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2009年1月31日 (土)

Harold Lloyd Master Comedian

昔は私の仮想上映館で毎年1月になるとニコニコ大会をやっていましたが、今や仮想上映館そのものが風前の灯となっています。ハロルド・ロイド特集をやったのが、もう3年前で、ロイドと結婚したミルドレッド・デイビスよりも、彼の長篇の大半で控え目な相手役を務めているジョビナ・ラルストンが新鮮な驚きでした。その特集についてはこちらでどうぞ

で、その時に買おうと思ったけれど、DVD7枚組ボックスセットがあれば十分だったので、わざわざ買う必要もないやと思った本 "Harold Lloyd Master Comedian" が絶版になっていたので、手頃な価格で販売されいた古本を紀伊国屋を通じて購入したのでした。筆者はJeffrey Vance とロイドの孫娘 Suzanne Lloyd。縦33センチの大型本で、写真満載なので、読み物というより写真集。主要作品を年代順に解説しています。アメリカン・フィルム・インスティテュートのセミナーでの対話も含まれています。

Lloyd2

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2009年1月30日 (金)

「不要本のリスト」のページを削除しました

私のウェブサイト「私の小さな文化村」に「不要本のリスト」というページをつくって、いらなくなった本などを無料で差し上げていたのですが、これ、やめました。もう一生楽しめる分だけの本があるので、これからはさほど買わないと思うのです。それで、たまった本を処分する必要がなくなりました。それから、私のウェブサイトやブログをもっとシンプルにしたいし。さらに、どうも最近メールのやり取りがスムーズにいかなくて困っています。私のメールが迷惑メールに分類されて、うまく届かないのかな?現在注文されている方は、住所を教えていただければ、いつでも発送します。ご連絡ください。マカロニウエスタンの本差し上げますって、少し前に書きましたが、どうも応募がないようです。応募がなければ、私がトップファイブを書いて、自分でもらっちゃうつもりです。

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2009年1月29日 (木)

1976年2月に見た映画(概観)

(?)としてある映画は、テレビで見たものですが、どの局で見たか記録してないのです。2月の終わりごろには、もう大学入学が決まっていたのか、けっこう見始めていますね。

第1週

  • 2月04日(水) 見知らぬ乗客 (?) 4点
  • 2月05日(木) 二重スパイ国際謀略作戦 (?) 4点
  • 2月06日(金) 勇者のみ (?) 3点
  • 2月08日(日) ポケット一杯の幸福 (?) 4点

第2週

  • 2月14日(土) 嘆きのテレーズ (?) 4点

第3週

  • 2月18日(水) レモンのゆううつ (?) 3点
  • 2月19日(木) 激闘 (?) 3点

第4週

  • 2月25日(水) あの手この手 (?) 3点
  • 2月26日(木) 砂のミラージュ (新宿ロマン) 3点
  • 2月26日(木) ガルシアの首 (新宿ロマン) 4点
  • 2月28日(土) 恐怖に襲われた街 (池袋文芸坐) 4点
  • 2月28日(土) フレンチコネクション (高田馬場パール座) 4点
  • 2月28日(土) フレンチコネクション2 (高田馬場パール座) 5点

テレビ映画劇場などの説明と以前の鑑賞記録はこちら

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2009年1月28日 (水)

1975年1月に見た映画(その4)

1月28日(水) 暗闇でドッキリ (?) 4点

どこのテレビ局で放映されたのかは記録していません。中学3年だった1971年7月にも見ていて、その時はとても面白かったのだけど、今回もそんなに点は悪くない。ジェリー・ルイス、ルイ・ド・フュネスとともに、ピーター・セラーズも中学生の私には面白かったけど、この浪人時代もまだ面白がっていたようです。でも、この頃から「ピンクパンサー2」や「ピンクパンサー3」が公開されるのだけど、まったく興味がわきませんでした。1963年の最初の「ピンクパンサー」では、セラーズ演じるクルーゾー警部はオールスターキャストの一人だったのですが、たぶんこの映画での迷演が評判を呼んで、彼を主役にした「暗闇でドッキリ」(1964、A Shot in the Dark)が作られたのでしょう。ビートルズがアメリカで爆発したこの1964年には、同じ英国製のピーターズも他に「博士の異常な愛情」と「マリアンの友人」に出ていて、爆発しているようです。プロデュース、監督、脚本はブレーク・エドワーズ、音楽ヘンリー・マンシーニ、撮影クリストファー・チャリス、共演エルケ・ゾマー、ジョージ・サンダーズ、ハーバート・ロム(おなじみの上司)。

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2009年1月23日 (金)

チョコレート魂でがんばれ!

ここ3年ほど、年に一枚地味なシングルを出していただけのあややですが、今度はにぎやかだ。送料を無料にするために、「大瀧詠一 Song Book 2」も注文したぞ。大瀧さんがプロデュースしていれば、もっとスッキリしていただろうなあと思いつつ。そういえば、今年は久々に山下達郎氏との新春放談を聴いたけど、なにもかにも相変わらずでした。

小堺さんの「ごきげんよう」の最後に流れる「ありがとう、ありがとう、ありがとうって何度くり返しても」って曲が耳に残ったので、調べてみたら、大光寺圭の「私の水平線」という曲でした。垢ぬけなさと愛想なさが妙な感じ

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2009年1月22日 (木)

バッド・ベティカー面白かったあ

あややの新作「想いあふれて」は、快適なポップアルバムです。ジャケットはフレンチっぽいけど、中味は一昔前のアメリカのおしゃれなサウンドって感じ。情感あふれたタイトル曲もいいけど、その次の「レスキュー!レスキュー!」というアップテンポナンバーの「OH!レスキューレスキュー」と歌う部分と最後の「オー、オー」が胸キュン。これらの曲を歌ったライブを早く見たい!

昨年11月にアメリカで出たバッド・ベティカーのボックスセットに収められた5作品面白かったあ。これらはすべて同じプロダクションで作られていているから、別のプロダクションで作られた「七人の無頼漢」は入ってなかったのだな。すべて主演はストイックな一匹狼ランドルフ・スコットで、野外撮影が多く、少人数の登場人物でドラマが展開する。主人公も悪党も人間味があって、主人公にも欠点がある一方、悪党も魅力的。ジェームズ・コバーンなどの背がスラッとして、無精ひげを生やして、だらしない格好をしている連中は、アメリカンニューシネマの登場人物のように現代的に見えます。不毛で殺風景な景色はマカロニウエスタンみたいだ。あまりドンパチはない。英語字幕を読むのが面倒なので、字幕なしに見たので、細かいところまではわからなかった。

ベティカーの西部劇リスト
ボックスセットの収録作品

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2009年1月18日 (日)

科学映画作家ジャン・パンルベ

クライテリオンの4月発売予定DVDには、大島渚の「愛のコリーダ」と「愛の亡霊」などとともに、ジャン・パンルベの3枚組が含まれています。ジャン・パンルベという名前が私の頭の中に刻み込まれているのは、30数年前にアンドレ・バザンの「映画とは何かII-映像言語の問題」に「ジャン・パンルヴェについて」というエッセイを読んだから。部屋の片隅に積んである段ボールの中からその本を取り出してみると、次のようなことが書いてありました。

まず、科学映画の逆説を提示しています。美学的な意図を持つことなく実用に徹すると、超自然的な美しさが生まれる、という逆説です。気管支検診でガンが発する不吉な反射光や、水中の極微動物が繰り広げる夢幻的なバレーは、光学上のトリックでは作り出せないし、天才的な振付師、錯乱した画家でも想像できない。「最高の美が、同時に自然とも偶然とも一致する」ということはカメラだけが見せてくれる。このことをシュールレアリストたちは予測していたが、オートマティズム(無意識による自動記述)という手法で映像を作ろうとしても、「どうしても遠くからしか近づくことができなかった。」

「ジャン・パルンヴェがフランス映画の中で特異な特権的地位を占めているのは、彼が、最も熟練した開頭手術は二つの交流不可能な絶対的公準を――すなわち、ひとりの人間を救うということと、ユビュおやじの脳髄摘出器を具体的な形で示すということとの二つの公準を――同時に実現することができるということを、十分に理解していたからである。」

もう少しわかりやすく書いてくれればいいのに。この文の中で、パルんべについてカッコ内で説明していることの方がわかりやすい。(1902~。フランスにおける最もすぐれた科学映画作家。微生物、極微動物の撮影にすぐれた成果をあげた。「蛸(たこ)」「みじんこ」「うに」「くらげ」などの一連の短篇映画は、美学的価値と教育的ないし科学的価値との両立に成功しているといわれる)

「「吸血蝙蝠」は、動物学上の記録であると同時に、ムルナウが「吸血鬼ノスフェラテュ」の中で描いた残忍な大神話学の完成であった。」

最後に、「淡水の殺人者たち」という、たぶん水中の生物たちが食い合う様子を描いた作品で、ジャズの音楽を使用したことが一般の観客が抗議したというエピソードを挙げています。なぜなら、「芸術と科学とについての世間に流布している観念に比べると、あまりにも人の顰蹙を買うような内容を含んでいる」からです。

これには原注があって、エドガール・モランも彼の著作「映画」の中で「淡水の殺人者たち」を取り上げていることを書いています。それによれば、コンゴ土人たちがふざけた調子で演奏したあと、幼虫たちがいけにえから切り落とした首を運ぶ場面で、コンゴ土人たちの首狩り祭の歌が使われているようです。

この原注の中で、バザンは、次のような洞察も行っています。観客が非難した理由はもう一つある。「ジャンルに応じて観客の好みに合わせた映画の作り方がなされてきた」からである。「フランスの平均的な観客にとっては、科学記録映画には、いわゆる「まじめな」音楽が必要なのである。」

このエッセイの初出は、エクラン・フランセ誌、1947年。

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2009年1月16日 (金)

1976年1月に見た映画(その3)

1月16日(金) ブルックリン横町 (東京12昼) 4点

エリア・カザンの長篇デビュー作(1945, "A Tree Grows in Brooklyn")。1900年ごろのブルックリンに住む貧しい一家の喜びや悲しみを描くドラマ。アル中の夫を演じたジェームズ・ダンがアカデミー助演男優賞を獲得。一家を支える母親はドロシー・マクガイア。ベギー・アン・ガーナーが子役特別賞を獲得。音楽アルフレッド・ニューマン、撮影レオン・シャムロイ。白黒。20世紀フォックス製作配給。

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2009年1月15日 (木)

Lady on a Train

風邪をひいているうえに、命の綱のインターネットを利用できなくて最悪の気分だった昨日、テレビシリーズの「原子力潜水艦シービュー号 Voyage to the Bottom of the Sea」の最初の白黒シーズンと、クライテリオン版のルノワールの「素晴らしき放浪者」とともに、ディアナ・ダービンの6作品入り "Deanna Durbin Sweetheart Pack" がファンタシウムから届きました。ファンタシウムには「オーケストラの少女 100 Men and a Girl」が入っていると書いてあったのですが、それは入っておらず、かわりに "Something in the Wind" という作品が入っていました。「オーケストラの少女」は見たことがあるし、善良すぎて好きじゃないので、ちょうど良かったです。でも、それ目当てに買う人がいるかもしれないので、ファンタシウムに訂正のメールを出しておきました。

で、お目当てはフィルムノワール・コメディの "Lady on a Train"。テンポが速くて面白かった。ディアナ・ダービンの演技がハツラツとしていて小気味良いです。ちょっと癖のあるダン・デュリエやラルフ・ベラミーの使い方も良かった。エドワード・エベレット・ホートンは相変わらずおバカさんだし、デビッド・ブルースが演じる二枚目だけどドジな推理作家も好感が持てました。"Film Noir: An Encyclopedic Reference to the American Style" の解説とあらすじはこちらで。

Dscn3350 (写真は、"The Universal Story" から)

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2009年1月14日 (水)

インターネットがなければ何もできないことを痛感した日

本日、インターネットにつながらなくなって、困ってしまいました。仕事を受け取ることも、送ることもできない。ADSLモデムの故障だと思って、予備に買っておいたモデムを押し入れから引っ張り出して、取り替えようとしたら、私が買っておいたのはルーターというものらしい。モデムとルーターの違いさえわからない。で、モデムならNTTで売っているかなと思って、近所にNTTの鉄塔があるのを知っていたから、9時頃そこに行ったら、そこにNTTはもうなくて、保険会社になっていました。で、10時半にヤマダ電機に行ってみたけど、モデムが見当たらず、店員に聞くのも億劫なので、何の収穫もなく帰ってきました。そういえば、これまでインターネットでばかり物を買っていたし、困ったことがあればインターネットで調べることで済ましていたからなあ。

午後になって、どうもモデムだけじゃなく電話もおかしいことに気づきました。もしかしたら回線がおかしいんじゃないかとNTTに電話したら、女の人が確かにおかしいですねえといって(向こうでチェックできるらしい)、修理の人を手配してくれました。1時間ぐらいたった3時に下請けの工事人らしいおじさんが一人やってきて、トラックのクレーンを操作し、20分ほど電柱の回線をつつきました。その結果、こうやって拙文をお届けすることができているわけです。無駄にモデムを買わなくて助かったけど、予備に買っておいたものが何の役にも立たなかったのがショック。

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2009年1月13日 (火)

フィルムノワール(153): ローラ殺人事件 (1944)

昨年500円で購入したDVD「ローラ殺人事件」を昨日見ました。

153. Laura (1944)

監督・プロデューサー: オットー・プレミンジャー
脚本: ベラ・キャスパリー Vera Caspary(原作)、ジェイ・ドラットラー Jay Dratler、サミュエル・ホフェンシュタイン Samuel Hoffenstein、ベティ・レインハート Betty Reinhardt
撮影: ジョセフ・ラシェル Joseph La Shelle
音楽: デビッド・ラスキン(作曲)、エミール・ニューマン(音楽監督)
出演: ジーン・ティアニー、ダナ・アンドリューズ、クリフトン・ウェブ、ビンセント・プライス、ジュディス・アンダーソン
20世紀フォックス製作配給、88分

[あらすじ]

キャリアウーマンのローラ・ハント(ジーン・ティアニー)の殺人事件を捜査している刑事マーク・マクファーソン(ダナ・アンドリューズ)は、彼女の指導者で著名なラジオパーソナリティであるウォルド・ライデッカー(クリフトン・ウェブ)に質問する。辛辣なライデッカーは、ローラを彼の最良の創造物としてだけでなく、彼の個人的な所有物としてみなしていた。彼は、痛烈なウィットによって、多くの求婚者を彼女から引き離した。唯一の例外がシェルビー・カーペンター(ビンセント・プライス)で、彼女が殺されたとき、二人は婚約していた。この婚約はライデッカーにとっても、シェルビーと関係を持っている年配の女性アン・トレッドウェル(ジュディス・アンダーソン)にとっても屈辱だった。マークは、事件を捜査しているうちに、彼自身ローラの魅力に取りつかれてしまう。証拠探しのためにローラのアパートに出向き、素晴らしいローラの肖像画を見ながら、うたた寝を始める。突然、ドアが開き、ローラが入ってくる。彼女は、シェルビーと結婚するかどうか決めるために田舎に行っていたと説明する。死体はモデルのダイアン・レッドファーンだとマークは電話で知らされる。容疑者は四人いる。嫉妬深いライデッカーかアン・トレッドウェルが、ローラと間違えてダイアンを殺したのかもしれない。ダイアンとの関係を断つためにダイアンをローラのアパートに呼んだことを認めたシェルビーかもしれない。ダイアンに嫉妬心を抱いたローラが殺したのかもしれない。マークは、ローラへの思いに抵抗しつつ、彼女が最も疑わしいと考える。しかし、マークは、ライデッカーがローラに贈った時計に凶器のピストルが隠されているのを発見し、ローラを一人残したまま、ライデッカーの逮捕に向かう。あらかじめ録音されたライデッカーのラジオ番組をローラが聴いていると、ライデッカーが彼女のアパートに忍び込んでくる。もし自分のものにできないなら、誰にもそうさせないと言いながら、ライデッカーは彼女を襲う。しかし、間一髪のところでマークが突入して、彼女を救う-自分自身のために。

[解説]

「ローラ殺人事件」は、みんなが巻き込まれる世界を仮定している。そこでは、全員が動機を持っているだけでなく、凶悪犯罪を犯すことができるように見える。この前提から考えると、ローラとマークがともに新しい人生を歩もうとする見かけ上のハッピーエンドは、不思議と陰鬱に思える。この映画を特徴づけているあいまいさは、マークとライデッカーの当惑させるふるまいによってさらに強調されている。両者は気質や性格が完全に異なっているが、どちらに対してもほとんど本性を示さない一人の女性に魅了される。マークは「ヒーロー」で、ライデッカーは「悪者」だが、両者とも同じ妄想によって突き動かされている。各々の心のなかに作り上げたローラという妄想によって。

音もなく動いて探りを入れるプレミンジャーのカメラは、ライデッカーとマークの妄想を完璧に視覚化している。カメラは、マークがローラのアパートを動き回り、クローゼットをじっと眺め、彼女の持ち物を調べ、手紙や日記をじっくり読む様子を追って、マークの飽くことを知らぬ好奇心の共犯者に観客を仕立てる。ダナ・アンドリューズは、繊細かつ強烈にマークを演じている。アンドリューズのより静かな演技は、ライデッカーを演じるクリフトン・ウェブの素晴らしく独特な演技によって影が薄くなっていることで、かえって、より注目に値する。取りつかれた目、引き締まっているが敏感な口、静かに何かをほのめかすような声を持つアンドリューズは、非常に印象的なスクリーンの存在物であり、多くの俳優が独白によって伝える以上のものを外観によって伝えている。実利的で、ロマンティクではない刑事マークは、恋をしたことがあるのかとライデッカーから尋ねられると、「一度、ワシントン・ハイツの人形がキツネの毛皮を私から手に入れたことがある」と答える。マークは、彼が死んだと信じている女性で、芸術作品に表現された夢となっている女性が、香水をつけた幽霊となっている場合にしか、恋することができない。

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2009年1月12日 (月)

ノーマン・マクラレン (2)

以下で言及している作品は YouTube で見ることができます。タイトルで検索してみてください。("La Poulette Grise" は見当たらなかった。)

今回は、"Cinema: A Critical Dictionary" という映画作家事典のノーマン・マクラレン Norman McLaren の項を訳してみます。筆者は、Jonathan Rosenbaum というアメリカ人で、フィルムコメントやサイトアンドサウンドといった雑誌の寄稿者で、バザンの「オーソン・ウェルズ」の英訳者です。最後に、この事典の編者リチャード・ラウド Richard Roud がコメントを加えています。

ノーマン・マクラレンは映画界でもっとも偉大なイタズラ書き作家であり、映画界におけるソール・スタインバーグ Saul Steinberg だ、と評して終わりにする傾向がある。即興が彼の作品の中心であり、ホークス、ウェルズ、ゴダール、リベット、アルトマンといった実写の劇映画作家の ジャズっぽい宙づり状態(jazzier suspensions)に通じる。しかし、コール、フィッシンガー、ライ(彼が認める大家たち)からブレア(Breer)、スミス(Smith)、ベルソン(Belson)に至るまでのソロのアニメーション作家から切り離して彼を考えることは、豊かで多様な伝統における相対的地位を十分に把握することなくマクラレンの作品を単独で経験する観客が陥りやすい近視眼的な見方でしかない。

しかし、マクラレンの作品の流れを誤解しないために、この近視眼的な見方を仕方なく採用するとしたら、"Begone Dull Care" (1949) を典型的なジャズ映画だとみなしたい。それは、最良のジャズが含まれているからではなく(オスカー・ピーターソンは目もくらむばかりのピアノ名人だが、ウォラー、テイタム、パウエル、トリスターノらの際立ったスタイルがない)、他のジャズ映画と違って、音楽に対してではなく、音楽とともに映画が作用しているからだ。音楽とともに作用するマクラレンの最良のアニメーション(キーキー音のバイオリンによる "Feddle De Dee" (1947)や ラビ・シャンカールの "A Chairy Tale" (1957))に象徴的なのは、メロディやリズムへの対応の仕方がコメントというよりデュエットに近いことであり、「ファンタジア」には完全に欠如している緊張を利用している。そこでは、けっして映像が音楽を説明する以上の機能を果たすことはない。同様に、ピーターソンがマクラレンを説明しているということもできる。とにかく、両者の関係は共生的である(注意しなければならないのは、もしピーターソンがより注目すべきピアニストなら、この「力のバランス」は致命的に変化するだろう)。

マクラレンは、控え目な道具と野心それに多様なテクニックという点で抜きん出たアマチュアである。彼の観客に愛されている特徴には次のものがある。シンコペーション(強弱のパターンが通常よりもずれること)をしっかりと把握していることと、タイトルやクレジットを自分のグラフィックデザインに統合していること(両方とも "Blinkity Blank" であきらか)。抽象に完全に屈服することなく抽象と戯れる想像力(ダンスのような Le Merle (1958) や「アニメーション化された絵画 animated painting」の "La Poulette Grise" (1947))。視覚パターンを本質的な要素に限定し(たとえば、"Synchromy" (1971) の細片、正方形、スプロケットの穴)、それらを最大限に利用する傾向。

[リチャード・ラウドのコメント]

マクラレンは、よくカナダ人だと間違われるが、スコットランドで生まれ、彼の初期映画はロンドンでグリアソンとイギリス郵政局のもとで作られた。のちに、渡米してNBCのために何本か映画を作った。カナダに定住したのは27歳の時で、それ以来カナダで働いている。ぜひ言及しておきたいのは "Pas de Deux" (1967) である。彼の最も美しい作品の一つで、ストロボ効果とストップ・モーションの技巧が使われている。

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2009年1月11日 (日)

ノーマン・マクラレン (1)

ノーマン・マクラレン Norman McLaren (1914-1987)

今回はキネ旬の「世界映画人名事典・監督(外国)編」(1975年12月21日増刊号)に書いてあることをまとめてみます(ノーマン・マクラレンについて書いたのは岡田英美子というアニメーション研究家)。たぶん訂正や追加が必要となると思うのですが、それは追々に。

スコットランドのスターリング生まれ。グラスゴーの美術学校でインテリア・デザインを学んでいたころ、オスカー・フィッシンガー、レン・ライ、エミール・コールといったアニメの先駆者たちの作品に触れ、強い印象を受ける。自ら作品を作ろうとしたが、カメラが入手できなかったので、映画会社から感光済みのくずフィルムをもらって、これに直接絵を描いた。1933年美術学校卒業、1937年、ジョン・グリアソンがいたイギリス郵政局(GPO)の映画部に参加し、ドキュメンタリーを作る。1939年にロンドン映画センターに移籍したのち、フリーとなる。同年、グリアソンがカナダの国立映画局の初代局長に就任し、マクラレンを動画部の責任者にする。1952年ごろから、アシスタントのイブリン・ランバート、グラント・ムンロー、音楽のモーリス・ブラックバーンといった不動のスタッフとともに、次々と傑作を輩出する。

マクラレンのアニメ技法

  • 脱色フィルムに直接彩色して色のパターンによるリズム感を作る。
  • フィルム一コマずつに直接絵を描く。
  • 鉛筆や針でサウンドトラックを加工して、人工音を作る。
  • チョークやパステルで絵を描くプロセスを微速度撮影で撮る。
  • 数百枚の原画をズームとオーバーラップでつなぎ、無限の空間を感じさせる画面を造る。
  • コマ落とし撮影によって人間の新しい動きを創造する。
  • 同じ動きのネガを何回もずらして焼きつけることによって、同一人物による追っかけ効果を出す。
  • 光学処理のみによってアニメをつくる。

「マクラレン作品は、常にわりやすく楽しい。ユーモラスであり、痛烈な風刺があり、しかも生命へのいつくしみとやさしさがあふれている。」

作品リスト

  • Seven till Five (1934、ドキュメンタリー)
  • Camera Makes Woopee (1935)
  • Colour Cocktail
  • Hell Unlimited (1936、ドキュメンタリー)
  • Book Bargain (1937、ドキュメンタリー)
  • News for the Navy (ドキュメンタリー)
  • Money a Pickle
  • Love on the Wing
  • The Obedient Flame (ドキュメンタリー)(以上、イギリスでの作品)
  • Allegro, Dots, Loops, Stars and Stripes, Rumba, Boogie Doodle, Spook Sport
    この8本はアメリカで作った二分物アニメ
  • Mail Early for the Christmas (1941、以下カナダ)
  • V for Victory
  • Five for Four (1942)
  • ヘン・ホップ
  • Dollar Dance (1943)
  • Alouette (1944)
  • これが櫂だ (1945)
  • Keep Your Mouth Shut
  • La-Haut sur ces Montagnes (1946)
  • A Little Fantasy on a 19th Century Painting
  • Hoppity Pop
  • フィドル・デ・デイー (1947)
  • 灰色のめんどり
  • 過去のつまらぬ気がかり (1949)
  • Workshop Experiment in Animated Sound
  • Pen Point Percussion (1950、人工音製作のドキュメント)
  • Chalk River Ballet
  • Around Is Around (1951、3D立体音響)
  • Now Is the Time (3D)
  • Twirligig (1952)
  • 幻想
  • 隣人
  • Two Bagatelles
  • 線と色の即興詩 (1954)
  • Night Encounter
  • 算数あそび (1956)
  • いたずら椅子 (1957)
  • 小鳥のファンタジー (1958)
  • 個と連続 (1959)
  • Serenal
  • The Wonderful World of Jack Paar (テレビ番組オープニング・タイトル、これのみ米)
  • 線(1960, 垂直線、水平線の二部作)
  • New York Light Board (1961)
  • New York Light Record
  • Opening Speech (1962)
  • Dance Squared (1963)
  • クリスマス・クラッカー (1964)
  • キャノン(追復曲)
  • モザイク (1965)
  • パ・ド・ドゥ (1968)
  • Spheres (1969)
  • Striations (1970)
  • Synchromy (1971)
  • バレエ (1974)

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2009年1月10日 (土)

ムルナウのDVDセット

あややが自宅で左足の薬指を骨折したとか。何かやけを起こしてタンスでも蹴ったのだろうか?チョコレート魂でガンバレ!

傑作ばかりかと思っていたムルナウにも、よく知られていない作品があるのですね(私だけが知らない?)。「吸血鬼ノスフェラトゥ」「ファウスト」「最後の人」「タルテュッフ」「フォーゲルエート城」「The Finances Of The Grand Duke」の6作品が収められたセットが3月に Kino から発売されます。最後の2作品を初めて知りました。バラでも購入できます。「ノスフェラトゥ」と「ファウスト」はすでに持っているけど、この際、まとめて買っちゃえ!「ノスフェラトゥ」はドイツホラーのDVDセットの1枚として購入しているはずなので、あげることはできないけれど、傑作「ファウスト」は差し上げることができます。3月になったら、もらってくれる人募集します。

その前、2月に、同じく Kino から出ているドイツ時代のフリッツ・ラングのDVDセットを購入するつもり。「メトロポリス」「ジークフリート」「クリームヒルドの復讐」「スピオーネ」「月世界の女」が収められています。

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1976年1月に見た映画(その2)

1月10日(土) コント55号・世紀の大弱点 (フジ) 2点

コント55号の映画って何本あるのだろう?

東宝

  • コント55号・世紀の大弱点
    1968、監督和田嘉訓、共演真理アンヌ、内田裕也、森光子
  • コント55号・人類の大弱点
    1969、福田純、岡田可愛、宮地晴子
  • コント55号・俺は忍者の孫の孫
    1969、福田純、柏木由紀子、高橋紀子、伴淳三郎、由利徹、柳家金語楼
  • コント55号・宇宙大冒険
    1969、福田純、高橋紀子、カルセール麻紀、杉本エマ、應蘭芳

松竹

  • コント55号と水前寺清子の神様の恋人
    1968、野村芳太郎、悠木千帆、藤岡弘、野末陳平、生田悦子、ナンセンストリオ
  • コント55号と水前寺清子のワン・ツー・パンチ 三百六十五歩のマーチ
    1969、野村芳太郎、西村晃、藤岡弘、谷幹一、宮地晴子、財津一郎
  • チンチン55号ぶっ飛ばせ!出発進行
    1969、野村芳太郎、今陽子、奈美悦子、尾崎奈々、小川ローザ、皆川おさむ
  • こちら55号応答せよ!危機百発
    1970、野村芳太郎、倍賞美津子、石立鉄男、皆川おさむ、ピーター、加藤剛
  • コント55号と水前寺清子の大勝負
    1970、野村芳太郎、長山藍子、有島一郎、ケーシー高峰、左卜全、アントニオ猪木
  • コント55号とミーコの絶体絶命
    1971、野村芳太郎、由美かおる、大地喜和子、小松政夫、なかにし礼、倍賞美津子、三原葉子、和田アキ子

チャップリンを尊敬する欽ちゃんは、中篇「手」(1969)と長篇「俺は眠たかった!!」(1970)を自作自演しています。

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2009年1月 9日 (金)

マカロニウエスタンの本差し上げます

中学と高校時代にテレビで見た映画を振り返っていたときによく利用した本、"Spaghetti Westerns: the Good, the Bad And the Violent" を1名様に差し上げます。(本については、米アマゾンのページを参照してください。

自分の好きなマカロニウエスタン5本を挙げて、それぞれにコメントを書いてください。私の独断と偏見で一番気に入ったものを書いた方に本を差し上げます。その際、このブログに、その5本とコメントを掲載します。本が当たらなかった方でも面白いものがあったら、ここに掲載するつもりです。ハンドル名と、掲載してよいかどうかをお書きください。(住所は、当選された方にのちほどお聞きします。)

締切は今月いっぱいです。まったく応募がなければ、「不要本リスト」に追加しますので、早い者勝ちとなります。

コメントとして送られてもけっこうですし、右のプロフィールをクリックして、メール送信してもかまいません。コメントとして送信された場合でも、コメントとしては公開せずに、本文中に掲載します。

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2009年1月 8日 (木)

First R&R(22曲目): Hot Rod Race (その6)

サンペドロは海軍の町なので、歌手のミック・ウッドワード Mick Woodward は舞台を海に移して、「ホットロッドレース-海軍スタイル」という曲を作った。ミックワードにならって、ボー・トロイと彼のホイールズ Bo Troy and His Wheels も海を舞台にした "Haulin' Henry" を発売した。

最も永続したアンサーレコードは、チャーリー・ライアンとティンバーライン・ライダーズ Charlie Ryan and the Timberline Riders の「ホット・ロッド・リンカーン Hot Rod Lincoln」だった。ライアンによれば、彼とシブリーが同じ地域でツアーを行っていた1950年の同時期に、各々の曲を作ったそうだ。実際にホットロッドのリンカーンを持っていたライアンは、アイダホ州のルイストンでロードレースを始め、丘の頂上まで突っ走る(そこでは、のちにチャック・ベリーがクーペ・デ・ヴィルに乗ったメイベリーンを目撃する)(訳注:ルイストンの丘というのが有名らしい)。ライアンの出発点はシブリーのレコードである。「あの運命の日のホットロッドレースの物語を聞いただろ。フォードとマーキュリーの。これはそのときの内輪話だ。俺はモデルAに乗っていたガキだ。ある夜遅くサンペドロを出発した。月と星が明るく輝き、グレープバイン丘の上はすべてが素晴らしかった。車を次々と追い抜いたが、それらは止まっているように見えた。」ライアンがホードとマーキュリーを道路の外に吹き飛ばした後しばらくして、新しいホットロッドのリンカーンに乗り換えた。道路でキャデラック・セダンに出会い、二台は競争するが、ライアンはエンジン・トラブルを起こし、車を片側に寄せろと警官に命令される。彼のグループ、ティンバーライン・ライダーズは、巧みにギターとフィドルを使って、エンジンのノック音、警笛、フェンダーがガードポストにぶつかる音、警察のサイレンをうまく表現している。

「ホット・ロッド・リンカーン」は1960年まで注目を浴びなかった。その年、ベテランのカントリー・ミージシャンであるジョニー・ボンド Johnny Bond が、ジーン・オートリーのリパブリック・レーベルのために新たなバージョンを録音した。西海岸のラジオで放送され、カントリーチャートとポップチャートの両方に入った。ギルトエッジの親会社フォー・スター・レコードがライアンと彼のバンドに「ホット・ロッド・リンカーン」を再録音させ、ジョニー・ボンドと競わせた。二つのリンカーンは競い合って、ビルボードのホット100を駆け上がった。東部の州を巡業していたライアンは東海岸で好成績をあげ、西海岸ではボンドが優勢だった。後年、コマンダー・コディ Commander Cody (ポップチャート9位、1972)やアスリープ・アット・ザ・ホイール Asleep at the Wheel といったネオロカビリーバンドが、この曲をリバイバルさせた。

ライアンは、リンカーン物語をシリーズ化し続けた。"Side Car Cycle" は路上のロマンスを詳述している(これもジョニー・ボンドがカバー)。"Hot Rod Hades"、"I Married the Gal in the Side Car Cycle"、"Hot Rod Guitar" と続き、"Burlington Chase" では列車と競争した。

もちろん1960年代はカーソングの時代だった。"Shut Down"、"409"、"Little GTO"、"Dead Man's Curve"、"The Little Old Lady from Pasadena"、"Mustang Sally" など。1976年にも、ウィングチックス Wingtips というグループが "The California Kid" という曲によってサンペドロでレースを始めた。

しかし、自動車ソングを加熱させるきっかけを作った曲は、アーキー・シブリーの「ホットロッドレース」だった。

我々(この本の著者である Jim Dawson と Steve Propes)はシブリーを探しているところである。彼の本名はジョージ・ウィルソン George Wilson らしい。亡くなったビル・マッコール Bill McCall からシブリーの曲を購入した音楽出版社は、サンディエゴ近くの住所を知っていたが、その住所にはもういない。

(この曲の解説全体を読みたい方、過去の曲の解説を読みたい方は、右の「関連サイト」の「最初のロックンロール」をクリックしてください。)

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2009年1月 7日 (水)

First R&R(22曲目): Hot Rod Race (その5)

シブリーの「ホットロッドレース」のヒットに伸びがなかった理由の一つは、「白人の連中のように突っ走る」ことについての自慢である。白人のように生きることに関する自己満足的な言及は、1951年の南カリフォルニアにおいては好意的に受け入れられたかもしれないが、東部の人々にとっては、そのような人種差別的ほのめかしをラジオで流すことは急進的すぎると考えていた。たぶんそのために、他のミュージシャンは、不快感を与える歌詞を変えた。ジミー・ドーランは「平凡な連中」に、レッド・フォリーは、「貧しい連中」に、タイニー・ヒルは「金持ちの連中」に、チャーリー・ライアンは「素敵な連中」に変えた。

フィドルと卓越したスティールギターを中心に据えたバンドを持つジミー・ドーランは、曲のテンポをかなり早め、トーキングブルーズの要素をなくし、カントリーブギの要素を強めた。レッド・フォリーは最も洗練された演奏を行っている。シブリーの奇妙なテンポとぎこちない歌詞をなめらかにし、ギタリストはニューヨークのタクシーよりも警笛音をガンガン鳴らしている。

奇妙なことに、この曲をポップチャートにまで進出させたのは、350ポンドのバンドリーダー、タイニー・ヒルで、"Doodle Doo Doo" などの感傷的で古臭い曲で知られていた1940年代以降ヒット曲がなかった。彼は、物語の場所をサンペドロからココモ(たぶんインディアナの)に移し、不快感を与えそうな "twin pipes and a Columbia butt" という表現を "twin pipoes in that blunderbuss" に変えた。(同様に、ドーランも "that Columbia bus" に変えた。)

大ヒットになるのを阻まれたアーキー・シブリーは、続編 "Arkie Meets the Judge (Hot Rod Race #3)" を発売した。彼はサンペドロの自宅から連行され、裁判所で、この不法な行為における彼の役割を説明させられる。このレコードは「ホットロッドレース」よりもはるかに売れなかったが、いわゆる「アンサーレコード」が流行するきっかけを作った。カントリーとR&Bの両方の分野で人気となったアンサーレコードは、大衆の想像力をかきたてる生き生きとした人物や出来事についてのヒットに対する返答だった。(最初のR&R37曲目 "Work with Me, Annie" 参照。)

あっという間にカントリーの大スターになったファロン・ヤング Faron Young は、「ホットロッドレース」とテネシー・アーニー・フォードの1948年の大ヒット "Shot Gun Boogie" を組み合わせて "Hot Rod Shotgun Boogie" を作り、Tillman Franks and His Rainbow Boys という名義でレコードを発売した。この短い歌の中で、ヤングは、Hadacolをタンクに注ぎ込むことで車の馬力を上げた。「丘を駆け上がっても、哀れっぽい鼻声さえ出さない。」ヤングは、この二つの曲を利用しただけでなく、当時人気だった Hadacol ソングも利用した。ハダコールは人気のあった一般市販薬で、ビタミン不足といった病気に効いた。ダドリー・J・ルブランが発明したこの万能薬の主成分は12パーセントのアルコールだった。ファロン・ヤングは、ビル・ネトルズ Bill Nettles が1949年にヒットさせたカントリー "Hadacol Boogie" をコピーしたのだが、プロフェサー・ロングヘアの "Hadacol Bounce" やリトル・ウィリー・リトルフィールドの "Drinkin' Hadacol" なども念頭にあったのかもしれない。

(たぶん、あと一回で終わると思います。)

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2009年1月 6日 (火)

First R&R(22曲目): Hot Rod Race (その4)

自動車のバラッドというのは1950年には珍しくなかった。初期の歌は、賞賛の対象がバギー(一頭立て軽装馬車)("The Surrey with the Fringe on Top")から馬のない乗り物(自動車のこと)("In My Merry Oldsmobile" "Let's Make Love in My Rumbleseat")に移行した。1930年代のブルーズマン、ロバート・ジョンソンは、エロチックな自動車のイメージを通して、女性との性的関係を表現した("Terraplane Blues")。そして、ジミー・リギンズの "Cadillac Boogie" (1947) のような歌は、ふさわしい車を持つことの優雅さを表現した。しかし、「ホットロッドレース」は、アクセルをぐっと踏み込んだ(put the foot on the pedal)最初の歌だった。

"Cadillac Boogie" やジャッキー・ブレンストンの "Rocket 88" といったR&Bナンバーでは、自動車はステータスシンボルだった。黒人が品よく快適に車を乗り回し、隣人たちを印象づけ、きれいな女性をナンパする。(あるいは、ペパーミント・ハリスの "Cadillac Funeral" のように、威厳をもって最後の安息の地に向かう。)ドラッグレース(ホットロッド(高速改造車)によるスピードレース)って何なんだろう?消耗と特殊な整備には金がかかるし、白人警官は、警告や反則キップによって、彼らをほっておかないだろう。あきらかに、白人の若者と黒人の両方が車の背後にある自由とセックスを表現しているが、1時間100マイルという速度でそれを表現できるのは白人の特権だった。

初期のドラッグレーサーの一人、カスタムカーの王様ジョージ・バリスは次のように言う。「街中でレースを行った。自らの命を失うかもしれないという猪突猛進の冒険を行った。40年代と50年代初期には、ホットロッダーは闘士とみなされていた。自らを車で表現していたからだ。もちろん、警察は、我々を追跡するだけでなく、ピストルを撃ってきた。殺されたものもいる。」1955年の映画「理由なき反抗」のチキンレースは、パシフィック・パリセーズで実際に起きた事件がきっかけだ。バリスはスーパーバイザーとして呼ばれ、ジェームズ・ディーンと一緒に仕事をした。チキンレースのシーンは、50年代のドラッグレースのイメージを最も長期間にわたって提供してくれるだろう。

シブリーの「ホットロッドレース」は1951年の初めにカントリーチャートを急上昇したが、メジャーのレコード会社から出た三つのカバーバージョンが追い越して、モデルAのガキのように、最終的にシブリーをチャートから吹き飛ばしてしまった。ランブリン・ジミー・ドーランとティニー・ヒルのバージョンは2月上旬にカントリーチャートでヒットし、ヒルのはポップチャートでも上昇した。二週間後には、デッカの何でも屋でカバー専門のヒルビリー歌手、レッド・フォーリーのバージョンもカントリーチャートを上昇した。

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2009年1月 5日 (月)

1976年1月に見た映画(その1)

1月5日(月) 冒険者たち (月曜ロードショー) 5点

私が映画に夢中になったのは中学2年の終わりごろ、1971年2月にドロン主演の「生きる歓び」を見てからで、それ以来ドロンの映画に夢中になったし、その頃ドロンが大人気だったから、1年間のうちに彼の旧作をテレビでほとんど見ることができました。その中でも、中学3年だった1971年10月にフジテレビ系のゴールデン洋画劇場で見た「冒険者たち」はピカイチでした。その後、高校2年だった1974年1月にもゴールデン洋画劇場で再放送され、そのときはオープンリールのテープに全部録音しました(家庭用ビデオなんて想像だにできなかった時代です)。フランソワ・ド・ルーベの音楽が本当に素晴らしかった。ドロンの声優は野沢那智でも堀勝之祐でもなく坂口芳貞でした。リノ・バンチュラは加藤武だったのか。ここのブログが詳しいです。このTBSで放映されたときは、小さいポータブルの白黒テレビで見たためか、あまり記憶にないです。そのブログによれば、声優が野沢那智(野沢直子の叔父さん)で、リノ・バンチュラは森山周一郎に変わったようです。私は、やっぱり、最初に見たときの声優の方がよく憶えている。この頃、「ぴあ」でリバイバル上映してほしい映画という年間投票があって、「冒険者たち」が1位でした。で、1977年にリバイバル上映され、映画館でも見ることができました。最初にテレビで見た時は、ラストが沈んだピアノの音楽だったのですが、リバイバル上映された版は最後がドロンの「愛しのレティシア」という歌でガッカリでした。その後、1990年代にNHK教育で放映されたのは沈んだピアノの音楽だったので、うれしかった。このときVHSに録画したのは、DVD-Rに焼いて、持っています。VHS、レーザーディスク、DVDとメディアが変わっても、常に発売され続けています。同じくフランソワ・ド・ルーベ音楽の「サムライ」と一緒に収録された仏盤サントラCDがあります。

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First R&R(22曲目): Hot Rod Race (その3)

車についてよく知らないし、日常会話で使う俗語などもよくわからないので、歌詞に誤訳が多いかもしれませんが、だいたいこんなもんだろうなという程度に理解していただきたい。

アーキー・シブリーが最初に録音した「ホットロッドレース」は、アコースティックギターが中心で、マイクを付けていないバンジョーがバックを務め、いくつかの節の最後にホーンのようなコードを鳴らすためだけにスティールギターが使われている。シブリーは、リラックスしたギターブギのリフに続いて、ウディ・ガスリー風に語り口調で歌い始める。このトーキングブルーズという歌い方は、1947年にテックス・ウィリアムズの"Smoke! Smoke! Smoke!" というカントリーソングがポップチャートの1位になってから流行していた。アーカンサスからカリフォルニアへの移住者は普通「アーキー」というニックネームだったので、シブリーは、テックスの追い風に乗ろうと、同じように素朴なニックネームを名前にした。

「俺と妻と弟のジョーはフォードに乗ってサンペドロを出発した。ガソリンはありまないし、タイヤの空気もなかったが、いまいましいフォードはなんとか動いた。真夜中に突っ走っていたら、うしろのマーキュリーがライトを点滅させて、ホーンを鳴らし、追い抜いていった。」挑戦を受けて立った彼らは、何マイルもマーキュリーと競争した。二台の車は「互角に戦って」「約40フィートの幅の痕跡を数々の町に」残す。当然、彼の「美しい花嫁」と弟ジョーは死にかかるほどおびえている。彼は、「多くの素敵な町の郊外に油のしみ」を作り、「警官の頭がぐるぐる回り」続けた。

レースが砂漠まで続くと、二台の車は「低く広範囲に疾走する a-flyin' low and a-flyin' wide!」(「ホットロッドレース」のいくつかのカバーバージョンはかなり歌詞を変えているが、この部分だけは残しているし、ビル・ヘイリーの "Rock the Joint"(最初のR&R28曲目)でも、ダンスフロアでロッキング・アンド・ローリングするのを表す用語として使われている)。勝負の決着はつかず、突然「バックミラーをのぞくと、何かがやってくるのが見えた。炎だと思った。」エンジンの出力を上げたモデルAフォードに乗ったガキがヒューッと走り抜け、ほこりと排気ガスで彼らを窒息させた。彼らは恥ずかくなった。「あの車が通り過ぎると、私は振り返った。マーキュリーの男は何も言うべきことがなかった。」

曲のなかにタイトルの「ホットロッドレース」という言葉は出てこない。この手落ちも作品の一部となり、ジーン・ビンセントの "Race with the Devil" (1956) にもボックスポッパーズ Voxpoppers の "The Last Drag" (1958) も同様にタイトルが歌詞の中に現れない。「ホットロッド」でさえ歌詞に出てこないが、彼のフォードが改造されて「一対のパイプと Columbia butt" が付いていると述べている。「隠語が理解できないみんなのために言うと、キャブレターが二つとオーバードライブ装置が一つ付いているということだ。」

「ホットロッドレース」を発売したレコード会社には奇妙な歴史がある。ギルトエッジは、1944年に、クリフ・マクドナルドというロサンジェルス住民のガレージで始まった。彼は、レコードプレス機を持っていた。同年、彼は、セシル・グラントという名前の黒人兵士が歌うバラード "I Wonder" を録音した。グラントは米軍慰問協会主催のUSOショーで歌っていたので、質の悪いセラックに録音されたレコードはかなり売れた。黒人アーティストが独立系レーベルから出したレコードとして最初の大ヒットとなった。グラントが録音したレコードの直販店として数年間活動したのち、ギルトエッジは、パサディナ郊外でフォースターレコードを経営していたビル・マッコールの手に渡った。マッコールは、自らのレーベルからヒルビリーとブルーズのレコードを出しており、配給網を拡大しようと1950年にギルトエッジを復活させたときも、それを続けた。たとえば、シェブリーのレコードの次にはボブ・ゲディンズ・トリオ Bob Geddins Trio のブルースレコードを発売した。

(続く)

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2009年1月 4日 (日)

First R&R(22曲目): Hot Rod Race (その2)

19世紀後期に自動車が発明されて以来、自動車レースは盛んだったが、少壮のレースドライバーが、文明から離れた西部の干上がった湖を捨てて、都会の街路、人けのない川床、滑走路、ハイウェイを不法に暴走し始めるのは、戦争が終わった直後の1940年代後期だった。彼らは、旧式のおんぼろ車ではなく、裏庭で改造し、装備を最低限に減らし、出力を強化した、ホットロッドと呼ばれる車を運転した。

ホットロッドレースの中心は、車文化の発祥地、カリフォルニアだった。より詳細に述べると、ロサンジェルス南部、サンペドロとウィルミントンの孤立した港町で、大人のホットロッダーや何人かの10代の若者が、太平洋沿岸の101号線や、ロサンジェルスから90マイル離れたサンホアンキン渓谷につながる99号線の「グレープバイン」で、クロスカントリー・レースを始めた。

ホットロッドの最初のレコードは、Connie Jordan and the Jordanaires の1947年の "Hot Rod Boogie" らしいが、これはインストナンバーだった。「ホットロッドレース」の起源は、女性を追い回すメキシコ系米国人が女性を口説くためにカリフォルニア南部を行った来たりすることを歌った、よく知られていない歌だという説の方が有力である。「サンペドロからフレスドまで、拒絶する女はいない」というような歌を、当時の映画の中でけっこう純潔な若い女優が非常に無邪気に歌っているらしい(筆者がこれを書いている時点で、映画も曲も女優も特定できなかった)。この曲が「ホットロッドレース」にインスピレーションを与えたにせよ、そうでないにせよ、サンペドロがホットロッド天国の中心地となるきっかけを与えている。

(筆者がこの本を書いた時代にインターネットが発達していなかったのが残念。その純潔な若い女性はディアナ・ダービン(なるほど純潔だ)、映画は「Can't Help Singing」、曲名は "Californ-i-ay"。なんと、偶然にも、私はこの映画が入った「ディアナ・ダービン・スイートハート・パック」という6作品入り米盤2枚組DVDを注文して、現在うちに届けられている途中。"Lady On A Train" というフィルムノワール風コメディが見たかったから購入したのです。YouTube でこの曲が歌われているシーンを見ると、たしかに男性が "From San Pedro to Fresco, No Maiden There Says No" と歌っているのだけど、これが直接「ホットロッドレース」に結びつくとは思えない。)

(続く)

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2009年1月 3日 (土)

First R&R(22曲目): Hot Rod Race (その1)

22. Hot Rod Race by Arkie Shibley and His Mountain Dew Boys

  • カントリーチャート5位
  • カテゴリー:カントリー・ブギ
  • 作者:ジョージ・ウィルソン George Wilson
  • レベールと番号:Gilt Edge 5021、ロサンゼルス
  • B面: "I'm Living Alone with an Old Love"
  • 録音日・場所:1950年後期、ロサンジェルス
  • 発売日:1950年12月
  • なぜ重要か:ポピュラー音楽に自動車レースを持ち込み、アメリカの文化、特に若者の文化に対して車が持つ重要性を明確に示した。
  • 影響を受けたのは:"From San Pedro to Fresno" (1946?)
  • 影響を与えたのは:
    "Maybellene" by Chuck Berry(ポップチャート5位、1955)
    "Hot Rod Lincoln" by Charlie Ryan and the Livingston Brothers (1955)
    "Race with the Devil" by Gene Vincent and the Blue Caps (1956)
    "Chicken" by the Cheers (1956)
    "Beep Beep" by the Playmates (ポップチャート4位、1958)
    "Hot Rod Lincoln" by Charlie Ryan the Timberline Riders (ポップチャート33位、1960)
    "Hot Rod Lincoln" by Johnny Bond (ポップチャート26位、1960)
    "Shut Down" by the Beach Boys (ポップチャート23位、1963)
    のちに作られた自動車レースの歌ほぼすべて
  • 重要なカバー:
    Ramblin' Jimmy Dolan (カントリーチャート7位)
    Red Foley (カントリーチャート7位)
    Tiny Hill and His Orchestra (ポップチャート29位、カントリーチャート7位)
    Arthur Smith
  • 重要なリメイク:
    Charlie Ryan and the Timberine Riders (1964)

(続く)

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2009年1月 2日 (金)

1976年1月に見た映画(概観)

さすがに浪人生の私としては受験に精を出さなくてはならなかったらしく、ほとんど映画を見ていません。劇場に足を運んだのは元旦だけだったようです。

1月05日(月) 冒険者たち (月曜ロードショー) 5点
1月10日(土) コント55号・世紀の大弱点 (フジ) 2点
1月16日(金) ブルックリン横丁 (東京12昼) 4点
1月28日(水) 暗闇でドッキリ (?) 4点

テレビ映画劇場などの説明と以前の鑑賞記録はこちら

またまた、あややについて。私は2001年5月に出た2枚目「トロピカール恋してーる」をラジオで耳にして、「いいポップスナンバーなだあ」とか「歌がうまいなあ」とか思って誰が歌っているのか探していたのですが、1週間ぐらいして、めざましテレビで新曲をファンの前で披露するイベントが紹介されたり、ミュージックステーションに出演したりして、「へえー、こんなに若くて可愛い子が歌ってたのか」とビックリ。それ以降、三人祭り、「LOVE涙色」「桃色片想い」などで、あれよあれよという間にトップアイドルになってしまいました。その頃はあややのファンですと公言するのは恥ずかしかったし(そもそも公言する場がなかった)、バラカンさんの番組のハードリスナーだったしで(リチャード・トンプソンやサンディ・デニーの大ファンと認識されていた)、テレビで録画して楽しむだけの隠れファンでした。その後、人気が落ちるに比例して、さらに歌がうまくなり、切なさも増してきて、今なら堂々とあややファンですと言ってもいいんじゃないかと思うのです(実生活で宣言するのはやっぱり恥ずかしいし、そんなことを話せる人は誰もいない)。昨年の夏にファンイベントが行われて、ファン限定にDVDが配布されたらしく、その映像がYouTubeに流れています。お気に入りは、「ダブルレインボー」に収められていた、さわやかな「風に任せて」と、以前にも絶品の歌唱があった「ハピネス」。YouTubeから削除されないことを祈る。(しっとりと歌うあややだけじゃなくて、こういうあややがいるのもすごい。)

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2009年1月 1日 (木)

1975年1月第5週に見た映画(その2)

1月1日(木) 明日に向かって撃て (渋谷文化) 5点
1月1日(木) スティング 5点

1月?日(?) 脱走大作戦 (?) 4点

どれもすでに見た映画ばかりです。昨年亡くなったポール・ニューマンの作品が三本並びました。この頃はニューマンも50ぐらいで、ひえー、「スティング」は今の私よりも若かったんだ。もうすぐ私は52歳になるのだけど、トリュフォーはこんなに若くして亡くなったのか。渋谷文化は道玄坂にありました(今でもあるの?)。受験を控えた浪人生だったので、田舎に帰らずに東京にいて、元日ぐらいはと、必ず楽しめる映画を見に行ったのでした。両方ともすでに何度か見ているので、今回はパス。「脱走大作戦」はテレビで放映されたのを見たはずで(劇場で見たことがないから)、1973年7月にもTBSの月曜ロードショーで見ています。その時のことは次のように書いています。「この頃、ポール・ニューマンが好きだったので、わりと高得点あげてますが、コメディはあまり似合わないな。いや、「明日に向かって撃て」や「スティング」のおとぼけ演技は良かった。1968年の「脱走大作戦」の原題は "The Secret War of Harry Frigg" で、監督は「動く標的」のジャック・スマイト、脚本は「シャレード」のピーター・ストーン。」

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あけましておめでとうございます

今年もよろしくお願いします。昨年は初日の出をビデオで撮影して、ほとんど誰も見ない「私のYouTube」の中では、わりと見てくれた人がいたようです。今年も同じ場所に出向いて撮影したかったのだけど、寒い場所に長時間いると血圧に悪そうなので、断念しました。「私のYouTube」は半年お休みしていますが、行動範囲が狭いので目新しいものを撮れないし、私の趣味の中では下位に位置するので、気が向いたら新作を発表するという程度にしておきます。使い古しで申し訳ないですが、昨年の初日の出をもう一度拝んでください。

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