フィルムノワール入門 (40)
Andrew Spicer の "Film Noir" (2002, Longman) の第4章「テーマと物語戦略」の後半の物語戦略。「ボイスオーバーとフラッシュバック(その1)告白」「ボイスオーバーとフラッシュバック(その2)調査」「主観カメラと夢の状態」の三つに分かれていて、今日は最後の「主観カメラと夢の状態」。
主観カメラというと、まず出てくるのがロバート・モンゴメリー監督・主演の「湖中の女」(Lady in the Lake, 1947)。ロバート・モンゴメリーは「奥さまは魔女」のサマンサ、エリザベス・モンゴメリーのお父さんです。原作はレイモンド・チャンドラーのフィリップ・マーローもので、主演といっても、ほとんどカメラが彼の視点になっているので、鏡に映っているときぐらいしか姿は見えない(最初にロバート・モンゴメリーが登場して、何か説明するんでしたっけ?)。しかし、このやり方では、観客は主人公と同一化できず、主人公の眼から物事を見るという体験はできませんでした。3年ほど前に、"Film Noir: An Encyclopedic Reference to the American Style" がこの映画について書いているのを訳しています。
主観的なカメラや語り口を発展させたのは、心理的に障害のある状態を描いたドイツ表現主義で、ここでは、まず、ドイツから亡命したカーティス・バーンハートの「失われた心」(Possessed, 1947) と "High Wall" (1947) を取り上げています。「失われた心」については1年前に書いていますが、"High Wall" は未見です。これはアメリカ盤DVDが入手可能なので、近々見てみることにします。
「失われた心」については省略することにして、"High Wall" について。主人公は空軍のパイロットだったスティーブ・ケネット(ロバート・テイラー)。彼の頭には血の固まりがあって、ひどい頭痛と記憶喪失に襲われる。彼は妻を殺してしまったようだが、そのときの状況を思い出せない。医師アン・ロリソン(オードリー・トッター)による麻酔療法によって当時の状況を思い出そうとする。彼の回想は主観的に表現される。彼が不実な妻のおびえる顔に近づいていくのを彼の視点から描き、嫌悪の表情が妻に迫ってくるのを彼女の視点から描いている。二人のバストショットになり、ケネットが妻の首を絞めようとしているが、彼の手の力が弱まり、頭を抱えて倒れる。彼が気を失うのは渦巻状の溶暗で表現され、そこでは回転木馬が回っている。その場所は妻の愛人ウィラード・ウィトコム(ハーバート・マーシャル)の家で、彼がその家を再び訪ねると、取っ組みあっている間に床に落ちたオルゴールの音によって回転木馬の映像が浮かび上がったことを思い出し、本当の殺人者がウィラードであると理解する。
精神障害を表現する夢の場面も表現派に由来する。第2章で論じた "Stranger on the Third Floor" (1940, ボリス・イングスター)にもあるが、最も野心的なのはヒットコックの「白い恐怖」(Spellbound, 1945) である。ダリが設計したもので、主要な物語とまったく異なる世界を作り出しており、たぶんより正確に主人公の心の過程を描いている。プロデューサーのセルズニックは、アメリカの観客には過激すぎるとして、この場面をかなり削ってしまった。
コーネル・ウールリッチを原作とする "Fear in the Night" (1947) は、主人公の被害妄想と混乱を描くために夢の場面を使用している。素晴らしいシュールな開巻で、ビンス・グレイソン(デフォレスト・ケリー)は、逃れることができない鏡の部屋で男を殺す悪夢を体験する。彼が目覚めると、首に残っている親指の跡、引きちぎられたボタン、食器棚のカギなど、夢が事実だったことを示すさまざまな証拠を見つける。グレイソンは、自分の正気を疑い、自分が殺人者だと確信して、姉や恋人と疎遠になり、自殺しようとする。義理の兄である刑事は、彼が催眠術をかけられたことを示す手がかりを次第に見つけていく。(ここで全部見ることができます。)
こうした主観的な工夫は、内面の状態を客観的に表現しようとするフィルムノワールの試みだが、ハリウッドの映画作家は、保守的な商業制度の中で映画を作らなければならず、ヨーロッパの現代主義に鼓舞された革新的な実験と一般的な慣行の要求との間の緊張があった。個人の病理に対する関心が薄れた50年代になると、主観カメラ、フラッシュバック、ナレーションに関するこうした実験は、より因習的な語り口のために消え去っていく。しかし、ひとつの偉大な例外があって、ウェルズの「黒い罠」のように、商業的な映画作家がたどり着くこのできる一番遠くまで進んでいる。ヒッチコックの「めまい」(Vertigo, 1958) である。
(以下、来週に続く。)
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