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2009年3月29日 (日)

1976年4月に見た映画 (概観)

4月は大学に入学し、映画研究部に入りました。映画作りが中心だったし、お酒を飲む機会が多かったので、1年の時はあまり映画を見ていません。

4月07日(水) 人形の家 (新宿ロマン) 3点
4月07日(水) 愛の賛歌 (新宿ロマン) 4点
4月?         雨月物語 (新宿座) 4点
4月?         山椒太夫 (新宿座) 4点
4月?         ヤングフランケンシュタイン (テアトル新宿) 5点
4月?            フロントページ (テアトル新宿) 3点
4月30日(金) オリエント急行殺人事件 (新宿西口パレス) 3点
5月02日(日) 小さな恋のメロディ (日曜洋画劇場) 4点

テレビ映画劇場などの説明と以前の鑑賞記録はこちら

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2009年3月28日 (土)

1976年3月第4週に見た映画

3月27日(土) 恐竜100万年 (?) 3点

土曜日にテレビで見たのだろうけど、昼間見たのか、土曜映画劇場で見たのか。夜は弱いから、深夜ってことはないと思うけど。ドン・チャフィ監督、ラクウェル・ウェルチ主演って記録しています。もちろん、まったくおぼえていないのですが、意外や、双葉さんは白星3つ黒星2つと高得点。なかなか堂々たる仕上がりのようで、特撮もちゃんとしているし、原始人の会話も字幕なしでわかるらしい。"One Million Yers B.C." という原題の1966年のイギリス映画。

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2009年3月27日 (金)

あやや!あやや!

おお!「想いあふれて」をあややが生で歌っている。

アルバムの1曲目に入っていたKANのカバーをKANと歌ってる。

恋愛よりも充実したものを求めているこの曲を生で歌ってくれないかな。

稲垣潤一と歌う松田聖子の曲。あややがきれいに撮られている。

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私の YouTube: さくら

昨年の春にさくらを撮影して、アップロードしていたものです。咲く前から散った後までを数か所の同じ場所で同じように撮影したのをつなげれば、変化していく様子がわかって面白いだろうと思ったのですが、さほど変化は感じられないうえに、ズームがしつこくて、不満な出来ばえでした。今回大幅に再編集し、他の場所で撮影したものも加えて、撮影した順に、1ショット3秒ずつ、つなげていきました。音楽を加えましたが、音源は秘密。

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2009年3月26日 (木)

ノーマン・マクラレン作品 (その6)

Book Bargain (1937)
8分10秒、白黒、サウンド、35ミリ

郵政局映画部の上層部にはアルベルト・カバルカンティがいました。彼は1934年までフランスで20本弱の映画を作っており、特に「時の外何物もなし」という1926年の短篇で知られています。マクラレンは電話帳に関するドキュメンタリーを作る仕事をもらい、綿密なスケッチを含む計画書をカバルカンティに渡すのですが、カバルカンティはすぐに破り捨てて、次のように言います。「事前に計画を立てると、撮影段階で想像力を働かせることができなくなる。君の眼前にある実際の生きた素材は、君の想像力よりも豊かだ。素材にカメラを向けたときに、決定を行うべきだ。」

しかし、1938年に公開された電話帳に関する映画 "Book Bargain" は、ほとんどカバルカンティの教えが感じられない、電話帳の製作過程を描いた作品です。映画の題名と題材が結びつかなくて不思議に思っていたのですが、どうも、電話帳が分量の割にお得な本だということを題名は示しているようです。私には聞き取れないのですが、最後に、電話帳の配達人が、街路でバーゲン本を売っている人に、「俺たちの本のほうがずっと割安だよ」と言っている気がします。

この頃の他の郵政局作品と比較しないと、どこまでがマクラレンの創意なのかわからないのですが、郵政局の典型的な作品だとしても、マクラレンの創意が感じられるにしても、作品自体は電話帳の製作過程を簡潔に描いていて、私には好ましく思えます。機械の各部分が繰り返す同じ動きは、抽象的な感じがして魅力的ですし、動きが速くてよくわからない個所はスローモーションで見せてくれます。機械では作業できない個所は女性たちが行っているのですが、同じ動きの単純な作業を彼女たちが行っているのを今見ると、単調すぎて苦痛じゃないのかなと思ってしまいます(今、派遣労働者がこんな作業をしていると非人間的だと言われるかもしれませんが、この時代の彼女たちは「機械のおかげで作業がずいぶん楽になったわ」と言っているかもしれません)。

サイレントではなく、音が入っています。電話帳の製作過程を解説したナレーションが全編に流れ、太鼓と笛とピアノによる楽しげな音楽が最初と最後に出てきます。その雰囲気も好きです。

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2009年3月21日 (土)

「映画だけしか頭になかった」を楽しむ: ゴダールの即興演出-「勝手にしやがれ」

「危険な曲り角」でちょっと言及し、最近「「映画だけしか頭になかった」を楽しむ」をやっていなかったので、仕事の暇な今のうちに楽しんでおきましょう。「婦人画報」1960年2月号に掲載されたエッセイです。「危険な曲り角」で書いたように、「勝手にしやがれ」は1960年3月日本公開なので、公開前の紹介文なんでしょう。

まず、ベルモンドを紹介しています。ジャガイモを連想させる顔でハンサムじゃないけど、低音で太い声に魅力があり、映画が進むにつれて味を出してくる、というようなことを書いています。ジャガイモを連想させる顔といえばジャン・ギャバンもそうですよね。ベルモンドの声を思い出そうとすると、故山田康雄氏の高い声しか浮かんでこない。

「勝手にしやがれ」の原題は「息も切れぎれに」で、内容を示しているわけではなく、抽象的な題名なのが珍しい。「なにぶん変てこな映画だから、このことは感じてもらえる人だけにしかわかってもらえないだろう、といった気持を題名にたくしたと思われるのであって...見たあとで共感したばあいは愉快なものとなって印象にのこります。」

「スクリーン」3月号に「女一人パリに映画を買いにゆく」という秦早穂子さんのエッセイが載っており、誰も買わないような変な映画を買ったあと、いろんな賞を獲得したことが書かれているようです。で、秦さんのお父さんが、植草さんの肩を叩いて「娘もでかしたよ」とニッコリした、というエピソードを紹介しています。秦さんのお父さんって誰?ずっと東和映画の社長だと思っていたのですが、東和映画の社長は川喜多長政で、その奥さんが川喜多かしこで、二人の娘さんが川喜多和子で、そのあたりとゴッチャになっていたようです。

次にストーリーの紹介をして、ギャング映画と同じようだけど、映画作家の側にたって見ていると、自動車を乗り捨てて置いている上流階級の人たちが悪いんじゃないかと、主人公ミシェルに肩を持ちたくなると書いています。そして、シナリオを書いたトリュフォーの「大人は判ってくれない」のアントワーヌ少年とミシェル青年の間には何か血のつながりがあると指摘しています。

最後にジーン・セバーグをほめていて、彼女が街路で大きな声を出して新聞を売っていたりするのがパリの生活を直接感じさせるし、撮影所ではなく実際の風景の中で即興演出する面白い場面がたくさん出てくると書いています。

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1976年3月第3週に見た映画 (その2)

3月20日(土) 危険な曲り角 (?) 2点

土曜の昼下がりのテレビ番組か。無名時代のジャン・ポール・ベルモンドとアラン・ドロンが出ていた作品と記憶していたのですが、あれは「黙って抱いて」で、こっちは無名時代のベルモンドのみの出演作でした。1958年の作品だから、「二重の鍵」の前年で、「勝手にしやがれ」の前々年です。ベルモンドは「勝手にしやがれ」で鮮烈にデビューという印象があるのだけど、「二重の鍵」のほうが先なんですね。話がそれるけど、IMDb によれば、「勝手にしやがれ」のフランス公開が1960年3月16日で、日本公開が同じ年の3月26日になっていて、ビックリ。植草甚一さんの「映画だけしか頭になかった」に収められているエッセイ「ゴダールの即興演出-「勝手にしやがれ」」に書いてあったことを思い出したんだけど、まだ「勝手にしやがれ」がいろんな賞をとる前に秦早穂子さんがパリで買い付けたのでした。で、「危険な曲り角」(Les Tricheurs)は、マルセル・カルネ監督、ジャック・シェリエ、パスカル・プチ主演で、プロデューサーはロベール・ドルフマン、撮影クロード・ルノワール。サン・ジェルマン・デプレにたむろする若者の風俗を描いた作品らしい。

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2009年3月20日 (金)

ノーマン・マクラレン作品 (その5)

以下は、テレンス・ドブソン Terence Dobson の "The Film Work of Noman McLaren" によっています。

1936年秋に郵政局映画部のジョン・グリアソンに呼ばれたノーマン・マクラレンは、すぐに、アイバー・モンタギュ Ivor Montagu がスペイン内戦を撮影するのに同行する仕事をもらいます。マクラレンは、スコットランド共産党のメンバーだったので、反ファシズムの共和軍を支持するドキュメンタリーの参加に乗り気でした。撮影には三週間かかりました。マクラレンは、撮影だけでなく、調査や脚本作りといった準備段階から編集などの仕上げ段階まで、助手として参加しました。

スペインへ行ったのはモンタギュとマクラレンの二人だけでした。戦場でスピーディーに撮影しなければならないため、マクラレンは "Camera Makes Whoopee" のようにカメラの様々な仕掛けを使用することができなかったし、もしそうしたら、ドキュメンタリー映画の信用性をダメにしてしまったでしょう。技巧に頼りがちだったマクラレンにとって、直接な撮影から多くを学んだはずです。

出来上がった作品 "The Defence of Madrid" と、その後のマクラレンのキャリアは、若い映画作家をモンタギュとともにスペインに送り込むというグリアソンの判断が賢明だったことを証明しています。もちろん、マクラレンは、抑制された適度な技巧をこの経験からただちに習得したわけではなく、郵政局で彼が最初に映画を作るまで、編集などの助手として一年間修業を積みました。

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2009年3月19日 (木)

1976年3月第3週に見た映画 (その1)

3月?     バニシングin 60" (新宿西口パレス) 3点
3月?        タワーリング・インフェルノ (新宿西口パレス) 5点

何日に見たのかわかりません。「バニシング in 60"」は前の週の土曜日にも見ていて、3点だから、特にこれを再見したかったわけでもなかったので、「タワーリング・インフェルノ」が見たかったのでしょう。この頃、ポール・ニューマンのファンだったから、彼を期待したけど、ビル設計者の彼よりも消防士のスティーブ・マックイーンのほうが活躍してました。もたもた人物模様を描かくことなく早めに火事になるのが良かったですが、正直、今は全然興味ないです。1974年の二十世紀フォックス映画。監督ジョン・ギラーミン、プロデューサーとアクションシーンの監督はアーウィン・アレン(「原子力潜水艦シービュー号」や「タイムトンネル」を作った人。「ポセイドン・アドベンチャー」も彼がプロデュース)、音楽ジョン・ウィリアムズ。有名な共演者多数。

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ノーマン・マクラレン作品 (その4)

Hell UnLtd (1935)
19分14秒、白黒、サイレント、16ミリ

これは7枚組の4枚目に入っています。4枚目には「戦争と平和」というテーマの下に10数本収められていて、そのうちの1本です。

これはグラスゴー美術学校最後の作品で、反戦がテーマです。実写、アニメ、ニュース映像、グラフ、ミニチュア、地図などがコラージュされていますが、一貫性があって、わかりやすい(サイレントなのが少々つらい)。第一次大戦がもたらした損害、再び戦争に突き進む様子、戦争がもたらす破壊というように展開していき、最後に、大衆が抵抗すれば戦争を止めることができるというメッセージが映像によって示されます(しかし、その後、第二次大戦に突入することを考えると複雑)。

"The Film Work of NOrman McLaren" のテレンス・ドブソンは、ショットのつながりに一貫性がないことや、サイレントゆえに文字に頼りすぎるために、視覚的なアイディアを効果的かつ面白く伝えていないと書いています。しかし、私にはゴダールを連想させて興味深かったです。

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2009年3月18日 (水)

ノーマン・マクラレン作品 (その3)

3. Polychrome Fantasy (1935)
2分52秒、カラー、サイレント、16ミリ

マクラレンのDVD7枚組は、年代順ではなく、テーマごとに収められているらしい。"Polychrome Phantasy" (多色の幻想)は3枚目の「ダンス」というテーマのなかに収められています。テレンス・ドブソンの本 "The Film Work of Norman McLaren" によれば、これは "Camera Makes Whoopee" と同時期に作られており、"Camera Makes Whoopee" のための試作品らしい。というのも、"Camera Makes Whoopee" の大きなねじ回しの森の間を小さなダンサーたちが踊るシーンと同じ趣向で、抽象的な絵をバックに数名の女性ダンサーが下の方で小さく踊っているからです。これも二重撮影を利用しているのですが、絵がケバケバしいし、色が変化するので(ステンドグラスのようなものを利用しているらしい)、ダンサーたちが非常にショボく見えます。特に面白いとは感じませんが、マクラレンにダンスと抽象への興味があることがわかります。

第三回グラスゴー・アマチュア・フィルム・フェスティバル

このフェスティバルは1936年1月に開かれました。審判員は、すでにドキュメンタリー作家として有名だったジョン・グリアソンで、郵政局映画部の所長でした(郵政局はコミュニケーション全般を取り扱っていたので、映画部があったらしい)。マクラレンは、"Camera Makes Whoopee" と "Colour Cocktail" を出品。グリアソンは、"Camera Makes Whoopee" について、技術的には優れているが芸術的にはゴチャゴチャした寄せ集めでしかない、と評したようです(私もそう思うし、ほとんどの人がそう思うはず)。で、グリアソンは "Colour Cocktail" を一等賞に選んだらしい(残念なことに、"Colour Cocktail" という作品はDVD7枚組の中に見当たりません)。さらに、グリアソンは、マクラレンに対して、美術学校を卒業したら郵政局で働いてほしいという申し出をしました。マクラレンは興奮しました。というのも、映画の仕事に就けるという貴重な機会を得たし、イギリスの一流の映画人たちがいる環境で映画作りを学ぶことができるからです。

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2009年3月17日 (火)

フィルムノワール (99): The Friends of Eddie Coyle (1973)

5月にクライテリオンからDVDが発売されるので、どんな作品が調べてみました。例によって、"Film Noir: An Encyclopedic Reference to the American Style" を利用していますが、ポーリン・ケイル女史が "5001 Nights at the Movies" に書いている評も読んでみます。

ジョージ・V・ヒギンズの原作が「エディ・コイルの友人たち」という題名で1976年にハヤカワ文庫から出ていますが、映画は日本劇場未公開。主演のロバート・ミッチャムとしては1974年の「ザ・ヤクザ」の前の作品で、監督のピーター・イエーツとしては、「ブリット」「ジョンとメリー」「マーフィの戦い」「ホットロック」に次ぐ作品。

パラマウント製作配給。プロデューサーと脚色はポール・モナッシュ。音楽デイブ・グルーシン。撮影ビクター・J・ケンパー(テクニカラー、パナビジョン)。ロケ地はマサチューセッツ州ボストン。102分。

あらすじ

前科三犯の中年男性エディ・コイル(ロバート・ミッチャム)は保釈中の身であり、次の裁判で残りの人生を刑務所で過ごす羽目になるかもしれない。エディは警察の密告者になって、財務省の諜報員デイブ・フォリー(リチャード・ジョーダン)との司法取引に応じる決心をする。だが、エディは、マフィアのために、不正な商品を州間で輸送する仕事も続けている。警察は、エディの刑期を縮める気がないのに、エディに情報を提供するよう圧力をかける一方、マフィアも彼を不正にあやつろうとする。コイルの友人ディロン(ピーター・ボイル)は、密告者を殺害するようマフィアから依頼される。ディロンは、殺す相手がエディだと知るが、殺しをやり遂げる決意をする。畜殺される前に太らされる豚のように、エディはディロンから大いにもてなしを受ける。ホッケー試合を観戦し、何杯か飲んだあと、エディは寂しい場所に連れて行かれ、殺され、捨てられた車の中に放置される。

解説

この頃の他の犯罪映画以上に40年代後期のフィルムノワールの雰囲気を感じさせる。フィルムノワールの要素が数多くみられる。圧倒的な退廃のムードに絶望感やあきらめの気分かからまっているだけでなく、疎外感や恐怖感も際立っている。「エディ・コイルの友人たち」が描く現代社会は、フィルムノワール環境の目標や状況に今なお囲まれている。暴力の儀式化さえ残っている。たとえば、エディの処刑が引き延ばされるあたり、アンソニー・マンやジュールズ・ダッシンの最良の作品を思い起こさせる。ミッチャムの存在によって、1940年代のフィルムノワールとの肉体的なつながりがもたらされている。というのも、「過去を逃れて」「十字砲火」「脅迫者」といったノワール作品によって確立されたミッチャムの人物像が、「エディ・コイルの友人たち」までに、どこにも逃れられない現実に直面している中年男性に変質しているからだ。エディが接触する警察やチンピラたちのシニックぶりも、ノワール的な雰囲気を強めている。悲観的な結末、ピーター・ボイル演じる人物のグロテスクな描写、さまざまなチンピラたちは、この映画の他の堕落的な特徴とともに、「エディ・コイルの友人たち」を「チャイナタウン」「さらば愛しき女よ」などのフィルムノワールへの敬意を示した映画よりも本当のフィルムノワールに近づけている。

ポーリン・ケイルの評

ボストンのアイルランド系悪漢と警官。またもやロバート・ミッチャムはごろつきで、ムショ暮らしから逃れるために、利口で不誠実な麻薬捜査官(リチャード・ジョーダン)にちょっとした情報を漏らす。バーテンダーのピーター・ボイルは、殺人の依頼をあやつって、無情に、すべての派閥が互いに敵対するように行動する(ruthlessly plays all sides against each other)。マサチューセッツ州の副法務長官だったジョージ・V・ヒギンズの原作に基づいたこの映画は、もっと良くなるはずだった。プロットとセリフは一級だ。すべての要素が整っている。適切にもうすのろに見えるミッチャムは頑張っているし、いくつかの良いシーンもある。だが、会話がアクションよりも速く進みすぎる印象を受ける。たぶん、イギリス人のピーター・イエーツが監督したこの映画には、環境(ミリュー)を本能的に感じとれるアメリカの監督が必要だったのだろう。映画は深みがなく、少し機械的で、音や騒々しい音楽によって興奮させようとする。物語が描こうとしているのは、からみあった結びつきなのだが、警察とギャングには何の結びつきもない (The police and the gangsters have no roots, and intertwined roots are what the story is meant to be about)。ぞっとするほど愉快そうに演じているリチャード・ジョーダンが最も印象的な演技をしており、拳銃のディーラーを演じるスティーブン・キーツが最も人目を引く。

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2009年3月15日 (日)

私の YouTube: 家庭菜園 (私の月間ビデオ2008年3月)

これも画質改良版。2007年9月から2008年2月にかけて撮影した裏庭の野菜畑を編集したものです。以前はサイレントだったのですが、新たに音楽を付けました。音源は秘密。

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私の YouTube: 母の庭2007年晩夏

以前からアップロードしていたビデオの高画質版。音楽は以前と同じで、私のヘタッピーな演奏。二曲弾けるうちの一曲。"The Piano Handbook" という本で練習したヘンリー・パーセルの「イ短調のメヌエット」。

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2009年3月14日 (土)

ノーマン・マクラレン作品 (その2)

2. Camera Makes Whoopee (1935)
24分31秒、白黒、サイレント、16ミリ

"make whoopee" は「どんちゃん騒ぎをする」とか「異性といちゃつく」といった意味があるようです。いろんなことができるカメラを持ったマクラレンが浮かれている様子を示しているのでしょう。見知らぬ人が貸してくれたカメラはシネ・コダック・スペシャルというもので、多重撮影やコマ撮りなど、できることはすべてやってみたという感じです。グラスゴー美術学校で催されたクリスマスのダンスパーティーを題材にしているのですが、ドキュメンタリー風ではなく、様々な技巧を目まぐるしく凝らしたアバンギャルド風です。パーティーの楽団が使う様々な楽器がケースから出てくるのをコマ撮りしているあたり、もうアニメの世界です。大きなねじ回しが何本も立っている間をカップルたちがダンスしている二重撮影など印象的な場面もいくつかあるのですが、20数分間サイレントで見るのはつらい。特に、楽器がよく出てくるのに、音が聞けないのはもどかしい。最初と最後にカメラ自体が出てくるあたり、ジガ・ベルトフの「カメラを持つ男」を連想させますが、そんな社会意識なんかないカメラは最後にベッドに入ってお休みします。

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1976年3月第2週に見た映画 (その3)

3月13日(土) バニシング in 60" (渋谷全線座) 3点
3月13日(土) 明日に向かって撃て (渋谷全線座) 5点

「バニシング in 60"」(1974)は、自動車泥棒が警察に追われるカーチェイスもので、意外な拾い物と評判でした。原題は "Gone in 60 Seconds" ですが、邦題はなんと読むのでしょう。HBハリッキーという人が製作・脚本・監督・主演しているようです。2000年にニコラス・ケイジとアンジェリーナ・ジョリーで「60セカンズ」として再映画化されているようです。

「明日に向かって撃て」を見るのは四回目でした。最初見た時は、色がさえないなあとか、あまりハラハラドキドキしないなあと思っていたのですが、しゃれっ気のあるコメディとして見始めてから、面白く見ることができるようになりました。高校時代に尾道太陽館と福山グリーン劇場で見ているのですが、どちらとも「バニシング・ポイント」が併映で、カーチェイスものに縁があるらしい。そういえば、ブッチ・キャシディとサンダンス・キッドも泥棒だし、車じゃなくて馬で逃げる。

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2009年3月11日 (水)

1976年3月第2週に見た映画 (その2)

3月10日(水) 暗殺・サンディエゴの熱い日 (?) 4点
3月10日(水) サンダウナーズ (?) 4点

両方ともテレビで見たようです。前者はテレビムービーで、原題は "Pursuit" (1972)。allcinema によると、「毒ガスによる大統領暗殺を企む政治家と国務省捜査官の戦いを描いたポリティカル・フィクションの佳作」。マイケル・クライトン初監督。劇場用映画の初監督は「ウエストワールド」で、その次がジュヌビエーブ・ビジョルド主演の「コーマ」。クライトンは作家として有名だけど、原作は彼じゃなくてジョン・ラング。ところが、よく調べてみたら、ジョン・ラングとはクライトンの別名らしい。音楽ジェリー・ゴールドスミス。主演ベン・ギャザラ、E.G.マーシャル。

「サンダウナーズ」は、フレッド・ジンネマン監督、ロバート・ミッチャム、デボラ・カー主演の1960年のワーナー映画。"Sundowner" は「放浪者」という意味。ポーリン・ケイルは、 "5001 Nights at the Movies" で次のようなことを書いています。たぶんオーストラリアを舞台にした映画なんか誰も見に行かないだろうからという理由で、公開当時は評判にならなかったが、評価に値する。いくつかのの挿話から成る大作で、強く感情に訴える性質を持っている。オーストラリアのただっぴろい空間についての叙事詩で、ロバート・ミッチャムはひとところにいることができない男、デボラ・カーは息子を育てながら彼についていく妻。夢のような競争馬に関するシークエンスと、羊の毛を刈るコンテストのシークエンスが素晴らしい。話の展開はゆっくりだが、登場人物は、他のジンネマン作品よりも元気があり、常軌を逸している。デボラ・カーは、上品ぶっても気どってもいなくて、たぶん彼女としては最高の演技だろう。原作ジョン・クリアリー、脚色イソベル・レナート、撮影ジャック・ヒルドヤード(「旅情」「戦場にかける橋」)、音楽ディミトリ・ティオムキン。カラー。133ぷんだから、テレビだと30分ほどカットされていたはず。

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2009年3月10日 (火)

ノーマン・マクラレン作品 (その1)

「意見広告七人の会」による募金活動は、開始12日目にして目標金額の650万円に達しました。この金額でニューヨークタイムズの紙面一面を購入できるそうです。その中に私がもらえるはずの定額給付金分の金額が入っているのがうれしい。

拉致被害者の救済に向けて

なかなかスタートがかからなかったノーマン・マクラレン年間特集ですが、最初の作品からボチボチ見ていくことにします。"Seven Till Five" の前に一本作っているそうですが、現存していないので、それは省略します。

1. Seven Till Five (1933)
12分39秒、白黒、サイレント、16ミリ

ノーマン・マクラレンというと、オスカー・ピーターソンの軽妙なピアノをバックに、フィルムに直接イタズラ書きしたような作品が印象的なので(Begone Dull Care 1949)、こういうドキュメンタリー作品を見せられると面喰ってしまいます。グラスゴー美術学校時代の作品で、朝、学校が始まり、生徒たちが絵とか彫刻とか製作し、ランチを食べ、再び製作にとりかかり、夕方に学校が終わるという展開です。その展開がわかりやすいし、細かいショットを積み重ねて端正に作っていますが(非常に単純なカメラで撮影されたので、そうせざるをえなかった)、面白いかどうかというと、単調すぎて私には面白くない。"The Film Work of Norman McLaren" という本によれば、時計が映画のリズムの基礎として重要な役目を果たしています。この作品に出てくる時計はチャールズ・レニー・マッキントッシュ Charles Rennie Mackintosh が設計したもので、ウィキベディアによれば、1868年生まれのマッキントッシュは27歳の若さで母校グラスゴー美術学校の新校舎の設計コンペに優勝したそうな。マクラレンは、エイゼンシュテインやプドフキンの作品を見たばかりで、彼らのモンタージュ技法に強く影響を受けているようです。"Seven Till Five" は、1934年10月にグラスゴーで開かれた第二回スコットランド・アマチュア・フィルム・フェスティバルに出品され、1位になりました。これがきっかけて、見知らぬ人から、フェードイン、フェードアウト、二重撮影、画面分割、1コマごとの撮影ができるカメラを借りることができて、次作の "Camera Makes Whoopee" で使用することになります。

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2009年3月 9日 (月)

1976年3月第2週に見た映画 (その1)

3月8日(月) リオの男 (?) 5点

1973年5月、1974年1月に続いて、3度目。記録していないけど、TBSの月曜ロードショーなのかな?前日のドロンに続いてベルモンドの作品をテレビで見ることのできる時代でした。今は、10年ほど前に米アマゾンで購入した米版VHSを持っています。秘宝の盗難騒ぎに巻き込まれたフランソワーズ・ドルレアックが誘拐され、恋人のベルモンドがパリからリオデジャネイロ、ブラジリア、ジャングルへと走って、走って、走って、追いかける。他愛ないお話だと思っていたら、ド・ブロカ、ジャン・ポール・ラプノー、ダニエル・ブーランジェらの脚本はアカデミー脚本賞にノミネートされていました。作品自体もニューヨーク映画批評家賞で外国映画賞を獲得。少しでも退屈させてはならじとするハリウッド製コメディと比べると、少々間の抜けたところがあるかもしれませんが、私はフランスコメディのノンビリした感じが好き。音楽ジョルジュ・ドルリュー(60年代のド・ブロカ作品をずっと担当していた)、撮影エドモンド・セシャン(「沈黙の世界」「赤い風船」「頭上の脅威」「ニューヨーク大混線」「ラ・ブーム」)。

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2009年3月 8日 (日)

1976年3月第1週に見た映画 (その2)

3月7日(日) 悪魔のようなあなた (?) 4点

1973年2月18日に日曜洋画劇場で見たときのことを、ここで2007年5月11日に書いているので、それを転載します。このときも日曜洋画劇場だったのだろうか?下に書いてないので付け加えれば、原作はルイ・C・トーマ。

goo であらすじを読んでみると、記憶喪失になったドロンが、妻らしき女性センタ・バーガーに連れられて邸宅に戻るのだけど、そこで殺人事件に巻き込まれるという話らしい。90年代に入ってテレビでもう一度見ていて、センタ・バーガーの召使の中年男性が彼女の下着を縫製しているという変な設定のみが印象に残っています。

1930年代に「地の果てを行く」、「我等の仲間」、「望郷」、「舞踏会の手帖」、「旅路の果て」など名作を連発したジュリアン・デュヴィヴィエの遺作。この頃と比べると印象が薄いかもしれませんが、戦後も、フェルナンデル演じるドン・カミロ神父のコメディ、「埋もれた青春」や「わが青春のマリアンヌ」などの青春もの、「殺意の瞬間」などのスリラーを手堅く作る職人肌の娯楽監督として活躍しました。トリュフォーは、ジャン・ギャバン主演の「殺意の瞬間」でジェラール・ブランを発見して、実質的なデビュー作「あこがれ」で起用したのでした。デュヴィヴィエもトリュフォーを気に入っていたらしく、トリュフォーの伝記を読むと、批評家時代のトリュフォーと共同で映画を作る話をしていたようだし、「大人は判ってくれない」の次にジャン=ピエール・レオが主演したデュヴィヴィエ監督の「並木道」は、双葉さんの「ぼくの採点表」によれば、レオが一人で屋根裏部屋に住みながらいろんな仕事をするという話で、トリュフォーのアントワーヌ・ドワネル・シリーズの一作目「大人は判ってくれない」と二作目「二十歳の恋」を橋渡しするような作品じゃないですか。

撮影はアンリ・ドカ、音楽はフランソワ・ド・ルーベで、これはドロンの前作「サムライ」と同じ。アンリ・ドカは、「太陽がいっぱい」以降、かなりドロン作品を撮っています。ド・ルーベは、「冒険者たち」、「サムライ」、「悪魔のようなあなた」、「さらば友よ」、「ジェフ」と、60年代後期に集中してドロン作品の音楽を書いています。ドロンは「冒険者たち」の主題曲「愛しのレティシア」を歌っているぐらいだから、この頃ド・ルーベを気に入っていたのでしょう(この頃のドロンがどれぐらいスタッフの起用に口出しできたか知りませんが)。

センタ・バーガーは色っぽいドイツの女優さんでした。60年代はグラマー女優として各国の映画に出演していて、それらは70年代前半にテレビでよく放映されていたので、なじみのある女優さんです。特にどの映画が印象的ということもないのですが、イタリアのズッコケコメディ「ナポリと女と泥棒たち」はもう一度見たい。

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2009年3月 7日 (土)

First R&R (24曲目): Rocket 88 (その5)

アイク・ターナーの憤慨によってブレンストンとの間に亀裂が入り、結局バンドは解散した。「ロケット88」の人気のおかげで、ブレンストンは、フィニアス・ニューボーン・ジュニア Phineas Newborn, Jr. という若いメンフィスのピアニストなどをバックに、二年間ツアーを続けることができた。ジェネラル・モーターズは、ブレンストンがただで宣伝してくれたので、新型のオールズ88をプレゼントした。

だが、次のレコード "My Real Gone Rocket" も、その後のレコードも、まったくヒットしなかった。訴訟に巻き込まれ、ひどい目に会い、アルコールに溺れた。稼いだ金はすぐに使った。「ロケット88」の人気が廃れ、下取りに出して、おんぼろ車とも交換できなくなった頃、ブレンストンは、屈辱的なことに、アイク・ターナーのバンドに参加し、ほんの少しサックスを吹かせてもらうだけだった。ターナーはピアニストからギタリストに転向し、彼のバンドのリードシンガー、アナ・メイ・ブラック Anna Mae Bullock と結婚し、名前をティナ・ターナーに変えさせた。アイクが最初のヒット曲 "A Fool in Love" を出した1960年、ブレンストンはアイクのバンドにいた。ついに、アイクは「ロケット88」で受けた仕打ちの仕返しをしたのだ。

ブレンストンの1951年の成功の副産物は、ペンシルベニアの独立系プロデューサーが、田舎臭い曲ばかり演奏していたビル・ヘイリーを説得して「ロケット88」のカバーを演奏させたことである。ヘイリーのレコードはヒットしなかったが、一部の地域で売れ行きが好調で、白人市場のためにR&Bを録音するというヘイリーの方向性を作った。

ジャッキー・ブレンストンが1979年に心臓まひに襲われたとき、彼はメンフィスの街角の飲んだくれだった。12月15日に退役軍人病院 (V.A. hospital) で亡くなった。

1958年、リトル・リチャードは、「ロケット88」のアイク・ターナーのイントロをパクり、ほとんど一音たがわずに"Good Golly, MIss Molly" に作り変えた。

(今回はこれで終わり。右の関連サイトの「最初のロックンロール」をクリックすれば、まとめて読むことができますし、過去のものも読むことができます。)

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拉致被害者の救済に向けて

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2009年3月 6日 (金)

私の YouTube: 自転車からのぎこちない移動撮影

2007年10月にアップロードしたビデオの改良版。音楽を加えたので、音楽の長さに合わせて短くしました。

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私の YouTube: 四季 (私の月間ビデオ2008年7月)

画質改良版。音楽を変えました。

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First R&R (24曲目): Rocket 88 (その4)

ブレンストンは自分が「ロケット88」の作者だと主張したが、実際にはギタリストのジミー・リギンズが1947年に発売した「キャデラック・ブギ」の最新版だった。しかも、「キャデラック・ブギ」でさえ、ロバート・ジョンソンの1936年の「テラプレーン・ブルーズ」を革新的に作り変えたものかもしれない。ブレンストンは「キャデラック・ブギ」の歌詞を変えて、車種を最新のものにしているが、メロディやブギのビートはほとんど同じだ。それでも違いはある。リギンズのは、西海岸のジャンプブルーズでキーキー鳴るサックスを除いて、過ぎ去ったビッグバンド時代を懐かしむような演奏だった。ブレンストンは、ミシシッピーのデルタ地帯で田舎のブルーズを聞きながら育った若者たちと演奏している。

1951年当時、サム・フィリップスは、ロサンゼルスのモダーンレコーズにブルーズミュージシャンのマスターテープを貸したり売ったりしながら、かろうじて演奏者に報酬を与えることができた。しかし、モダーンレコーズは、BBキングなどのすぐれたミュージシャンを引き抜いたので、サム・フィリップスと仲が悪くなった。それで、フィリップスは、アイク・ターナーとキングズ・オブ・リズムがその日録音した四曲をシカゴのチェス兄弟に送った。チェスはブレンストンの二曲を4月に発売した。レコードが店頭に並んでいるのを見たアイク・ターナーは、誰でも殺しかねなかった。彼のバンドが演奏しているのに、レコードにはジャッキー・ブレンストンと彼のデルタキャッツと書いてあるだけで、ターナーの名前はどこにもなかった。アイクにとってさらに不運なことに、のちに同じ録音からアイクの二曲をチェスが発売したが、まったく売れなかった。

1951年6月に「ロケット88」はR&Bチャードで1位になり、5週間トップの座を守り、ドミノズの「シックスティ・ミニッツ・マン」に次ぐR&Bの年間ヒットとなり、ジャッキー・ブレンストンはスターとなった。しかし、それはブレンストンにとって最悪のことだった。「俺は青二才だった。ヒット曲はあったが、センスがなかった。誰ともツアーに出たことがなかったし、プロがどうするのかも見たことがなかった。」

(続く)

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2009年3月 5日 (木)

First R&R (24曲目): Rocket 88 (その3)

1951年3月、バンドは、61号線を上って、ユニオン通り706にある白いタイル張りの小さなメンフィス・スタジオに着いた。アイク・ターナーの回想によれば、車旅行はひどいもので、「三度捕まった。一度はスピード違反だった。ベースを車の上においていたら、吹き飛んでしまった。その日はトラブルがいっぱいあった。雨が降っていた。メンフィスに遅く着いたので、その日は録音できなかった。長い間待たなければならなかった。」

ほとんどの録音技師は彼らを録音するのにしりごみしたに違いない。ギタリストのウィリー・キザート Willie Kizart はアンプを落として、コーンをダメにしたので、アンプから出てくる音がゆがんでしまった。しかし、絶えず何か新しいものを求めているサム・フィリップスは、録音を続けることに決めた。「修理のしようがなかった。アンプに紙をちょっと詰めたら、サックスのような良い音が出た。」他の録音技師なら、ゆがんだアンプの音を低く抑えようとするだろうが、フィリップスはそうじゃなかった。フィリップスは、ファジーなギターの音を強めて、アイク・ターナーのせわしないピアノと暴走しすぎてタイヤがスリップするようなレイモンド・ヒルのサックスとともにキザートが演奏するブギのリフを強調しようとした。

録音セッションは、ターナーが歌い、ブレンストンがアルトサックスを演奏する二つの曲で始まった。ブレンストンはアルトサックスを置いて、次の二曲を歌った。"Come Back Where You Belong" と「ロケット88」である。サム・フィリップスの記憶では、バンドは「ロケット88」のリハーサルを行っていない。「ロケット88」をその日に録音すべきかどうか決めかねていたが、バンドがその曲をふざけながら演奏しているのを聴いた彼は、ちゃんと演奏するよう求めた。これがサム・フィリップスの回想で、アイク・ターナーは大筋で同意している。「この曲は前夜に作り上げた。メンフィスに一晩中いたんだ。その日、その車を見かけたので、「ロケット88」と名付けた。俺たちが道路でトラブったとき、ある男が助けてくれたんだ。その男が乗っていたんだ。」もっとありそうなのは、ブレンストンとバンドがキングズ・オブ・リズムのショーで即興で作り上げ演奏した曲だということだ。当時の録音セッションでは4曲録音するのが普通なので、十分リハーサルを積んで、いつでも演奏できる曲数を持つことなくメンフィスまで長旅をするなんて、ありそうもない。アイク・ターナーによれば、録音セッションが終わると、フィリップスは各々に20ドルくれたそうだ。

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2009年3月 4日 (水)

私の YouTube: 葛西公園に船で行く

画質改良版。といっても、古いものなので、もともと画質は良くない。1989年11月撮影。

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1976年3月第1週に見た映画 (その1)

3月04日(木) 刑事マディガン・マンハッタン事件 (?) 3点

昼の映画劇場にせよ、夜の映画劇場にせよ、東京12チャンネルで見たはず。ドン・シーゲルがリチャード・ウィドマーク主演で1968年に公開した「刑事マディガン」は、イーストウッド主演の「マンハッタン無宿」や「ダーティハリー」の先駆的作品でしたが、これは1972年から翌年にかけて放映されたテレビシリーズで、同じくウィドマーク主演。IMDb によれば、その6本の原題は "The Manhattan Beat" (1972年9月20日放映)、"The Midtown Beat"(1972年10月4日)、"The London Beat" (1972年11月8日)、"The Lisbon Beat" (1973年1月3日)、"The Naples Beat" (1973年1月31日)、"The Park Avenue Beat" (1973年2月28日)だから、この日見たのは最初のものでしょう。監督アレックス・マーチ、共演ロニー・コックス、マレー・ハミルトン、トニー・ロー・ビアンコ。

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First R&R (24曲目): Rocket 88 (その2)

車に弱いので、車に関する個所に誤訳があるかもしれません。

「ロケット88」は、メンフィスのサン・スタジオで録音された最初のヒット曲であり、シカゴのチェス・レーベルにとって最初のR&Bチャート1位になった曲であり、アイク・ターナーにとって最初の大ヒットであり、何人かにとって最初のロックンロールだった。革新的な曲によくあることだが、「ロケット88」の魔力のほとんどは偶然の産物である。アンプのスピーカーが壊れたために、ギターの音が荒っぽく、不明瞭なものになったし、最初にこの曲を録音しようと決めたのは土壇場の決定だったと言われている。

ロケット88の正式名称は 1950 Hydra Matic Drive V-8 Oldsmobile 88 で、「ロケットエンジンの付いた最も安い車」だと宣伝された。貧しい連中でさえ味わうことのできた戦後アメリカの繁栄のクロムメッキ輝く象徴だった。第二次大戦によって庶民はジェット機の技術や未来風デザインに魅了されたので、自動車メーカーは、1950年型自動車によって未来の工学が手の届く範囲内となったと宣伝した。GMは、オールズ88エンジンを "フューチャーマチック(「未来 future」+「動く matic」)" として広告し、「なめらかなフューチャーマチック・ボンネット」のゆるやかにカーブする輪郭を大いに宣伝した。南部で差別されている黒人の若者でさえ、このロケットを運転する夢を描くことができた。

ジャッキー・ブレンストンは、1927年8月24日か1930年8月15日に、ミシシッピー州クラークスデイルで生まれた。ブレンストンは1944年に入隊するために年齢をごまかしたと告白しているので、後者が正しいと思われる。クラークスデイルは確固たるブルーズの町である。ロバート・ジョンソンは、1930年代半ば、クラークスデール郊外の49号線と61号線の十字路で悪魔に魂を売り渡したと言われている。

戦後、ブレンストンはクラークスデイルに帰り、地元のミュージシャンからアルトサックスを教わった。ブレンストンは、ピアニストのアイク・ターナーと出会った。1931年10月15日に郊外で生まれたターナーは、メンフィスのホテル・ピーボディでベルボーイとして働いていたので、クラークスデイルとメンフィスを行き来していた。「アイクはバンドを結成した。俺はあまりうまく演奏できなかったが、練習する時間をたっぷり与えてくれた。」そのバンド、キングズ・オブ・リズムはすぐに人気を呼び、彼らがミシシッピー州チェンバーズで演奏しているのを聞いたBBキングは、彼らをサム・フィリップスに紹介した。

(続く)

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2009年3月 3日 (火)

私の YouTube: 新宿西口のビルのエレベーターから

しばらく、以前アップロードしていたビデオの画質改良版のアップロードが続くと思います。ご了承を。これは1989年秋に撮影したもの。新宿西口のNSビルのエレベーターを何度も往復しました。NSビルの1階にブリティッシュフォークが充実しているレコード店があって、そこによく通っていたので、外から見えるエレベーターの存在を知っていたのでした。他の客の会話が入っているので、サイレントにしました。

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私の YouTube: かもめ (私の月間ビデオ2008年1月)

拉致被害者の救出に向けて意見広告ふたたび。

またまた画質改良版。

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2009年3月 2日 (月)

私の YouTube: 2008年の初日の出

画質向上版。といっても、以前アップロードしていた版も、さほど悪くはなかった。

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2009年3月 1日 (日)

First R&R (24曲目): Rocket 88 (その1)

24曲目は、ジャッキー・ブレンストンとデルタキャッツ Jackie Brenston and His Delta Catsの「ロケット88」です。

  • R&Bチャート1位
  • カテゴリー: R&B
  • 作者: Jackie Brenston
  • レベールと番号: Chess Records 1458、シカゴ
  • B面: "Come Back Where You Belong"
  • 録音日・場所: 1951年3月5日、テネシー州メンフィス
  • 発売日: 1951年4月
  • なぜ重要か:
    間接的にサンレコードの発足を手助けした。エレキギターのゆがんだ音とせわしないブギビートによって強められた演奏が50年代の数多くのレコードに影響をあたえた。
  • 影響を受けたのは:
    Jimmy Liggins "Cadillac Boogie"(1947)
  • 影響を与えたのは:
    Todd Rhodes "Rocket 69" (1952)
    The Medallions "Buick 59" (1954)
    Little Richard "Good Golly, Miss Molly" (1958, ポップチャート10位)
  • 重要なカバー:
    Bill Haley and the Saddlemen

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1976年3月に見た映画 (概観)

これまで現在と33年前は曜日が一致していたのに、1976年はうるう年だったので、3月から1日ずれてしまいます。残念。

第1週

  • 3月04日(木) 刑事マディガン・マンハッタン事件 (?) 3点
  • 3月07日(日) 悪魔のようなあなた (?) 4点

第2週

  • 3月08日(月) リオの男 (?) 5点
  • 3月10日(水) 暗殺・サンディエゴの熱い日 (?) 4点
  • 3月10日(水) サンダウナーズ (?) 4点
  • 3月13日(土) バニシングin 60' (渋谷全線座) 3点
  • 3月13日(土) 明日に向かって撃て (渋谷全線座) 5点

第3週

  • 3月?     バニシングin 60' (新宿西口パレス) 3点
  • 3月?        タワーリング・インフェルノ (新宿西口パレス) 5点
  • 3月20日(土) 危険な曲がり角 (?) 2点

第4週

  • 3月27日(土) 恐竜100万年 (?) 3点

テレビ映画劇場などの説明と以前の鑑賞記録はこちら

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