初出は「映画芸術」1948年11月号。「シネマディクトJJ」は植草甚一さん自身のこと。このエッセイの中では「シネマディクトJ・J」と表記されていますが、このブログの「映画だけしか頭になかった」シリーズでの整合性を保つために「JJ氏」にします。JJ氏は植草さん自身と書いたけど、このエッセイの中には「ぼく」も登場していて、普通の自分「ぼく」が映画狂の自分「JJ氏」の心理を分析するという構成になっています。
JJ氏は「呪われた人たち」の撮影者アンリ・アルカンの腕前に惚れ込んでしまったので、カメラ屋の前を通り過ぎるたびにウィンドーをのぞいて、このカメラで撮影したらどんな映像が撮れるのだろうかと想像します。「呪われた人たち」は Les Maudits の直訳で、日本では「海の牙」として公開されるのですが、JJ氏は「この題ではアルカンの調子が出ない」ということで、このエッセイでは「呪われた人たち」で通します。
「呪われた人たち」は曇天シーンばかりですが、アルカンはうまく撮影していて、それ以外でも撮影できないんじゃないかというショットに挑戦しています。映画では実験が何よりも大切であるとして、ローレンス・オリビエの「ヘンリー五世」を例に挙げます。決戦前夜のシークエンスが撮影上最も問題となったのですが、通常夕暮れに撮影するのに、撮影者ロバート・クラスカーは、周りの反対を押し切って、夜明けに撮影しました。
「呪われた人たち」のアンリ・アルカンは次のような実験を試みています。
(1) 潜水艦の内部から甲板へとショットが移ったとき、画調のひらきがない。大空はどんより曇っていて、「海面の起伏は、登場人物を誘い込むように薄気味悪くうねって」いて、「海そのものが「呪われて」いる印象」を与えます。画調のひらきが感じられないというのは、「観客自身であるぼくたちが登場人物になりきってしまうことであり、アルカンは、この映画で、いかに画調の統一がリアリズムの映画に必要であるかを示している。」JJ氏が、これまで見た映画の中で、もっとも生々しい海面描写であり、「魚雷を発射した瞬間における海面の皺の変化の美しさは、いままでになかった映画的興奮をあたえた。」
(2) 映画の最初のショットは、数名の人々が港町を歩いているのをとらえた移動撮影ですが、懐中電燈の灯がカメラに向かっているけれど、ハレーションを見せていない。さらに、主人公の医師が石油ランプを持って歩くショットでは、ランプから灰色の煙が立っている。医師が拉致される野外撮影で、夜の街頭に立つ数名の人物をとらえた俯瞰撮影や、海岸からボートに乗って潜水艦に向けて漕いで行くショットの美しさに、JJ氏は「アメリカ映画の機械的優秀さだけでは決して表現できまいと思われるアルカンの閃き」を感じます。
「ぼく」がアルカンを知ったのは、コクトーの「美女と野獣」。コクトーの手記によると、「野獣が気絶した美女を抱きかかえて、部屋に入り、しずしずと階段を上っていく場面」が嫌いだったらしく、「雰囲気を出そうとすることが詩を生むのではない、死は生ま生ましい状態から生まれる」のだといってアルカンを叱ります。「ぼく」は、「「呪われた人たち」のカメラの特色は、生ま生ましさから創造された詩である」と考えます。
JJ氏が「アルカンのカメラは被写体からオブジェクトの意味をつかみ出しているね」というので、「ぼく」はどういう意味かたずねます。
(3) 「密閉ドアが閉まったあと、八つ位あるノブが、まるで人間の指のように動き、なんともいえない薄気味わるさを与えている。」JJ氏は、ほかにも、「無生物であるドアや新聞や催眠剤やジャックナイフが生きたもののように写されている」場面を列挙します。
(4) さらに、「すべて灰色で統一された全体にアクセントを与える」他の細部を列挙します。
・ 潜水艦が爆雷のために激震するショット
・ 破片がとんでドイツ女の眉間を割るショット
・ ゲシュタポの首領が皿に盛られたマッシュポテトにナイフで線を入れるショット
(5) 今度は「ぼく」がJJ氏にアルカンの別の特色について語ります。潜水艦の内部はセットのようだが、狭い感じがリアルなのや機構のメカニックな感じから、セットではない気が絶えずした。それよりも感嘆したのは、「登場人物の間で心理的な争いが起こる場合、焦点の浅いレンズで、彼らの表情を極めてリアルにカメラに収めている一方、一人の人物が横にそれ、背後にいる人物があらわれるとき、カメラは静止しているのにかかわらず、後方人物が前にいた人物と同じ距離になっていることである。」これは、「アルカンの特殊技巧で、アメリカで流行している焦点距離の極度に深い新技術とまさに好対象をなすものである。」(「好対象」は「好対照」の間違いでしょう。)
しばらくしてJJ氏は「ぼく」に手紙をよこします。JJ氏は、エリア・カザンの「紳士協定」との比較を試みます。「紳士協定」の撮影者アーサー・ミラーは焦点距離の深いレンズを使用して、舞台とスクリーンの融合を示したカザンの演出意図をうまく表現していると述べています。焦点距離の深さではグレッグ・トーランドが撮影した「我等の生涯の最良の年」(ワイラー監督)が日本に紹介された唯一の作品だけど、JJ氏(イコール植草さん)は特に好きな作品じゃないので、カメラや照明に関心なかったそうです。(オーソン・ウェルズ監督、トーランド撮影の「市民ケーン」が初めて日本で公開されたのは60年代半ばなので、ここには「市民ケーン」の名前が出てきません。)
カザンは「紳士協定」で焦点距離の深いレンズを使用することによって以下のような実験を試みたとJJ氏は言います。
(1) 室内シーンが多いのだが、奥行きの深い画面の奥にドアがあって、かならずそこから俳優が前方へと進んでくる。
(2) 出入り口はそこしかないから、俳優が退場するときに左右に姿を消すことはなく、奥のドアのほうに歩いていく。
(3) つまり、動きは縦の線を使っている。奥のドアから入ってきた俳優は、前方に歩いてきて、そこにいた人物と会話をする。パンする場合は、アップからミディアムショットに切り替わってから横移動する。
(4) 「ひとりの人物がカメラにたいし正面に向かったクロース・アップは絶対にない。二人の人物が会話する場合、カメラは各人物の斜後方に位置され、スクリーンの片側に聴き手の顔が大きくクロース・アップされる。話し手の視線は、だから斜めに向かっている。すなわち話し手が変わるたびに、ショットが変わり、視線は左手から右手へ向かい、同じように聴き手の顔の側面が右側から左側へとショットによって位置をかえる。」(「紳士協定」のDVDは持っているけど、今これを確認する余裕がないので、そのまま転記しました。)
JJ氏は次のように指摘します。焦点距離の深いカメラの使用法としては「我等の生涯の最良の年」よりも「紳士協定」のほうがはるかに優れているが、だからといって芸術的にすぐれているかどうかは疑問である。カメラの個性はあるが、カメラマンの個性がない。この点で、「呪われた人たち」のアルカンの撮影は、これまでで最も個性があるもので、映画の劇的要素に直接関与している。
JJ氏と「ぼく」は、「ドイツ女ヒルデが半ば発狂して、潜水艦の甲板から貨物船のロープに飛びつき、そのまま海中に身を没して、船腹に挟まれてしまう場面」が最も強烈な印象を残すとしますが、これがいかなる方法で撮影されたかの答えは出ませんでした。「けっきょく、アルカンの特色については知ることができたにしろ、より興味ある職業上の秘密については、なんら探ることはできなかったのである。」
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