クライテリオンの4月発売予定DVDには、大島渚の「愛のコリーダ」と「愛の亡霊」などとともに、ジャン・パンルベの3枚組が含まれています。ジャン・パンルベという名前が私の頭の中に刻み込まれているのは、30数年前にアンドレ・バザンの「映画とは何かII-映像言語の問題」に「ジャン・パンルヴェについて」というエッセイを読んだから。部屋の片隅に積んである段ボールの中からその本を取り出してみると、次のようなことが書いてありました。
まず、科学映画の逆説を提示しています。美学的な意図を持つことなく実用に徹すると、超自然的な美しさが生まれる、という逆説です。気管支検診でガンが発する不吉な反射光や、水中の極微動物が繰り広げる夢幻的なバレーは、光学上のトリックでは作り出せないし、天才的な振付師、錯乱した画家でも想像できない。「最高の美が、同時に自然とも偶然とも一致する」ということはカメラだけが見せてくれる。このことをシュールレアリストたちは予測していたが、オートマティズム(無意識による自動記述)という手法で映像を作ろうとしても、「どうしても遠くからしか近づくことができなかった。」
「ジャン・パルンヴェがフランス映画の中で特異な特権的地位を占めているのは、彼が、最も熟練した開頭手術は二つの交流不可能な絶対的公準を――すなわち、ひとりの人間を救うということと、ユビュおやじの脳髄摘出器を具体的な形で示すということとの二つの公準を――同時に実現することができるということを、十分に理解していたからである。」
もう少しわかりやすく書いてくれればいいのに。この文の中で、パルんべについてカッコ内で説明していることの方がわかりやすい。(1902~。フランスにおける最もすぐれた科学映画作家。微生物、極微動物の撮影にすぐれた成果をあげた。「蛸(たこ)」「みじんこ」「うに」「くらげ」などの一連の短篇映画は、美学的価値と教育的ないし科学的価値との両立に成功しているといわれる)
「「吸血蝙蝠」は、動物学上の記録であると同時に、ムルナウが「吸血鬼ノスフェラテュ」の中で描いた残忍な大神話学の完成であった。」
最後に、「淡水の殺人者たち」という、たぶん水中の生物たちが食い合う様子を描いた作品で、ジャズの音楽を使用したことが一般の観客が抗議したというエピソードを挙げています。なぜなら、「芸術と科学とについての世間に流布している観念に比べると、あまりにも人の顰蹙を買うような内容を含んでいる」からです。
これには原注があって、エドガール・モランも彼の著作「映画」の中で「淡水の殺人者たち」を取り上げていることを書いています。それによれば、コンゴ土人たちがふざけた調子で演奏したあと、幼虫たちがいけにえから切り落とした首を運ぶ場面で、コンゴ土人たちの首狩り祭の歌が使われているようです。
この原注の中で、バザンは、次のような洞察も行っています。観客が非難した理由はもう一つある。「ジャンルに応じて観客の好みに合わせた映画の作り方がなされてきた」からである。「フランスの平均的な観客にとっては、科学記録映画には、いわゆる「まじめな」音楽が必要なのである。」
このエッセイの初出は、エクラン・フランセ誌、1947年。
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