奇妙な】(ストレンジャー・ザン・レイダース)。それが終わると第4章に進みます。

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日曜はトリュフォーだ!: 「アメリカの夜」

やしきたかじんをうんざりさせ、三宅先生からオーランチキチキと馬鹿にされる勝谷誠彦氏ゴリ押しの石油を生む藻オーランチオキトリウムをTBSの夕方6時半からの「夢の扉+」で取り上げます。お見逃しなく。

本日は「トリュフォーの映画術」(水声社、2006)の第20章「アメリカの夜」(1973)。トリュフォーにとっては13本目の長編。題名は夜間のシーンを昼間撮影することを意味します。技術的なことは詳しくないのですが、カメラにフィルターを付けたり、露出を調整したり、現像段階で何らかの処理を加えたりするようです。

「パメラを紹介します」という映画を作っているスタッフやキャストらの人生模様を描いた作品です。トリュフォー自身が監督として出演。耳が悪くていつもイヤホンをしているという設定ですが、実際のご本人は難聴ではありません。実際の自分とは違う役柄にしたかったからで、カツラをつけたりするといった変装をするよりもイヤホンを付ければいいだけという手軽さから、そういう設定にしたそうです。

「パメラを紹介します」では、おなじみジャン・ピエール・レオが息子、その結婚相手がジャクリーヌ・ビセット、レオの父親がジャン・ピエール・オーモン、母親がバレンティナ・コルテーゼ。義父オーモンがビセットと駆け落ちするという話です。

「アメリカの夜」という映画の中では彼らは「パメラを紹介します」に出演している俳優として登場し、彼ら各々が悩みを抱えています。たとえば、コルテーゼには白血病の息子がいて、アルコールに頼っているので、セリフをうまく言えなくて、なんども撮り直しをします。

アカデミー賞では1973年に外国語映画賞を獲得し、翌年に英語吹替え版が上映されて通常部門の対象作品になったので、助演女優賞(コルテーゼ)、監督賞(トリュフォー)、オリジナル脚本賞(トリュフォー、ジャン・ルイ・リシャール、シュザンヌ・シフマン)にノミネートされました。レンタルビデオ店でワーナーの英語吹替え版を借りて見ましたが、なんかしっくりこない。

キネ旬では、「フェリーニのアマルコルド」、ベルイマンの「叫びとささやき」に次ぐ1974年の3位。読者選出でも「スティング」「ペーパームーン」に次ぐ3位。このあとの「アデルの恋の物語」と「トリュフォーの思春期」とともに、批評家と観客の両方から愛される(芸術と娯楽の中間を綱渡りする)トリュフォーとして絶頂期にありました。

数年前に日本盤DVDを購入してテレビで見たら、テレビになじみすぎて、とても軽い作品に見えてしまいました。「この映画がわたしにはルポルタージュのように思われたということもありました。わたしの仕事ぶりをテレビ映画に撮っているような気がしたのです。」ピエール・ウィリアム・グレンのカメラはラウール・クタール風の即興的なもので、この頃、落ち着いた格調高いネストール・アルメンドロスと使い分けをしていました。トリュフォーの信奉者であるロバート・ベントンは「クレイマー・クレイマー」でアルメンドロスを使い、ジョージ・ロイ・ヒルは「リトル・ロマンス」でピエール・ウィリアム・グレンを使っています。「アメリカの夜」もこれら二本も音楽はジョルジュ・ドルリューで、「リトル・ロマンス」ではアカデミー音楽賞をもらっています。軽いジャズ風で、フルートが軽快なテーマ曲が大好きです。「アメリカの夜」のテーマ曲も気分が高揚する素晴らしいものです。

ジャクリーヌ・ビセットについて、「かつてわたしが一緒に仕事をした四人の英国女性をひとつにしたような存在です」と言ってますが、「恋のエチュード」の二人と「華氏451」のジュリー・クリスティともう一人誰でしょうか。まさか「華氏451」の二役を二人と計算しているんじゃないでしょうね。

映画の撮影を扱った作品として、マルセル・パニョルの「ル・シュプンツ」(1938)、スタンリー・ドーネンの「雨に唄えば」(1952)、ビンセント・ミネリの「悪人と美女」(1952)を挙げています。フェリーニの「8 1/2」は映画を撮る前の作家の苦悩を描いているので別だそうです。

「ルノワールの考え方はつまるところ、思いもよらぬ困難が生じても、それらの困難がかえって事態を良い方向に導くことがあるうるし、そのために映画は貧弱になるのではなくて豊かになることもあるのだ、ということなのです。」

映画は人生よりも大切なのだろうかと30年間悩んできたが、やっぱり最終的には人生だ、とトリュフォーは述べています。

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2011年5月28日 (土)

映画構造と感情システム (20)

感情に関する情報の濃さは一本の映画の中で変化する可能性があるし、目標志向の強さも変化するかもしれない。「ローカル・ヒーロー」の主人公は明確な目標を持っている。石油精錬所を建てるためにあるスコットランドの村を買うという目標である。主人公マッキンタイアが取引を成立される任務を受け、事務的に目標を追求する。しかし、中盤になると、厳格に目標を追求しなくなり、目標志向の感情の原型ではない、より微妙な感情の合図に観客は頼るようになる。その後、映画は最初の強い目標志向に戻る。

「ローカル・ヒーロー」は、感情の情報が少ない映画であり、目標志向の強さが変化する。どういうジャンルの映画に対する期待を持てばいいのかはっきりしない映画である(奇妙で不思議な地域社会に関する映画とか古い価値観を損なわせる技術に関する映画が比較対象となるだろう)。

初めのうち、かなり標準的な一連のシーンを通じて目標志向の強さが示される。重役会議で、精錬所やスコットランドの村の重要性が説明される。マッキンタイアがスコットランドに出張する準備をしている。会話を通じて、マッキンタイアがこの任務に選ばれたことにさほど興奮していないことがわかる。これらのシーンは、登場人物や状況を説明する標準的なものだが、演出によって少しヒネリをきかせている。会長ハッパー(バート・ランカスター)を起こさないように重役会議はささやき声で行われている。マッキンタイアは数メートルしか離れていない同僚と任務について話し合うが、電話を使って話し合っている。各状況において、実際の物語の情報は、演出によって強調された予期しない要素によって弱められている。「ローカル・ヒーロー」は、直線的に物語を提示しつつ、こっけいな合図が物語の情報を薄めている。目標志向の枠組みを築きながら、こっけいな気分がふさわしいという合図を送っている。

マッキンタイアがスコットランドに到着し、村全体を買収するために弁護士と交渉を始める。弁護士は、自分が取引を進める間、ゆっくりして村を知るよう勧める。この時点で、障害物が何もなくなったので、マッキンタイアの目標の追求は停止する。村人たちは土地を売ることに乗り気だし、石油会社も喜んでお金を払うつもりだ。「ローカル・ヒーロー」の目標志向はかなり弱まる。

観客に残されているのは一連のこっけいな合図と目印だけである。マッキンタイアと助手は食事をし、ジュースを目に飛び込ませる。大きな音のバイクが通り過ぎるときにマッキンタイアと助手にぶつかりそうになる。弁護士と妻がセックスの最中にくすくす笑うのが頭上から聞こえる。初めのほうの目標志向のシーンで、こうしたこっけいな合図を期待するよう観客に用意させているが、目標の追求が消えると、連続する感情の合図と時折の感情の目印(通り過ぎるバイクなど)によって、こっけいな気分を補強しなければならない。

しかし、目標志向がすっかりなくなったわけではない。マッキンタイアの当初の目標である村の買収は、より具体的でない目標に取って代わる。より内面化された目標であり、自分が欲していることを主人公自身知らない目標である。一連の少ない情報の合図を通じて少しずつ追求することができる目標である。スコットランドを舞台にした部分のほとんどは、立身出世主義者のマッキンタイアがより温和で気楽な人間になり、村のゆっくりしたリズムになじむことが目標となっている。マッキンタイアの服は次第にカジュアルになっていく。時計を海でなくす。バイクにひかれるのを避けるためにホテルを出るときに立ち止まることをおぼえる。短い描写で示される細部を積み重ねることでマッキンタイアの転向について観客はゆっくり知る。

(続く)

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映画構造と感情システム (19)

【感情に訴える力の分類:目標志向と希薄な情報】(「引きつける力」を「感情に訴える力」に変更)

「気分と合図による研究法 mood-cue approach」によると、感情の枠組みが、ある映画が引き起こす可能性のある感情の範囲の見取図を描く。「レイダース」は、興奮、危険、恐怖への傾向を早くから確立している。「レイダース」にはユーモアも加味されているが、興奮の気分が確立されたあとで加味される。初めのほうの活劇シークエンス(石像の発見、原住民からの脱出、ネパールのバーでの乱闘)には笑いの合図が前面に出ていない。しかし、次のシークエンスではユーモアが強調されている。アラブ人たちがにぎやかな市場でマリアン(カレン・アレン)を誘拐し、追っかけと乱闘が始まる。初めて滑稽な場面が登場する(マリアンがフライパンで追手を叩き、インディアナ・ジョーンズが剣士の挑戦に対して射殺で応じる)。このシークエンスは、感情の枠組みを修正するよう観客に促し、あとで引き出されるかもしれない感情として滑稽さを加えさせる。

観客は、多かれ少なかれ一貫したジャンルの期待に沿って作品の枠組みを分類することができる。作品は、感情に関してどれぐらい詳しい情報を提供してくれるかによって分類することもできる。感情に関する詳細な情報を与えてくれる映画は、頻繁かつ明細に感情を引き出そうと試みている。そういう作品は、くどくて目立つ合図を数多く送る。「レイダース」もそのような作品で、観客がどう反応すべきかに関する合図を数多く提供する。一方、ビル・フォーサイスの「ローカル・ヒーロー」は感情に関する情報が少ない作品で、ジム・ジャームッシュの「ストレンジャー・ザン・パラダイス」はさらに少ない。

個々の作品は、感情に関する情報を一定のレベルで提供し続けるわけではない。作品を通じて変化する。また、目標志向の強さによっても作品は変化する。主人公の目標が物語の中心にあって、主人公が根気強く目標を達成しようとしている様子を見せれば、映画全体が主人公の成功か失敗中心のものとなる。この戦略は物語上有効であるが、感情に訴える力の点でも有効である。目標志向の登場人物が一連の目標に向かって行動する様子を見せれば、感情の原型における台本との比較が容易になる。明確な目標が与えられれば、登場人物の感情の状態を分類したり、他の感情の合図を理解するのが容易になる。最後の審判の日を妨害しようとする「レイダース」のように、「ゴーストバスターズ」の登場人物たちも目標志向が強いが、ビル・マーレイは「レイダース」の主人公ほど中心の目標に献身しているわけではない。彼は、どのように幽霊を捕まえるかの詳細について理解していないし、興味もない。彼は女性を誘惑することに、より興味を示す(女性の誘惑も目標だが、映画の中心目標ではない)。それに、彼の気のきいた冗談も物語全体の目標に対する追求を弱めている。「ストレンジャー・ザン・パラダイス」の主人公たちは目標志向が強くないので、感情の分類過程がより複雑になる。

(続く)

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土曜はRTだ!: "One Door Opens"

リチャード・トンプソン(RT)の5月7日に続く5月27日のマッケイブのギターショップでの慈善コンサートも売り切れて、もう終わっていることと思います。特別ゲストはジム・クエスキンだったようです。7日のゲストは、コンセルティーナ奏者でノーザンブリアン・パイプ奏者のアリステア・アンダーソン。

本日は The Old Kit Bag (2003) の5曲目 「ワン・ドア・オープンズ」(一つのドアが開く)。「ゲッセマネ」「ジェラス・ワーズ」「アイル・タグ・アロング」「ア・ラブ・ユー・キャント・サーバイブ」と1曲目からちゃんと聴けば、薄くなって衰えつつある頭でも覚えることができるじゃないか。

RTのオリジナルだけど、トラッド色が強い。メロディもそうだし、RTが弾くマンドリンが中心だし、ダニー・トンプソンはもともとダブルベースだしで、よけい生楽器による古い音楽を聴いている感じが強い。RTはダルシマーも弾いているんじゃないかと思います。ジュディス・オーウェンのハーモニーやマイケル・ジェロームのドラムも魅力的。70年代にトラッドに夢中だった頃をちょっぴり思い起こさせてくれます。

歌詞に関しては、前半、失恋しても再び誰かが君の心の中に忍び込んでくるというような恋愛の一般論を第三者が語っているように聞こえますが、後半になると失恋した男が負け惜しみをぶちまけているように聞こえます。

2003年のライブアルバム Ducknapped! ではバンドでの演奏を聴くことができます。ジュディス・オーウェンのバックボーカルも入っています。DVD "Live in Providence" でも演奏しています。RTが生ギター、ピート・ゾーンがマンドリンとバックボーカル、ローリー・マクファーレンがダブルベース、アール・ハービンがボンゴみたいなものを抱えて叩いていますが、ダンベック (Dumbek) という打楽器かもしれません。

You Tube では、アルバムからの音源はアップロードされていないようですが、一人で歌っているライブは You Tube で見ることができます。

2003年のニューヨークでのライブ

2005年のカリフォルニアでのもの

デイブ・スウォーブリックと共演するのかと思っていたら、この前の曲で共演したらしく、この曲が始まる前に杖をつきながら退場するもの

ちなみに、この二人が演奏する "Sloth" は涙ものです。

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2011年5月27日 (金)

映画構造と感情システム (18)

アイバン・ライトマンの「ゴーストバスターズ」は、そうしたジャンルの混合の一例である。「ゴーストバスターズ」は表向きコメディだが、ホラー映画の要素がたくさん含まれている。この映画からのシークエンスを調べることで、観客のさまざまな期待からユニークな感情の混合がどのように生まれるかを説明したい。

「ゴーストバスターズ」の最初のシーンはホラー映画のように見える。カメラが背後から一人の女性を追っている。彼女が通常の行為をしているのをカメラが追うので(普通、物語映画では通常の行為は省略されることが多い)、画面の外にある力が彼女を襲おうとしていると観客は仮定する(そうでなければ、無意味な行為を見せる意味がない)。

だが、この移動ショットはジャンルの原型とは少し違っている。女性は若くなく、中年である。図書館の書庫の照明は明るくて、脅かすような影がない。映画音楽は活発で陽気である(ただ、オーボエのメロディはホラー映画で通常聞こえてくるような不安定な音楽を連想させる)。

さらに、観客はコメディ映画に対する期待を持って「ゴーストバスターズ」を見に来ているはずである。宣伝、試写会、批評、それにビル・マーレイ、ダン・エイクロイド、ハロルド・レイミスのスターとしてのイメージは、「ゴーストバスターズ」はコメディだという合図を送っている。

この二つのジャンルに対して観客が持つイメージがぶつかり合うので、どの気分が求められているのか決めるのが難しい。いくつかの感情の合図(撮影など)はホラー映画の緊張した気分に向かわせているが、この期待は照明や配役などの合図によって裏切られる。音楽などの合図は、恐怖と軽い気分の両方に向かわせている。このシーンは、ポルターガイストの活動で終わる。女性が叫びながらカメラのほうに走ってくると、白くフェードアウトし、大音量でアップテンポのテーマ曲が始まり、開巻のシークエンスにふさわしい感情に関する決定的な情報をほとんど与えないまま、統合された合図によってシーンが終わったことを告げている。

次のシーンは、ビル・マーレイが実験中に若い女性を誘惑しようとするコミカルなシーンである。ここでの合図は明確である。観客は笑うことを期待されている。この気分に関する明確な情報がいったん観客に与えられると、超心理学者たちが調査のために書庫に呼ばれる。

このシーンと開巻のシーンの違いは興味深い。軽いオーボエの音楽、明るい照明、登場人物を追いかけるカメラなど、開巻と同様の混合された感情の合図が観客に与えられる。さらに、ビル・マーレイがいつもユーモラスなことを言うので、コミカルな気分が高まる。

コミカルな気分が明確に伝えられると、観客は恐怖よりも笑いに対する傾向が強くなるので、作品は以前よりも強いホラーの合図を自由に提示する。開巻と異なり、このシーンは実際に幽霊を見せる(おきまりのツィターの音に伴われて)。最も重要なのは、女性らしき幽霊が死人の首に変身し、カメラに突撃するところでシーンが終わることである。一瞬恐怖が生まれ、ギョッとするが、すでに強められている笑いへの傾向が再び前面に出てくる。続くアップビートの音楽によって笑いの合図が送られ、観客はたじろいでしまったことに対して自嘲する。

主要な気分はコミカルであり、観客を笑うように仕向けるが、非常に強い恐怖の合図も送っている。もし「ゴーストバスターズ」にホラー映画の合図を送る長いシークエンスがあれば、コミカルな気分は次第に消えて、恐怖の気分に取って代わるだろう。気分と合図の研究法によると、「ゴーストバースターズ」が恐怖の合図を送るのが短い限り、コミカルな気分がくつがえされることはない。映画が進むにつれてコミカルな気分がさらにしっかりと確立すると、傾向を変化させる心配なく、より長く顕著な恐怖の合図を送ることができる。映画がクライマックスを迎えるときまでにコミカルな気分は十分に確立されているので、神ゴザーとの対決をかなり本格的なホラー映画のシーンとして演出することができる。「ゴーストバスターズ」は二つの異なるジャンルの原型からの感情の合図を混合しているが、どちらのジャンルに対する期待が支配し続けるか知らせている。いったんこの支配関係が確立すると、映画は従属的なジャンル(ホラー)からの要素をより自由に導入することができ、複雑な感情の混合を作り出す。したがって、個々の作品は、感情の合図の特定のパターンによって変えられたジャンル特有の原型を使用することで、感情の解釈のための固有の枠組みを作り出すことができる。

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フィルムノワール入門 (7)

そういえば、おとついの昼、伊佐山ひろ子さんがNHKの生番組でゲストとしてインタビューを受けていました。神代辰巳の「一条さゆり・濡れた欲情」と村川透の「白い指の戯れ」でキネ旬の主演女優賞を獲得してから40年近く。NHKの大河ドラマに出ているらしいのですが、本人のやる気なさげな感じから考えると、今まで地道に女優活動を続けてきているのが信じられない不思議な人だ。

【ワイマールの「街路映画」と都会派スリラー】

「街路映画」と訳していいのかどうか知りませんが、ドイツ語では "strasenfilm"、英語では "street film" と呼ばれているものです。街路映画は、新即物主義として知られるものの一部で、表現主義のゴシック的なシナリオから離れ、現代ドイツ生活の社会的現実に焦点を当てているそうです。

最初の作品はカール・グルーネの「蠱惑(こわく)の街」(1923)。魅力的かつ興奮させるが、危険な夜の街に、ちゃんとした中流の主人公が身を落とす。街路映画の深い影、せかせかした往来、きらめく光、暗黒街の人々は、フィルムノワールの都会の雰囲気を思わせる。暗黒街の人々には、闇屋、賭博師、詐欺師、そして禁断の欲望の誘惑と脅威を具現化した魔性の女がいる。代表的な監督はGWパブストで、超インフレ時代のウィーンを舞台にした「喜びなき街」(1923)を監督した。ヨーエ・マイの「アスファルト」(1928)では、良家出身の有望な警官が売春婦と恋に落ちる。

街路映画と、のちのミリュー・トーキー(裏社会トーキー?)は現実的で日常的であり、現代の都会生活の精神的および社会的病理を描いている。スタンバーグの「嘆きの天使」(1930)は、マレーネ・デートリッヒ演じるナイトクラブ歌手に夢中になる学校の先生の堕落を描いている。

フリッツ・ラングによる都会の犯罪スリラー「ドクトル・マブセ」(1922)と「怪人マブセ博士」(1932)、そして小児性愛症者を描いた「M」(1932)はアイデンティティの変わりやすさへの没頭がうかがえるし、都会を暗い迷路として描いている。「M」のピーター・ローレは苦悩するアウトサイダーで、警察と暴力団の板ばさみになっている。彼は自分の行動を促す欲望が理性的な抑制を超えたものであるという自身の状態を知っている。この主人公の視点からアクションが描かれているシーンにおいて、ラングは冷静な観察に強烈な主観性を混ぜ合わせている。「私は可能な限り主人公の視点から物事を見せるようにカメラを使用した。観客は主人公と同一化し、彼と一緒に考える」とラングは述べている。そのような登場人物とともに考えることは、かなり観客の平静を乱すことである。犯罪行為や変質行為との安全な距離が保たれておらず、現代人の内面に起こりうることであり、自分が同化しうるものであるということが示唆されている。

フリッツ・ラングはアメリカに渡ってフィルムノワールの代表監督の一人となったので当然影響はあるでしょう。ここに挙げられている作品は、超有名な「嘆きの天使」と「M」を除いて、見たことがないので、機会があれば見てみたい。本に関しては、ロッテ・アイスナー女史の "The Haunted Screen" を持っていれば十分と思っていたけど、昨年暮れにニューヨーク近代美術館(MOMA)が発行した "Weimar Cinema 1919-1933" というのがきっと素敵な本だろうと思って紀伊國屋に注文しました。

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2011年5月26日 (木)

映画構造と感情システム (17)

「微小台本」を「最小台本」に変更。「台本」は、映画作りに使われる台本ではなく、観客の頭の中にある物語の枠組みのようなものだと思います。

【短い原型:ジャンルの最小台本(マイクロスクリプト)の混合】

ジャンルは物語と図像のパターンによって構成されているが、感情に関する取組みのパターンも明示しており、ジャンル映画を解釈する際に使用する台本を観客に提供する。特定のジャンルは感情の合図、気分、感情の目印の使用をどのように体系化しているのだろうか。

感情に関する最も重要な台本は、ある映画全体の形式に対する広範な期待ではなく、ジャンルの最小台本である。これは、シークエンスやシーンに対するジャンル内作品共通の一連の期待である。観客は、現実での経験やジャンル内の他作品から集めた最小台本の膨大なコレクションを利用する。長い間反目し続けている恋人たち、対決、ケンカのシークエンス、ロマンチックな若い、追っかけといった台本である。最小台本は、物語、スタイル、感情面で次に何が起こるかを観客に予測させる。

観客は、「レイダース」の開巻の気分を感情の合図のみに基づいて解釈しない。主人公が敵地に乗り込むというシークエンスとして解釈する。画面に登場しない野蛮人の脅威は、他のジャングル冒険映画や西部劇での経験に基づいている。演出(暗いジャングル)や撮影(歩いていく主人公を追う移動カメラ)といったジャンルの指標は、特定の物語状況での使用に適切な感情的に原型の台本にすばやく観客を向かわせる。ジャンル特有のシークエンスに対する観客の心の枠組には、通常使用される感情の合図についての情報や、どのように合図が整理されるかに関する情報が含まれており、どのような感情的な出来事がまもなく起こるのだろうという推測を観客に促す。感情の合図は、当初選択した台本を確認するか疑問を投げかけ、観客の気分を修正するか、支持するか、増大させる。

こうしたジャンルの最小台本は、第一に、どの感情反応が求められているかを観客が認識するのを手助けする道具である。最小台本は単独で、適切な感情を特定するように観客に指示するという純粋な認知機能を果たすことができる。感情を認識して分類することは感情を経験することと同じではないが、意識的な思考は感情システムへの主要な入力の一つなので、意識的に感情を分類することは、ほとんどの感情経験を形成する際の重要な要因である。

しかし、ジャンルの最小台本を感情の合図の統合されたパターンと組み合わせることによって、観客から感情を引き出す力が純粋な認知以上のものとなる。統合された感情の合図は観客に気分を生じさせるよう促す。観客がその気分と一致するジャンルの最小台本に気づくと、単純に感情の台本を認識する以上のことをするように促される。観客は感じるように促され、感情システムの中で台本を実行するよう促される。作品は感じるように誘うのみで、いやおうなしの指示を送るわけではない。もしジャンルの最小台本の扱い方を間違えると、気分によって作り出された感情を引き出す力が脱線してしまう。以下の事例研究が示しているように、ジャンルの最小台本が他の感情の合図のパターンと結合して使用されると、複雑な感情を引き出す力となる。

シークエンスは、伝統的なジャンルの期待と調和する合図をいつも使用するわけではない。映画は、観客が通常予想する合図を使わないことができるし、他のジャンルに関連した合図を使うこともできる。このように、映画制作者は、あるジャンルの感情の可能性を操作することができるし、異なるジャンルの構成要素を混ぜ合わせて複雑な感情を作り出すこともできる。

(続く。以下、「ゴーストバスターズ」の事例研究)

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2011年5月25日 (水)

映画構造と感情システム (16)

"mood-cue approach" を「気分の合図に基づく研究法」から「気分と合図に基づく研究法」に変えます。"coordinated cuing" を「合図の調整」から「統合された合図」に変えます。

【統合された合図:感情の目印】(今朝の続き)

物語の相互関連からすると、目標に向かっての前進や物語の情報とまったく無関係な瞬間があるとは主張しにくい。石像による怖がらせは、ストーリーの情報にいくらか貢献しているかもしれない(宝物が置かれている場所にジョーンズが近づいていると知らせてくれる)。だが、この出来事の機能には物語の情報を提供する以上のものがある。石像の主目的は、観客に対して「ブー!」と叫ぶことである。これは観客の注意をそらすものであり、この瞬間を恐ろしいものとして目印をつけて、感情に向かおうとしている気分の傾向を強める。

洞窟の中でジョーンズとガイドの背後にタランチュラが出現するのも感情の目印である。タランチュラはジョーンズの進行を妨害する機能を果たしていると言えなくもないが、その機能は感情に対する効果と比べると小さい。ジョーンズは単に払いのけるだけで、障害物としては極端に小さい。タランチュラの主機能は、観客に嫌悪感や恐怖を喚起させることであり、毛むくじゃらのクモに対する社会共通の連想に頼っている。感情に対する機能が目標志向の機能を大きく上回っている。

こうした感情の目印は、かなり単純で確かな仕掛けである。大きな音を聴いて反射的にビックリすることを抑制するのは不可能だし、毛むくじゃらのクモを見て嫌悪感を感じるのも多くの人に共通している。映画制作者は、気分を強めるために感情の目印を選ぶ際、より確実で単純なものに頼る。

こうした目印は、気分を持続させるためにまったく同一の感情を引き出す必要はない。石像は反射的にギョッとさせるし、タランチュラは嫌悪感を引き出す。感情の目印に求められているのは、ドキドキする気分に適合する感情を引き起こすことである。感情ははっきりと区別されているものではない。合図は恐怖か嫌悪を引き出すべきで、両方ではないと主張することはできない。嫌悪は恐怖を連想させるし、ある経路が活性化すると、別の経路も活発になることはよくある。映画制作者は、一つのシークエンスを通じて同一の感情を引き出そうとする必要はない。感情の相互関連のために、関連した感情が気分を持続させる。

作品が一連の感情の合図で構成されていると考えると有益である。物語の状況、表情、身ぶり、音楽、音、演出、照明などは、原型的に、または非原型的に感情システムにアクセスする。映画は、物語の状況と表情から登場人物の行動を解釈するよう観客に求める際、感情の原型に訴える(感情の原型は連想の交点であり、しばしば台本(スクリプト)を含む)。だが、感情の合図は、感情への非原型的なアクセスの可能性も提供するので、柔軟な感情システムへのアクセスをより確実に得るために、しつこく使用される傾向がある。

合図は、感情を引き出す作品の力を分析するための最小単位である。感情の合図は、感情の目印といったより大きな構成物を作り出すために使用される建築用ブロックである。気分は一連の合図によって持続し、合図のいくらかはより大きな構成物(物語上の障害物、感情の目印)に組織化されるが、そうでない合図もある。

感情を引き出す映画の力を分析する「気分と合図に基づく研究法」の基本は単純である。小さな感情の合図と、それらがどのように統合されるかに注意を向けるだけである。基本的な仮定は、映画が作品に対する一貫した感情の方向性(気分)を確立するよう観客を促すということである。研究家は、観客に適切な方向性を伝える高度に統合された感情の合図を探し出さなければならない。いったん気分が確立すると、時折感情を噴出させることで気分が強まる。研究家は、基本的な感情の方向性を持続または変更させる感情的に際立った一連の瞬間を探し出さなければならない。こうした基本的な構成要素を使用することで、作品が感情を引き出す力を作り出すやり方の違いを詳細に論じることが可能となる。

【統合された合図:感情の目印】終わり。

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映画構造と感情システム (15)

手元に「レイダース:失われたアーク」がないので確認できません。少々おかしな記述があっても、大目に見てやってください。"emotional marker" を「感情の作り手」としていましたが、「感情の目印」に変更します。もっとしっくりくるのがあれば、また変更します。

【合図の調整:感情の目印】

物語は一連の目標と障害を用意し、目標の達成と障害によって気分が強まる。主人公が目標を達成すると観客は喜ぶ。達成されないと、悲しくなったり、恐れたり、不安になったりする。

物語上重要な瞬間は何らかの感情をもたらす可能性があるが、もたらされた感情が物語にとって重要とは限らない。古典的なハリウッド映画は、「感情の目印」を利用することが多い。これは、短い感情を引き出すことを主目的とする視覚的な合図である。

感情の目印は物語の進行を早めたり遅らせたりするためだけに存在するのではない。話についての詳細を説明するものでも、物語の世界に対してコメントするものでもない。感情の目印の主目的は、短い感情を生み出すことである。感情の目印は、目標の達成や話の情報に影響を与えることなく映画から削除できる場合が多い。

しかし、感情の目印は感情面で重要な機能を果たす。感情の目印は、適切な気分になっている観客に対し、感情を表出させる傾向を維持させるのに役立つ。気分を維持させる感情を用意するのに、物語上重要な瞬間のみに頼っている作品はほとんどない。感情の目印が物語の目的にほとんど効果がないとしても、ほとんどの作品は気分を強化するために感情の目印を用意せざるをえない。

主人公中心のアクション映画であるスピルバーグの「レイダース:失われたアーク」の開巻は、列車のように進んでいく物語に対する障害物が詰め込まれている。物語の進行を遅らせる障害物は主人公を危険にさらし、観客に主人公との同盟を組ませ、恐怖や興奮といった伝統的な冒険映画の一連の楽しみを与える。しかし、興奮させる危機一髪が数多くある映画でさえ、さらに感情を強めるために感情の目印を利用している。

開巻、インディアナ・ジョーンズが宝物を探すためにジャングルを抜け仕掛けの施された洞穴に入る。観客は、野蛮人たちの突然の攻撃や仕掛けられた罠にひっかかるんじゃないかと心配して、気分は緊張感に満ちている。音楽は異常な旋律的音程とパーカッションの不安定な混合である。周囲は深い影に満ちており、カメラはジョーンズを追う。ガイドの一人が背後からジョーンズを撃とうとするとジョーンズは素早くムチを打つことで難を逃れるが、これによってジョーンズがムチ使いの名人だということが示される。このムチを利用してジョーンズともう一人のガイドは深い穴を渡るが、ムチがすべって、ガイトが穴に落ちそうになる。このムチと穴の障害は、洞穴から出る際に再び乗り越えなければならない。こうした障害は、恐怖の感情表現に信号を送るために複数の感情の合図(刺激的な音楽、貌のクローズアップなど)を利用して、重要な物語機能を果たし(目標への進行を妨害し、物語上今後起こることの仕組みを提供する)、感情を生み出す。

その間、目標志向の物語機能を果たさない、感情の目印としてしか機能しない瞬間がある。ガイドの一人がグロテスクな石像を見つけ、叫ぶ。鳥の一群が飛び立つときの大きな羽ばたきが聞こえ、刺激的な音楽が流れる。あきらかにこれは観客をギョッとさせるために統合された感情の合図である。しかし、この感情は目標に向かう主人公の進行を遅らせも早めもしないし、物語上の新たな情報も提供しない。このシークエンスのハラハラする気分の持続を助ける感情を噴出させるだけである。

(続く)

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キートンの短編映画 (15): 「キートンの鍛冶屋」

「キートンの鍛冶屋」(The Blacksmith) は1922年7月にアメリカで公開。70年代のキートンのリバイバル・シリーズでは第三弾「キートンの蒸気船」の併映で、東京では1973年の夏の終わりごろ公開されたようですが、私は高校を卒業する1975年3月に福山のグリーン劇場という名画座で見ました。キートンとは全然関係ないのですが、当時スティーライ・スパン Steeleye Span というイギリスのトラッド・グループに夢中で、彼らによる The Blacksmith という傑作がありました

屋外でひどい目に合う「マイホーム」「船出」「警官騒動」といった作品の次第にエスカレートして行き着くところまで行ってしまう展開が好きなのですが、「鍛冶屋」は室内でドジなギャグを繰り返すだけだし、強引にバージニア・フォックスと結ばれるラストに持っていくのも適当。

いつもはエディ・クラインとの共同監督・脚本ですが、ここでの共同監督・脚本はマル・セント・クレア。これ以前には、「キートンの強盗騒動」(The Goat) がマル・セント・クレアとの共同でした。

ヘンリー・W・ロングフェローに「村の鍛冶屋」という抒情詩があって、そのパロディだそうです。「梢をひらく栗が根に 見ゆるは星の鍛冶屋なり 鍛冶の男はたけたかく 骨たくましく手も肥えて つよき腕はくろがねの 索を綯うべく見えにけり」というような字幕と交互に、そばにキートンが立っている木がやたら高かったり、二の腕の力こぶがすごいと思ったら風船のようにはじけるし、鍛冶の仕事をしていると思ったら目玉焼きを作っているだけだったりする様子が描かれます。

そこへ出勤してくる仕事仲間は、おなじみの巨漢ジョー・ロバーツ。ドジなキートンがそこにいるだけで怒り心頭といった感じ。鍛冶屋の出入り口の上にはなぜか大きなU字型磁石がすえつけられており、キートンがロバーツにハンマーを渡そうとすると上にすいつけられてしまう。ロバーツが直そうとしている車輪もすいつけられる。二人ともそれに気づかないので、ロバーツはキートンが悪ふざけをしていると思い込み、叩きのめす。そこへ保安官がやってきて仲裁に入るが、彼のバッジやピストルも磁石にすいつけられる。保安官の助手数名がやってきて大ゲンカに発展するが、最後は磁石が落ちてきてジョー・ロバーツが倒れ、留置所に入れられる。

金持ち娘バージニア・フォックスが白馬に乗ってやってきて、蹄鉄を替えて欲しいというので、まるで靴を買いに来た客に商品を見せるかのように、棚から取ってきた蹄鉄をいろいろ白馬に見せるが、白馬は首を横に振るばかり。やっと気に入った蹄鉄を付けてもらい、鏡を見て満足げな白馬。しかし、キートンが隣の車を修理しているうちに白馬の片側は油で汚れてしまう。それに気づかないまま愛馬にまたがって去っていくバージニア・フォックス。

さらに別の女性騎手がやってきて、腰を痛めているので、電車のパンタグラフのような衝撃緩衝器を馬の上に乗っけたり、きれい好きの男が乗ってきた白い車を油で汚すのみならず、バーナーで焼いたり、先に修理していた車のエンジンをぶつけて破壊してしまう。

留置所をぶち破って出てきたジョー・ロバーツ、よけい腰を痛めた女性騎手、きれい好きの男に追い詰められ、キートンは逃げるが、その途中、暴走した白馬に乗っているフォックスを助け、二人で列車に乗って去っていくところで終わり。

私のキートン採点表(5つ星満点)

  1. 「マイホーム」 ★★★★★
    奇抜に作られた家が秀抜で、この中心がしっかりしているし、その前後も充実している。
  2. 「囚人13号」 ★★★★
    とりとめもないが、ブラックなジョークがシュール。
  3. 「スケアクロウ」 ★★★
    可愛いシーリーとの初々しい恋愛以外、普通に面白い。
  4. 「隣同志」 ★★★★
    両脇にアパートがあって、真ん中に塀があるという中庭が良い。
  5. 「化物屋敷」 ★★
    銀行の前半は接着剤のついた札束を使ったドタバタがくどいし、後半の化物屋敷のドタバタもありきたり。
  6. 「ハード・ラック」 ★★★
    私が年取ったからなのか、枠組がしっかりしたものに安心するようで、とりとめもないものが苦手になってます。
  7. 「ハイ・サイン」 ★★★
    キートンがアーバックルから独立して最初に作った短編。 キートンが気に入らなくてお蔵入りになっていたが、新作を撮影中に負傷したため、やむなく公開。
  8. 「強盗騒動」 ★★★★
    ノンストップのチェイスもの。
  9. 「一人百役」 ★★
    多重撮影で出演者がすべてキートンという着想は面白いが、中身が伴わない。
  10. 「船出」 ★★★★★
    私にとってのキートンの最高傑作短編。家族四人がボート遊びに出かけて散々な目にあう。
  11. 「白人酋長」 ★★★★
    お馬鹿な蝶々収集家が酋長に祭り上げられ、インディアン部族を利権争いから救い、部族の娘と結ばれる。
  12. 「警官騒動」 ★★★★★
    大量の警官に追いかけられるアナーキーなキートン。
  13. 「華麗なる一族」 ★★
    室内でのドタバタが中心。地味で貧乏臭い。
  14. 「鍛冶屋」 ★★★
    個々のエピソードは面白いが、それらの結果がひとかたまりになってキートンに襲いかかってくるというダイナミックさがない。

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2011年5月24日 (火)

映画構造と感情システム (14)

【中心的主張:気分と感情の相互作用】

感情面での映画の第一の効果は気分を作り出すことである。短くて強い感情を作り出すには、感情面から状況を解釈するよう観客に仕向ける方向づけが必要である。観客が感情に関して方向づけられた状態にあれば、感情を経験する可能性が高くなる。

映画構造は、感情を経験する傾向を最初に作り出すことで、映画が感情を喚起させる機会を増やす。映画が頼りにしているのは低レベルの感情の状態を引き出す能力であり、この低レベルの感情の状態を作るには感情を喚起するほどの強い合図を必要としない。映画の最初の仕事は、感情の方向性を作り出すことである。

観客が気分を持続させるには、ときどき感情を経験しなければならない。したがって、映画は定期的に短い感情を観客に起こさせなければならない。そうすることで、気分と感情は互いを持続しあう。気分は感情を経験するよう促すし、感情を経験することによって現在の気分が持続する。

気分を引き出そうと試みる映画構造は、感情システムにアクセスするさまざまな方法を利用することができる。連想ネットワークにつながった幅広い刺激を使用することで感情を喚起させることができるので、映画は感情を喚起するためにあらゆる知覚的な合図を使用することができる。感情に関する情報を提供できる映画の合図には、表情、身ぶり、会話、声による表現、声の調子、衣装、音、音楽、照明、演出、舞台装置、編集、カメラ(アングル、距離、動き)、奥行き、登場人物の性格や歴史、物語の状況が含まれる。

しかし、映画は単一の合図に頼ることができない。観客の感情システムにはかなりの違いがあるので、ある観客が単一の合図を受け取っても、別の観客は気がつかないかもしれない。したがって、さまざまな合図を過剰に与えることによって、観客が適切な感情の方向性を持つように差し向ける。

どのように感情の合図が作用するか、短くて単純な例を示すために、ヒッチコックが「サイコ」の有名なシーンで合図をどのように統合しているかを調べてみよう。マリオン(ジャネット・リー)とノーマン(アンソニー・パーキンズ)が応接間で一緒に食事しているとき、ノーマンはどこか変だということを過剰な合図が観客に知らせ始め、観客はマリオンの安全を心配し始める。会話によって、「鳥のように食事する」マリオンと、ノーマンが壁に飾っている鳥の剥製が結びつけられ、マリオンは鳥の剥製と同じ運命をたどるのではないかと示唆される。物語の状況によってマリオンはホテルでノーマンと二人きりにされる。下から見上げるカメラによってノーマンはより脅威的に見える。鳥の剥製と一緒に画面に収まり、下からの照明によって影が伸びると余計そう見える。ノーマンのつっかえがちなしゃべり方も奥深い苦悩を示唆している。ノーマンが辛辣に精神病院について語るときのクローズアップは、マイナー調のオーケストラ音楽とあいまって、ノーマンが恐ろしい人物であると観客にさらに警告する。これらの合図は、ノーマンが何か悪いことをするだろうと観客が確信するほどは前面に押し出されていないが、恐れるべき人物だと観客に合図するのに十分なほど統合されている。

過剰な合図は、協働して、どの気分が求められているかを観客に示す。観客は、これらの要素各々に対して意識的な注意を向ける必要はない。これらの合図のいくつかが感情の連想ネットワークを活性化させ、低レベルの感情を作り出す。いくつかの過剰な合図を提示することによって、傾向的な気分の状態に観客を持っていく可能性が高まる。

一度気分が作り出されると、気分は持続しようとするが、完全に永続するわけではない。短い感情を経験する機会を観客が見つけないと、気分は徐々に失われ、別の傾向的な状態に変化する。気分を持続させるには、ときどき強い感情を喚起させる必要がある。

この第3章の目的は、映画が観客の感情を引きつける力を分析する私(筆者)の研究法を略述し、練り上げ、明示することである。この気分の合図に基づく研究法の第一段階は、映画の最初に感情の合図が合同で気分を作り出す方法に注意を向けることである。この研究法が仮定しているのは、映画全体に対する感情の方向性を知らせる統合された一連の合図を映画が利用しているということである。

第二段階は、気分を強めるか変化させる高度に統合された合図の噴出に注意を向けることである。全体的な感情と局所的な感情を説明できなければならないという映画の感情の研究法に望まれること(「映画構造と感情システム (1)」参照)を満たすには、気分と、感情を喚起するために統合された合図の配列との相互作用を重要視することである。そのためには、時間順に配列された合図が当初の感情の方向性を変化させるか強めるかを注視する必要がある。

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1978年5月第4週に見た映画

5月24日(水) イースター・パレード (東京12) 3点
5月25日(木) 巴里のアメリカ人 (高田馬場パール座) 3点
5月28日(日) レニー・ブルース (早稲田松竹) 5点

フランスなどのヨーロッパ映画が好きで、アメリカ映画はさほどでもなかったのですが、MGMのミュージカル映画に興味が出てきたらしいです。それとも、名作と呼ばれているものは見ておかなきゃいけないとでも思ったか。

フレッド・アステアは1943年からMGM作品に出演するようになりましたが1946年の「ブルー・スカイ」を最後に引退を声明し、この「イースター・パレード」でカムバックしたようです。1948年のカラー作品で、キネ旬の「世界映画人名事典・男女優編」によると、もともと主演だったジーン・ケリーがリハーサル中にくるぶしを痛めて、代わりにアステアが主演することになったとか。ジュディ・ガーランドとの共演作。制作アーサー・フリード、監督チャールズ・ウォルターズ、撮影ハリー・ストラドリング・シニア、共演ピーター・ロウフォード、アン・ミラー。"Irving Berlin's Easter Parade" となっているぐらいだからアービング・バーリンの音楽がふんだんに使われています。20世紀初頭が舞台で、アステアとダンスカップルを組んでいたアン・ミラーが勝手に単独契約したので、アステアは酒場の踊り子ジュディ・ガーランドを苦労して自分のダンス相手に育てる。その間、アン・ミラーは大成功を収め、アステアに再接近するが、アステアはガーランドを愛するようになっていたというような話。

「巴里のアメリカ人」(An American in Paris) はジーン・ケリー主演。アステアと比べると体操選手みたいであまり好きじゃない。レスリー・キャロンやオスカー・レバントら共演。1951年のアカデミー賞で、作品賞(アーサー・フリード制作)、オリジナル脚本賞(アラン・ジェイ・ラーナー)、カラー撮影賞(ジョン・アルトン)、カラー美術監督賞、カラーセット装飾賞、ミュージカル音楽賞(ジョニー・グリーン、ソウル・チャップマン)、カラー衣装デザイン賞を獲得。さらに、アーサー・フリードがアービング・サルバーグ記念賞を、ジーン・ケリーが特別賞をもらいました。他の作品賞ノミネート作品は「暁前の決断」「陽のあたる場所」「クォ・ヴァディス」「欲望という名の電車」でした。ジョージ・ガーシュインの音楽を使用。

「レニー・ブルース」(Lenny, 1974) は、ボブ・フォッシー監督、ダスティン・ホフマン主演で、1960年代の辛辣な漫談家の伝記映画。ジュリアン・バリーの舞台劇をバリーが脚色、音楽ラフル・バーンズ、撮影ブルース・サーティース(白黒)。満点なのに、この年の自分のトップテンに入っていないってことは、すぐれてはいたけれど、好きな作品じゃなかったらしい。私には重すぎたのか。アカデミー賞では、作品賞と監督賞にノミネートされたものの「ゴッドファーザー・パート2」とその監督コッポラが受賞。ホフマンもノミネートされましたが「ハリーとトント」のアート・カーニーが受賞。撮影賞も「タワーリング・インフェルノ」にとられて、結局何も獲得しなかったらしい。ちなみに、「アメリカの夜」の英語版が公開されてアカデミー対象作品になった年だったので、助演女優賞にバレンティナ・コルテーゼ、監督賞にトリュフォー、オリジナル脚本賞にトリュフォー、ジャン・ルイ・リシャール、スザンヌ・シフマンがノミネートされています(どれも受賞していませんが)。

キネ旬では1975年の4位で、この年には6位に「ザッツ・エンタテインメント」が入っているので、この頃ミュージカルといえば戦後の総天然色MGM映画なのでした。フレッド・アステアとジンジャー・ロジャーズの30年代RKOミュージカルを見るのは1990年頃だし、バスビー・バークレー振り付けによるワーナーの30年代をまとめて見たのは去年だし、まだまだ楽しいものはいっぱいあるのだ。

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2011年5月23日 (月)

映画構造と感情システム (13)

復興の狼煙のポスター1セット13枚届きました。居間に貼ってもいいかと母に尋ねたら、快く承諾してくれました。居間に貼ったのは「かわりに気づいた宝もの」、自分の部屋に貼ったのは「もうふざけんじゃねえぞ」。

勝谷誠彦さんが毎日念仏のように唱えているオーランチオキトリウムですが、TBS系列の日曜日夕方6時半からの「夢の扉+」で29日に取り上げるようで、念仏も唱え続ければ叶う。こちらで予告編を見ることができます。しかし、名前がややこしくて、昨日間違えて書いているので、「アブラモ(油藻)」とか「モアブラ(藻油)」とかにしてほしい(後者はまったく異なる種類の商品の名前としてすでに使われているのでダメか)。

本日から第3章「気分の合図に基づく映画的感情の研究法 The Mood-Cue Approach to Filmic Emotion」。

感情システムの柔軟性を考えると、映画がさまざまな観客からある程度一貫した感情反応を引き出すのは難しいように思える。社会や文化の違いによって異なる感情の台本や原型が作られるのであれば、観客は、同一の刺激を感情面から判断するのに、非常に異なる原型を使用する可能性がある。仮に観客が感情の基本的な理解を共有している場合でも、表情や意識的な思考から感情を引き出されやすい観客もいれば、別の経路から引き出されるのを好む観客もいる。また、しつこく合図を送らない限り、どの一個の感情経路も大きな感情反応を作り出すのに十分でない。

どういう構造によって映画はさまざまな観客からしっかりした反応を引き出すことができるのだろう。感情が短時間の状態であるのなら、上映時間を通じて一貫した感情を引きつける力を持続させることができるのだろうか。映画において感情の原型はどのような役割を果たすのだろう。どのようにして原型の一部ではない感情刺激が映画の感情を引きつける力の要素となるのだろう。

感情システムの構造を認識することは、しっかりした感情反応を引き出すために映画制作の実践が発展させてきた構造を知るのに役立つ。感情システムの制約によって感情を引き出す力の一部はうまくいかない(たとえば、感情は長時間持続しない)。しかし、うまくいく可能性が高い部分もある。第2章で概説するのは、観客の感情に訴えかけるために映画がどのような構造になっているかである。この研究法を4つの映画に適用する(「レイダース:失われたアーク」「ゴーストバスターズ」「ローカル・ヒーロー」「ストレンジャー・ザン・パラダイス」)。

この章の見出しは5つ。以下、仮訳です。

  1. 中心的主張:気分と感情の相互作用
  2. 合図の調整:感情の作り手
    「レイダース:失われたアーク」
  3. 短い原型:ジャンルの微小台本(マイクロスクリプト)の混合
    「ゴーストバスターズ」
  4. 引きつける力の分類:目標志向と希薄な情報
    「ローカル・ヒーロー」
  5. レイダースよりも奇妙な
    「ストレンジャー・ザン・パラダイス」

この「映画と感情」に関する勉強ノートは毎日書こうかなと思い始めました。「映画鑑賞記録」「シネシャモ上映会」「フィルムノワール」「土曜はRTだ!」「日曜はトリュフォーだ!」はそのまま続けながら。

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2011年5月22日 (日)

日曜はトリュフォーだ!: 「私のように美しい娘」のインタビュー

東北復興ポスタープロジェクト「復興の狼煙」は、やしきたかじんをオーランチキトリウムでウンザリさせている勝谷誠彦さんの配信メールで知ってポスターを注文したのですが、昨日のウィークエンドサンシャインでバラカンさんも言及してました。4月にも話したことがあるらしいのですが、記憶にない。あの番組を聴くときには音楽だけを聴く耳になっちゃってるのかね。映画や音楽は単に楽しみたいという気持ちが強いからなあ。

「私のように美しい娘」(1972) はトリュフォーの長編12作目。2006年11月にシネシャモ第28回上映作品として仮想上映しています

「わたしはあんまり映画が好きなので、映画が好きじゃない人と一緒にいるのが我慢できないくらいです。」(1971年)

「恋のエチュード」の原作者ロシェの簡潔で洗練された文体のあとで、ヘンリー・ファレルの粗野な隠語に満ちた文体に魅せられたそうです。この頃ロマンチックな恋と決別しようとしていたらしく、「恋のエチュード」では肉体を強調することで、「私のように美しい娘」では生きる活力を誇張することで、ロマンチシズムを破壊しようと試みます。少し前にカトリーヌ・ドヌーブと良い仲になったのに、彼女がマストロヤンニとできちゃったので、恋愛なんてコリゴリとでも思っていたのでしょうか。

「ビリー・ワイルダーのある種の作品に近づけたらと思っていました。」演出を重んじるカイエ・デュ・シネマ派は、脚本家あがりのワイルダーはお好きじゃないと思っていました。トリュフォーも昔は嫌いだったけど、この頃には「ねえ!キスしてよ」など好きになっていたというようなことを少し前に語っていた気がします。

アメリカ的ユーモアをどう定義しますかという問いに対して、「悪意に支えられています。そして悪意はコミカルな味を出すための素晴らしいバネになるのです」と答えています。「私のように美しい娘」は残酷な映画で、感傷なしにすべてを笑いのめす、あざけりの喜劇だそうです。「あまりに陽気すぎてとても悲しくなりようがない」と言ってますが、「あまりに陽気すぎて、かえって悲しい」と私には思えるのですが。映画自体のできばえについてではなく、害虫駆除業者シャルル・デネルや社会学者アンドレ・デュソリエというトリュフォーの分身のような人物が陥る境遇についてですが。

社会学者の乗る車が時代遅れだと指摘する質問者に対し、「ピアニストを撃て」や「黒衣の花嫁」同様に架空の町を舞台にしたかったからと答えています(私の目から見ると、どの映画も実にフランス的だと思うのですが)。ただ、「これほど出鱈目な話を通用させようとするなら、細部についてはごく正確であるように心掛けねばなりません」とも述べています。

ギー・マルシャン演じるサム・ゴールデンという歌手がベッドで一戦交えるとき、かならず自動車レースのレコードを大音量でかけるという味づけは、ルビッチに影響を受けたそうです。直接表現するのではなく、間接的に表現することで、爆音が聞こえるだけで何が行われているか観客は理解できます。

この映画のミスといえば、トリュフォーはベルナデット・ラフォンのカミーユに共感を寄せているのに、ときどき社会学者の視点で物語が描かれているように見えるときがあると述べています。ときどきどころか、私は完全に社会学者に共感しましたし、あばすれのカミーユに共感して見ている観客なんて、ほとんどいないと思います。「カミーユは「野性の少年」の姉」だと述べていますが、「野性の少年」だってイタール博士の視点から観客は見るだろうし、野性の少年やカミーユは別世界から来た不思議な存在に見えます。

あばすれのカミーユを社会の犠牲者だと証明することしか頭にないスタニスラスは生半可な社会学者に対する批判です。ベルナデットが表しているのは、「激しい力を秘めたなまの人生であり、とりわけサバイバルの感覚と今日呼ばれているもの」です。彼女が生きるために戦っている様子を描いているので、トリュフォーにとっては観客が彼女に共感しようが反感を買おうがどうでもよく、彼女のことをあばずれ女だと言う人は、映画の見方が間違っているそうです。

ここで、なぜかトリュフォーの父親的存在だった映画批評家アンドレ・バザンに関する質問が出てきます。バザンのことを観念論だと批評する人がこの頃いたとか。トリュフォーの答えは次のとおり。「バザンはまことに非凡な人物で、彼の書くものは微妙ではあってもだれにでも理解できるものでした。バザンはすべてを、すべての人間を理解しました。教条主義とは無縁の、自由な知性の持ち主でした。あの明晰な論理、力強い論証は、今日のどの映画批評家にも見出せるものではありません。」ちなみに、バザンの伝記を書いたダドリー・アンドリューが編集した "Opening Bazin" という30ほどのエッセイを収めた本を最近購入しました。バザンが書いたエッセイではなく、バザンに関して30名ほどの映画研究者が書いたエッセイを収めたものです。近いうちに、概略だけでもここに書くことができればいいなと思っています。

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2011年5月21日 (土)

土曜はRTだ!: RTの一問一答 (2011年5月)

リチャード・トンプソン(RT)のCD3枚とDVD1枚の Live at the BBC の詳細はこちら。もう一枚、RTの1982年の生ギター弾き語りライブ Folk City Broadcast は19曲入り。以前発売された Small Town Romance と同じコンサートの別の回の録音らしい。LPの Small Town Romance は12曲ぐらいしか入っていませんでしたが、CDは17曲入っています。そのうち8曲はボトムラインでの録音で、残り9曲がフォークシティでの録音。曲目は Small Town Romance と5曲ほどダブっているだけ。

RTのQ&Aは5月16日に彼のサイトで発表されたもの。ファンの質問に対して、RTが答えるというものです。全部で4ページあるので、かなり端折っています。内容や英語がわからなかったり、私が興味ないものを省略しています。個人名などの英語表記も略しています。知りたい場合は原文で探してみてください。

1991年にスペインであなたがディランのバックでギターを演奏しているのを You Tube で見ました。そのときのことを何か話してもらえませんか。

ディランと演奏するのはワクワクする。彼に会ったのはあの時だけだ。あれは即興的で、ディランが好きなように演奏した。技術的な問題がいろいろあったが、素晴らしい経験だった。

数年前のロバート・ワイアットのインタビューを最近聞いたら、スコットランドの伝統音楽について語っていました。ワイアットと共演したことがありますか。素晴らしいコンビだと思うのですが。

ロバート・ワイアットは知り合いじゃないけど、彼の多くの作品を楽しんでいる。素晴らしいコンビになるかなあ。私には想像できない。

"Beeswing" や "Al Bowlly's in Heaven" のような過去に関する曲を書く場合、下調べをするのですか。

調べたことの99%が無駄になったとしても、曲のテーマに関してできるだけ知ることは助けになると思う。たった3分の曲でも小説家の心がまえが必要だ。その時代や場所に関する小説を読んだり、歴史の本を読んだり、当時の新聞を読んだりして、当時の歴史に関して何かを感じることは有益だ。

ニュースはどこから仕入れるのですか。新聞、テレビ、インターネット?メディアから送られてくる24時間の大量の情報についてどう思われますか。

まだ新聞が好きだ。LAタイムズやロンドンタイムズ(クロスワードが最高)を読む。インターネットでガーディアンも読む。Huffington Post も読むし、地元テレビのニュース、CNN, アルジャジーラ(私の意見では最高だ)も少し見る。ニュース源は多くあったほうがいい。印刷されたニュースの経営を維持するためなら喜んでもっとお金を払うよ。

You Tube で "I Feel So Good" の素敵なアニメーション・ビデオを見ました。ザ・シンプソンズと同じスタッフが作ったようですね。スタッフについてもっと詳しいことを教えてもらえませんか。

忘れてしまった。名前を忘れた会社が基本的な部分を作り、シンガポールに送られて、残りを完成させて、送り返された。しばらく見ていないが、けっこう良かったことはおぼえている。

あなた以外ではポール・コゾフが好きです。フリーもアイランド・レーベルだったので、70年代初めに出会っていませんか。

彼のギターは本当に素晴らしいトーンだし、私が聴いたビブラートのなかで最高の一つだ。フリーはとても若くて才能があったバンドだ。ポールとは二度会っただけだ。たぶんアイランドの編集盤 You Can All Join In の写真撮影だったと思うが、誰かが夜明けの光の中で撮影しようと言い出したので、ハイドパークでポールの横に立って凍りついていたのをおぼえているよ。朝日の魅力は写真に反映されなかったけど。

「ゲッセマネ」の歌詞について何か教えてもらえませんか。

素朴な少年時代を送った友人についての歌だ。とても自由な少年時代だった。その後の人生においてその少年時代にまさることが何も起きなかったので、次第に失望して欲求不満になっていった。

成田空港でラリー・カールトンとバッタリ会ったので、こんなときに日本に来てくれたことにお礼を言いました。今必要なのは素晴らしい音楽だから。家に帰ると、あなたの日本でのコンサートがキャンセルされたことを知りました。どうしたのですか。

キャンセルされたのはとても残念だ。来年予定している。

日本でコンサートを開くことが興味深かったのですが、その後の出来事でキャンセルになりました。ところで、なぜ日本でコンサートを開くことになっていたのですか。スケジュールを見ても、アジアツアーの一環としてでもなさそうだし。日本でコンサートを開く西欧のミュージシャンといえばディープパープルとかチープトリックぐらいしか思い浮かばないのですが。

私のファンは日本にけっこういる。日本での5回目のコンサートになるはずだった。経済的には、アジアツアーをやるよりも、日本でコンサートをやってすぐ帰ったほうが賢明だ。

誰が熟達したミュージシャンだと思いますか。

バンドメンバーのピート・ゾーンはとても多才だ。いろんな楽器をいろんなスタイルで演奏できる。セッションミュージシャンは多才にならざるをえない。ロサンジェルスのギタリスト、トミー・テデスコは基本的にジャズ奏者だったが、なんでもできたし、とてつもない数のポップスのヒット曲で演奏している。バンジョー、マンドリン、ブズーキも演奏する。彼の演奏はモンキーズやフィル・スペクターやビー・バンブル&ザ・スティンガーズの「ナットロッカー」などで聴くことができる。

昨年11月19日にUCLAロイスホールで行った「キャバレー・オブ・ソウルズ」コンサートを録音したと思うのですが、CDで発売する予定はあるのですか。

確かに録音したが、機械のトラブルで、うまくいかなかった。ロイスホールでのメンバーで夏にスタジオ録音する予定だ。今年の終わりごろには発売されると思う。

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2011年5月20日 (金)

フィルムノワール入門 (6)

バラカンさんのFacebookの友達が5千人になって、これ以上増やすことができないらしい。私が1ヵ月近く前バラカンさんに友達リクエストをしたときは3千人ぐらいだったから、この1ヵ月に2千人の友達ができたわけだ。てなことを書いているうちに、バラカンさんは個人ページから組織ページへと鞍替えしてしまいました。私の友達枠はあと4995人分あるので、お気軽にどうぞ

クライテリオンからいろいろ面白そうなDVDが発売される予定です。7月発売のメルビルの「司祭レオン・モラン」はすでにVHSを購入してDVDにダビングしているのでパスすることにして、これは絶対買うぞというのはイクリプス・シリーズ第28弾の蔵原惟繕5枚組(8月23日発売)と2枚組のジャン・ビゴ全作品集(8月30日発売)。全作品集といっても、28歳ぐらいで夭折したビゴには短編「ニースについて」「競泳選手ジャン・タリス」、中編「操行ゼロ」、長編「アタラント号」しかないのですが。お金に余裕があれば、リンゼイ・アンダーソン監督、マルコム・マクダウェル主演の2枚組「Ifもしも....」(8月30日発売)も買いたい。

本日もアンドリュー・スパイサーの「フィルムノワール」を読んでいきます。今回は「ヨーロッパの影響 (1):ドイツ表現主義」。

フィルムノワールの目立つ視覚スタイルや悲観的な雰囲気はドイツ表現派の影響だとされている。しかし、それらは、ドイツ表現主義だけというよりも、ワイマール映画(1919年から1933年)全体の影響である。

ドイツ表現主義は、音楽、ダンス、絵画、彫刻、建築、デザイン、文学、演劇、映画にまたがる運動であり、だいたい1906年から1924年まで続いた。本質的に、ブルジョワの合理主義に対する哲学的および芸術的な批判であり、現代生活の「不合理性」(すなわち、ゆがみ、疎外、分裂、混乱)を表現しようとした。

心の状態、気持ち、考え、知覚、夢、幻覚、妄想といった主観的な経験を再現することに関心があった。「カリガリ博士」(1919)など多くの映画の主人公たちは、苦悩したり、錯乱したりする。最初1913年に作られた「プラーグの大学生」は1926年に表現主義のスタイルで再映画化されたが、典型的な生霊の物語だった。学生が自分の鏡像を魔術師に売り、その鏡像は魔術師によって殺人的なもう一人の自分に作り変えられてしまう。「プラーグの大学生」は、自己の変わりやすさに表現主義が関心を持っていることの雄弁な証言であり、この自己の変わりやすさがフィルムノワールに反響している。

表現主義は、包み込むような雰囲気と質感を作り出しているが、それは明暗のはっきりした照明を使用した特徴的な視覚スタイルによるところが大きい。強烈な照明の光線と深く暗い影が完全なコントラストを作り出し、空間が裂かれて不安定な線となり、しばしば奇妙なアングルにねじ曲げられる。

全体的に、表現主義の映画は、高度に設計され、丹念に構成された演出によるものであり、反自然主義である。最近の研究ではトーマス・エルセッサーが、もう一つの重要な特徴として物語の複雑さを強調している。表現主義の映画は、中心を離れて行き場を失った物語、入れ子式の物語、分割されたり重複したりする物語、ナレーション、フラッシュバックを発展させた。(Thomas Elsaesser, "Weimar Cinema and After: Germany's Historical Imaginary," Routledge, 2000)

表現主義のスタイルと物語パターンはフィルムノワールに影響を与えている。

次回は、「ワイマールの「街路映画」と都会派スリラー」

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2011年5月19日 (木)

映画構造と感情システム (12)

本日は第2章「感情システムと原型的でない感情」の7番目で最後の見出し。

【一時性と方向づけ:過程としての感情】

以前は "orientation" を「志向性」にしていましたが、本文を読んで「方向づけ」に変更しました。しかし、まだ不確定です。

感情を研究する際にやっかいなのは、異なる現象に対して「感情 emotion」という言葉が使われることである。誤解の多くは、感情表出と感情経験の両方に感情という言葉が使われることに起因する。まずは、よく使われる「感情」と「気分 mood」から明確にしていこう。

記憶に頼っている限り、感情の一時性は問題にならないかもしれない。何か不愉快なことがあって一日中怒っていたとか、週末はずっと幸せだったとか。しかし、感情の記憶を本当の感情に関する証拠として使用するのは好ましくない。人間は、経験の詳細を記憶するのが下手である。詳細をすべて蓄積するよりも、経験を凝縮して、記憶に何らかの明確なラベルを貼ったほうが効果的である。「嫉妬」という原型的な台本が特定のエピソードの間に生じたほとんどの経験を含んでいれば、その間の感情の起伏すべてに適合しなくても、その記憶に嫉妬のエピソードというラベルを貼ることができる。

ここでも、感情の原型の力が重要である。原型と台本は、状況を解釈する方法だけでなく、経験に関する情報を蓄積し検索する方法も整理する。感情の記憶は、感情経験の詳細に関する証拠としてよりも、自分の感情の原型が何であるかに関する証拠として使用したほうが好ましい。このことは、感情の持続を思い出す方法について特にあてはまる。感情の経験や表出に細かく注意を向けると、感情の持続が記憶よりも異なることに気づく。一日中怒りが持続することはない。証拠によると、感情は比較的短いものである。

感情の持続は、何時間とか何日間とかいうものではなく、何秒間、何分間程度のものである。感情の表出について、表情は0.5秒から4秒しか持続しないが、心拍数は表情ほど早く変化しない。感情の種類によっても持続は異なる。悲しみは恐怖よりも持続する。しかし、全体的には、感情は比較的短い。記憶よりも実際に進行中の感情に注意を向けると、感情が短時間に変化していることがわかる。

では、短時間に感情が変化している状況に対して一貫した長時間の感情を持っていると思ってしまうのはなぜだろう。それは感情システムの別の能力が関係している。すでに論じたように、感情は機能的な活動に駆り立てることがあるし、個人の内面を表現することもある。さらに、感情ネットワークは我々を環境に順応させることもある。感情は、ある行動をとるよう促すこともあるし、情報を集めるのをせかすこともある。たとえば、驚きは、適切な用意の態勢が整っていないときに、素早く反応の用意をさせる。刺激を素早く判断したあと、驚きという方向づけをする状態 (orienting state) は、ただちに適切な行動志向の反応(恐怖、喜びなど)に取って代わられる。

方向づけをする感情の状態は、準備的になる傾向がある。体の準備をし、注意を特定の刺激に向け、環境を解釈する方法を変える。方向づけをする感情の機能は、感情と調和した状況の一部を強調する。たとえば、恋する人々は自分たちの明るい気持ちに関連づけてその日の天気を解釈するが、同じ晴れの日の感じ方は怒っている人や恐れている人ではまったく異なるかもしれない。方向づけをする感情の機能は、我々の内面の状態を確認する環境の合図を探し出すよう我々を促す。短い感情経験に一貫した枠組を与えるのは、このきわめて重要な方向づけである。

方向づけをする根本的な一連の感情の状態は気分である。気分は、人が特定の感情を表現する機会を探し出している準備状態である。気分は、我々が特定の感情を持ちそうだという期待であり、特定の感情を引き出す合図と出会うであろうという期待である。これらの期待によって、我々は状況と向き合い、気分と調和したやり方で環境を判断する。活発な気分だと、その気分に合った環境の一部に重点を置く。気分は、感情システムにとっての注意力として機能し、特定の刺激に焦点をあてる。

これらの期待は、感情よりも散漫で長続きしやすい低レベルの感情の状態である。本来それらは感情ではなく、感情を表現しようとする傾向である。したがって、気分は、長続きするが、強力ではない感情の状態であり、特定の感情群を表現することを促す方向づけ機能を持っている。感情ほど強力ではないものの、その持続性によって感情システムの重要な一部となっている。

気分には慣性がある。気分は、同じ感情を表現し経験するよう保たせる傾向がある。気分は、同じ刺激に何度も戻るよう我々を鼓舞する。我々は、その都度、新たな感情の噴出によって感情経験を活気づける。こうした感情の高まりが今度は気分を持続させるので、我々は世界を感情的に見続けやすくなる。怖がる気分は感情を非常待機にし、怖いものを探すために環境を巡視させる。怖い光景を見ると、気分が強まり、将来の刺激を怖いものと判断し続けやすくなり、こうして怖がる気分に慣性が与えられる。この循環は、感情的な刺激がある限り続く。

気分に必要なのは、短くて力強い感情の投与が継続することである。したがって、気分は感情と提携関係にある。気分は感情を経験しやすくする傾向である。気分は感情の表出を支え、促す。同時に、感情の短い噴出が感情の持続を促す。感情がときどき力を与えないと、その感情を持つ傾向を持続するのが困難になるだろう。

気分(感情の方向づけ)と外部状況の組み合わせによって、ニコ・フライダ Nico Frijda が感情エピソードと呼ぶ感情の瞬間の連続が形成される。感情エピソードは、初め、中間、終わりのある一貫した単位として知覚される一連の感情である。我々がかなりの時間怒っていたことを記憶している場合、通常、我々は感情エピソードを記憶しているのである。感情エピソードは、個人と環境の間の感情処理であり、いくつかの小さな出来事によって構成されているが、内面的な一貫性を持つと知覚される。

このように、感情エピソードは、感情や気分よりも感情の原型に似ている。感情エピソードには対象の存在が必要である。気分や低レベルの感情ほど散漫ではない。通常、活性化状態というだけでなく行為傾向でもある。長時間持続する。感情の原型と感情エピソードの主要な相違は、感情エピソードは過程であり、状態ではない。エピソードという言葉には、出来事の物語的な連続という意味があり、感情が一貫した単位の流れに沿って変化することを強調している。急速な変化は、感情システムの方向づけ能力によって和らげられるので、覚えていないことが多い。

感情エピソードは気分と同じぐらい持続し、刺激が処理にかかわる。感情エピソードは、気分の方向づけ傾向と一貫した感情対象の存在の両方に左右される。通常、感情(数秒か数分)や気分(何時間も続くことがあるが、通常は4分から15分の間)よりも持続する。感情、感情エピソード、気分という一時性による分類は、どのように映画の感情が時間とともに変化するかを論じる際に役立つであろう。

ほとんどの環境は秒ごとに変化せず、漸増的に変化するので、環境に対する一貫した感情のスタンスが必要である。短時間の感情は、社会の突然の変化を扱うのに必要な切迫さとスピードを提供することができるが、安定した環境を扱うのに必要な安定した感情の方向づけは提供することができない。

気分は一貫した期待を与えるので、我々は感情経験の変化に常に注意する必要がない。気分は、重要と思われる刺激を選択する手助けをしてくれる。外部の感情刺激をふるいにかけ、経験や記憶を有益に単純化する一貫性を出来事に与える。これらの異なる一時性が合わさって、柔軟さと効率、スピードと安定性、順応性と一貫性という精巧な組み合わせを感情システムに与えるのに貢献する。気分と感情は、全体的および局所的な感情現象の両方を論じる方法を提供してくれる。

ある映画の感情に関する魅力を説明したいのであれば、長時間の気分と短時間の感情がどのように相互作用を行っているかに注意を向けるべきである。映画の感情に対するすぐれたアプローチは、対象志向、目的志向、行動志向として感情の原型のみに頼るべきではない。どのように感情の原型が、感情を非原型的に引き出すことができる多くの合図に気を配りつつ、映画の感情経験を形成するのかということに注意を向けるべきである。感情が刺激と結びつき、連想 (associations) を引き起こすことによって感情が引き出される柔軟な方法に注意を向けるべきである。

次回からは第3章「気分の合図に基づく映画的感情の研究法 The Mood-Cue Approach to Filmic Emotion」です。以前は「気分」を「雰囲気」としてたし、本文を読んで理解が深まると変更する可能性のある暫定的な題名です。

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2011年5月18日 (水)

キートンの短編映画 (14): 「キートンの華麗なる一族」

6月にリチャード・トンプソンのBBCライブ(CD3枚とDVD1枚)と、 1982年の生ギター弾き語りライブ Small Town Romance をパワーアップさせたような Folk City Broadcast というCD1枚組が発売されます。詳しいことは「土曜はRT!だ」までに調べておきます。

アメリカのキノから7月に20年代初期のキートンの短編を集めたDVD3枚組が出るようです。私が持っているイギリスの4枚組にはアーバックル作品の出演作13本も収録されていますが、キノからはすでにアーバックル作品に出演したものが2枚出ているので、キートンの単独作しか収録されていないのでしょう。

本日は13本目「キートンの華麗なる一族」(My Wife's Relations)。アメリカでの公開は1922年5月。脚本と監督は、いつもどおりキートンとエディ・クラインとの共同。「船出」「白人酋長」「警官騒動」と傑作が続きましたが、これは地味。相手役はシビル・シーリーでもバージニア・フォックスでもなく、太ったおばさん。勘違いから二人は結婚することになり、ジョー・ロバーツをはじめとする巨漢ぞろいの家に住むことになる。キートンが持っていた手紙からキートンに巨額の遺産が残されていることを知った一家がキートンをチヤホヤし始めるが、その手紙が他人宛のものだとわかるとみんなでキートンを追いかけまわし、キートンは離婚で有名なリノ行きの列車に飛び乗る。

「キートンの華麗なる一族」という邦題はキネ旬の「世界の映画作家26:バスター・キートンと喜劇の黄金時代」からのもの。実際この邦題で公開されたことがあるのかどうか不明。児玉数夫氏の「キートン!キートン!!キートン!!!」(1980、ブロンズ社)によると、もともと「キートン半殺し」という邦題で、児玉氏が昭和5年(1930)6月28日に赤坂溜池・葵館で見たときは「キートンの飴ン棒」という邦題でした(キートンが最初に登場するときは飴作りの最中で、引き延ばしては折りたたむという作業をしています)。このときの上映の中心は長編「猛進ロイド」で、キートン作品を含めて短編が5本併映されています(主演者と邦題が明記されていますが、面倒なのでここには書きません)。各作品を異なる弁士が説明しているのがリッチ。プログラムに記載されたあらすじを再録しているのですが、これがけっこういい加減なあらすじ。これ以前に「セブンチャンス」が「キートンの栃面棒」という邦題で公開されたので、それにあやかって「キートンの飴ン棒」と改題されたようです。

私のキートン採点表(5つ星満点)

  1. 「マイホーム」 ★★★★★
    奇抜に作られた家が秀抜で、この中心がしっかりしているし、その前後も充実している。
  2. 「囚人13号」 ★★★★
    とりとめもないが、ブラックなジョークがシュール。
  3. 「スケアクロウ」 ★★★
    可愛いシーリーとの初々しい恋愛以外、普通に面白い。
  4. 「隣同志」 ★★★★
    両脇にアパートがあって、真ん中に塀があるという中庭が良い。
  5. 「化物屋敷」 ★★
    銀行の前半は接着剤のついた札束を使ったドタバタがくどいし、後半の化物屋敷のドタバタもありきたり。
  6. 「ハード・ラック」 ★★★
    私が年取ったからなのか、枠組がしっかりしたものに安心するようで、とりとめもないものが苦手になってます。
  7. 「ハイ・サイン」 ★★★
    キートンがアーバックルから独立して最初に作った短編。 キートンが気に入らなくてお蔵入りになっていたが、新作を撮影中に負傷したため、やむなく公開。
  8. 「強盗騒動」 ★★★★
    ノンストップのチェイスもの。
  9. 「一人百役」 ★★
    多重撮影で出演者がすべてキートンという着想は面白いが、中身が伴わない。
  10. 「船出」 ★★★★★
    私にとってのキートンの最高傑作短編。家族四人がボート遊びに出かけて散々な目にあう。
  11. 「白人酋長」 ★★★★
    お馬鹿な蝶々収集家が酋長に祭り上げられ、インディアン部族を利権争いから救い、部族の娘と結ばれる。
  12. 「警官騒動」 ★★★★★
    大量の警官に追いかけられるアナーキーなキートン。
  13. 「華麗なる一族」 ★★
    室内でのドタバタが中心。地味で貧乏臭い。

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2011年5月17日 (火)

1978年5月第3週に見た映画

5月15日(月) 招かれざる客 (月曜ロードショー) 4点
5月16日(火) 裸のジャングル (フジテレビ) 3点
5月18日(木) ミス・ブロディの青春 (大塚名画座) 5点

「招かれざる客」1967, Guess Who's Coming to Dinner) は、制作・監督スタンリー・クレイマー、脚本ウィリアム・ローズ、主演スペンサー・トレイシー、キャサリン・ヘップバーン、シドニー・ポワチエ、キャサリン・ホートン。娘が連れてきた婚約者が黒人だったので両親が悩む話。娘役のキャサリン・ホートンって印象にない。キャサリン・ヘップバーンの実の姪っ子らしい。1967年のアカデミー賞にノミネートされましたが、同じポワチエ主演の「夜の大捜査線」が受賞。ポワチエはどちらの作品でも主演男優賞にはノミネートされず、「招かれざる客」ではスペンサー・トレイシーがノミネート。しかし、受賞したのは「夜の大捜査線」のロッド・スタイガー(どちらの作品でもポワチエは優等生の黒人として型にはまりすぎていたからだと思います)。ヘップバーンが主演女優賞で、翌年も「冬のライオン」で獲得。ウィリアム・ローズがオリジナル脚本賞。キネ旬では、「俺たちに明日はない」が1位だった1968年に11位。

当時、感想を書いているので、転載します。細かいミスのみ修正しています。

黒人を扱った作品だ。黒人の男と白人の女が結婚することになり、その両親がうろたえる話になっている。もちろん、最後はハッピー・エンドになる。白人の作家が描くこの世界は、黒人問題を扱うといった点で認めることは出来るが設定がおそまつだ。白人の家庭が中流あるいは上流に属しており、両親とも物わかりの良い人物であり、黒人の彼氏が立派な人物であるということがだ。これではこの話も一つのありえない話になってしまい、黒人問題意識はうすれ、かわりに各人の演技のうまさが目立ってしまった。この作品が遺作となったスペンサー・トレイシーと、これでアカデミー賞をもらったキャサリン・ヘップバーンが素晴らしく、ヘップバーンがとっても素敵なオバサマだった。

スタンリー・クレイマーという人は、演技を見せるという点では素晴らしいが、政治派といわれる彼の、そのアプローチのしかたは、いかにも平均的知識人(アメリカの)で、考え方が自分中心だ。白人の世界に黒人の世界を近づけるといった考えは、白人の思いあがりだ。これはインディアンに対するときもいえて、昔の西部劇などによくあった。黒人もインディアンも白人も良い子とならなければ、この問題は解決しないと思わせるところが浅い考えである。

人種問題を描く映画も、60年代の頃はまだこの域をこえていない。さらに進んだものが出てくるのは70年代に入ってからである。わりと白人とは違ったものを出そうと自己主張をする黒人が増えてきた。そのぶん、シドニー・ポワチエはパッとしなくなった。

オリジナル脚本で原作はないので、「白人の作家が描くこの世界」の作家というのは、この作品の映画作家であるスタンリー・クレイマーのことを指すのでしょう。

双葉さんの採点は☆☆☆★★。トレイシーが「人種偏見と闘ってきた新聞社の社長」なのに、娘が黒人を連れてきたらショックを受ける。「きちんと出来てはいるもののネライが見えすいて、いささか興がさめた。」

こういう作品は、ポーリン・ケイル女史がズバッと切りそうなので "5001 Nights at the Movies" を調べたら、取り上げていないのでガッカリ。

「裸のジャングル」(1966, The Naked Prey)は、コーネル・ワイルド制作・監督・主演で、アフリカの部族に捕まったワイルドが、自分たちから逃げおおせたら命を助けてやろうとジャングルに解き放たれる。逃げるワイルドと追いかける部族という単純な構成のアクション映画で、もっと自分の点数が高いと思ってました。双葉さんの採点は「招かれざる客」と同じですが、同じ点数でも、良いのが当たり前の作品だと低く見えて、拾物の作品だと高く見えるのです。

「ミス・ブロディの青春」(1969, The Prime of Miss Jean Brodie)は、ミュリエル・スパーク原作のイギリス映画。「予期せぬ出来事」の控え目な秘書役が良かったマギー・スミス主演で、アカデミー主演女優賞を獲得しました。これが映画館で見れたのはラッキー。1930年代、女子校の進歩的な女性教師は美術教師ロバート・スティーブンスと仲が良いが、スティーブンスに恋している女子生徒パメラ・フランクリンなどによって挫折するというような話。スパークの原作をジェイ・プレッソン・アレンが舞台化したものの映画化で、アレンが映画の脚本を書いています。監督ロナルド・ニーム、撮影テッド・ムーア、音楽ロッド・マキューン(ロッド・マッケン)。オリバーが歌う主題歌「ジーン」が1969年10月にビルボードで全米2位まで上昇する大ヒットでしたが、アーチーズの「シュガー・シュガー」に首位を阻まれました。映画ではマキューン自身が歌っているようで、オリバーのはカバーのようです。YouTubeでマギー・スミスの映像とともにマキューンが歌っているのを見ることができます(メガネをかけたお目目パッチリの生徒がパメラ・フランクリン)。オリバーも歌ってます

後味が悪いので双葉さんの採点は☆☆☆ですが、私はルノワールの「ピクニック」、ジャン・ビコの「操行ゼロ」に次いで1978年の3位にしています。これも当時感想を書いているので転載します。

これは、マギー・スミス主演のコメディ・タッチのホンワカムードの洒落た恋愛ものだと思っていたら、イギリス人はそういう風な映画がとれないらしい。

まず、1930年代の話だというのがボクをちょっと驚かせた。それでも、それはただそういう設定だけで関係ありません、というものかと思っていたら、後半になって、その時代をひしひしと感じるようになっている。終わり近くになると、これは、この時代のイギリスを描いた作品なのか、と思ってみたりもした。スペイン内乱のことなど、日常生活の一部としてしか描かれていないが、わりと強い印象を与えられた。

しかしながら、やはりこれはミス・ブロディという女の、女ざかりをすぎようとしている時期の話なので、ものかなしい映画なのである。やはりイギリス映画のフリーシネマ時代のなにかやるせなくさせる映画のような気分になってしまうのである。

ミス・ブロディという女は、誇張して描いてはあるが、初めのうちはわりとユーモラスに描いており、しかし後半グッと、悪い部分がミエミエになってしまう。

彼女は、その学校ではわりと革新的で、授業をただテキストどおりに教えるのではなく、実際役に立つように教えている。考え方が感情に左右されやすく、そこがまた人間臭いところ。初めのうちは、それが彼女の女らしい長所のように思えるのだが、後半うらめに出てしまう。これも時の流れかどうかしらないが、殺されなきゃ学校をやめないと自信をもっていた彼女も、女ざかりをすぎようとしているのを、生徒に思いしらされ、自分に自信をなくしてしまう。

子供らのために人生をささげようと決心した彼女は、その自信ゆえに立派で美しい女性であったのだが、そのうちの一人を間接的に殺したような形になり、別の一人に裏切られ、非難され、自信をなくすと、そこには婚期をすぎたみにくい女しか残っていなかった。

「蜜の味」、「ジョージー・ガール」、その他もろもろの物悲しく、ちょっと全体のイメージが風変わりな、イギリスでしか作れないような、本当にやりきれない映画なのだ。

"5001 Nights at the Movies" のポーリン・ケイル女史は次のように書いています。

ミュリエル・スパークが才気煥発に戯画化した1930年代のエジンバラ学校のロマンチックで変わり者の教師をマギー・スミスが演じている。彼女は女子生徒たちを教えるよりも奮い立たせたがっている。ロナルド・ニームの演出は型にはまりすぎているが、マギー・スミスは、まねることに対する天賦の才能と気どったコメディに対する才能によって、ジーン・ブロディをとても愉快にしている。俗物で、気どりすぎで、心はガラクタの寄せ集めだ(jumble shop of a mind)。ミス・ブロディがとても愉快なので、話がメロドラマ調になり、危険な影響力を持つ人物として真面目に彼女のことを受けとめるよう促されても、観客はそれを受け入れることができない。セリア・ジョンソンが冷酷なライバル、ミス・マッケイとして素晴らしい演技をしているし、美術教師ロバート・スティーブンスもミス・ブロディの恋人役をうまく演じている。ブロディとパメラ・フランクリンとの対決シーンは失敗だが、その原因は彼女たちではなく、原作にある。

再見したくてたまらなくなったので、米盤DVDを千円少々でアメリカのアマゾンに注文しました。

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2011年5月16日 (月)

映画構造と感情システム (11)

第2章「感情システムと原型的でない感情」の7つある見出しの6番目は「感情と文化」。わからなくても読み飛ばして、あとで必要になれば、ひきかえして熟考すればよい。

【感情と文化】

感情は主観的な経験だと考えられているので、個人間の相違を論じる際には、文化的に形成された感情が軽視されがちである。感情ネットワークが個人の経験を通じて形成されるのなら、自分たちの経験を理解できるようにする社会的枠組が感情システムの形成に決定的な役割を果たす。すべての社会は、構成員の感情をコントロールすることに強い関心を持つ。

ある文化の社会化作用には、感情を表現したり経験したりするための台本を構成員に提供することが含まれている。そこには、どのような状況が感情を引き起こすか、誰が感情を持つべきか、適切な感情や表現の境界線などが書かれている。通常、感情は目的志向なので、文化による感情の相違は各文化が特定の目的に対して異なる価値観を持っているからだという仮説がある。

感情の表現には文化特有のルールがあるかもしれないということはほとんどの者が認めるところだが、多くの者は、感情経験は自然なものであり、社会の力が及ばないと考えている。感情システムにはしっかり組み込まれた部分があり、意識的な思考の影響を受けない。基本的な感情の発達は文化を超越しているように思える。世界中の子供は、特定の順序で基本的な認知作業や身体作業を身につける。社会的に形成された原型を単純な実在物に根づかせることで、社会は、あたかも自然なものであるかのように感情に対する規定を正当化することができる。

感情が普遍的だと強く主張することはできないが、人間には基本的な類似点が組み込まれている。最近の心理学は感情システムの「形式」をうまく描いているが、感情システムの「内容」を扱う際には感情の人類学や社会学に頼るべきだ。感情システムには文化を超えた普遍なものもあるが、個人が組み立てる感情の社会文化的ネットワークには、ほとんどの日常的な感情経験に対して普遍的なもの以上の関連がある。では、普遍的なものは、なぜ重要なのか。かかる普遍的なものは限られているが、基礎的なものである。社会文化的影響は感情を形作るが、感情システムの構造を基本的に作り直すことはできない。感情システムは、感情経験を型に入れて作る文化の能力に制限を設けている。文化と社会が感情構造に対して持つ影響力は無限ではない。文化が人間の構造に対してやってほしいと頼むことができることには神経学的な限界がある。

感情システムの文化的でない部分をきちんと配置することによって、感情とその自然らしさとのつながりに微妙な差異をつけたい。システム構造の普遍的な部分は構造上基本的なものだが、自分の世界を理解しようとする努力によって組み立てられる巨大なネットワークよりも日常の感情性に対する重要度は低い。

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2011年5月15日 (日)

日曜はトリュフォーだ!: 「恋のエチュード」

これも勝谷さんの配信メールで知った吉村昭の「三陸海岸大津波」(文春文庫)を読みました。もともとは1970年に書かれた本です。その時点で過去100年ほどの間に三陸地方では明治29年(1896)、昭和8年(1933)、昭和35年(1960)年に大きな津波が起きており、各々2万5千名、3千名、百名ほどが亡くなっています。筆者は、この死亡数減少の一因を人間の津波に対する認識の高まりと防波堤などの施設が充実したこととしており、特に田老町の10メートルの防波堤に楽観的な考えを示しています。しかし、私がテレビで見たリポートでは、今度の津波では田老町の防波堤は役に立たず、むしろ日ごろから避難訓練をして、避難経路の整備をしていた町が奇跡的に犠牲者ゼロだったと紹介していました。この本で心に残るのは災害のあとで子供たちが書いた作文で、描写がリアルだし、親を亡くした悲しみや兄弟同士で励ましあうけなげさが強く心を打ちます。

先週は「家庭」(その1)としましたが、さほど書くこともないので、早々に「恋のエチュード」(1971)へと進みます。

「家庭」のインタビューでは、この頃好きだった映画として、マルグリット・デュラスの「破壊しに、と彼女は言う」(1969)を挙げています。

トリュフォーは政治活動とか社会活動には興味なさそうですが、子供好きだから「SOS子供村」という会の活動には参加していたようです。「両親を交通事故で亡くした兄弟姉妹が別れ別れにならずに済むようにするのが目的」の会だそうです。「ユニセフのような組織をわたしはほとんど信用していません」とも述べています。

トリュフォーの映画は以前の映画の反論で、暗い「柔らかい肌」は幸福感で胸がときめく「突然炎のごとく」への反論であり、「家庭」は、カンヌで野次られ興行成績も悪かった「柔らかい肌」の陽気な「リメイク」だと述べています。こういう風にいつも反省しながら、次は違ったものを撮ろうとするトリュフォーですが、全作品を概観するとまとまりがあると思います。基本的にトリュフォーは暗い人だから、自分で意識して作品を操作しようとしても、どうしても暗くなりがちで、そういうトリュフォーが好きなのだから、それでいいのだと思います。夫婦コメディの「家庭」も軽薄と思えるほど明るくはないし、さらに破天荒なコメディ「私のように美しい娘」にしても悲しみは残るのです。

「恋のエチュード」は、74歳でデビュー作「突然炎のごとく」を書いたアンリ・ピエール・ロシェの77歳の二作目の映画化です。彼にはこの二作しかないようですが、24歳だった1903年から1959年まで毎日欠かさず日記をつけており、本にすると20巻ほどになるらしいです。ジャン・グリュオーは「恋のエチュード」の脚本を書く際に日記を丹念に調べたそうです。

ジャン・ピエール・レオを金持ちでインテリのロシェ風に演技指導したということですが、レオはレオにしか見えなくて、わたしの大好きなこの映画のなかで二人の英国人姉妹に愛される男性としては軽すぎる(それもまた楽しいのですが)。

この映画で好きなのはステイシー・テンデター演じるミリュエルで、「夜霧の恋人たち」のストーカー男と「アデルの恋の物語」の主人公を橋渡ししています。おとなしいけれど内面でメラメラと情欲がわいている様子は黒眼鏡に映る暖炉の炎で見事に表現されています。撮影はネストール・アルメンドロス。トリュフォーはさほどカラーにはこだわっていないようですが、カラーじゃなければ最後に処女を喪失するミリュエルの血が表現できなかったでしょうに。トリュフォーとしては可能なかぎり肉体的なものにしたくて、精液さえ見せるべきだったと言っています。「それでも涙と嘔吐と血を、要するに苦しみを(そして肉体の昂ぶりをも)わたしはみせたのです。」

「恋のエチュード」に関しては、いつか長々と書いてみたい。

昨日届いたCD「ルンバ・ブルーズ」と「トロピカル・マリンバ」。

Tropical

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2011年5月14日 (土)

土曜はRTだ!: A Love You Can't Survive

勝谷誠彦さんの配信メールで「復興の狼煙」ポスタープロジェクトというのを紹介していたので、さっそく13枚1セットを注文。13枚も張るところがない。傷つけるが忍びないので張らないかもしれません。

本日はリチャード・トンプソン(RT)の The Old Kit Bag (2003) の4曲目 "A Love You Can't Survive"。「耐え忍ぶことのできない愛」とでも訳しますか。

やっと具体的な物語の歌が出てきました。志願兵として船出する男が一年後に帰ってくると彼女に約束しますが、コンゴの首都ブラザビルでケンカして相手を殺してしまい、5年間の監獄生活。釈放されても汚名のために戻ることはできない。ニューオリンズの港にたどり着き、コカインの密輸で大金を得たらしく、山の中でのんびり暮らしており、女に不自由はしていない。しかし、約束した女性の顔がどうしても忘れることができず、その愛の苦しみだけは耐え忍ぶことができない。というようなことを男が一人称で女性に向けて語りかけています。

ザ・ラム・アンド・フラッグというパブ、コンゴの首都ブラザビル、ニューオリンズの港といった具体的な名前から、物知りの人なら彼が志願兵として参加した紛争が何かわかるのでしょうか。それともボガートとバーグマンの「カサブランカ」のように具体的な場所が示されているけど、結局はハリウッドの架空の世界での出来事のようなものでしょうか。

生ギターの弾き語りで始まり、ダニー・トンプソンのダブルベースが入り、マイケル・ジェロームのドラムが入り、RTのエレキギターがダビングされます。途中生ギターの弾き語りに戻りますが、再びバックバンドが加わり最後に向けて盛り上がっていき、RTのエレキソロで終わります。最新作 Dream Attic の最後の "If Love Whispers Your Name" の最後のギターほどは炸裂しません。自主制作的なライブ盤 Ducknapped! (2003) ではRTが生ギター1本だけで歌うのを聴くことができます。

RTのサイトをのぞいたら Hardly Strictly Bluegrass というのが主催したコンサートに昨年秋出演した写真が掲載されていたので、そこのウェブサイトを訪れてみたら、ヘイゼル・ディケンズという女性歌手が4月22日に亡くなったことが掲載されていました。調べてみたら、ギリアン・ウェルチやアイリス・ディメントの先駆的存在だとか。ソロアルバムでも良さそうなのが何枚かあるようですが、アリス・ジェラードという女性と組んだのも良さそうです。Pioneering Women of Bluegrass というCDのジャケットに見覚えがあります。貧しそうなというか、幸薄そうなというか、二人が演奏している白黒写真が印象的です。

リチャード・トンプソン: Richard Thompson
ダニー・トンプソン: Danny Thompson
マイケル・ジェローム: Michael Jerome
ヘイゼル・ディケンズ: Hazel Dickens
ギリアン・ウェルチ: Gillian Welsh (バラカンさんは「ウェルシ」とか発音しています。)
アイリス・ディメント: Iris Dement
アリス・ジェラード: Alice Gerrard

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2011年5月13日 (金)

フィルムノワール入門 (5)

前の記事で "Boom and Bust: American Cinema in the 1940s" の事例研究としてフィルムノワールが取り上げられているので、それについて近いうちに読むと書きましたが、すでに2006年秋に何回かに分けて書いているので、それをまとめたものを再掲します。

ここで挙げている40年代の代表作。

1944年

  • Double Indemnity
    「深夜の告白」ビリー・ワイルダー監督、フレッド・マクマレー、バーバラ・スタンウィック主演。
  • Laura
    「ローラ殺人事件」オットー・プレミンジャー監督。ジーン・ティアニー、ダナ・アンドリューズ主演。
  • Murder, My Sweet
    「ブロンドの殺人者」エドワード・ドミトリク監督、ディック・パウエル、クレア・トレヴァー主演。原作はチャンドラーのフィリップ・マーローもの「さらば愛しき女(ひと)よ」。
  • Phantom Lady
    「幻の女」。ロバート・シオドマク監督。コーネル・ウールリッチ原作。
  • The Woman in the Window
    「飾窓の女」。フリッツ・ラング監督。エドワード・G・ロビンソン、ジョーン・ベネット主演。
  • The Mask of Dimitrios
    「仮面の男」。ジーン・ネグレスコ監督。シドニー・グリーンストリート、ザカリー・スコット主演。エリック・アンブラー原作。
  • Christmas Holiday
    「クリスマスの休暇」。ロバート・シオドマク監督。ディアナ・ダービン、ジーン・ケリー主演。サマセット・モーム原作。

1945年

  • Mildred Pierce
    「ミルドレッド・ピアース」(日本劇場未公開)。マイケル・カーティス監督、ジョーン・クロフォード、ジャック・カーソン主演。ジェームズ・M・ケイン原作。
  • Cornered
    「影を追う男」(テレビ放映題名、日本劇場未公開)。エドワード・ドミトリク監督、ディク・パウエル主演。
  • Detour
    「まわり道」(日本劇場未公開)。エドガー・G・ウルマー監督、トム・ニール主演。
  • Scarlet Street
    「スカーレット・ストリート」(日本劇場未公開)。フリッツ・ラング監督、エドワード・G・ロビンソン、ジョーン・ベネット主演。
  • Hangover Square
    「戦慄の調べ」。ジョン・ブラーム監督。

1946年

  • The Big Sleep
    「三つ数えろ」。ハワード・ホークス監督、ハンフリー・ボガート、ローレン・バコール主演。原作はチャンドラーのフィリップ・マーローもの「大いなる眠り」。
  • The Killers
    「殺人者」。ロバート・シオドマク監督、バート・ランカスター、エヴァ・ガードナー主演。ヘミングウェー原作。
  • The Postman Always Rings Twice
    「郵便配達は二度ベルを鳴らす」(日本劇場未公開)。ティー・ガーネット監督、ラナ・ターナー、ジョン・ガーフィールド主演。ジェームズ・M・ケイン原作。
  • The Blue Dahlia
    「青い戦慄」。ジョージ・マーシャル監督、アラン・ラッド、ヴェロニカ・レイク主演。レイモンド・チャンドラー脚本。

1940年代特有のフィルム・ノワールのスタイルは、犯罪映画やハードボイルド探偵映画に限らず、多くのジャンルで確認することができます。たとえば、ヒッチコックやフリッツ・ラングの心理スリラー、ワーナーの犯罪ドラマ、女性映画、プレストン・スタージェスのブラックなコメディなど。(この部分はロバート・スクラーの「アメリカ映画の文化史-映画がつくったアメリカ」が引用されています。)

フィルム・ノワールの議論は男性向けのアクション映画や犯罪映画を中心に行われてきましたが、ゴシック・ロマン風な女性映画などもフィルム・ノワールのスタイルの発展に寄与していることが見逃されています。たとえば、「レベッカ」、「断崖」、「疑惑の影」、「ジェーン・エア」、「ガス燈」、「恐ろしき結婚(Experiment Perilous)」、「白い恐怖」、「底流(日本未公開。原題は Undercurrent)」、「らせん階段」、「第四の求婚者(テレビ放映時の邦題。原題はThe Locket)」、「呪われた城」、「汚名」。

上記の映画の多くはヒッチコック作品ですが、デヴィッド・O・セルズニックも以下のように重要な役割を果たしているようです。

  • ヒッチコックの「レベッカ」と「白い恐怖」をプロデュースした。
  • 「断崖」のためにヒッチコックとジョーン・フォンテーンをRKOに貸し出した。
  • 「汚名」のためにRKOにヘクトとヒッチコックの脚本を売却し、ヒッチコックとイングリッド・バーグマンを貸し出した。
  • ヒッチコックのために「ジェーン・エア」を用意したが、フォックスに脚本を売却し、フォンテーンとロバート・スティーヴンソン監督を貸し出した。
  • 「ガス燈」のためにMGMにバーグマンとジョゼフ・コットンを貸し出した。

ヴァル・リュートンは、セルズニックのもとで、「レベッカ」と「ジェーン・エア」の準備を手伝いました。これは、リュートンがRKOでプロデュースした「キャット・ピープル」と「私はゾンビと歩いた!」に影響を与えています。この二作品は、女性ゴシックとホラーを混合させた革新的な作品で、フィルム・ノワールのスタイルに染まっていました。

次にフィルム・ノワールのルーツを挙げていますが、ほとんどはすでに書いたものです。

  • 19世紀のゴシック・ロマン。より最近の例ではダフネ・デュ・モーリアの「レベッカ」。
  • ハメットやチャンドラーの探偵小説。
  • ジョセフ・フォン・スタンバーグ監督、マレーネ・デートリッヒ主演の諸作品。(全部で何本あるのだろう?)
  • 1930年代のホラー映画とギャング映画。
  • ヨーロッパ映画。特に1920年代のドイツ表現主義と1930年代のフランス詩的リアリズム。

ヨーロッパからの影響はハリウッドに亡命した映画作家たちから直接受けているということもすでに書きましたが、ワイルダー、ラング、ヒッチコック、プレミンジャー、ロバート・シオドマクといったこれまでに名前が出ていた人たち以外に、クルト・シオドマク(ロバート・シオドマクの弟)、エドガー・ウルマー、アナトール・リトヴァク、ジュリアン・デュヴィヴィエという名前も挙げています。

技術の発展もフィルム・ノワールに寄与しています。より感度が高く、きめの細かい白黒フィルム、照明器具やレンズの発達など。したがって、白黒撮影の名人カメラマンたちも重要な役割を果たしています。ジェームズ・ウォン・ハウ、グレッグ・トーランド、ジョン・サイツ、リー・ガームズ、ルシアン・バラード、トニー・ゴーディオ、ソル・ポリート、ジョン・アルトンなどです(彼らがどの作品を撮影したか、そのうち調べます)。さらに、戦争の影響で、撮影がスタジオ内に限定されたことや、経済的かつ効率的に撮影しなければならなかったことが、技術革新を促したのみならず、古典的な映画スタイルと異なるスタイルを生んだ一因となったようです。

フィルム・ノワールの分析をいくつか紹介しています。ポール・シュレイダー、デヴッド・ボードウェル、デヴィッド・クックによる分析です。

ポール・シュレイダーは、1972年のエッセイ "Notes on Film Noir" で、フィルム・ノワールは単に社会を反映しているだけではなく新たな芸術世界を作り出しているというようなことを述べているそうです。彼にとってのフィルム・ノワールの原型は「マルタの鷹」です。「1941年から1953年に作られたほとんどすべてのハリウッドの劇映画は、何らかの「ノワール」的要素を含んでいる」と述べ、フィルム・ノワールによく出てくる技法を列挙します。

  • 夜を照らすシーンがほとんどである。
  • ドイツ表現主義のように水平線よりも斜線や垂直線を好む。
  • 役者とセットは同等に照明が当てられることが多い。
  • 役者の動きよりも構図による緊張を好む。
  • 水に対してフロイド的な愛着がある(さらに、鏡、窓などの反射面に対しても)。
  • シニックだがロマンチックな一人称のナレーションを好む。
  • 時間の配列が複雑なので、絶望感や失われた時間が強調される。

デヴィッド・ボードウェルは、ジャネット・スタイガーとクリスティン・トンプソンとの共著 "The Classical Hollywood Cinema: Film Style and Mode of Production to 1960" の中でフィルム・ノワールについて次のように述べています。フィルム・ノワールは、当時の因襲的な技法だけでなく基本的な物語の伝統も無視した。特に主人公と敵役が具現化している善と悪、ヒーローと悪党は、あいまいに扱われた。主人公と相手役の女性の対立は、任意的、不十分または不満足なハッピーエンドを迎える。ハッピーエンド、すなわちカップルの誕生は、映画の物語作法において最も基本的で、大事にされてきたものなのに。

デヴィッド・クックは、"A History of Narrative Film" の中で、フィルム・ノワールを「モラルの不安を描く映画」だと表現しているそうです。フィルム・ノワールは、「基本的なテーマが人間の堕落の深さと人間のアンチヒーロー的本質なので、貪欲、肉欲、残酷さを率直に描くことで栄えている」。クックは、フィルム・ノワールは戦中に出現したが、戦後のパラノイア、ペシミズム、社会不安によって完熟期を迎えると述べています。

最後はハードボイルドものと「女性のゴシック」との比較です。フィルム・ノワールといえば、まずギャバン、ヴァンチュラ、ベルモンド、ドロンが出てくるフランスのギャング映画であり、男の友情、裏切り、孤独を描くと思っている私は、女性のゴシックがフィルム・ノワールに含まれると言われるとキョトンとしてしまいます。その代表はヒッチコックの「疑惑の影」のようです(ヒッチコックとフィルム・ノワールも私の頭の中でうまく結びつかないのですが、Alain Silver の "Film Noir: An Encyclopedic Reference to the American Style" で解説している300本の作品の中には、たしかに「汚名」、「疑惑の影」、「見知らぬ乗客」、「間違えられた男」が含まれています)。

1940年代初期に発展した女性のゴシックはハードボイルドものと基本的な構造、テーマ、性に対する意識、ノワール的文体の点で非常に似ている。両者の主な関心事は、性差、性同一性、そして戦中・戦後の社会および文化の崩壊に伴う「性別苦悩」だ。両者の主人公は善良だが、欠点があり傷つきやすい人物で、神秘的で危険をもたらす異性と対立する。ハードボイルドものの場合、悪女(femme noire)が事件を起こし、主人公との不安定なロマンスをもたらす。女性のゴシックの場合、もの柔らかだが得体の知れない夫か恋人は、過去を持ち、何かを隠している年配の男性だ。

ハードボイルド探偵もゴシックのヒロインも、無神経で、不誠実で、道徳観念がないように見える社会環境と敵対している。ゴシックのヒロインの場合、この敵対は性的経験や社会経験のなさによるもので、ヒロインは不安をもたらす世界に放り出された無邪気な人物だ。探偵の場合、ややみすぼらしくしてシニックだが、常識と素朴さを持っている。

主人公に刺激を与え、欲望の対象となる異性は、不誠実であると同時に、主人公に死をもたらす可能性もある。これはハードボイルド映画では当たり前だが、ゴシック映画の場合も、夫が何かを隠していることをヒロインが知ると、ロマンチックなドラマが推理映画に変容し、さらに殺人ミステリーになる場合も多い。どちらの主人公も、過去に取りつかれ、真実の発見に専心し、死をもたらすおそれのある包囲網から抜け出すのに必死である。

女性のゴシックの場合、「疑惑の影」や「ガス燈」のように相手の男性が殺人者なのにもかかわらず、単純に犯罪映画のようにはならないし、殺人者が警察に捕まることに焦点が当てられていない。女性のゴシックで関心が向けられるのは社会ではなく家庭である。しかし、探偵映画と同じく、女性のゴシックも、謎めいた秘密、相手の本当の動機、主人公の生存や幸せなど、葛藤と謎が最後に解決されるように組み立てられている。しかし、探偵映画にせよ女性のゴシックにせよ、解決されても元の状態に戻ることはない。性的な緊張や不安、およびより大きな社会的環境に対する疑念は、依然として残っている。

ハードボイルド探偵は、より深い問題を解決することや本当の悪者を警察に突き出すことに失敗する。彼は暗黒の世界から抜け出すことができないし、すでに知っていて忘れたいと思っていることを再発見するだけである。探偵は、「マルタの鷹」や「ブロンドの殺人者」のように探偵が悪女に勝とうが、「ローラ殺人事件」や「三つ数えろ」のように悪女だと思ったが本当は愛すべき女性だとわかろうが、不快な気分や汚い街から一時的に逃れられるだけのことである。

探偵は元刑事だったり検事だったりするが、現在は退廃した都会の環境で私立探偵をしている。彼の孤立が示しているは、以前務めていた警察や検察を含めて、その環境とその価値の拒否である。自称実存主義者の探偵には独自の仁義がある。警察や裁判所は無能で、汚職を犯しやすいからである。文化的な仲介者である探偵は、経験豊かで世慣れているし、暴力を好むので、都会のジャングルで活動することができる一方、道徳意識と固有の理想主義を持っているので、社会秩序に自分を合わせることができる。しかし、その理想主義が彼を失敗へと導くことになり、結局、彼は肩をすくめ、タバコに火をつけ、次の依頼を待つためにむさくるしい事務所に戻るはめになるのだ。

女性のゴシックの結末は、この悲観的な結末と対照的である。ヒロインは生き延びるだけでなく、彼女自身と彼女の世界に対して新たな自覚を得る。この結末は、戦中のゴシック映画において大いに流行した。ハッピーエンドへの強い傾向が示しているのは、映画の中の悪は単にヒロインのノイローゼや犯罪者の病んだ心の産物でしかないということである。女性のゴシックの解決には、ヒロインだけでなく彼女が理解するようになる世界に対する救済のようなものが含まれる。このような結末はおざなりのように思えることが多く、太陽に照らされた付足しのラストシーンとヒロインが心の落ち着きを取り戻すことによってフィルム・ノワールの文体が打ち負かされてしまう。

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フィルムノワール入門 (4)

アンドリュー・スパイサーの「フィルムノワール」を読んでいます。フィルムノワールに影響を与えたものとして、ハードボイルド小説、ギャング映画についてこれまで読んできて、今回はゴシック小説。

【ゴシック小説】

フィルムノワールがハードボイルド小説に影響を受けているのは確かだけど、もう一つの「血塗られたメロドラマ」であるゴシック小説の影響も忘れてはならない。「ガス燈」はスタイルとテーマの点でハードボイルド風なフィルムノワールに似ている。50年代になるとフィルムノワールは男性中心の犯罪スリラーが支配的になるが、初期のフィルムノワールに対するゴシック小説の影響力は非常に大きい。

ゴシック小説は、芸術におけるゴシック様式がヨーロッパで復活した18世紀後期に誕生した。当時、野蛮、病的、超自然現象を好んで受け入れ、死、孤独、ぞっとするものに心を奪われる傾向があった。

主要なゴシックの舞台は、荒廃した館か迷宮のような豪邸で、神秘的で影の多い廊下と、暗い秘密を内包している閉ざされた部屋がある。最も影響力の高いゴシック小説はアン・ラドクリフの「ユードルフォの秘密」(1794)であり、迫害されたヒロインが叔母の腹黒い亭主によって荒廃したユードルフォ城に閉じ込められる。

アメリカの最初のゴシック小説は早くも18世紀末に生まれている。チャールズ・ブロックデン・ブラウンが最初の作家であり、ナサニエル・ホーソーンとエドガー・アラン・ポーによって発展した。ヨーロッパのゴシック小説は、邪悪なヨーロッパ人と罪悪感の病理にとりつかれることへと屈折した。

19世紀を通じて、ゴシック小説は扇情的な小説から女性をターゲットにした大衆小説の定番となった。現代のゴシック小説も、危険にさらされた犠牲者である女性が中心で、謎めいた年配者と最近結婚していることが多く、夫に強く魅了される反面、嫌悪感も持っており、無力さ、混乱、恐怖、軽蔑を感じ、過去は繰り返すという強迫観念を持っている。夫の秘密を知りたくてしょうがないが、秘密を知ることの結果におびえている。1940年代のハリウッドは、観客の大半を占めていた女性に向けて、ビクトリア時代に対しての態度を示しながら、「女性映画」の支流として、このゴシックの伝統を広範に利用した。

最初のゴシック・ノワールは、ダフネ・デュ・モーリアの1939年の小説が原作のヒッチコックの「レベッカ」(1940)である。(第3章「フィルムノワールのスタイル」で論じる。)

「ビクトリア時代に対してどっちつかずの態度を示しながら displaying an ambivalent attitude towards the Victorian period」というのがよくわからないです。ビクトリア時代の女性観には独特なものがあって、1940年代当時のアメリカの女性観からすると受け入れがたいものだったのでしょうか。

参考文献として Guy Barefoot の "Gaslight Melodrama: From Victorian London to 1940s Hollywood" という本が面白そうだったので、米アマゾンのカスタマーレビューを読むと、ビクトリア時代を暗く怖いものとして描いているのはビクトリア時代の価値に対する反逆を反映しているが、その一方でより安定した過去へのノスタルジアを観客に感じさせるというようなことが書いてありました。

History of the American Cinema シリーズの第6巻 "Boom and Bust: American Cinema in the 1940s" の第7章「戦時中のスター、ジャンル、制作傾向」に事例研究としてフィルムノワールが取り上げられていて、ゴシック小説との関係について述べているようなので、近いうちに読んでみます。

他の面白そうな参考文献

  • Jeanine Basinger, "A Woman's View: How Hollywood Spoke to Women, 1930-1960"
  • Andrea S. Walsh, "Women's Film and Female Experience, 1940-1950"
  • David Punter, "The Gothic" (本当は "The Literature of Terror vol. 1: The Gothic Tradition" を参考文献として挙げているのですが、絶版だったので、同じ著者がうまくまとめていると思われる本を見つけました。)

英語表記

  • アン・ラドクリフの「ユードルフォの秘密」: Anne Radcliffe, "The Mysteries of Udolpho"
  • チャールズ・ブロックデン・ブラウン: Charles Brockden Brown
  • ナサニエル・ホーソーン: Nathaniel Hawthorne
  • エドガー・アラン・ポー: Edgar Allan Poe
  • ダフネ・デュ・モーリア: Daphne du Maurier

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2011年5月12日 (木)

映画構造と感情システム (10)

第2章「感情システムと原型的でない感情」の7つある見出しの5番目は「ネットワークを築き、原型を知る」と訳していましたが、「ネットワークを築き、原型を覚える」に変えます。原文は "Building the Network, Learning the Prototypes" です。いずれにせよ、後半部分が何を指しているのか本文からはよくわかりません。

これまで "associative network" を「連想ネットワーク」と訳してきましたが、これからは「連合ネットワーク」にします。"association" は「連合」。「連合」とは「感覚面・感情面・思考面におけるさまざまの心的要素が、お互いに結びつくこと」(Weblio辞典)。

認知は連合ネットワークの発達にとって必要である。認知の技術は感情の構造を築くのに必要なので、認知と感情の発達段階は互いに反映しあっている。認知能力が感情の接続ポイントを作り出すのに十分なほど発達しない限り、感情は存在しない。

2ヵ月に満たない新生児は、近づくか離れるかの反応を示すことで、自らの行動をコントロールする。重要な行動の変化は生後2ヵ月で起こる。社交的に笑ったりクックッと笑ったりし始め、睡眠パターンや視覚の注意深さが変化し、条件づけの可能性が高まる。喜びや驚きが観察されることもあるし、怒りを表現したという報告もある。これはピアジェの感覚運動発達の第二段階への移行を示しており、感覚の調整を含む。入ってくる感覚データの調整がなければ、驚き、喜び、怒りを経験したり表現したりすることができない。

次の変化は生後7ヵ月から9ヵ月で起こる。赤ちゃんは見知らぬ人を恐れる反応を示し、「視覚的断崖」を恐れるようになる。これはピアジェの感覚運動発達の第四段階であり、手段と結果の関係や事物操作が理解できるようになる。出来事を予測するこの認知能力は感情の細分化を伴う。ある出来事が別の出来事をもたらすという理解がなければ、赤ちゃんは危険を予測できないし、恐ろしい刺激に対して恐怖ではなくショックや驚きによって反応するであろう。

このモデルは具象的でない感覚や知覚の過程を仮定しているが、赤ちゃんが成長するにつれ、高度の認知がネットワークの構築を助ける。感情が微妙であればあるほど、その感情をネットワークに配置するために高度な認知の発達が必要となる。

連合の蓄積は、複雑な認知ネットワークだけでなく、感情反応のための複雑なシステムも作り出す。

このシステムは、より微妙で大人の感情がより基本的な感情の連合によって作り出されるとは示唆していない。感情は色彩とは違う。複雑な感情は原始的な感情の組み合わせによって作られるのではない。感情は、認知と感情の発達の調整を通じて作り出される。

人は成長するにつれ、思考の複雑なネットワークを構築するのと同様に、感情ネットワークの相互関連性を高める。個人の経験はネットワークの接続ポイント間にユニークな連合を作り出し、そうした個人的な状況によって各人が特有の感情ネットワークを構築する。

感情システムは習性を発展させる。特定の感情反応を試して、それが効果的だとわかると、その反応を何度も使用して、個人の感情スタイルを発展させる傾向がある。脅迫的な状況に対して怒りで反応する者もいれば、恐怖で反応するものもいる。特定の感情データ源に強く反応するよう訓練すると、その源からのデータが感情システムの機能に大きく影響するかもしれない。たとえば、姿勢を意識するよう訓練された役者は、ある人物の特徴的な仕草によってその人物の感情を感じることができるかもしれない。個人の経験が感情システム全体の構造を変えることもある。長い年月、感情の表現や認識をおさえるよう奨励された場合、感情システムが活発になる基準レベルが高くなるかもしれない。

感情システムの適応力は完全ではない。感情を感じなくなるまで基準レベルを高めることは不可能である。意識する前に生じる感情評価を大きく変えることも不可能である。しかし、いくらかの限界を考慮に入れても、感情システムは非常に柔軟である。連合は、見たところ関連がなさそうな物に感情を結びつけることができる(フェティシズムのように)。また、感情システムは、対立するように見える感情を結びつけることができる。ジェットコースターのファンは、落下によって活発になる恐怖や尻込みする気持ちを喜びと結びつけることができる。ホラー映画のファンは、コントロールできない驚きの反射作用にショックが与えられるとき大喜びする。連合は感情システムの基本的な結合の連続なので、個人の環境に適合するために必要な柔軟性がネットワークに付与される。

感情ネットワークの構築は、古い連合の上に新しい連合を加える一生涯の作用であり、個人が新たな経験を自分のものにするにつれ、より微妙な反応を行うことができる複雑な相互関連システムを作り出す。

次回は6番目の見出し「感情と文化」です。

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2011年5月11日 (水)

キートンの短編映画 (13): 「キートンの警官騒動」

キートンの短編12作目で、原題は "Cops"。アメリカでは1922年2月か3月に公開。1973年に日本で始まったキートンのリバイバル・シリーズ「ハロー!キートン」の第一弾長編「キートンのセブン・チャンス」(1925)の併映として上映されました。その年高校2年だった私は秋の中間テストの最中だったにもかかわらず、「シーラ号の謎」(トニパキ君原作のミステリー)とともに福山ピカデリーでの一般封切りで見たのでした。当然、短編が長編の前に上映されたので、「キートンの警官騒動」が初めて見るキートン作品でした(それ以前にスラップスティック・コメディの寄せ集め映画でチラッと見たことがあったかもしれませんが)。

「セブン・チャンス」の併映に「警官騒動」を選んだのは、大量の花嫁に追いかけられる前者には大量の警官に追いかけられる後者がふさわしいと考えてのことでしょう。この作品でのキートンは実にアナーキーだ。他人の財布から平気でお金を盗むし、他人の家財道具を他人の馬車で持ち運び、挙句の果ては警官のパレードの最中に爆弾を投げ込む。他人の家財道具や馬車を持ち運ぶのは、だまされたり、勘違いしたりしたからだし、爆弾は本物のアナキストが投げ込んだものを偶然拾ったからだけど、そんな言い訳がどうでもよくなるぐらい最初からキートンは社会を超越した存在として登場し、実にブラックなジョークで最後を締めくくります。(貧しそうな一家の家財道具が粉々になってしまうのはスラップスティックのやり過ぎで、心無い気がしますが、実は一家の主も警官だったというオチで少しは救われます。キートンの家族が散々な目にあう「マイホーム」や「船出」なら素直に笑えるのに。)

最初に金持ち娘のバージニア・フォックスが「立派な実業家になったら結婚してあげる」とか言うのだけど、のちに実生活で彼女がダリル・ザナックと結婚することを知ると、よけいに面白い。さらに、キートンが奮起するが結局失敗するあたりも、ハリウッドの名門タルマッジ姉妹の一人と結婚して豪邸を建てるが、そのためにMGMという大会社に入って自由を失ってしまい、没落していくキートンを思わせてしまう。映画でも実生活でもシビル・シーリーのような明るく健康的な田舎娘と一緒になっていれば良かったのにと思うが、その場合は世をはかなんだ感じのサイレント長編傑作群も生まれなかったかもしれない。そんなことを思うのは、これを書いている今で、映画を見ている最中はスイスイと物事が展開していって、そんなことを考えている暇はない。

キートンの撮影現場をめぐる "Silent Echoes" という本を書いたジョン・ベングトソン John Bengtson は、ハリウッド映画の撮影地をめぐる本に写真が掲載されていたマルクス兄弟の「我輩はカモである Duck Soup」で使われた門が「警官騒動」の最初の門と同じだと気づいたことに興奮して、キートンの撮影現場を探すという本の企画を思いついたそうです。というわけで、この作品に関しては18ページも使って特に念入りに撮影現場を調べています。「警官騒動」自体がほとんど街頭で撮影されているのでネタはたっぷりあります。

Silentechoes

【これまで見た作品の採点表】

  1. 「マイホーム」 ★★★★★
    奇抜に作られた家が秀抜で、この中心がしっかりしているし、その前後も充実している。
  2. 「囚人13号」 ★★★★
    とりとめもないが、ブラックなジョークがシュール。
  3. 「スケアクロウ」 ★★★
    可愛いシーリーとの初々しい恋愛以外、普通に面白い。
  4. 「隣同志」 ★★★★
    両脇にアパートがあって、真ん中に塀があるという中庭が良い。
  5. 「化物屋敷」 ★★
    銀行の前半は接着剤のついた札束を使ったドタバタがくどいし、後半の化物屋敷のドタバタもありきたり。
  6. 「ハード・ラック」 ★★★
    私が年取ったからなのか、枠組がしっかりしたものに安心するようで、とりとめもないものが苦手になってます。
  7. 「ハイ・サイン」 ★★★
    キートンがアーバックルから独立して最初に作った短編。 キートンが気に入らなくてお蔵入りになっていたが、新作を撮影中に負傷したため、やむなく公開。
  8. 「強盗騒動」 ★★★★
    ノンストップのチェイスもの。
  9. 「一人百役」 ★★
    多重撮影という着想は面白いが、中身が伴わない。
  10. 「船出」 ★★★★★
    私にとってのキートンの最高傑作短編。家族四人がボート遊びに出かけて散々な目にあう。
  11. 「白人酋長」 ★★★★
    お馬鹿な蝶々収集家が酋長に祭り上げられ、インディアン部族を利権争いから救い、部族の娘と結ばれる。
  12. 「警官騒動」 ★★★★★

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2011年5月10日 (火)

1978年5月第2週に見た映画

5月08日(月) 合衆国最後の日 (池袋文芸坐) 3点
5月08日(月) コンドル (池袋文芸坐) 5点
5月13日(土) オペラは踊る (新宿アートビレッジ) 3点
5月13日(土) マルクスの二挺拳銃 (新宿アートビレッジ) 4点

まず月曜日はロバート・アルドリッチ監督とシドニー・ポラック監督、ロバート・レッドフォード主演のアクション映画二本立て。

ロバート・アルドリッチ監督は、「北国の帝王」「ロンゲスト・ヤード」と好調だったし、「合衆国最後の日」は1977年のキネ旬17位、読者3位だったので、大いに期待したのですが、3点だから期待はずれだったのでしょう。原題は "Twilight's List Gleaming"。gooのあらすじによると、バート・ランカスターをリーダーとする脱獄囚数名がミサイル基地を乗っ取って、機密文書の公開や国外脱出の手配を要求するが、将軍リチャード・ウィドマークが中心になってそれを阻止しようとする話。自ら人質になる大統領はチャールズ・ダニング。ほかにジョセフ・コットン、メルビン・ダグラス、リチャード・ジャッケル、ポール・ウィンフィールド、バート・ヤングら。最近フィルムノワールの作品をいろいろ見ているうちに知ったチャールズ・マッグローも出ていて、彼の遺作となりました。音楽ジェリー・ゴールドスミス。

シドニー・ポラックとレッドフォードのコンビって何本かありますよね。バーブラ・ストライサンドとの恋愛もの「追憶」なんて全然興味なかったので、さほど期待しなかった分だけ面白かったのかもしれない。"Three Days of the Condor" という1975年のディノ・デ・ラウレンティス制作総指揮、パラマウント配給の作品。フェイ・ダナウェイが相手役だったなんて全然記憶にありません。記憶に残っているのはマックス・フォン・シドー。CIA組織の末端の情報機関が何者かに皆殺しにされ、レッドフォードだけが生き残って真相を探るという話で、マックス・フォン・シドーはレッドフォードを狙う殺し屋。今gooであらすじを読んでも面白そう。音楽デイブ・グルーシン、撮影オーウェン・ロイズマン。

土曜はマルクス兄弟二本立て。マルクス兄弟を見るのはこれが初めてなんだろうか。高校時代に小林信彦(中原弓彦)さんの「世界の喜劇人」を面白く読んだので、大学3年で初めてマルクス兄弟を見たなんて信じられない。ただ、昔も今もさほどマルクス兄弟のファンではなく、小林信彦さんの本を読んで想像したほうが面白いぐらい。「オペラは踊る」(A Night at the Opera) は1935年の白黒MGM映画で、監督サム・ウッド。「マルクスの二挺拳銃」は1940年の白黒MGM映画で、監督はエドワード・バゼルという知らない人。美男美女の主人公がいて、そのまわりでマルクス兄弟がドタバタしていたような気がします。喜劇人はアイディアに詰まると西部に行きたがる。

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2011年5月 9日 (月)

映画構造と感情システム (9)

5月5日の「無意識的な中枢神経」の続き。

ここで提唱した感情システムのモデルは、非常に相互作用の強い大脳辺縁系と調和する連想ネットワークのモデルである。このモデルでは、感情システムのさまざまな構成要素が連想的なつながりによって結びついている。感情は特定の思考や記憶と結びついているし、生理反応にも結びついている。意識的な認知(記憶、道徳観、感情の命名など)、自律神経や中枢神経のパターン、行動の傾向、発声、表情はすべて相互に関連している。

たとえば、「恐怖」と命名されたネットワークの接続ポイントは、高いところから落ちた子供の頃の記憶、走ること、震える声、心拍数の増加、右脳前方の活動、見開かれた目と関連しているかもしれない。これらのうち一つだけが活発になっても、恐怖の接続ポイントが活性化する可能性は低い。二つが活発になれば、恐怖という感情が生まれる可能性が高くなるし、たぶん感情経験のようなものが生まれるだろう。より多くの経路から感情の合図が入ってきて、さらに多くの接続ポイントが活発になると、恐怖が経験されたり、表出されたりする可能性がより高くなる。ある状況において感情が生まれるかどうかは、合図を送る感情経路の数と合図の強度による。

感情システムは柔軟であり、特定の入力経路のみに結びついておらず、さまざまな源泉から合図を受けとる。しかし、感情システムは気まぐれではない。心拍が速くなるたびに恐怖の接続ポイントが活性化されるわけではない。感情経験や感情の表出が生まれるには、あり余るほどの合図が必要である。システムの柔軟性と信頼性を調和させるこのモデルは、なぜ観客の間で驚くほど似ている反応が生まれる一方で、個々の間で非常に異なる反応が生まれるのかを説明するのに役立つ。

このモデルでは、感情の接続ポイントは、数多くの入力経路とつながっているだけでなく、他の感情の接続ポイントともつながっている。ある感情の接続ポイントが活発になると、連想によって関連している他の接続ポイントも活発になる。このつながりによって、いくつかの感情(恐怖と憂鬱など)が同時に生じることがよくある。感情の接続ポイントは他のほぼすべての接続ポイントとつながっているので、苦しみと喜びが連想的につながってサドマゾヒズムを作り出すこともある。

これ以上感情の接続ポイントが活発にならないレベルや、感情を引き起こすために必要な接続ポイントの最少数があるし、ある程度の合図の強度も必要である。こうした基準レベルは個人のネットワーク構造によって異なる。

いくつかの経路があることは、感情システムの機能を複雑にすると同時に、機能を守ってくれる。ある経路が働いていないときでも、別の経路がおぎなってくれる。脅迫的な刺激がある下位システムの注意を引かなくても、周囲を監視している他の下位システムがあり、すばやく脅威に対処するよう感情行動を促す。

このモデルでは処理が同時に行われる。感覚データは、意識的な処理のために大脳皮質に送られると同時に、情調を得るために脳の感情センターに送られる。認知と感情が別々に活性化されても、両者の処理過程はほとんど常に結合される。両者は強い相互作用を起こし始め、感情の表出や行動を変える。思考と感情の同時処理によって感情システムに素早く反応できるが、この相互結合は社会状況に基づいて感情を抑制したり強めたりもする。

重要なことは、意識的な思考と感情システムの中心部のつながりによって、感情の原型が感情の経験や表出に影響を与えることである。原型によって、どの反応が適切か、どんな種類の対象が感情の原因となる傾向があるか、感情が進行するにつれてどのように変化する傾向があるかなど、ある感情に関する豊かな情報が蓄積される。この情報は感情システムの中心部に供給され、自律神経や表情などにおいて求められている反応を変化させる。こうした機能の変化の情報は下位システムによって感情システムの中心部に送り返され、感情の原型から感情経験を変える循環が機能する。

このモデルは、感情データが中立的だとする考え方と矛盾する。その考え方は、感情の心理的研究の流行をもたらした古典的実験の根底となった仮定である。シャクターとシンガーがアドレナリンを使って感情の覚醒の模擬実験を行った際、感情は分化していない生理的覚醒(ゲシュタルト)次第であり、より高度の認知能力が、意識的な状況の知識に基づいて白紙状態の心に意味を加えるのだと仮定していた。しかし、適切かどうかを意識が判断できる一般化された覚醒状態に感情は基づいてはいない。感情データは、意識に到達するまでに低レベルのプロセスによってコード化されている。

この低レベルの感情評価は、この本で "affect" と呼んでいるものの中核である。"affect" は、かなり広い感情の状態であり、「肯定的な」および「否定的な」と呼ぶ以外にないほど漠然とした状態である(感情に関する訳本では"emotion" が「情動」、"mood" が「気分」で、両者を合わせたものが "affect" で「感情」としているものが多いようですが、私は "emotion" を「感情」にしたいので、あえて "affect" を訳すのであれば「情態」という言葉を使ってみたいと思います。カッコに "affect" を添えて。もちろん、これがうまくいかなければ、いつでも変更しますが)。

情態(affect) は情調 (feeling tone) を意識的な心に与える。情態は、感情システムの基本的で霧状(atomized)の 構成要素であり、感情が生まれる前に存在するもので、生まれつき備わっている反応でない限り反応することを教えることができないものである。連想ネットワークの基本であり、それ自体は感情ではない。我々が感じる情態(affect)と状況の合図を意識的に理解することによって、戦うべきか逃げるべきか、自分の感情が「怒り」なのか「恐怖」なのかといった決定を行う。

要約すると、ここで提唱するのは感情の連想ネットワークモデルであり、感情の「接続ポイント」システムに供給される多くの入力源を持ち(表情フィードバック、自律神経、意識的な認知など)、相互に接続されている。感情が生じるのには必ずしも入力を必要としないが、いくつかの下位システムが働き始めると、それら下位システムに結ばれている感情の接続ポイントが活発になる可能性が高くなる。この感情システムは意識的な認知に頼ることなく始動する。感情の評価(情態(affect)と呼ばれる接近または撤退への行動傾向を作り出すこと)は、刺激の意識的な評価と同時に行われる。感情システムの合図が意識に達するほど強ければ、感情経験が生じる。意識的な思考と感情システムの両方が始動すると、連動性の高い結びつきを通じて相互作用を起こし、思考が感情の流れに影響を与えたり、感情が思考の流れに影響を与える可能性が高くなる。

これで「無意識的な中枢神経」という見出しの部分は終わり。

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2011年5月 8日 (日)

日曜はトリュフォーだ!: 「家庭」のインタビュー (その1)

「家庭」(1970)はトリュフォーの長編10作目で、「大人は判ってくれない」(1959)、「アントワーヌとコレット」(オムニバス映画「二十歳の恋」フランス編、1962)、「夜霧の恋人たち」(1968)に次ぐアントワーヌ・ドワネル・シリーズ第四弾。その後、第五弾「逃げ去る恋」(1979)が作られます。

シリーズといっても「大人は判ってくれない」だけは独立した作品に見えます。名作としてトリュフォーの手から離れて一人歩きしているし、アントワーヌを演じる子供のジャン・ピエール・レオの印象が他作品と違う。植草甚一さんがラストシーンで自殺を予感したぐらい暗い作品で、バランスをとりたがるトリュフォーはアントワーヌを主人公にしたもっと明るい作品を作ろうとしたようです。もっとも、「夜霧の恋人たち」では明るくなりすぎるのを警戒して、変なストーカー男のエピソードを加えてしまいましたが。その点では、「家庭」のほうが予定調和的で心地よく見ることができます。

ドワネルが浮気する日本人女性を松本弘子さんが演じています。日本人初のパリコレモデルだったそうで、2003年に死去されました。トリュフォー作品のほとんどは日本公開されていますが、その日本人女性の扱い方が悪かったのか、当時は日本未公開だったし(女性がドワネルと別れる際に「勝手にしやがれ」と日本語で書いたメモを残すという日本人にしかわからないギャグがあるにもかかわらず)、これが未公開だったからか「逃げ去る恋」も未公開になりました。キネ旬の「世界の映画作家11/フランソワ・トリュフォ、クロード・ルルーシュ」には「夫婦の住居」という題名でシナリオが掲載されていました。1982年の雑誌「ぴあ」の映画祭でトリュフォー特集が組まれ、渋谷パルコ3で初めて見て、その後ビデオが出ました。

では、「トリュフォーの映画術」(水声社)を読んでいきます。

章の初めを飾るインタビューには「わたしの個人的なフォークロアは、1930年代から40年代のフランスなのです」とありますが、フォークロアってどういう意味で使われているのでしょう。文化的基盤ぐらいの意味でしょうか。とすれば、私のフォークロアは1960年代で、実際に60年代に基盤を作ったわけではないのですが、70年代に自分の文化的基盤を作る中心となったのは60年代の作品なのでした。今ではもっと古い作品も鑑賞していますが、映画にせよ音楽にせよ、やはり60年代が軸になっているのです。

トリュフォーが語るドワネルの像は次のようなものです。反社会的な人間ではない。人付き合いは悪いが、今風(1970年ごろ)の革命家ではない。社会を変革しようとする男ではない(この点で、政治面で批判されるかもしれないが、かまわない)。社会に不信感を持っていて、社会から身を守っているが、受け入れてもらいたいという欲求はある。

ドワネルは誰とでもうまくやっていきたいから口論をすることはなく、うまくいかないことがあると立ち去るのみ。この点で、アンリ・ジョルジュ・クルーゾー監督に関して面白いことを述べています。クルーゾーの作品では口論のないシーンがひとつもなく、これはクルーゾーが力関係で人生を見ていることを反映している。彼の社会は優れた者と劣った者だけで構成されている。こうしうクルーゾーの見方は助監督時代におぞましい連中を相手にしなければならなかった経験によって形成されたに違いないとトリュフォーは推測しています。

「家庭」がドワネル年代記の最後の作品になると語っています(9年後に第五弾が登場します)。「夜霧の恋人たち」のときも続編を作ろうなんて考えたことはなかったが、アンリ・ラングロワがドワネルとクリスチーヌ(クロード・ジャド)の結婚生活も撮らなきゃいけないと言ったそうです。トリュフォーとしては、ドワネルの続篇なら「ピアニストを撃て」「柔らかい肌」「華氏451」ですでに描いているし、「暗くなるまでこの恋を」の主人公だってドワネルと同じなんだと語っています。要するに、主人公はすべてトリュフォー自身の反映であり、トリュフォー作品全体が彼自身の世界を作っているのですね。トリュフォーは娯楽と芸術の中間あたりでうまくそれをやってきた人です。

トリュフォーはこの頃エルンスト・ルビッチに魅せられていたようです。「ルビッチのやり方というのは、ものごとに遠回しに近づいてゆくというやり方です。あるシチュエーションを観客に理解させねばならないときに、どうやったらいちばん間接的な、いちばん手のこんだやり方でそれを見せることができるだろうか、と考えをめぐらすわけです。」

「夜霧の恋人たち」と「家庭」では、脚本家のクロード・ド・ジブレーとベルナール・ルボンが映画の中に出てきそうなタイプの人たちに数多くインタビューして、それに基づいて脚本が作られたそうです。トリュフォーはオリジナル脚本を書くのが不安なので、こういう資料に基づくことが安心感をもたらしてくれるようです。

中庭の設定はルノワールの「ランジュ氏の犯罪」の影響ですが、アントワーヌ・ドワネルが開発している花に使ったトリックはレオ・マッケリーの「新婚道中記」(1936)での鳩時計を使ったラストが好きだからと述べています。

まだ「家庭」の途中なんですが、本日は時間切れ。現在朝の五時で、これから散歩に出かけます。午前中は町内会の溝掃除に出て、昼からは仕事。夜は感情に関する本を読みたいし。

昨日 off note から届いた三枝彩子さんの「風薫ル、ウタ - いとしのオルティンドー」は、モンゴルの歌ばかりで、力んで歌っているのかと思っていたら、思ったより軽やかでした。ジャケットが可愛い(紙ジャケ)。off note は経済的に苦しいようなので、何か買ってあげて

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2011年5月 7日 (土)

土曜はRTだ!: I'll Tag Along

リチャード・トンプソン(RT)は本日サンタモニカの McCabe's Guitar Shop で慈善コンサートを開きます。岩手県大槌町がカリフォルニア州フォートブラッグ市と姉妹都市で、大槌町を支援するためのコンサートです。チケットが1時間で完売したので、5月27日にも同じ場所でコンサートを開くことを決定したようです。本日の収益金は Otsuchi Relief Fund に寄付するそうですが、次回のは International Rescue Committee に寄付するそうのなので、次回は大槌町には限定していないのかな。

本日は、2003年のアルバム The Old Kit Bag の3曲目「アイル・タグ・アロング I'll Tag Along」です。1曲目の「ゲッセマネ Gethsemane」については4月2日、2曲目の「ジェラス・ワーズ Jealous Words」については4月23日にここに書いています。

"tag along" というのは「つきまとう」という意味ですが、日本盤で中川五郎さんが訳している歌詞を読むと、一人称の主人公は、ストーカーではなく、控え目な酔っ払いのように思えます。うしろで静かにしているから僕のことは気にしなくていいよ、という感じなので、気味が悪いことに変わりはないのですが。具体的なイメージが浮かんでこないので、羽目を外しているときでも頭を離れない罪悪感のようなものを歌っているのかもしれません。

ゆったりとした心地よいリズムの「ゲッセマネ」で始まったアルバムは三曲目でやっとアップテンポのロックナンバーになります。ギターは相変わらず快調に飛ばしています。曲がストレートすぎて、これだけ聴くと今ひとつヒネリのようなものが欲しくなりますが、アルバムの流れで聴くと悪くない。

YouTubeで聴くことができます。ゴードン・ライトフット Gordon Lightfoot にも同じ題名の歌があるようです。

バンドによるライブ演奏は Ducknapped!(2003) で聴くことができます。以前はRTのウェブサイトでのみ購入できましたが、今はアマゾンでMP3ダウンロードができるし、HMVでCDが購入できます(現時点では「24時間以内に発送」となっていますが、3点購入で30%オフというサービスを利用しないと少々高い)。

ちなみに、アルバム The Old Kit Bag のプロデューサーのジョン・チェリュウ John Chelew は、五十嵐正さんの解説によると、上記慈善コンサートが行われるギターショップのオウナーだそうです。そのことはインターネットで確認できませんでしたが、彼とRTの奥さんのナンシー・カビー Nancy Covey が長年この店のためにミュージシャンたちとの出演交渉を行っていたのは確かなようです。

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2011年5月 6日 (金)

フィルムノワール (93): The File on Thelma Jordan (1950) 

(フィルムノワールに続く番号は「フィルムノワール作品リスト」の番号です。フィルムノワール事典は、"Film Noir: An Encyclopedic Reference to the American Style" のこと。)

本日はフィルムノワール入門をお休みして、最近届いた作品について書きます。

ロバート・シオドマク監督、バーバラ・スタンウィック主演の「セルマ・ジョーダンのファイル」は日本劇場未開で、「血塗られた情事」としてテレビ放映されたことがあるようです。今回購入したのはアメリカのアマゾンからのDVD-Rで、字幕がついてないのは承知之助で、何度もダビングしたようなひどい画質も予想していましたが、上映時間の半分あたりから1分か2分おきに画面がフリーズしてしまうのは想定外でした。前送りのボタンを少し押すと動き始めるのですが、いったい何回それを繰り返したことやら。幸いなことに、ハラハラどきどきするほど面白くはなかった。

監督:ロバート・シオドマク Robert Siodmak
制作:ハル・B・ウォリス Hal B. Wallis
原案:マーティ・ホランド Marty Holland
脚本:ケティ・フリングス Ketty Frings
撮影:ジョージ・バーンズ George Barnes
音楽:ビクター・ヤング Victor Young
配給:パラマウント
公開:1950年1月
上映時間:100分

出演:
バーバラ・スタンウィック Barbara Stanwyck (セルマ・ジョーダン)
ウェンデル・コーリー Wendell Corey (検事補クレーブ・マーシャル)
ポール・ケリー Paul Kelly (刑事マイルズ・スコット)
リチャード・ローバー Richard Rober (悪党トニー・ラレド)
ジョーン・テッツェル Joan Tetzel (警部補マーシャルの妻)

ウェンデル・コーリーはヒッチコックの「裏窓」(1954)でジェームズ・スチュワートの友人の刑事を演じた人で、脇役一筋かと思ったら、昔は主演級だったらしい。スタンウィックは悪くないのですが、彼女がだます警部補のコーリーと彼女を操る悪党のリチャード・ローバーの印象が薄くて、作品が豊かにならない。スタンウィックが悪女を演じるので、「深夜の告白」(1944, Double Indemnity) と比較されるが、あっちではフレッド・マクマレーやエドワード・G・ロビンソンが好演していました。

マーシャル検事補には若くて美人の妻がいるし、子供もいるのですが、家庭がうまくいっていないらしくて(会話がわかればもっと楽しめるのに)、検察事務所で大酒を食らっている。そこへセルマ・ジョーダンがやってきて、なにやら相談を持ちかけ、二人で食事に出かける。検事補が最初から酒飲みで、こちらは彼に好感を持てないので、彼がセルマにだまされようがどうされようがどうでもよくなる。

セルマは金持ちの伯母と同居しており、彼女を操る悪党トニーとの共謀で伯母を殺害する。セルマは裁判にかけられるが、セルマにぞっこんの検事補がわざと負ける。検事補はセルマの過去やトニーの存在を知る。セルマとトニーは車で逃げるが、運転中のトニーにシガーライターを押し当てて、車ごとがけから落ちる。瀕死のセルマは、検事補が彼女に加担していたことを打ち明けることなく、また検事補を愛していたことを本人だけがわかるように告げて、息絶える。

「フィルムノワール事典」の解説は「深夜の告白」との比較が中心。「深夜の告白」のフィリスは冷酷な女性だったが、ここでは彼女がだます男性と恋に落ちる。「深夜の告白」のウォルター・ネフ(フレッド・マクマレー)は保険外交員として悪事を働くが、検事補マーシャルは積極的に犯罪に加担していない。「深夜の告白」のカップルはぞっとするほど論理的だが、「血塗られた情事」のカップルは罪の意識が強く、ロマンチックである。

Film Noir Guide では5つ星満点の3つ星半。フィルムノワールのタイプはファム・ファタール、テーマは取りつかれること、情欲、裏切り。映画の最初は少しゆっくりしているが、スタンウィックとコーリーがなんとかうまくやってのける。フィルムノワールで最高の偶像の一人であるスタンウィックは彼女にピッタリの役を素晴らしく演じているし、コーリーも魅力的な女性のために堕落していく善良な公務員を一級の演技力で演じている。

最後にポーリン・ケイル女史の 5001 Nights at the Movies から。シオドマクが非常に効果的に演出している。カメラがスタンウィックを刑務所から裁判所まで追うシークエンスは映画技巧の鏡である。ケティ・フリングスの脚本には鋭い会話がいくつかある。しかし、映画は盛り上がらないし、スタンウィックのプロ根性にもかかわらず、セルマ・ジョーダンがどうなろうと観客は気にならない。たぶん、マーティ・ホランドの原案の筋がうまく工夫されていないことと、コーリーとローバーがスタンウィックと同盟を組むのにふさわしくないからだろう。コーリーには生まれながらの善良さがあるし、ローバーの悪党ぶりには性的脅威がない。

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2011年5月 5日 (木)

映画構造と感情システム (8)

本日は4月28日に言及した6つの下位システムのうち5番目「無意識的な中枢神経」。

【無意識的な中枢神経】

中枢神経による感情の研究家は、感情の通り道としての大脳辺縁系に焦点を当てている。大脳辺縁系は、脳幹の周囲にある前脳の構成要素が豊かに連結したもので、感覚からのデータを評価し、感情を活動させるべきかどうかを決定する。その後、データは感情の微妙な色づけをされ、適切な行動を促す。

中枢神経の専門的な詳細は、感情構造の理解にとって重要である。感情システムの玄関にあるのは視床。感覚からのデータは主に視床を通って大脳皮質に達して、意識的な処理を行う。重要な決定はここで行われる。門番の視床は、受け取ったデータが感情面で重要かどうかを判断しなければならない。感情反応が必要だと決定すると、小脳扁桃と呼ばれる感情面での脳の中心に合図が送られる。小脳扁桃は、情報に感情味を付与する「調味料」を加えて、データを活気づける。別の比喩を使うと、小脳扁桃は、特定の感情の「色彩」によってデータを色づけする。感情の強度がある程度まで達していれば、小脳扁桃が視床下部を活性化し、意識を伴わない低レベルの反応を喚起しながら、行動を促す。

感情の中心である小脳扁桃も大脳皮質の意識的な処理につながっている。大脳皮質は感情の合図と感覚データを調べ、感情反応を増大すべきか抑制すべきかを決定する。その後、その決定に基づいて、小脳扁桃に感情の増大または抑制を命令する。感情的な行動が始まると、現状に関する情報が内臓から大脳皮質に届き始め、このフィードバックが情報処理全体に加味される。今や同時にいくつかの合図が相互に関連づけられながら処理されている。いくつかの合図とは、感覚データ、情調(感情で色づけされた合図)、大脳皮質による感情の抑制または増大の命令、行動を促し継続させる命令、そして視床下部からの現状の情報である。

小脳扁桃は感情システムで最も重要な地点であり、すべての感情に共通の「中間駅」である。小脳扁桃は、異なる源泉からのさまざまな合図を受け取り、感情システムのために情調を作り出す。大脳辺縁系の一部の損傷や除去は人間から感情を奪うという主張に異議を唱える研究はないので、大脳辺縁系は感情に必要な唯一の部分であり、感情システムの中心である。

以上の考え方は将来くつがえされる可能性もあるが、重要なのは、ここでの感情システムの説明が現在の研究での最善の理解に一致していることである。ここでやるべきことは、どのように感情が働くかのモデルを提案することであり、このモデルは感情システムに関する理論的な現在の研究に適合していなればならないが、感情システムの実際の詳細に完全に結びつける必要はない。結局、ここで生み出そうとしているのは映画における感情の訴えかけを理解するための研究法なのだから。この点で、小脳扁桃が感情システムの絶対的に重要な構成要素かどうかを長々と論じる必要はない。

神経学の研究が何を将来もたらそうとも、現在の感情の理解を特徴づけている複雑にからみあった活動の描写がくつがえされる可能性は低い。大脳辺縁系以外の感情に関連した系統が感情に必要であるという証明はないが、それらすべての系統は何らかの形で感情に貢献している。したがって、感情システムの単純なモデルは適切ではない。一つを除いて可能な原因すべてが回避されてしまうことがあるので、感情システムを理解するには固定された配列のない複数の原因を許容するモデルが必要である。大脳辺縁系を含めて、どの系統も他からの助けなしに感情を引き起こすのに十分ではないので、モデルは共同の原因作用を許容するものでなければならない。

これで、見出し「無意識的な中枢神経」の3分の1程度。来週月曜に続く。

よくわからない脳の用語

中枢神経: 知覚、運動、創造などの諸機能をコントロールする神経の総称
視床: 間脳の大半を占める大きい灰白質のかたまり
間脳: 大脳半球と中脳との間の大脳部
中脳: 間脳の後方、小脳・橋の前方に位置する脳。視覚・聴覚などに関係しているほか、中脳網様体には意識の調節に重要な機能がある。

脳のしくみがよくわかる本を読んだほうがいいみたい。いや、たぶんインターネットでわかりやすい説明をしてくれている人がいるだろうから、それで間にあうと思う。

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2011年5月 4日 (水)

キートンの短編映画 (12): 「キートンの白人酋長」

このブログを Facebook に自動的に掲載する試みをやめました。題名が文字化けするし、自分にとっては意味のないことだし、もしかして Facebook で友達になってくれた人たちに自動配信されているとしたらゾッとします。自分のひとり言みたいな日記なので、わざわざ見にきてくれる人はありがたいけど、こちらから配るなんてとんでもない。そんなこと考えたら、パソコンを打つ手が萎縮して、自分が好きなように書けなくなります。

というわけで、私が好きにやっているキートン短編上映会の続き。本日は短編全19本のうち11本目「キートンの白人酋長」(The Paleface)。この調子なら、もしかしたら長編に突入するかもよ。

「白人酋長」がアメリカで最初に公開されたのは1921年12月。70年代に日本で公開されたキートンのリバイバルシリーズでは「セブンチャンス」に続く第二弾「海底王キートン」の併映作品で、高校三年だった1974年10月に福山の場末の名画座グリーン劇場でセシル・B・デミルの「十戒」と一緒に見たのが最初です。なんという組み合わせ!前回の「キートンの船出」を見たのは、この一ヵ月後です。

インディアンは差別用語だとか、ネイティブ・アメリカンや先住民のほうが差別用語だとか議論があるようですが、わかりやすさの点でインディアンを採用します。キートンは寄席芸人の家族に生まれて、小さい頃から舞台に立っていて、世間的には地位が高くない世界なのでしょうし、その点では映画界も同様だったと思います。というわけで、キートンの世界では黒人もインディアンも当たり前のようにそこにいて、差別なんてもちろんしていないし、世間での差別を意識さえしていないように思えます。

最初の何分かはキートンが登場せずに、石油会社が進出してきてインディアンの居住地を不当に買収しようとしていることが描かれています。キートンだけの世界ではなく、より大きな社会的な文脈がドラマ風に描かれてるのは初めてのことで、南北戦争を背景にした長編「キートンの大列車追跡」(The General, 1926)を予感させます。

おなじみの巨漢ジョー・ロバーツを酋長とするインディアン一族たちは、不当に立ち退きを要求されたために、最初にやってきた白人を殺そうと敷地の大きな門の前で待ち構えています。そこへノコノコやってきたのが蝶の収集家キートンで、こういうお馬鹿な坊ちゃんみたいな役柄がよく似合う。蝶を追いかけることしか考えていないキートンに大勢のインディアンたちが振り回されるシーンがまず笑わせてくれます。

で、キートンはインディアンに捕らえられ火あぶりの刑に処せらるのですが、キートン流の機転であっという間に石綿の下着を作って着用していたので、火が消えても生き残って、残り火でタバコを吸う余裕。おそれおののいたインディアンたちはキートンを酋長にしますが、そのタバコをジョー・ロバーツに渡して吸わせるというのが洒落ています。友好を結んだ印として一緒にタバコを吸うというインディアンの風習はよく西部劇に出てきますよね。

そのあと白人たちや他の部族のおっかけがあって、最後はジョー・ロバーツの娘バージニア・フォックスと結婚して、めでたしめでたし。児玉数夫さんの「キートン!キートン!!キートン!!!」(ブロンズ社、1980)によると、「白人を<悪>とし、インディアンに味方し、インディアン娘を娶る-というのは、「西部劇の哲人」ビル・S・ハートの精神に相通じるものがある」そうです。

【これまで見た作品の採点表】

  1. 「マイホーム」 ★★★★★
    奇抜に作られた家が秀抜で、この中心がしっかりしているし、その前後も充実している。
  2. 「囚人13号」 ★★★★
    とりとめもないが、ブラックなジョークがシュール。
  3. 「スケアクロウ」 ★★★
    可愛いシーリーとの初々しい恋愛以外、普通に面白い。
  4. 「隣同志」 ★★★★
    両脇にアパートがあって、真ん中に塀があるという中庭が良い。
  5. 「化物屋敷」 ★★
    銀行の前半は接着剤のついた札束を使ったドタバタがくどいし、後半の化物屋敷のドタバタもありきたり。
  6. 「ハード・ラック」 ★★★
    私が年取ったからなのか、枠組がしっかりしたものに安心するようで、とりとめもないものが苦手になってます。
  7. 「ハイ・サイン」 ★★★
    キートンがアーバックルから独立して最初に作った短編。 キートンが気に入らなくてお蔵入りになっていたが、新作を撮影中に負傷したため、やむなく公開。
  8. 「強盗騒動」 ★★★★
    ノンストップのチェイスもの。
  9. 「一人百役」 ★★
    多重撮影という着想は面白いが、中身が伴わない。
  10. 「キートンの船出」 ★★★★★
    私にとってのキートンの最高傑作短編。家族四人がボート遊びに出かけて散々な目にあう。
  11. 「キートンの白人酋長」 ★★★★

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2011年5月 3日 (火)

1978年5月第1週に見た映画

5月3日(水) ロシュフォールの恋人たち (三鷹オスカー) 4点
5月3日(水) スター誕生 (三鷹オスカー) 1点

この頃「ロシュフォールの恋人たち」が名画座にかかるのは珍しかったと思います。ずっとジャック・ドミー監督と呼んでいたので、ジャック・ドゥミ監督と呼ぶのに違和感を感じます。「ロシュフォールの恋人たち」(1966)は「シェルブールの雨傘」(1964)の次回作で、カトリーヌ・ドヌーブ主演は同じだけど、今度は姉のフランソワーズ・ドルレアックと共演。彼女はこのあと「10億ドルの頭脳」に出て、1967年に25歳で交通事故死。「シェルブールの雨傘」を見た友人が全編会話が歌になっているのが変だと言ってましたが、私には、よりアメリカのミュージカルっぽいこっちのほうが変な感じでした。ジョージ・チャキリスやジーン・ケリーが出ています。この前の週に「未青年」をテレビで見たジャック・ペランも出ていたなんて全然記憶にありません。ほかにミシェル・ピコリやダニエル・ダリューも出ていたようです。音楽は「シェルブール」と同じくミシェル・ルグラン、撮影はギスラン・クロケ。「シェルブール」の撮影はシャブロル作品でおなじみのジャン・ラビエ。ドゥミ監督は1990年に亡くなりましたが、IMDbによると、奥さんのアニュエス・バルダが1996年に修復したバージョンがあるらしい。

「スター誕生」は何回目かの再映画化で、今回はロックの世界に舞台を移したのが目新しい。もともと「スター誕生」に興味がないので、過去に何度映画化されたか今調べるのがめんどうなんだけど、たしかウィリアム・ウェルマン監督、ジャネット・ゲイナー主演のと、ジョージ・キューカー監督、ジュディ・ガーランド主演のがあるはず。さらにバーブラ・ストライサンドとクリス・クリストファーソンに興味ないんだから「ロシュフォールの恋人たち」との併映でしかたなく見たらしい。結果は点数のとおり。この作品が大好きな方は、点数は作品に対するものではなく私のセンスに対するものだと思っていただきたい。配給ワーナー、監督フランク・ピアソン、撮影ロバート・サーティース。

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1978年5月に見た映画 (概観)

第1週

5月03日(水) ロシュフォールの恋人たち (三鷹オスカー) 4点
5月03日(水) スター誕生 (三鷹オスカー) 1点

第2週

5月08日(月) 合衆国最後の日 (池袋文芸坐) 3点
5月08日(月) コンドル (池袋文芸坐) 5点
5月13日(土) オペラは踊る (新宿アートビレッジ) 3点
5月13日(土) マルクスの二丁拳銃 (新宿アートビレッジ) 4点

第3週

5月15日(月) 招かれざる客 (月曜ロードショー) 4点
5月16日(火) 裸のジャングル (フジテレビ) 3点
5月18日(木) ミス・ブロディの青春 (大塚名画座) 5点

第4週

5月24日(水) イースター・パレード (東京12) 3点
5月25日(木) 巴里のアメリカ人 (高田馬場パール座) 3点
5月28日(日) レニー・ブルース (早稲田松竹) 5点

第5週

5月30日(火) 秋刀魚の味 (銀座並木座) 5点
6月01日(木) 最後の人 (新宿アートビレッジ) 半分寝た
6月01日(木) ヴァリエテ (新宿アートビレッジ) 4点
6月01日(木) 嘆きの天使 (新宿アートビレッジ) 5点
6月02日(金) ポケット一杯の幸福 (東京12) 4点
6月04日(日) 風と共に去りぬ (池袋文芸坐) 4点

以前の鑑賞記録はこちら

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2011年5月 2日 (月)

最近入手したフィルムノワールの洋書

本日三番目の記事。

Filmnoir

4月15日の「フィルムノワール入門(1)」で言及した本が欲しくなったので、紀伊國屋に注文したら、二週間後に届いたのでした。

真ん中の Film Noir Reader 2 は表紙が少々汚れていて10%引いてくれていました。表紙は、ジョセフ・ルイス監督、コーネル・ワイルド主演の The Big Combo です。Reader 1 を持ってないのに、なぜ2を先に買ったかというと、戦後フランスにどっと入ってきた犯罪映画を「フィルムノワール」と呼んだニノ・フランクのエッセイが収められているから。各々筆者の違うエッセイが20数本収録されています。全体が三部に分かれていて、1部「重要なエッセイの追加」(Reader 1 にも重要なエッセイが収録されているのでしょう)、2部「事例研究」、3部「ノワールの進化」と題されており、各々エッセイが8本ほど収められています。

左のは1955年のレイモン・ボルトとエティエンヌ・ショームトンによる「アメリカのフィルムノワールの展望」の英訳 A Panorama of American Film Noir 1941-1953。表紙は「郵便配達は二度ベルを鳴らす」(1946)のジョン・ガーフィールドとラナ・ターナー。

右は Women in Film Noir。「フィルムノワールの女たち」という訳本が以前出版されたことがあります。表紙はフリッツ・ラング監督の「扉の影の秘密」(1948)のジョーン・ベネット。筆者の異なるエッセイが14本収録されています。

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これは黄砂なのか?

朝5時半から散歩に出かけるのですが、今朝は薄曇りでやけに太陽の輪郭がくっきり見えるので、写真を何枚か撮りました。あとでニュースを見ていて、ハタと気づいたのですが、あれは黄砂だったのかもしれない。別のニュースで、呉市だったか、イノシシが市内に出現して、なんと海を泳いで逃げているのです。海を泳げるなんてちっとも知りませんでした。しかも、呉の山では最近見かけないので、どうも島から泳いで市内に遊びに来たらしい。

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映画構造と感情システム (7)

カテゴリーが「勉強ノート」なので、タイトルから「勉強ノート」を削除します。

本日は4月28日に言及した6つの下位システムのうち3番目と4番目「姿勢と骨格筋」と「発声」。

【姿勢と骨格筋】

骨格筋は、骨格を動かす筋肉のこと。多くの理論家は、顔以外の筋肉や姿勢が感情に影響を与える可能性を認めているが、重要な役割を果たしていると考えている者は少ない。姿勢や骨格筋が仲介的な効果を及ぼしていることはけっこう認められているが、顔以外の研究が不足しているために、姿勢が感情に必要かどうかを判断するのは難しい。

【発声】

発声は感情にとって重要だと広く提唱されているが、姿勢同様、あまり研究されていない。

表情のように、特有の発声が特有の感情と関連しているとシルバン・トムキンズ Silvan Tomkins が40年前に主張した。デジタルサウンド技術が発達した最近になってやっと彼の主張を実証する試みができるようになった。

怒り、恐怖、喜びといった主要な感情が発声によって表出されるということには意見の一致があるかもしれないが、特定の感情が特定の発声の特徴を持つのかどうか、発声の違いは単に感動の度合いを反映しているだけなのかどうか、はっきりしない。

声の主要機能は伝達だから、対人関係を考慮した声と感情の関係を研究し始めている人もいる。認知能力や感情能力の発達とともに、子供が感情を表す言葉と感情表現をどのように統合するかを考察するために感情を表す発声の発達を研究し始めた人もいる。そうした研究が重点を置いているのは、感情を表す発声を子供がどのように発達させるのかではなく、感情の種類を理解するために子供がどのように社会生活に適合していくかである。

特有の発声が特有の感情と関連しているというトムキンズの主張は直感的に有力な考え方だが、声による感情の表現を定める強力な規範を各文化が持っているので、発声が感情にとって必要だとか十分だとかは考えにくい。

感情システムを働かせる下位システムは残り「無意識的な中枢神経」のみ。これがけっこう長くて次回が不安。

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2011年5月 1日 (日)

日曜はトリュフォーだ!: 「野性の少年」のインタビュー

今日は蒸し暑いです。高血圧症で病院から薬をもらっているのですが、季節の変わり目に急に暑くなると、血圧が下がって、脈が速くなり、気分が悪くなります。病院が苦手なので病院で計測するといつも高くて、気分が悪くないですかと看護師さんに聞かれるのですが、長年高血圧を放置してきたからか、血圧が高いほうが平気です。とはいえ、高血圧を放置しておくと内臓のどこかに悪影響を及ぼすので、皆さんは気をつけてくださいね。

今日も「トリュフォーの映画術」(水声社)から。

「野性の少年」(1970)はトリュフォーの長編9作目。白黒作品で、撮影はネストール・アルメンドロス、ビバルディの音楽をアントワーヌ・デュアメルが指揮。脚本はトリュフォーとジャン・グリュオー。イタール医師による報告書をもとに、1800年ごろに10代初めの野性の少年が見つかり、イタール医師が彼に言葉を教える話にしています。イタール医師の報告書は「アヴェロンの野生児:ヴィクトールの発達と教育」という題で福村出版から出ていますが、現在入手できるのかどうか。

ヘレン・ケラーとサリバン先生の物語「奇跡の人」のような感動を期待するとガッカリするかもしれません。というのも、「イタール医師が少年を怒らせるためにわざと不当に罰する」のがミソで、最初見たときは、どうしてそんなことまで教えなきゃならないのかと怒りさえ覚えたぐらいですから。複雑な気持ちになる終わり方です。

「暗くなるまでこの恋を」では、アイリッシュの原作を映画化するときは、アイリッシュの作品をいっぱい読んで作者の世界に入り込むと言ってましたが、ここでは「あんまり資料ばかり読みすぎると、テーマが大きすぎるように思えてきてアイディアを断念することにもなりかねないんですね。だから、最初から資料漬けにならないように気をつけています」と述べています。題材によって、アプローチの仕方が違うんですかね。

撮影前に、自閉症の子供の医学映画をいくつか見て、自閉症といってもいろんな症状があることがわかり、自分の思うようにやればいいんだという結論に達します。

トリュフォー自身がイタール医師を演じています。ほかに自身の映画に出ているのは「アメリカの夜」と「緑色の部屋」です(ヒッチコックのようなチョイ役出演を除く)。もちろん、ほかの監督作品ではスピルバーグの「未知との遭遇」があります。

「たがいに理解し合えるのはなんと素晴らしいことだろう」ということを信じて、必死で少年とコミュニケーションをとろうしているトリュフォーですが、当時の「コミュニケーションの不可能性」という風潮が大嫌いで、特にアントニオーニについて「すぐれた映画作家のなかで唯一わたしが好きになれない監督」だと評しています。すぐれた映画作家だということは認めているのですね。

フランス人の子供の扱いに不満で、「トルコは貧しい国ですが、あそこでは子供は神聖視されています。日本では母親が息子に関心を持たないなんて考えられないことですよ。オーディベルティは日本の母親にひどく憧れていたものですが」と述べています。オーディベルティは作家で、たぶんトリュフォーの友人なんでしょう。「ピアニストを撃て」のマリー・デュボワの本名がダサかったので、彼の小説から芸名をつけたというようなことを言っていたような気がします。

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