2012年2月 3日 (金)

フィルムノワール入門 (40)

Andrew Spicer の "Film Noir" (2002, Longman) の第4章「テーマと物語戦略」の後半の物語戦略。「ボイスオーバーとフラッシュバック(その1)告白」「ボイスオーバーとフラッシュバック(その2)調査」「主観カメラと夢の状態」の三つに分かれていて、今日は最後の「主観カメラと夢の状態」。

主観カメラというと、まず出てくるのがロバート・モンゴメリー監督・主演の「湖中の女」(Lady in the Lake, 1947)。ロバート・モンゴメリーは「奥さまは魔女」のサマンサ、エリザベス・モンゴメリーのお父さんです。原作はレイモンド・チャンドラーのフィリップ・マーローもので、主演といっても、ほとんどカメラが彼の視点になっているので、鏡に映っているときぐらいしか姿は見えない(最初にロバート・モンゴメリーが登場して、何か説明するんでしたっけ?)。しかし、このやり方では、観客は主人公と同一化できず、主人公の眼から物事を見るという体験はできませんでした。3年ほど前に、"Film Noir: An Encyclopedic Reference to the American Style" がこの映画について書いているのを訳しています

主観的なカメラや語り口を発展させたのは、心理的に障害のある状態を描いたドイツ表現主義で、ここでは、まず、ドイツから亡命したカーティス・バーンハートの「失われた心」(Possessed, 1947) と "High Wall" (1947) を取り上げています。「失われた心」については1年前に書いていますが、"High Wall" は未見です。これはアメリカ盤DVDが入手可能なので、近々見てみることにします。

「失われた心」については省略することにして、"High Wall" について。主人公は空軍のパイロットだったスティーブ・ケネット(ロバート・テイラー)。彼の頭には血の固まりがあって、ひどい頭痛と記憶喪失に襲われる。彼は妻を殺してしまったようだが、そのときの状況を思い出せない。医師アン・ロリソン(オードリー・トッター)による麻酔療法によって当時の状況を思い出そうとする。彼の回想は主観的に表現される。彼が不実な妻のおびえる顔に近づいていくのを彼の視点から描き、嫌悪の表情が妻に迫ってくるのを彼女の視点から描いている。二人のバストショットになり、ケネットが妻の首を絞めようとしているが、彼の手の力が弱まり、頭を抱えて倒れる。彼が気を失うのは渦巻状の溶暗で表現され、そこでは回転木馬が回っている。その場所は妻の愛人ウィラード・ウィトコム(ハーバート・マーシャル)の家で、彼がその家を再び訪ねると、取っ組みあっている間に床に落ちたオルゴールの音によって回転木馬の映像が浮かび上がったことを思い出し、本当の殺人者がウィラードであると理解する。

精神障害を表現する夢の場面も表現派に由来する。第2章で論じた "Stranger on the Third Floor" (1940, ボリス・イングスター)にもあるが、最も野心的なのはヒットコックの「白い恐怖」(Spellbound, 1945) である。ダリが設計したもので、主要な物語とまったく異なる世界を作り出しており、たぶんより正確に主人公の心の過程を描いている。プロデューサーのセルズニックは、アメリカの観客には過激すぎるとして、この場面をかなり削ってしまった。

コーネル・ウールリッチを原作とする "Fear in the Night" (1947) は、主人公の被害妄想と混乱を描くために夢の場面を使用している。素晴らしいシュールな開巻で、ビンス・グレイソン(デフォレスト・ケリー)は、逃れることができない鏡の部屋で男を殺す悪夢を体験する。彼が目覚めると、首に残っている親指の跡、引きちぎられたボタン、食器棚のカギなど、夢が事実だったことを示すさまざまな証拠を見つける。グレイソンは、自分の正気を疑い、自分が殺人者だと確信して、姉や恋人と疎遠になり、自殺しようとする。義理の兄である刑事は、彼が催眠術をかけられたことを示す手がかりを次第に見つけていく。(ここで全部見ることができます。

こうした主観的な工夫は、内面の状態を客観的に表現しようとするフィルムノワールの試みだが、ハリウッドの映画作家は、保守的な商業制度の中で映画を作らなければならず、ヨーロッパの現代主義に鼓舞された革新的な実験と一般的な慣行の要求との間の緊張があった。個人の病理に対する関心が薄れた50年代になると、主観カメラ、フラッシュバック、ナレーションに関するこうした実験は、より因習的な語り口のために消え去っていく。しかし、ひとつの偉大な例外があって、ウェルズの「黒い罠」のように、商業的な映画作家がたどり着くこのできる一番遠くまで進んでいる。ヒッチコックの「めまい」(Vertigo, 1958) である。

(以下、来週に続く。)

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2012年2月 2日 (木)

映画と感情: Emotion and the Structure of Narrative Film (8)

50年代後半に公開されたときは「戦争と貞操」という邦題で、その後リバイバルされた際に原題に忠実な「鶴は翔んでゆく」という邦題になったソ連映画、良かったです。ダイナミックな映像の連続なんだけど、技巧のための技巧にならずに、物語に効果をもたらしているのがすごい。主人公の女性が魅力的。私が購入したのはクライテリオンがずっと前に発売したものですが、来月あたり同じ監督の「送られなかった手紙」もクライテリオンから発売されるので、今から楽しみ。

【メディアの娯楽と感情の統制】

効用や満足感に基づいたテレビ観賞の心理学的機能の研究がたくさんある。ここでは、劇映画に最も似ているテレビドラマの機能を扱う。最近の研究では、テレビ鑑賞が感情調節に一役買っていると仮定されている。

テレビによってもたらされた興奮自体は満足を与えるものではなく、恐怖、怒り、困惑といった感情の組合せとして説明することもできる。この刺激には適切な距離が必要である。たとえば暴力が非常に様式化されると、距離が遠くなり、不快な感情が喚起されず、スッキリすることもない。近すぎる場合は、感情に圧倒されて、感情を解放する機会がなくなる。たとえば、暴力がリアルであからさまに描かれた場合である。

アンケート調査よりも直接的なやり方で、メディアの使用と感情調節の関係を示そうと試みている研究があり、興奮の増減は気分の管理に有効かもしれないとしている。実験では、被験者に最適な興奮をもたらすドラマを選択させている。被験者を退屈な状態に置いた場合、興奮させてくれそうなドラマを選ぶ。被験者を緊張状態に置いた場合、あまり興奮しない内容のドラマを選ぶ。

別の実験では、テレビ観賞者の感情の質と強度は番組によって調節できることが示された。月経周期の中間にある女性は、コメディよりもシリアスなドラマを選択した。月経前または月経期の女性はコメディに、より興味を持った。

快楽理論に基づく娯楽の感情調節機能は次のように要約できる。

1. 一般に、満足を最大限にし、嫌な気持ちを最小限にする傾向がある。
2. 刺激が少ない状況にあると、変化に富んだ、興奮しそうな刺激を選ぶ。
3. 刺激が多い状況にあると、2と逆の刺激を選ぶ。
4. 嫌な気持ちが強いと、心を奪う楽しい刺激に救いを求める。
5. 満足を感じて、心地良い状態にあると、その状態を続けたいので、さほど心を奪われない刺激を求める。

ただし、テレビや映画のドラマによって気分を調節する可能性には限度がある。感情が強すぎたり、長続きする効果を刺激がを持っていると、娯楽作品自体の影響を取り消してしまう。ただちに解決しなければならないと感じる挑発による怒りなど、重大な問題を持っていると、メディアの利用を一時的にやめてしまう。

小説も同様の働きをする。気分を高める手段として読書が重要だとする調査データがある。読書の満足について小学生と中学生に対して行った調査によると、感情のバランスを保ったり回復したりするために読書をするというのが読書態度として最も重要な形である。

さらに、上述したメディア娯楽の概念と余暇の社会学との間には、うわべの関係以上のものがある。少なくとも、感情調節の興奮を強める面に関して。メディアの利用、特に劇映画を見ることは、模倣の余暇活動としてみなすことができる。そのような活動は、日常生活の真ん中にある孤立地帯であり、感情の高まりが限度内にとどまり、感情面でスッキリする結果となる。これは、現代社会の単調さや退屈さに対する埋め合わせのようなものである。テレビドラマと映画に共通する特徴は、感情の喚起と感情の安全な経験の両方が登場人物との同一化によって達成されることである。

1月23日に書いた戦争映画10本セットについて、米アマゾンに書いてあるのと二本ほど映画が違うと書きましたが、米アマゾンと同じでした。すわなち、懐かしいハーディ・クリューガーの「脱走四万キロ」は入っておらず、アルドリッチの「攻撃」が入っていました(掲載されている写真が間違っている)。10本で二千円少々だから、どちらでもいいです。6枚のDVDに収録されていて、4枚が両面に1本ずつ、2枚が片面に1作で、計10作です。写真のように、この6枚がDVD1枚と同じ大きさのケースにうまく収納されていて、助かるわあ。

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2012年2月 1日 (水)

MGM以降のキートン作品集 (13): Three on the Limb (1936)

バスター・キートンが30年代半ばにエデュケーショナル社で主演した16本の短編映画を見ているわけですが、これらは Kino から出ているDVD二枚組 "Lost Keaton" に全部収録されています。残念ながら字幕はありません。

で、本日は9本目の "Three on a Limb"。半分過ぎて二枚目に突入。日本では劇場公開されていないようですが、キネ旬の「世界の映画作家26/バスター・キートンと喜劇の黄金時代」では「三つ巴」と訳されています。キートン、ハロルド・グッドウィン、グラント・ウィザーズの三人がロナ・アンドレを取りあうからです。長身のグッドウィンは長編の「カレッジライフ」と「カメラマン」でもライバルを演じているし、エデュケーショナル時代でも「野球大当り」で共演しているので、きっとキートンと仲が良いのでしょう。

James L. Neibaur の "The Fall of Buster Keaton" (Scarecrow Press, 2010) によると、前作「内気な青年」の撮影後にキートンはアル中に逆戻りし、さらに精神衰弱になったために、療養所に入ったそうです。新聞では肺炎にかかったと報道されたようですが。

それにもかかわらず、前の何作かよりは良くなっていると著者は書いていますが、前々作「自由結婚」や前作「内気な青年」も、そこそこ面白かったです。

「三つ巴」の最初はハンバーガーショップでのドタバタ。車までカワイコちゃんたちが運んで来てくれるドライブイン式の店。キートンは半ズボンのボーイスカウト姿でポンコツ車に乗ってやってくるのですが、相変わらずドジばかり。自分のバーガーセットを地面に落とすだけでなく、他人のセットまで落とす始末。やってきた警官ハロルド・グッドウィンはカワイコちゃんのひとりロナ・アンドレに気があるけれど、ロナはさほどでもなさそうで、キートンの車に乗せてもらって家に帰る。

さっき出会ったばかりなのに、ロナは両親に会ってくれとキートンに言う。このあたり、二人が何をしゃべっているのか私には理解不能なのだけど、彼女は両親から早く結婚しろとか言われているのじゃないかと思います。

居間で待たされたキートンが椅子に座ろうとすると、そこにはシェパードがいて、キートンがそれに気づかなかったものだから、シェパードはキートンが嫌いになる。キートンが別の椅子に座ろうとすると、キートンに向かって吠えて、自分がその椅子に座る。キートンが家具にもたれかかろうとすると、また唸り声を上げので、キートンはどうすることもできない。

両親が登場し、キートンの恰好を見て、父親がボーイスカウトで何をやっているのかと尋ねるので、キートンは木で火をつけると答える。父親は暖炉から木の棒を二本持ってきて、やってみろと言う。キートンが床で二本の棒をこすり合わせていると、敷物が燃えてしまって、両親が大慌て。キートンが廊下のホースを部屋に引っぱり込もうとするのだけど、ここでもドジばかりで、結局廊下を水浸しにするだけ。

父親が娘婿にしたいと思っているグッドウィンがやってきて、さらに母親がお気に入りのウィザーズもやってくる。さっさと娘をグッドウィンと結婚させたい父親の策略でキートンは神父を連れてくる。自分が結婚式を挙げてもらえると思っていたキートンは部屋から放り出され、グッドウィンとロナが神父の前に立って儀式をしようとする。すると今度はウィザーズがグッドウィンを叩きのめす。部屋に戻ったキートンは、また部屋から放り出される。さらに、二股かけていたウィザーズの恋人がやってきて、もうテンヤワンヤ。いつのまにかキートンが母親と式をあげる格好になっていたりする。ヘトヘトになった神父の前でキートンとロナが式を挙げてもらって終わり。

これらはテンポよく展開すれば面白かったろうに、タイミングが悪くて、あまり笑うことができない。前作の監督はマック・セネットでしたが、これは、その前の七作と同じチャールズ・ラモント。

この作品の前にキートンはMGMによるカラーの「西班牙舞曲」(La Fiesta de Santa Barbara) に出演していますが、この作品のあとにも「踊る人魚達」 (Sunkist Stars at Palm Springs)というMGMのカラーのオールスター映画に出演しています。ちなみに、1935年の前者には三人組ガム・シスターズの末娘として13歳のジュディ・ガーランドが出演しています(彼女の本名は Frances Ethel Gumm)。

エデューケショナル時代の短編主演作品(★★★★★満点)

  1. The Gold Ghost (1934) 「キートンの黄金崇拝」 ★★
  2. Allez Oop (1934) 「キートンの頓馬同盟」 ★★
  3. Palooka from Paducah (1935) 「キートンのレスリング」 ★★
  4. One Run Elmer (1935) 「キートンの野球大当り」 ★★★★
  5. Hayseed Romance (1935) 「田舎者のロマンス」 ★★★
  6. Tars and Stripes (1935) 「キートンの脱線水兵」 ★★
  7. The E-Flat Man (1935) 「キートンの自由結婚」 ★★★
  8. The Timid Young Man (1935) 「内気な青年」 ★★★
  9. Three on a Limb (1936) 「三つ巴」 ★★

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2012年1月31日 (火)

「烏賊酢是!此乃鯉」「気の合う二人」

そういえば、プレスリーの「いかすぜ!この恋」って大瀧詠一さんがカバーしてましたよね、Let's Ondo Again の中で。「烏賊酢是!此乃鯉」ってタイトルで。しかし、よく調べてみたら、「いかすぜ!この恋」の映画の原題 "Tickle Me" と同じ原題の曲はなく、映画の中で歌っている "It Feels So Right" という曲が「いかすぜ!この恋」という邦題でした。でも、この曲はブルージーなナンバーで、大瀧さんのアップテンポな曲とは違う。じゃあ、「烏賊酢是!此乃鯉」は、プレスリー風に作った大瀧さんのオリジナルなのか。

この前購入した雑誌レコードコレクターズによると、モンキーズの6枚目のアルバム「インスタント・リプレイ Instant Replay」のCD3枚とアナログのシングル盤1枚のセットなるものがアメリカのライノから発売されてて、ビックリですね。だって、全米32位までしか上がらなかった落ち目の頃のアルバムだもの。5枚目「小鳥と蜂とモンキーズ The Birds, The Bees & The Monkees」にも、こんなデラックスエディションが出ているんですかね。これは初めて全米1位にならなかったアルバムですが、それでも3位。

「小鳥と蜂とモンキーズ The Birds, The Bees & The Monkees」は、中一だった1969年に初めて買ったLPだから懐かしい。でも、困ったことに、日本独自の曲順で、ヒット曲の「すてきなバレリ」がA面1曲目、「デイドリーム・ビリーバー」がB面1曲目だったものだから、その順番で聴かなければ気がすまない。今持っているCDは、ライノが出たもので、ヒット曲二曲以外の順序は同じだけど、「デイドリーム・ビリーバー」が5曲目、「すてきなバレリ」が11曲目。すなわち、日本盤は、A面5曲目に入っていた前者をB面1曲目に、B面5曲目に入っていた後者をA面の1曲目に置いたわけ。

"The Monkees: The Day-by-Day Story of the 60s TV Pop Sensation" という本によると、「気の合う二人 We Were Made for Each Other」は1967年10月23日(月)に、最初のバージョンのデモが録音されています。その頃はチップ・ダグラスがプロデュースで、ディラード兄弟が参加したカントリーっぽいものだったようです。その次は11月4日(土)にバック演奏を録音していますが、そのときにはディラーズは参加していなくて、ギターのアル・ケイシー、ベースがラリー・ネクテル、ドラムがエディ・ホーなどで、ヘンリー・ディルツという人がバンジョーを弾いています。

翌年1968年の2月6日(火)に「小鳥と蜂とモンキーズ」用のセッションを開いていて、このアルバムはモンキーズがプロデュースとなっているものの、この日はデイビーが同席していただけで、レスター・シルとショーティ・ロジャーズが仕切っていたとか。「気の合う二人」を含めて6曲録音され、セッションメンバーは、ギターのジェームズ・バートン、マイク・ディージー、アル・ヘンドリクソン、ジェリー・マギー、ベースのマックス・ベネット、ドラムのアール・パーマーらです。このときの「気の合う二人」は、二番目のバージョンで、カントリーっぽいものではなく、LPに収録された感傷的なバラードです。

翌日7日(水)にジェリー・マギーが生ギターを加え、9日(土)に管楽器や弦楽器が加えられます。この日もデイビーのみ立ち会っていたのですが、この日はまだ歌を吹き込んでいないと明記してあります。それから1カ月たった3月13日(水)にステレオとモノのミキシングが行われていますが、あれれ?デイビーがいつ歌を吹き込んだのか不明です。

で、アルバムがアメリカで発売されたのは4月。モノとステレオの二種類が発売されたモンキーズ最後のアルバムだそうです。その後のアルバムも外国ではモノが発売されたそうですが、それは単にステレオバージョンをモノに統合しただけのもので、本当のモノバージョンではないそうです。

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1979年1月に見た映画 (追加)

当時の感想があったので、付け加えておきます。これらは、私のウェブサイトの映画鑑賞記録に、はめ込みました。

「いかすぜ!この恋」(1月24日 池袋文芸坐) 3点

ヨォ、プレスリー!! 今までプレスリーの映画なんて、と思っていたけど、さすが国民のアイドル。この映画でのプレスリーの自信満々さはどうだろう。

たいした顔していないのに、腕っぷしが強くて、頼もしくって、歌が上手で、全女性に愛されて、自分では意識してないのに、顔から体から女に対して色気を見せる。他の男なんてまるで存在感がない。もし、こんな男がいたら、もう殺してやりたいぐらいにイヤな男だろうが、まるでそうは思わせず、ただただ自分と同化させてくれる。ここまで徹底した独自の世界を作り出すなんて今の映画じゃできませんゾ。映画以前にプレスリーがいたから、できたのだ。これは一つの神話である。プレスリーは神様である。

しかし、時の流れは残酷なことヨ。神様は天から降りて、みっともない姿をさらけだしてしまう。時の流れが自分と逆らった方向に進もうとするなら、こういう人は、その方向へ進もうとはせずに、流れの底に沈むべきですナ。

開巻のバスに乗り遅れた人は災難ですナ。こんなけっこうな経験はありませんゾ。エルビス死すとも、映画は残る。

「ミッドナイト・エキスプレス」(1月25日テアトル新宿) 4点

この映画は、一人の男が主人公である。この男は、麻薬所持のためトルコの警察に捕まってしまう。男は不当に裁判されて、かなり長い間、刑務所の中で過ごすことになる。

トルコの刑務所は、かなり不潔だが、刑務所内部は自由に出歩くことができ、他の人とも話すことができる。ただ、アメリカ人とトルコ人の違いがこのアメリカ人をいらだたせる。刑務所にいるということは外の社会と断絶されることで、この映画ではそれが強く感じられる。彼の不安は、人間として忘れられるかもしれない、ということだろう。

この男は、まわりに対して無力なのである。ただ、最後に脱獄することになるが、あくまで偶然であり、ほとんどなすがままである。これが本当なのである。まず脱獄の映画だと、その脱獄の計画のすばらしさ、あるいは脱獄者の不屈さが描かれるであろう。ところがそれはまず作り話めいている。ところが実話になると、「パピヨン」にしろ「ミッドナイト・エキスプレス」にしろ、囚人は、なかなか抜け出せない。われわれと同じ人なら、まず脱獄なんてできなのである。もし、脱獄できるとしたら、この映画のように、たまたまそうなったというぐらいのものでしかない。

もともと、この映画は脱獄の方法を描いたのではない。なぜなら、この刑務所の立地条件がまるでわからないからだ。また、壁を開けて脱獄しようとして、地下水道に入ったまではいいが、すぐ行き詰まってしまうアッケなさを見ろ。また、壁の穴がすぐ見つかってしまうアッケなさを見るがいい。

それに、この映画は、主人公の生き様を描いたものでもない。ほとんど、この男は為すがままにされているのである。彼は、われわれと同じなのである。彼はわれわれの一つのモデルなのである。

とすれば、一体何が残る。トルコの警察、あるいは裁判所のあいまいさ、ゴウマンさが残る。いや、そんなことではない。

この主人公は、われわれと同じ人間であり、たやすく同化させてくれるところに意義がある。この映画は、われわれに大変な経験を積ませてくれるのだ。

だから、最後の喜びもひとしおである。

「ロング・グッドバイ」「チャイナタウン」(1月28日三鷹オスカー) どちらも5点

ちょっと見れば、「ロング・グッドバイ」は、チャンドラーの傑作ハードボイルド小説をみごとに破壊して、アルトマン調にし、「チャイナタウン」はポランスキーが念入りにハードボイルドの世界を描いたもののように見える。しかし、よく見れば、本当にハードボイルドなのは「ロング・グッドバイ」であり、「チャイナタウン」よりはるかにハードボイルド小説の感じに近い。

「チャイナタウン」は、時代が戦前になっており、すべてが忠実に再現されているようではあるが、なぜかケバケバしく、どぎつい。主人公、JJギデスは、名前こそいかにもハードボイルド探偵といった感じだが、どこかナヨナヨしい。しかも、女依頼人と寝るのであるからチャンドラーやロス・マクドナルドの主流派とは違う。マーローは絶対女を抱いたりしない。「ロング・グッドバイ」を見よ。目の前に裸の女がワンサといるのに、まるで興味を示さない。一級の探偵や殺し屋(探偵と背中合わせ)は、絶対女に気を許さない。

マーローやアーチャーといった探偵は、悲劇を客観的に見つめる第三者だが、冷酷になりきれないところから、その悲劇が彼らの中にもしみ込んでいくのである。彼らは第三者になりきれないのである。外面的に第三者であっても内面は事件の中に入っている。JJは、外面的に事件中の人物とかかわりあっても、内面的にはまるでかかわりあっていないように思える。

「チャイナタウン」は、全部が作り物みたいだ。事件は、大変陰惨なものとなったが、作り物ではそれも白々しい。JJ自体、作り物みたいで、彼の人間性がよく出ていない。探偵ものでは、探偵は私たちと同化しなければならない。私たちは、JJに同化できないのである。

一方、「ロング・グッドバイ」は、事件が最後までよくつかめない感じだが、マーローと我々は見事に同化している。まず、開巻を見たまえ。実にいいではないか。リアリティがあるのだ。

彼をとりまく人物が、みんな実にくさいが、それに事件も平凡だが、マーローの心にはJJ以上に悲しみがしみこんでいくである。

ラストがにくいですなァ。

「家族の肖像」(2月2日岩波ホール) 5点

一人ゆうゆうと書斎で暮らす大学教授。メイドが二人おり、家事一切の心配もない。学問に没頭しており、孤独感はあるが、絶望にはいたらない。実にうらやましい。こちらとしては、部屋の中で一人で暮らしてゆけるものならどんなに素晴らしいことだろうと思っているのに、そうはいかない。

ところが、彼の人生もこのままでは終わらせてくれない。いくら世間と関わりあおうとしなくても、やはり社会とは、どこかで関わりあわなくてはいけない。この教授が何年こんな生活をしているかは知らないが、かなりの間だろう。そこへ突然と外部の者が忍びこんできたら、彼の社会への免疫が利かなくなりかけてしまっている今、死ぬしかないのではないか。

孤独に生きてきた者が人と関わりあうのがどんなにわずらわしいことかわかるのである。主人公はまるで檻の中のライオンだ。ライオンだが草食のライオンだ。外へ出ると撃ち殺されるだろう。この教授が外へ出ると「ベニスに死す」になる。「ベニスに死す」では、主人公は不器用に少年を愛してしまい、外部の世界は刺激的で心臓に悪かったのであろう、死んでしまう。

ここでは、彼の家の中に忍びこむ。ああ、本当にわずらわしいなあ、他人と関わりあうのは。しかし、一方で人と接したくもあったのだ。人と接していくこと、これは「愛」によって為されるのであろう。彼が一番心に触れたコンラッドという青年。しかし、教授は心から彼を愛することはできない。人間への不信感というより、人間との関わりを断っているのだ。彼は怠惰なのだ。

一見、落ち着いた人物に見えるが、実は彼の虚像なのである。社会から逃げているのにすぎない。知性のかたまりの彼は、頭の中では欲望に身を任せる人たちに勝てるのだが、実際はそうはいかない。

むなしいのである。すべてがむなしい。人間の心の生き方は何であろうか。社会に身を任せるか、自分の中で生きていくか、どちらも悲しい。その接点を生きるのは、なかなかむずかしい。

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1979年1月第5週に見た映画

1月29日(月) 元禄忠臣蔵 (三百人劇場) 1点
1月31日(火) 昭和残侠伝・血染の唐獅子 (池袋文芸地下) 4点
1月31日(水) 昭和残侠伝 (池袋文芸地下) 3点
1月31日(水) 狼の時間 (東京12) 3点
2月02日(金) 家族の肖像 (岩波ホール) 5点

振り返ってみると、溝口、マキノ、ベルイマン、ビスコンティという凄い週だったんだなあって感心しますが、そのわりに点数は低い。一番の原因は、溝口健二の「元禄忠臣蔵」が楽しめなかったこと。誕生日に友人からチケットをもらって見に行ったので、申し訳ないのですが。もともと有名な忠臣蔵の話自体に興味がなかったし、長回しで静的だし、前後編ある長さなので、退屈したのでしょう。今ならもっと評価できると思いますが、数年前にどっと溝口作品のDVDが出たときも、買おう買おうと思いつつ、いまだに購入していないので、やはり苦手意識があるのでしょう。1点というのは不当に低い気がするので、お好きな方は私にセンスがないと思っていただきたい。ウィキペディアによると、1941年12月に前編、1942年2月に後編が公開されたそうです。キネ旬では、後編が1942年の7位。

キネ旬の日本映画作品全集(1973)には、山田宏一氏による詳しい「昭和残狭伝」シリーズの解説が載っています。全部で9本あります。

  1. 「昭和残狭伝」(佐伯清、1965)
  2. 「唐獅子牡丹」(佐伯、1966)
  3. 「一匹狼」(佐伯、1966)
  4. 「血染の唐獅子」(マキノ雅弘、1967)
  5. 「唐獅子仁義」(マキノ、1969)
  6. 「人斬り唐獅子」(山下耕作、1969)
  7. 「死んで貰います」(マキノ、1970)
  8. 「吼えろ唐獅子」(佐伯、1971)
  9. 「破れ傘」(佐伯、1972)

私の一番好きな東映シリーズなんですが、1968年に作られていないところを見ると、健さんのシリーズの中では人気がない方だったのでしょうか。ストイックすぎるんですかね。ちなみに、キネ旬の日本映画俳優全集・男優編(1979)によると、1968年の健さんの出演作は次のとおり。

  1. 「日本侠客伝・絶縁状」
  2. 「獄中の顔役」
  3. 「荒野の渡世人」
  4. 「侠客列伝」
  5. 「緋牡丹博徒」
  6. 「ごろつき」
  7. 「人生劇場・飛車角と吉良常」
  8. 「祇園祭」
  9. 「新・網走番外地」
  10. 「博徒列伝」

「血染めの唐獅子」はシリーズの中で一番面白かった記憶があります。実際、自分のトップテンを眺めても、この作品がこの年に6位に入っているだけです。

言うまでもなく、このシリーズに欠かせないのが池部良。いつも悪いほうの組にいるのですが、最後は親分のあくどさぶりに耐えきれず、健さんとともに殴り込みに行く(その道中、健さんの唄う「唐獅子牡丹」が必ず流れる)。池部良が親分に盃を返すときだったか、盃で額を割られるという印象的なシーンを憶えているのですが、あれはこの作品でしたっけ?そのときの親分は河津清三郎だったと思うのですが、彼は二作目から五作目まで悪い親分を務めています。そういえば、彼を本当に痛い目にあわせたのは、溝口の「祇園囃子」の若尾文子でした。彼女に唇をかまれたせいで、こんなに悪い男になっちゃったのかな。

山田宏一氏の解説によると、健さん扮する花田秀次郎と池部の風間重吉という花と風のコンビが定着したのは、この四作目からだそうです(名前は同じでも、各作品、独立した話で、別の人物)。女優陣は藤純子。

「昭和残狭伝」はシリーズ一作目で、まだストイックな感じがなかったような、その分だけ私の興味を引かなかったような。佐伯清という監督がこのシリーズの最初と最後を飾っているのですね。なんか古臭いイメージがあって、マキノ雅弘や山下耕作という名前ほど興奮しない。女優陣は三田佳子で、なんとなく松方弘樹が印象に残っているような。

なにしろ30年近く見ていないシリーズなので、「血染の唐獅子」あたりDVDで買って見たい気もするのですが、高いので、クライテリオンあたりがまとめて安く発売してくれませんかねえ。レンタルで安く見ることができるのでしょうか。なんかレンタルって苦手。こういうのは新宿の昭和館の三本立てで見るに限るのですが、不覚にもこれは池袋文芸地下でした。

ベルイマンは「仮面/ペルソナ」のあとの60年代後半も年1本ペースで作品を作り続けていたようですが、その頃の作品は地味すぎるのか1972年の「叫びとささやき」まで日本公開されていないはずです。この頃のは映画祭などで評価されるなどのきっかけがなくて日本公開されなかったのでしょうかね。1969年にテレビ用に作った「夜の儀式」というのは1975年に岩波ホールで上映されました。「狼の時間」は1968年の作品で、平日の昼2時から東京12チャンネルで放映するって、アナーキーでパンクな時代だったんだなあ。

IMDbのユーザー投票によると、6,000名以上が投票して、7.7点と高評価。ベルイマン唯一のホラー映画で、危機にある芸術家が悪夢に悩まされ、零時から夜明けまでの「狼の時間」に痛ましい過去を妻に語るという話らしいです。主演はマックス・フォン・シドーとリブ・ウルマン。白黒撮影はスベン・ニクビスト。

「家族の肖像」は先日引退された大学の先生が、引退のときに上映されたようです。映画ばかり見ていてダメな生徒は、遠くから感慨にふけるしかない。昨日書いたことから考えると、私は反カント的で、ベルイマンやビスコンティ好きの先生はカント的だったのでしょう。そういえば、カントの「判断力批判」を夏休みの間に読めと勧められたような気もします。大学自体が金持ちっぽくて、私には似合わなかったなあ。

「家族の肖像」自体は面白くて満点。1978年11月から公開されていたので、キネ旬では1978年の1位。「キネマ旬報ベスト・テン80回全史1924-2006」によると、製作時点から4年後の日本公開で、これがヒットしたことでビスコンティ・ブームになり、未公開だった作品が次々と日本公開されました。ビスコンティ自身は1976年に亡くなっていました。遺作は「イノセント」(1976)で、そのひとつ前が「家族の肖像」(1974)。バート・ランカスター、ヘルムート・バーガー、シルバーナ・マンガーノ出演。

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2012年1月30日 (月)

映画と感情: Emotion and the Structure of Narrative Film (7)

本来暑がりで、寒いのは気にならなかったのですが、高血圧だと判明してからは寒さに対して恐怖するようになりました。寒いと血管が収縮して血圧が上がるからです。頭痛などの症状が出ることはないのですが、さすがに零度ぐらいだと早朝の散歩を控えなければならないので、なんか一日しっくりこない。

昨日少し述べた「追われる男」をフリッツ・ラングが監督したというのは「マンハント」という映画のことです。ジェフリー・ハウスホールドの原作の後半は、自分で掘った穴に隠れている主人公とナチのスパイらしき男との何日にも及ぶ持久戦で、泥と糞尿にまみれて耐える主人公の様子をどう描くのだろうと思っていたら、最後に少し出てくるだけでした。原作は女っ気がまったくと言っていいほどないのに、映画ではジョーン・ベネットとのロマンスが延々と続き、主人公が早く逃げて緊迫した追跡劇にならないかなあという気持ちと、きれいで可愛いジョーン・ベネットを少しでも長く見たいという気持ちがぶつかり合いました。ここまでロマンスを引っ張るのであれば、大甘な結末になればいいのにと思いましたが、さすが戦争中の映画ですね、ベネットの運命は厳しいものでした。

では、昨日の続き。

今日の伝統的な劇映画は、支配的なイデオロギーについての非公式な教育のようなものを観客に与え続けている。(Jowett & Linton (1989) Movies as Mass Communication 2nd edition (Sage Publications))

Schatz がハリウッドのジャンルについての著書に書いているように、ジャンルは支配的な倫理観を伝えるのにすぐれた手段なのである。(T. Schatz (1981) Hollywood Genres: Formulas, Filmmaking and the Studio System (Temple University Press))

伝統的な映画の保守的な効果は、検閲や自己検閲に関する研究で強調されることが多い。これは、パウダーメイカーが詳細に論じたハリウッド映画の一面だし、より最近のスタジオ製作史でさらに突っ込んで論じられている。(Bordwell, Staiger & Thompson (1985) The Classical Hollywood Cinema: Film Style and Mode of Production (Columbia University Press))

しかし、文化的研究は、劇映画の研究に重要なニュアンスを加えている。支配的な価値観を保つ映画があるのは認めるとしても、文化上の多数派が共有する見識や固定観念のみには訴えかけていないジャンルも存在する。たとえば、1930年代のロマンチックコメディがそうである。この場合、見識や固定観念は、結婚や家族に関連した女性の性的能力に関するものである。(Neale & Krutnik (1990) Popular Film and Television Comedy (Routledge))

古典的なアメリカのメロドラマ映画も、変化を促し、同様の問題に関するイデオロギー的な見方について話合いの道を開こうとしている。(Lang (1989) American Film Melodrama (Princeton University Press))

変化に富んだ新しい経験に対する人々の欲求は、人々は自分たちが知っていることを楽しむという事実と、多かれ少なかれバランスを保っている。劇的なストーリーの素材は、分類や同一化に対するほとんど普遍の欲求を満たしてくれる。おきまりの登場人物や筋書きは、たやすく同化するための理想的な手段なのである。(W.J. McGuire (1974) "Psychological Motives and Communication Gratification" in J.G. Blumler & E. Katz (eds.) The Uses of Mass Communications: Current Perspectives on Gratifications Research (Sage Publications))

実験心理学で報告されている結果も、よく知っていることに対する好みを示している。

まず、単純接触効果がある。人々は数多く接している刺激を好む。すでに接触していることに気づいていないとしても、無意識のうちにそのような刺激を好む。(R.B. Zajonc (1968) "Attitudinal Effects of Mere Exposure"; (1980) "Feeling and Thinking: Preferences Need No Inferences")

第二に、原型が重要な役割を果たす分類理論に基づいて、型にはまった刺激の美学的効果を評価する実験がなされている。刺激の享楽的価値は、その刺激が属している部類の典型的な例に一致する程度によって決まる。実験の結果は、最大の好みと結びついた原型性の度合いによって異なる。(E. Rosch (1978) "Principles of Categorization" in E. Rosch & B.L. Lloyd (eds) Cognition and Categorization (Arlbaum Associates); Rosch & Mervis (1975) "Family Resemblances: Studies in the Internal Structure of Categories" ほか)

自分の信念を確認する必要が映画の選択を決定づけるとする研究者もいる。人は政治観や倫理観といった認知傾向を強めるテレビ番組を選択する傾向があるとする調査結果や、公正な世界を信じることとテレビのアクション番組や冒険番組を好むことの間には相関関係があるとする調査結果がある。これらの結果は、人々は自分の信念を確かめるために特定の種類の番組を見るということを示している。

ここでも、文化的アプローチによる研究のいくつかで、実際にはテレビ番組は非常に雑多であり、視聴者は確証のみに興味があるわけではないことが示されている。

(テレビについては、John Fiske の Television Culture (1987) という本を参考文献に挙げていますが、これは The John Fiske Collection: Television Culture という最新版が2010年に Routledge から出ています。)

社会における自分の存在を強めることも劇映画を見る機能であろう。社会で共有されている考え方を認識することは、個人の所属感に対する必要性を満たしてくれる。その一例は、誰か、または何かを犠牲にして語られる偏見的なジョークに対して笑うことである。フロイトが指摘したように、これは笑う物同士のきずなを強める。笑いを共有するだけでなく、ほかのさまざまな感情を共有することは、同一の世界観に根ざした共同社会の一員であるという認識を強めてくれる。これには、ホラー映画を見る観客を引きつけて離さない原始的な不安といった感情が含まれる。

美術館やコンサートや演劇に行くのと同程度の社会的満足を伝統的な劇映画が与えてくれないことをより詳しく調べことは、ためになるかもしれない。芸術や文化に参加することで、かなり社会的地位の高い価値が得られる。演劇、特に現代劇は、高い文化形式と考えられており、社会的な地位に関連した動機を満足させる点で評価が高い。大衆的な映画は、この動機に対して魅力が少ない。映画に関しては、社会的な地位を得ることは、夕方、友人と一緒に過ごすことほどは重要でないように思える(映画の中には、ある種の観客に対して高尚な価値を持つと思われる作品もあるが)。

大衆的な映画を選択することによって、高尚な文化への反抗を表現することができるかもしれない。これは反カント的な態度であり、喜びを最も重要なものとし、参加と共感を主たる目的とするものである。

(小項目「映画のイデオロギーと参加」おわり)

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2012年1月29日 (日)

映画と感情: Emotion and the Structure of Narrative Film (6)

モー娘がテレビで歌う「ピョコピョコウルトラ」はあまり面白くなかったとか、モンキーズの「気の合う二人」が山下達郎さんのFM番組でかかったとか、冒険小説「追われる男」はハードだなあとか、「追われる男」をハリウッドで映画化するとフリッツ・ラングが監督してもああなっちゃうのかとか、ラング監督はジョーン・ベネットの使い方がうまいなあとか、昨年4月の来日を延期したリチャード・トンプソンは今年4月に来日するとか、それには行けないけれど英アマゾンから発送された彼のコンサートDVDが届くのが楽しみとか、「苦い報酬 Force of Evil」のビートリス・ピアソンは可愛いなあとか、書きたいことはいろいろあれど、やはりエド・タンの本を読み進めていきます。

毎回同じことを書くようで申しわけないのですが、自分が迷子になりそうなので。第2章「映画鑑賞の心理的機能」の最初の大見出し「メディアの使用は動機づけられているのか」の三つある中見出し「映画と娯楽」「心理的機能」「主要動機としての緊張緩和」の中の「心理的機能」には五つの小見出しがあって、「映画的状態」が終わったので、今日は二番目の小見出し「映画のイデオロギーと参加」。

昔「イデオロギーって何?」ってバイト仲間に聞かれたことがありますが、答えられませんでした。この前も言及した「すっきりわかる!超訳「哲学用語」事典」(PHP文庫)には、「思想の傾向」と超訳してありました。

精神分析志向の映画理論家は、観客の状態を映画のイデオロギー的効果と結びつける試みを行っている。たとえば、ヒースは、観客は常に行動の(すわなち虚構空間の)隙間を埋めるよう促されていると主張した。この活動によって、終結に対する観客の根深い欲望は満たされる。伝統的な映画は、イデオロギー的に決定された知識を呼び起こすよう観客に強いる。それによって、その知識はさらに強固に定着する。(S. Heath (1981) Questions of Cinema (MacMillan Press))

他の理論家たちは映画による観客の立ち位置について言及している。映画は絶えず観客に、場面の物理的な眺めだけではなく、描かれている現実に関するイデオロギー的な立ち位置を割り当てている。(N. Browne (1975) "The Spectator-in-the-Text: The Rhetoric of StageCoach"; C. MacCabe (1976) "Theory and Film: Principles of Realism and Pleasure")

このアプローチについての入念な説明は、フェミニストの映画研究によって推し進められた。そうした研究は、男性的な観客のイデオロギーと欲望に最もうまくフットする視点が劇映画で支配的なことを証明している。前述したマルビーの研究がそうだったし、彼女のあとに多くの者が続いた。(E.A. Kaplan (1983) Woman and Film: Both Sides of the Camera (Methuen); T. de Lauretis (1984) Alice Doesn't: Feminism, Semiotics, Cinema (Indiana University Press);A. Kuhn (1982) Women's Pictures: Feminism and Cinema (Routledge & Kegan Paul))

社会学的な映画理論の中には、特に初期のものは、精神分析的な映画理論に似ているものがある。そこでは、しかし、映画的状態は、イデオロギー的な操作の前提条件である。クラカウアーが発展させた社会の鏡理論では、映画のモチーフは集団的潜在意識の中に根ざした欲望を反映している。彼の推論によると、古典的な映画スタジオシステムでは、プロデューサーは観客が望むものを与えなければならない。競争が進行する中で、テーマ、既知の事実、問題といった映画のモチーフは、集団的潜在意識の内容と一致するように、形成され、修正される。したがって、映画はモラルの安全弁として働くことができる。(S. Kracauer (1947) From Caligari to Hitler: A Psychological History of the German Film (Princeton University Press))

プロコプは、映画的状態を夢のようで、原始的なものとして特徴づけているこれらの研究者たちに検討を加えている。彼によると、観客が求めているのは、こういう状態ではなく、むしろ、これは支配的な映画が映画経験を形成するやり方である。映画を見る状況は、社会の安定が危険にさらされることのない、厳格に定められた範囲内で、社会規範や行動基準に違反する期間を観客に与える。(D. Prokop (1974) Soziologie des Films (Germany))

同様の結論がパウダーメイカーによる社会人類学的な Hollywood: The Dream Factory (1950, Little, Brown & Co.)によって引き出されている。ハリウッドの少数のエリートが、代理の経験を魔法のように呼び出し、観客の問題に対する解決策を描き、人間関係、価値観、新たな民衆の英雄の見本を提示する。

(明日に続く)

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2012年1月28日 (土)

映画と感情: Emotion and the Structure of Narrative Film (5)

今朝の続き。

ボードリーの論文では、感情のバランスの維持は重要度において二番目である。支配的なのは退行した状態自体である。観客は、精神力学の発達における原始的な自己愛の段階に戻りたいと無意識に願っている。その段階では、自分自身の体と外界の世界の分離が完全ではない。想像と実際の観察の間に区別はなく、欲望は幻覚的に満たされる。

映画的状態に関する精神分析の文献には、異常な二重の隠喩がある。意識は映画のようなものとされ、映画は意識のようなものとされる。夢のスクリーンという概念を考案したのはルウィンである。空想や夢が投影される意識の暗室の基礎となるものである。(B. Lewin (1950) "Inferences from the Dream Screen," The Yearbook of Psychoanalysis, 6)

この心理学的構造は、象徴的に母親の胸と関係していると言われている。この比喩を借りて、ボードリーは、観客は映画を夢のスクリーンとして見ているので実際には意識が映画を取り囲んでいると提唱している。実際、観客は、自分自身の想像が活動しているのを見ているのである。

エバーウェインは、実際の映写とスクリーンを夢のスクリーンの心理的な人工器官として見ている。(RT Eberwein (1984) Film and the Dream Screen (Princeton University Press))

このあいまいな隠喩から、観客自身の知覚に浸されるようなものが観客の映画的状態の基本的特徴であるという考え方を作り出すことができる。

別の精神分析上の概念である窃視症(のぞき趣味)も人が映画を見る動機を与える基本的な原動力だと言われている。メッツの説明によると、のぞき趣味は、見る側と欲望の対象を隔てるものが必要である。スクリーンに存在すると思われる物は実際には不在なので、映画は、この欲望の完璧な例である。ローラ・マルビーは、のぞき趣味を、性的衝動によって別の人物や物体を眺める行為だと述べており、これには自己愛的な同一化によって欲望を満たすことも含まれる。伝統的な長編映画で示される肉体は理想的な自我であり、マルビーによると、通常は理想的な男性の自我である。すなわち、上手な女性の誘惑者である。(L. Mulvey (1975) "Visual Pleasure and Narrative Cinema")

精神分析の概念を観客の経験に適用することに対して痛烈な科学的批判があり、これは正しい。そうした概念は存在論的にはっきりしないし、考え方の論理的な一貫性には何かが欠けているし、簡素さという要件が後退しているように思える。(N. Carroll (1988) Philosophical Problems of Classical Film Theory (Princeton University Press))

窃視症やのぞき趣味といった用語は、病気のような意味合いがあり、この意味合いは不必要である。観客の頭の中に映画を置くという隠喩は、まったく受け入れがたい。観客の頭の中にいる誰かがスクリーンを見つめている感じだ。これらの欠点を棚上げすると、精神分析の貢献の本質は次のようなものになる。

観客が映画に魅力を感じるのは、過去に生じた空白を埋めるのを映画が手伝ってくれるからである。映画を見ることは、失われた楽園に戻ることを可能にし、抑圧された願望が満たされるのを眺めることを可能にする。観客は、映画を見ている間、日常生活のうんざりさせる良識をわきにやって、空想に身を浸すという事実それ自体が、非常に興味を喚起する喜びの源である。

このアプローチは、どのように観客が映画に引きつけられるか、なぜ映画は直接的で力強い効果があるのか、どのスタイル上、技法上の仕組みが観客のどの知覚的、認知的感受性に訴えるのかを正確に把握することには、あまり役立たない。正確な仕組みに関するこれらの疑問は、映画理論において体系的な研究の対象になることはほとんどないし、いずれにせよ、ほとんど答えが出ていないままである。

(小見出し「映画的状態」おわり)

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映画と感情: Emotion and the Structure of Narrative Film (4)

最近購入した「すっきりわかる!超訳「哲学用語」事典」(PHP文庫、2011、680円)では、「カタルシス」を「スッキリすること」と超訳しているので、むずかしい用語のお好きな方は、ここで「スッキリすること」と訳している部分を「カタルシス」と読み替えていただきたい。

第2章「映画鑑賞の心理的機能」の最初の大見出し「メディアの使用は動機づけられているのか」の三つある中見出し「映画と娯楽」「心理的機能」「主要動機としての緊張緩和」の中の「心理的機能」へと進みます。これにはさらに5つの小見出しがあって、本日は最初の「映画的状態」。

フロイトの無意識理論に大きく基づいている心理学的な映画理論は、映画のスッキリさせる効果を論じている。長編映画のスッキリさせる効果を記述するのに必要な要素は、フロイトのジョークに関する論文にすべて含まれている。(「ジョークとその無意識に対する影響」(1905))

この理論の要点は、心理活動の節約が喜びの主因だということである。そのような節約が含まれるジョークの仕組みが広い意味での美的プロセスによって機能しているのではないかとフロイトはにらんでいる。ジョークのように、芸術作品には、矛盾を作りだしたのちに解決することなどによって緊張を作り出す技法を利用しているものがある。さらに、夢や空想の中身のように、芸術作品の技法は、通常意識されない想像、欲望、衝動に気づくことを可能にする場合がある。この前提となっているのは、芸術作品には攻撃的あるいは性的な傾向があるということである。このように、フロイトの考え方では、芸術作品の効果には形式面(技法)と内容面がある。形式自体が喜びを与えることもあるが、形式が、いつもは閉じている扉を開いて、無意識の中身の効果を可能にすることもある。

フロイトによると、ジョークの効果には第三の面もある。偏見など、社会グループが共有する意識の中身に触れるジョークの傾向である。偏向的なジョークを笑うことは、個人間のきずなを強固にし、特定のグループに属しているという感覚を強める。

クリスチャン・メッツとジャン・ルイ・ボードリーは、観客の映画的状態を、観客がかなり原始的に機能している状態だとしている。(メッツ「映画と精神分析―想像的シニフィアン」(白水社、1981)、C. Metz (1975) "Le film de fiction et son spectateur"、J.-L. Baudry (1986) "Ideological effects of the basic cinematic apparatus"(1975年に書かれた論文を英訳したもの。P. Rosen 編集の Narrative, Apparatus, Ideology (Columbia University Press) に含まれています。日本語に訳されているのでしょうか。)

映画的状態にはある種の退行が含まれており、それ自体が喜びになることがある。映画を見る状況は、この状態にかなり有利である。観客は暗闇の中でじっと座っているので、観客の知覚は、通常の状況よりも、他の機能に対して、より支配的になる。映画は、個々の観客に対して強く訴える。映画を見ることは、他の観客がいるにもかかわらず、個人的で孤独な活動である。

原始的に機能している状態は、フィクションの素材や構成の性質とともに、夢と比較できる効果を生むのに貢献している。メッツによると、映画は、夢や空想と同様、フィクションの中身の構成が一連の原始的な作用の結果である一方で、テーマの中身は無意識から生じている。構成が無意識の中身への接近を容易にしている。

映画的状態の理論には衝動の満足も含まれている。衝動の満足は、無意識の素材を利用して感情のバランスを保つことによって可能となる。これは、スッキリすることの変形として興味深い。メッツが力説するところでは、映画鑑賞には衝動の満足があるはずだが、その満足の度が過ぎることはない。過度の満足は防衛を高める結果となるだろう。

(小見出し「映画的状態」つづく)

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